希望

      
1231  遠来の友はタダと有料のマッサージで歓迎された!




フランス統治時代にできたコロニアル建造物の未だ残るカンボジア第二の町・バッターバンは、静かな落ち着いた佇まいでしたが、流石に市中のバスターミナルに到着したときは、町の案内や宿の世話を申し出るトゥクトゥク・タクシーやオートバイ・タクシーの運転手に取り囲まれ、閉口してしまいました。

そこへ颯爽とトゥクトゥク・オートバイを自ら運転してやってきた正義の味方こそ、娘たちがカンボジアでお世話になっているバッターバンに住んでおられるイギリス人御夫妻でした。是非、この機会にお礼を言おうとプノンペンからバッターバンにやってきた次第です。初対面でしたが、顔には控えめな微笑を湛え、両手を大きく広げて私たちをハッグしてくださり、トゥクトゥクに乗せサンカー川の辺に数ヶ月前にオープンしたばかりの、こじんまりした3階建てのホテルに連れて行き、荷を置くと間もなく近くの彼らの住居へ移動して、奥様手作りのメキシコ料理をご馳走になりました。

ここ数年カンボジア中で道路整備が急ピッチで行われていて、ホテルの前の広い道も舗装する為に掘り返していて大いに揺れ始めると、'トゥクトゥクに乗ってタダでマッサージが受けられる、またとない機会です'と言って私たちを笑いの渦に巻き込んでくれました。
3日間のお付き合いでしたが、本当に心の広くて優しいユーモアに富んだ方々でした。
日本でも、さしずめ遠くから友人が訪ねてくると、まずは風呂にでも浸かって旅の疲れを少しでも取ってもらおうとするように、遅い昼食が終ると町外れの立派な大型ホテルの中にあるマッサージ・パーラーへ案内されました。
カンボジア式、タイ式、ベトナム式マッサージがあり、足や頭・肩などの部分マッサージもあれば、全身をほぐしてもらうこともできます。
私は、料金表の一番上に書かれた一番値の張る(US8ドル)ストーンを使っての全身マッサージを頼みました。焼けた石ではなく、鍋で茹でた小振りな丸い石をベッドの上に2列に並べ、その上にタオルを敷き仰向けに寝て、背中の下からじわじわと壺を刺激させるもののようでした。やがて別の茹でた石を素手で掴むと、十代の女性マッサージ師は私の足といわず手や体中擦り始めました。初体験となったストーン・マッサージでしたが、果たしてその効果のほどは?
カーテンで仕切られた同じ部屋の中で、枕を並べて妻や娘達もマッサージを受けましたが、大いにカンボジア人には分らない日本語で、進行状況を情報交換しながらワイワイがやがやの楽しいひと時(1時間15分ほど)でした。

翌日の夜は、この町の生活が丸3年になるという日本人青年実業家(?)のアパート(月3千円で借りているそうです)で、15人前後が集っての夕食会(彼の店で働くカンボジア人の若者たちや街に住む20代の日本人女性たちとイギリス人御夫妻に私達家族)に招かれました。娘たちの日本での友人だった彼は、当地で貸し自転車や貸しモーターバイクに加え、タイとの国境のマーケットで安く買い求めた銀細工の装身具や気の利いたちょっとした布切れを店に並べて売ったり、また船を購入してサンカー川に浮かべ時には客を乗せ、釣りや遊覧でトンレサップ川まで遠出するそうです。
何年か前、我が家にやってきたときの印象とは違い、逞しく立派に成長し自信と謙虚さを身に付け、魅力ある大人に変身しつつあるように感じました。その事を云うと、若いときに外国に行き、生活してみるのはいいことだと思うと返事が返ってきました。

