希望

    


1236  東アジアの坂の上の雲の時代




バンクーバーでは、冬季オリンピックが始まりました。

連日熱い戦いが繰り広げられていますが、韓国と中国選手の活躍が一際目立っています。
韓国では、スポーツに限らず他の様々な分野でも'一番になりなさい'と、子供や若者を叱咤激励するそうです。
日本では、半世紀ぶりに昨年末(2009)政権交代があり、政権党になった民主党は税金の無駄使いを見つけ除去し、必要なプロジェクトには予算をつけようとスリムで効果の上がる国に仕立て直そうという試みに挑戦しています。
テレビドラマでヒットした'必殺引受人'に因んで、マスコミが必殺仕分け人と命名した次代を担う有望な民主党の中堅議員が中心になって、難攻不落とこれまで思われた高級官僚軍団に立ち向かいました。丁々発止の火花の飛び交う中で、女性議員の放った言葉(一矢)'2番じゃダメなんですか?'は、坂の上の雲を目指して走ってきた明治以降の日本の姿(青年群像)が終焉を迎え、老年期に急速に向かいつつある(実際、新生児の出生率や出生数の減少と高齢者の激増が起きている)現在の日本の姿を映し出した言葉として、一夜にして流行語になりました。
作家・司馬遼太郎さんは遺言にも似た日本人に残した言葉の中で、もう峠を越えた日本は'美しく老いて往けるか?'と言っています。

カンボジアではテレビの歌謡ショーの中で、若い男女群が静かにエレガントに舞う際、肩よりも低い位置で手を動かす所作は伝統の踊りに根ざしているのでしょうが、控えめさや目線や表情の優しさが感じられて爽やかな印象でした。ベトナムでは、電線に一定間隔に止まる雀に似て、日が落ちるとオートバイに二人乗りしてやってきた恋人同士が、車が激しく行き交う排気ガスの充満する通りに面した公園に1〜2米間隔に止め、時間の過ぎ行くことや周りには全く気にかける気配もなく愛を語らっていたのは、健康で明るいものでした。

カンボジアもベトナムもオリンピックで活躍するアスリートはいませんが、国中に若者が溢れていて、今をがむしゃらに生きているやる気満々の姿を多く目にしました。
妻によると、カンボジアは小学生、ベトナムは中学生の印象だったそうです。

いい先生に指導され、家族の絆、社会のモラルが保たれれば、坂の上の雲を目指す若者が育つことでしょう。
    




 
1237  裏窓から見た朝のホーチミン風景



サイゴン川沿いに発展した町が,過ってサイゴンと呼ばれた現在のホーチミン(ホー小父さんの愛称で敬愛されるベトナム独立・統一に一生を捧げたリーダー)市で,ベトナム総人口の約1割に当たる八百万人が生活する南ベトナム随一の活気に満ちた大都会です。

17年に亘って、アメリカ軍に支援された南ベトナム共和国は北緯17度線を境に分断された北のベトナム人民民主主義国(ハノイを首都とし、ホーチミン氏に率いられた)と戦いましたが、1975年4月30日サイゴンの大統領官邸が北ベトナム軍とベトコン軍の手に落ち、長期に及んだ内戦・統一戦に終止符が打たれました。

20年ほど前、ロンドンのストランド(ミュージカル劇場が集中するところ)で評判の高かったミュージカル'ミス サイゴン'を観ましたが、クライマックスは大統領官邸からほど近いアメリカ大使館(現在はアメリカ領事館として使われている)の庭から最後のヘリコプターが、国外脱出を願う多くの南ベトナム市民が大使館の外の鉄柵に押しかけるのを尻目に、大使館人の家族やV・I・P・を乗せて空へと舞い上がっていったシーンを思い出しました。主役のミス サイゴンは柵の外、恋人(アメリカ人将校)はヘリコプターの人となって二人の運命を別って行きました。
また、日本航空の機長が病人を乗せたままシンガポールから成田へと飛ぶのに難色を示し、万一容態が悪化した場合、飛行機の通り道になる一度も着陸したことのないベトナムの何処かの飛行場に緊急着陸するケースも起りうるのを怖れて、やんわりとスチュワーデスを通して私(添乗員)に客をシンガポールで降ろすように圧力をかけられたのも、ベトナム戦争が終わって間もない頃でした。