食事もゲーム遊びも一段落したころイギリス人男性が傍に遣ってこられたので、改めてマッサージのお礼をいうと、パンチの効いたユーモアたっぷりの返事が返ってきました。
数年前、用事でベトナムに出かけた折、マッサージに行ったそうです。
受付付近は盲目の男性のマッサージ師が大勢いて、彼の取り合い騒動に発展し右往左往する中で、背中に大きな瘤のある坐頭に腕をつかまれて無理やりに彼の部屋に連れて行かれ、'服を脱げ'と命令されたそうです。仕方なく云われるままにしていると、'下パンツだけははいていていい'と声があったそうです。
夜も更けていて、この中年の盲目のマッサージ師も一日中働きづめだったと見えて、疲れている様子でした。何とか最後の頭を揉むところまでくると、コックリコックリし始め、何度も同じ箇所を強く押されたそうです。翌朝、ホテルの部屋で目を覚ますと、強く揉まれた頭の一部が赤くなっていました。
恐い体験だったと、声に強弱をつけ話す間の良さに笑いがこみ上げてくるのを、一生懸命押さえながら聞きました。

お返しに、スペインでは目の不自由な人が宝くじ券を首から下げて街角に立って売っていて、健常者が近寄って宝くじ券を自分でとり、お金をめくらの人の手に握らせて買う優しい仕組みがあることや、日本でも昔から座頭といって目の不自由な人が生きていけるように按摩は、目の不自由な人の職業とされていた話をしました。

すると思春期の頃、鼻の空気道が曲がり狭くなっているので手術の為(鼻の高い白人には、結構ありがちだそうです)ロンドンの病院に入院した時の恐い体験談を語ってくれました。
彼の両親はキプロス島の東半分を占めるトルコ系イスラム教徒だったそうで、ロンドンにやってきて働く内、彼は生まれたそうです。隣のベッドには、双方の親も見間違えるほど顔も体型もそっくりの同世代の若者が耳の手術の為入院していました。しかし、2人は次の点で大いに違っていました。隣の若者はキプロス島のギリシャ側(西半分)からやってきたギリシャ正教徒であり、互いに仲良くできない犬猿の間柄だということに加えて、彼は夜半起き出して彷徨する癖があり、翌朝目を覚まし人に迷惑を掛けたのでは?と疑念を感じると、往々にして正夢のことが多いと自ら自己紹介したそうです。
実際、夜寝ていると突如起きだしたギリシャ系瓜二つ君は、自分の所にやってきてトルコ君が着ていたパジャマを剥ぎ取ったそうです。恐怖で体が膠着してしまい、次は何をされるのか…ナイフで滅多切りされるのでは…と生きた心地がしなかったそうです。
手術の時がやってきた折も、麻酔がかけられ全身がだるく眠たくなっていく中で、一生懸命に声にならぬ声で、医者に自分は鼻の手術をしてもらうのであって、耳ではないと訴えたそうです。果たして手術が終り麻酔がとけベッドで目を覚まし、鏡に映る自分に見入った所、耳の近く口の回り全体が大きく腫れ上がっていて、若しかしたら間違えられたかも?と新たな恐怖が湧きあがったそうです。

身の凍るような体験を笑いに包んで話す、この人の温かい人柄にうっとりして聞き入ってしまいました。






1232  ゲッコー、ゲッコー・カフェ、そしてゲッコー レンタル・モーターバイク




北緯11〜15度の熱帯地方にあり、モンスーンの影響を受けるカンボジアですが、プノンペンの娘たちのアパートでも、ここバッタンバンのホテルでも蚊が殆ど飛んでいませんでした。

11月から5月までは、乾いた北東からの風が吹く乾季となるせいでしょうか?
しかし、夜明けを告げる雄鶏の時の声が始まるころには、決まってトッケーと鳴いているように聞こえるゲッコー(やもり)の発する甲高い鳴き声を聞きました。家に宿る小さな虫を餌にして生きるゲッコーのお陰で、熱帯病の元になる蚊などを退治してくれたのかもしれません。家の壁や天井に這い蹲る10センチほどのゲッコーは、見た目には美形とは思えず、むしろ気味悪く見えるのですが