そして、この度初めてカンボジアの行き帰りにホーチミン市に立ち寄ることができました。
過っての大統領官邸は独立記念宮殿と呼ばれ、一般に公開されています。1962年に地下2階地上3階の大統領官邸が広い庭の中にできましたが、大統領一家が生活するプライベート空間と公務を行なう執務室や広い謁見室があったのは当然としても、興味深かかったのは屋上にヘリポートがあったり、その他図書室や映写室、舞踏会場に加えてマージャンなどをして遊んだ娯楽室まで備えられていたことや、北軍との戦況分析を行なった作戦司令室もありました。更に地下室は2層になった厚い鉄の壁で囲われたバンカー造りになっていて、各種の通信機器が置かれ戦闘状況がリアルタイムで知ることができる部屋があったり、万一に備えての避難所も兼ねていたようです。
第2次世界大戦でヒトラーはベルリンの、チャーチルはロンドンの地下防空施設の中で指揮をとったのと同じ発想でした。
1階にあった大きな厨房の調理機器など台所用品の多くは、優秀な日本製品でしたとの説明には、何故か30人ほどの様々の国からの見学者から一斉に笑みがこぼれました。

ホーチミン市の目抜き通り(ドンコイ)の中心には、1880年に建設されたという市民劇場とコンチネンタル・サイゴン ホテルがありました。フランス統治時代の大変立派なクラッシック調の建物ですが、私にはドンコイ通りがパリのオペラ座の前を走るマドレーヌ・カヒュシーヌ イタリアン大通り(19世紀後半、パリで最も賑わったところ)をイメージし、市民劇場とコンチネンタル・サイゴン ホテルはオペラ座とグランド ホテル(いずれも1860年に完成)に倣ったように思えました。

プノンペンを発つ前日にインターネットで見つけた安宿(1泊25USドル)は、欧米からやってくるバックパッカー達が屯するブイビエン通りにありました。
早朝から深夜まで歩く人や車、モーターバイクに自転車、スクーターが走っていて、道の両側は旅行斡旋会社やレストラン、カフェに衣服店、土産物屋に模写絵屋などが所狭しと軒を並べ、いずれの店も間口は狭く階上に高く建物が積まれていて、宿屋などの多目的に使われている様子です。
私たちが泊った宿は、地上階は旅行斡旋所になっていて2階から上がホテル(インターネットでは、ゲストハウスとなっていた)になっていましたが、各階に2〜3室ある様子です。私達は7階(最上階)のブイビエン通りと反対側の部屋をあてがわれました。
3人が乗ればいっぱいになる心もとない動きで音を立てながら昇降するエレベーターで7階に着くと、狭い廊下にはダンボール箱や備品は置かれていて通路を更に狭くしていました。部屋は狭く、エアコンの音も一晩中鳴っていました。洗面所はシャワーと便器が接近しすぎていて、侘しさを一層増長してくれました。

所が一夜明けて、部屋の窓のカーテンを引き外を見渡すと、心のモヤモヤが吹っ飛んでしまいました。周りの建物は並べて3〜4階どまりで,7楷の私たちの裏窓からは180度視界が開けていて、トタン屋根の家もあればフラットなコンクリート造りの屋上がベランダになっている家も丸見えで、コークスに火を起し朝食の準備をしている人や花壇に水を遣っている人、洗濯物を干している人もいます。別の屋上では、ブリキ製の換気扇がガラガラと音を立てて回っていて下の階に空気を送っていたり、温水タンクもありました。
少し離れた家の屋上にはセラミック製の着色したマリア像が置かれていて、頭の周りは後光をイメージした丸い黄色、緑色、赤色の電球が飾ってあり点滅していました。
遠くには高層の事務所ビルやホテルが望め、大資本の建物は間口の広さを気にしないで堂々と胡坐をかいて、周りに抜きん出て聳えていました。また、プノンペンと違って広い緑の空間の木立も見えていました。

ヒッチコック映画監督の名作'裏窓'では、片足を骨折して暇をもてあますジャーナリストが、相手から見えない死角になった裏窓から周りで生活するアパートの住人たちを観察する内に、殺人があったのでは?と推理していく話でしたが、奇しくも活気ある表通り(ブイビエン)の裏側でノーガードで生活している人々の姿や屋上を垣間見れる機会を得たように思いました。

安宿の最上階の裏部屋に割り振ってくれた、愛想の全くなかった宿の経営者・中年の中国系のマダムに感謝 感謝!
     




1238  地球の迷い方には書いてないフランス人



日本で25年住み、フランスに移り住んで更に25年になるという御年丁度50歳の日本人女性が、パリでの私たちの公認案内人でした。

4月を迎えると、ピカピカの社会人1年生になる若者たちが旅行団の過半数を占めていて、なおかつ丸々2日半パリで自由行動が設定してあるツアーでした。
パリの郊外のベルサイユ宮殿に向かうバスの中で、パリの滞在が楽しく過ごせる知恵を教えてもらえまいか?と、チャキチャキの江戸弁と思しき歯切れのいい語り口のガイド女史(縁あってフランス人男性と結ばれ、幸せな人生進行中と言っていた…)にお願いした所、二つ返事で快諾してくれ、'地球の歩き方'、元え彼女によると'地球の迷い方'には書いてないフランス人について話し始めました。

まずは、機械(器械を含む)よりも人間を信じる人たちであり、残業は罰金、人から命令されるのが事の外嫌いで、矢印を見るとムカつくそうです。一方、フランス人はとても感がいい人たちであり、幼稚園で最初に教わるのは、目と目を合わせて挨拶する(ボンジュール、シルブプレなど)ことの大切さだそうです。
一般に、フランス人は日本人を恐ろしいのだそうで、日本人の印象として何を考えているか分からない、部屋にこそこそ入ってくる人たちだと思っていて、フランス人は人目につかないようにそっと出入りするのは悪い奴、と考える脳の自働回線が出来上がっているといいます。
彼女からの若者たちへのアドバイスは、次のみことのりに集約されました。
まずは、挨拶(ボンジュール)をしっかりすること。
ものを頼む時は、必ずお願いします(シルブプレ、難しければ早口で新聞くれ!もしくは下膨れでも通じることもある)と言い、願い事が叶ったときは、有難う(メルシ)と言いなさいとなりました。
一旦フランス人に気に入られると、気を許し何でも聞いてくれ、大体アメリカの悪口を言っていれば早く友達になれるそうです。(アメリカ独立戦争やフランス大革命当時は、アメリカとフランスは蜜月時代だったのに…)また、欧米ではと、アメリカとヨーロッパをごちゃ混ぜにして言ってはダメだそうです。

さて、'地球の迷い方'では学べない、女史直々の秘策は効果があったのでしょうか?
若者達に聞くのをうっかり忘れてしまいました。
    





1239  三つの不幸がルイ14世を大人にした!



ルイ13世の晩年にやっと生まれた、坊ちゃん育ちのルイ14世(太陽王、専制君主として絶対王政を布いた)を襲った三つの不幸が、大いに成長させることになりました。

最初の不幸は、5歳で父王(ルイ13世)と死別したことでした。
次の不幸は10歳の時、叔父さん(父王の弟)に殺されかけたことでした。
そして三つ目の不幸は、二十歳で初恋の女性と駆け落ちを試みますが、失敗に帰したことでした。

フランス人には0型やB型の血液型が圧倒的に多い中、ルイ14世はたった0.8%しかいないA型だったそうで、生真面目な性格で、朝起きて夜床に就くまで時間通りに儀式ずくめのベルサイユ宮殿で生活したのだそうです。
'打算ではなく愛を優先した男だった'とのガイド女史の説明に、どこかNHKの終ったばかりの大河ドラマ'天地人'の主人公・直江兼続に似ているかも?とバスの中で声が上がりました。
     





1240  1900年の節目の年にパリでは何が?


メトロ1号線が初めて走り、万国博覧会がアンバリッド(ナポレオンの遺体が収められた教会)と軍事博物館前の広場で開かれました。

セーヌ川にはアレキサンドル3世橋(ロシア皇帝ニコライ2世が万博を祝して、パリに寄贈した今でも最も美しい橋と讃えられる)が架かり、右岸から橋を渡って大勢の人々が万国博覧会の会場へと遣ってきたことでしょう。
そして、この年はパリの西の外れにあるロンシャン競馬場を使って、第2回の近代オリンピックが行なわれました。フランス人男爵・クーベルタンの提唱で、古代オリンピック発祥の地ギリシャの首都アテネで4年前(1896)に開かれた次の大会でした。
ロンシャン競馬場には、場違いな風車が今も建っているそうですが、この風車は陸軍士官学校とエッフェル塔(いずれもセーヌ川の左岸にある)の間の畑(現在のシャン・ド・マルス公園)建っていたものを移したのだそうです。また、その畑でパリで初めてアメリカ原産のジャガイモが植えられました。

陸軍士官学校出身の軍人・政治家で突出した二人の人物と云えば、ナポレオンとド・ゴールですが、ナポレオンは在籍中成績は全く振るわず、一方ド・ゴールは主席で卒業しています。









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