そのゲッコーをモデルに絵を描くメキシコ女性を妻に持つ中年アメリカ人男性がいます。彼は、バッタンバンの中心の十字路に建つ立派なバルコニーのあるフランス・コロニアル様式の建造物の2階でレストランを経営していて、名をゲッコー・カフェといいます。メキシコ料理やカンボジア料理、中華風料理、そしてアメリカン料理をメニューに書き、清潔なキッチンと風のよく通る見晴らしのいい室内で人気を得ています。壁には、奥さんの描いた多くのゲッコーの絵が掛けてあり、従業員のカンボジア女性たちもゲッコー・カフェのロゴとゲッコーの絵が描かれた御揃いのTシャツを着ていました。私達の座ったバルコニー席の道路を挟んで対角線にあたる向かい側はパリホテルと英語で書かれた看板が一際目立つ、まあまあの宿がありました。ゲッコー・カフェ レストランの真下はゲッコー レンタル モーターバイク店で、3〜4人のカンボジア人の若者が愛想よく挨拶してくれました。経営者は前夜夕食を自宅に招いてくれた日本人青年であり、頼りになる兄貴(阪神の金本選手に似て?)のような存在らしく慕われている様子です。

安定した職場や収入の少ない現状のカンボジアでは、ゲッコーマークは安心の印です。
   





1233  エキサイティング・バンブートレイン





フランス統治時代に敷かれた、単線で1米巾の線路がバッターバンの町外れに今も数十キロほど残っています。

恐らく過っては、沿線の村と村を繋ぐ人々の足となり、あるいは収穫したサトウキビや米などを町へと運んだ蒸気機関車が走っていたのでしょう。使われなくなって久しくなるのでしょうが、枕木までが鉄材でできていて、ほぼ平らな土地に線路が一直線に敷いてあり、少し手を加えて手直しすれば村興しに再利用できるのでは?と考えた村の知恵者の発案なのか、何年か前から始まったバンブートレイン(竹列車)と命名された観光トロッコが走っています。
泊ったホテルのレセプションにバンブートレインに関するパンフレットが置いてあり、送迎込みで米ドルで一人15ドルでした。実業家として頭角を現した兄貴(ゲッコー・レンタル モーターバイク経営者)に話すと、トロッコ1台に全員7人で乗り往復2時間の旅は5ドルで充分、それにホテル/バンブートレイン発車駅間のトゥクトゥク タクシーの料金を足すだけなので、手頃に楽しめる唯一のこの町でのアトラクションだと言います。
乗ったことはあるの?と問うと、遠方から友人がやってきたときは必ず案内するので、何十回にもなるそうです。
そこで物は試しと腹を決め、娘たちのカンボジアでの親代わり役のイギリス人夫妻を誘い、総勢7人でトゥクトゥクとバイクに乗り、川沿いを走り町を出て村を幾つか通って、仏教寺院の中にある小学校の傍を抜けて、バンブートレインの乗り場に着きました。
この国の小学校は仏教寺院に付属していて、子供たちはユニホームを着て通学していて、見た目には決して貧しい風体ではありません。校舎の壁には、日本語で'夢学校'と書いてあり、日本の資金協力で数年前にできたことが分かります。

乗り場といっても、ただ線路の両側にいくつかの物売り店が立ち並ぶ程度で、駅らしい建物も全くなく、線路の傍で屯している人に聞いてみると、初めて彼らがバンブートレインを走らせている張本人だと言います。姉御肌の娘の一人がカンボジア語で値段を聞くと、1台のトロッコには運行の安全上4人までしか乗せず、1台につき15ドルとの返事です。そこで携帯電話で頼れる兄貴に相談するのが一番と思い連絡すると、町に住んで3年になる顔の広い日本青年とトロッコ運行者との顔の見えない直接交渉が電話で5分行なわれた結果は、全員(7人)で1台の台車に乗って総額10ドルとの円満妥結となりました。だた責任者と思しき人が、この事は内分にして欲しいと釘を刺しました。

さて肝心のバンブートレインは何処かと目で探すと、近くから鉄製の直径30センチほどの車輪が二つ付いた車軸を2セット出してきて、線路の上に載せました。次に,木と竹で作った筏のようなタテ3米ヨコ1・5米ほどの前後だけ木でできた低い手すりのついた車体(?)を2人の若者が軽々と運んできて、車軸の上に載せました。最後は、台車の後方中央にガソリンで作動するモーターを設置、エネルギーをベルトに伝道して車軸を回転させる仕掛けになっていて、軸棒を操作してスピードをコントロールするインディージョーンズの映画で見た、トロッコに乗って疾走するタイプのものでした。せいぜい時速は20〜30キロ程度で走り、私達は地面から40〜50センチの所にある竹の床に腰を下ろし尻をつけ足を投げ出して、前向きあるいは横向きに座りました。

途中の景色は真にのんびりとしていて、木立の茂るジャングルでは高床式の村の家々が見え、多くはバナナの木が庭に植わっていました。ジャングルを抜けると、視界が開け水田や畑が広がっていて水牛や牛がちらほら見えました。川に架かる小さな橋を幾つか越えて、25分ほどで終点(?)に着きました。そこは、線路脇に村へ通じる道があり、道を挟んで2軒休憩所があり、自然にそこに行き、1時間ほどほったらかしにされました。

店には女性経営者とその息子(2歳ぐらい)、そして経営者の母親がいて、何匹も野良犬が屯し、近くには7〜8頭の牛が入れられた牛舎もありました。
村の方角からは終始賑やかな音楽(楽器と声のコラボレーションによる)が演奏されている様子で、昨日から始まった結婚式が続いているのだそうです。きっと、結婚式用の楽しいカセットテープを流しているのでしょう。
一方茶店では、オチンチンを出した丸裸の孫に食事を食べさせようと、片手に木の棒を持ち脅しながら、スプーンに入れたお粥を無理やり口の中に押し込む50歳前後に見える若い御婆さんと孫の葛藤が始まります。口に入れられたお粥を飲み込まず脹れ面をして抵抗する孫の姿は、オスロのビーグラン公園にある'怒りん坊'と題された小彫刻にそっくりでした。竹と木でできた茶店には、各種の飲み物の他に様々な菓子や、魚の缶詰、中国製のインスタントラーメン、醤油、生卵、大瓶の中にバナナを入れた米酒、甜菜入りの緑茶、韓国製の人参酒、そして味の素の小袋も梁にぶら下げられて売られていました。
強い日差しを避けコーラを飲んで涼をとった小1時間は、バンブートレイン(素朴さ抜群で、改良しないでこのまま営業するのが一番いいと私は思います)に負けないものでした。

帰りのバンブートレインでは、前方からやってきた2人客を乗せた台車の方が道を譲り(双方の運転手が協力して前方の筏と車輪のついた車軸を線路脇に下ろし、私たちが少し前進して再度運転手2人で車軸と座席を線路の上に載せる作業を行なう)ましたが、約5分ほどの臨時停車でした。乗っていたのは背の高いハンサムなフランス人の青年男女でしたが、これで都合3度目の下車だと言い残して去っていきました。
線路の繋ぎ目が1〜2センチ乖離している所が多くあり、通る度にお尻を突き上げる振動が起り、トゥクトックの無料マッサージとは少し趣の違う,過ってホモサピエンスが尾てい骨を使って水の中を泳ぎ回った魚時代を経験した(?)のを喚起させてくれるような尾てい骨マッサージもありました。

税金もなく営業権利うんぬんもないかに見えるバンブートレインは、沿線の村人に活力を与えているようです。
フレー フレー エキサイティング バンブートレイン !
 




1234  トゥールトンポン(通称ロシアン)市場風景
  


タテ・ヨコ百メートル四方を通りに囲まれたプノンペンの町中の一角に通称ロシアン市場があります。

何時の頃から始まったものか知りませんが、アメリカのロスアンゼルスにあるファーマーズ・マーケットの場合は、大恐慌時代(1930年代)仕事がなく生活が困窮し食料が事欠く中で、近郊の農村や家庭菜園で収穫した農産物を持ち寄って皆で飢えをしのいだのが始まりでしたが、果たしてロシアン市場はポルポト一派による粛清時代(1975〜1979)と関係があるのでしょうか?
あるいは古くフランス統治時代(1862〜1953)にまで遡るものなのか?マーケットの造りから見て興味が湧きます。
昼の2時を周る頃、トゥクトゥク・タクシーに乗って市場見学を兼ねて、市場の中にある屋台で食事をしようと出かけました。

外は炎天でしたが、大屋根に覆われた市場の中は日陰空間になっていて、碁盤の目状の路地に沿って1〜2坪の小空間で取り扱う商品を同じくする商店主が寄り集まって商いするやり方は、上野駅前のアメ横街を想起させます。
食べてもお腹を下げないと太鼓判を押した娘たち一押しの屋台(四畳半ぐらいの土間で、3/4が調理場と物置、1/4が道に面してL字型に長テーブルがあり7〜8個の丸椅子が並べられ、長テーブルでは扇風機が一つ回っていて、生暖かい空気を拡散して少しだけ涼しく感じる風に変えていた)では、親子と思しき母と娘がテーブル越しの厨房で、私たちの注文したバイサイチュルーク(バイとはご飯、サイチュルークは豚肉)を手際よく作ってくれました。中皿にご飯を盛り付け、その上に豚肉を数切れと少しの乾燥魚の切り身にキュウリなどの生野菜を載せたもので、甘い酢をかけて食べましたが、味はあっさりして美味しいものでした。一人当たり300リエルの食事は、日本円で70円ほどです。
ご飯は日本米と違い長粒種ですが、お腹にもたれず臭みのない軽いものでした。後で、カンボジア米を買ってスーツケースに入れて日本に持ち帰る羽目になりました。私たちの座った席の直ぐ後ろは、土を固めた1.5米ほどの道で、オートバイがゆっくりでしたが走っていました。

市場では、プノンペン中の商品が全員集合して売られている印象で、ただ店の内外装や客の為の駐車場にかける費用を捻出できない弱小商人たちが肩を寄せ合って、狭い空間に所狭しと商品を並べ、客の通る狭い道に立ち、あるいは丸椅子に座って客に声をかけ、少しでも関心を示せば嵩(かさ)にかかって高値を振り出しに次第に値を下げてくる押し一本やりの呼び込みもあれば、全く私たちに関心を向けず間食(出前の丼うどん等の汁物を啜る)に夢中の店主や隣の店員と話しに打ち興じる店員もあり、ワンパターンではない人間模様も見れ楽しい散策でした。
中国系のカンボジア人がもうじき祝う春節(旧正月の祝い行事で、今年は2月14日となりバレンタイン・デーと重なっている)で使う金色や朱色の飾り物を売る店、その隣は美容院、さらにゴザや箒、駄菓子、陶器類、木製・銅製の置物、スカーフや布切れ・布を巻いて反物で売る店、ジーンズからTシャツ・ドレスに及ぶ各種のアパレル商品を売る店、観光客用の気の利いた商品を売る店、アクセサリー商品など数え切れないほどです。
売られている品物の多くがタイやベトナム製であり、カンボジア人は物を作ったり加工する仕事はあまり向いていないのかも知れません。
一番印象深かったのは、店先で十数台のミシンを並べて服の仕立ても即行なう服屋通りでした。店の中にはアイロンやアイロン台も見えていて、数日で布地がドレスに仕上がるそうですが、総じて仕事振りは雑だとの評価でした。妻子が自分用にと買った首巻はカンボジア製で、軽くパシュミナだろうとの話でしたが、1ドル前後で売られていました。

涼を求めて入ったロシアン・マーケットを出た傍にあるエア・コン付きの高級喫茶店で、2階の眺めの良い席に着くと、早速ショールを首に巻き、日本でインターネットで売れば1万円でも買い手がつくと思うと勝手に高い評価をして、彼女達は大いに悦に入っていました。若しかしたら、才能豊かなカンボジア人の手作りかもしれないし、はたまた中国で作られた大量生産首巻かもしれません。
願わくば、レンタルDVDで見た、スイス映画の女主人公に似た人が作ったショールであって欲しいと、ライムの入った冷たいコーヒーを啜りながら、娘たちに映画の概略を話ししました。

スイスの山麓の田舎町(古い習慣やしきたりの残る)で、長年主婦として夫を支え息子を育て上げ未亡人になった老女が、結婚する前まで町でお針子として働いたランジェリー(女性の下着)の製作・デザインの夢をもう一度、老女仲間(世間の目を気にしてひっそりと生きる)と力を合わせて、息子(老女の住む村の牧師をしている)や村を仕切る男たちの圧力(下着を店のショーウインドーに飾る恥さらしな行為を断じて許さない)に屈せず、商品をインターネット上にのせたところ、若い世代の女性から注文が殺到して、村祭りで村娘たち(インターネットで育った広く情報に接する世代)が舞台で服を脱ぎ、老女のデザインした人気抜群の下着をオシャレの一つとして人前で見せるフィナーレとなっていて、頭がコチコチの大人たちに老女の夢(ランジェリー店を開きたい)が村興しに繋がるという教訓を込めたつくりになっていました。

喫茶店の内装はシンプルですが黒を基調にしていてシックで落ち着いた雰囲気を醸し、テーブルの上には布を綺麗に折りたたんでつくった蓮の白い花が瓶に生けてあったり、頼んでいないのにグラスに入ったミネラルウオーターも出されていました。
5人の飲み代は〆て10ドルでしたが、うだるような午後の贅沢なひと時でした。
    





1235  虎とワニに前後を挟まれると…



中国の古書に、'前門の虎、後門のオオカミ'という表現がありますが、一難去ってまた一難がやってくるといった際に使われてきました。

カンボジアから見ると、虎とワニ(タイとベトナム)に挟まれた苦難の歴史だったと一般には捉えていて、総じてタイ人やベトナム人を嫌っているそうです。現実には、カンボジアで売られている物の多くがタイやベトナムでつくられ、あるいは経由してくるので彼らを避けて通ることはできません。人口も経済力も国民のやる気のどれを取ってみても、両国には遥かに及びません。
ポルポト(本名サロト・サル)の行なった、毛沢東の文化大革命(1965〜1974)に倣ったインテリ層の農村への追放に続く経済破綻、粛清政治(1975〜1979)に反対したフンセン(カンボジア王国の現首相)はベトナムに逃れましたし、ポルポト自身も後にタイ国境へと敗走した30年前の出来事も思い出されます。

カンボジア人(クメール)の誰もが誇りに思う輝ける時代とは、アンコール王朝(9〜15世紀)による虎もワニも従えて広域を統治した頃となります。
そのアンコールの遺跡群もジャングルの中に埋もれ長い間忘れ去られていましたが、19世紀後半に至りフランス人探検家アンリ・ムオーやエミール・ギメ(アンコール時代の蒐集で有名なパリの国立ギメ東洋博物館の名に残る)などの努力で、再びジャングルの中からアンコールの栄光は蘇りました。

壮大な寺院造りのプノンペン王宮の隣に建つ国立博物館は、20世紀の初め10年の歳月をかけて(1909〜1920)、フランス人建築家がアンコール時代の建築を基調にした広い中庭を配した正方形に近い造りになっています。展示方法もアンコール期を中心に据えて、それ以前とそれ以後に分かれています。
中庭の芝生の上には、遍く生きるものに慈愛を注ぐブッダの教えが実践されたアンコール期の伝統を今に伝えてか(?)、兎のように後ろ足で立ち前足を胸の前に揃えている不動の姿勢のよく肥えたネズミが一匹いて、それに気付いた観光客のカメラのモデルになっていました。

そして、古代建築(クメール伝統)とフランス・コロニアル建築に加えて、アール・デコ様式(1920〜1930年代に流行った)のモダンさを取り入れたラッフルズ・ロワイアル ホテル(1929)にもアンコール時代の建築が生かされていました。ホテルの中庭には様々な樹木が植えられプールで憩う人にも涼が注がれていて、過ってジャックリー・ケネディ夫人やド・ゴール大統領も泊った名門ホテルが復活していました。
ホテルロビー横で売られているケーキ屋の美味しいと評判の菓子が、週に一度半額で買える機会に合わせて夕方出かけました。先ずはケーキを買い、傍のエレファンタ・バーに入り、ハッピー・アワー(6時から8時までは飲み物は半額)を大いに利用させてもらって友人たちと語らい、飲み且つケーキを食べました。バーの内装はカンボジア盛時の頃を髣髴させていて、象の絵が壁に幾つも描かれ、ゆったりしたソファに寄りかかりながら聞いたプロのピアニストの弾く調べは、アンコール期に舞い戻ったかのようなひと時でした。









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