希望

      
1226  日本人は目を見て話さない




カンボジアに住む娘たちを訪ねて、妻と2人で厳寒の日本を脱出して2010年1月19日から1月30日までプライベートの旅行をしました。

行きと帰りにベトナムのホー・チ・ミンに立ち寄り数日を過ごしたり、カンボジアでは首都プノンペンと2番目に大きな町バッタンバンに行きましたが、そこに住んで生活するいろんな国からやって来た人たちと触れ合ったり風土に接することで、改めて'百聞は一見'を強く感じました。

カナダのフランス語圏からやってきた女性と南フランスのカタラン語圏に隣接する辺りからやってきた青年が、アフリカのベニンで出逢い、結ばれ、今はプノンペンで生活しています。20代後半のフランス青年は快活でユーモアに富んだ茶目っ気たっぷりの人でした。
中央アフリカの西寄りギニア湾に面したフランスの植民地だったベニンでは、日に1度しか食べ物を口に出来ない極貧の1日1ドル以下で大勢の人が生きていますが、道端の物売りから食料を買うと、量りで計った後、少しおまけしてくれる優しい心遣いがあったそうです。ベニンの左隣はトーゴやガーナ、右隣にはナイジェリアがあり互いに南北に細長い縦割りの国境で仕切られていて、今でも伝統の部族や言葉、文化宗教を無視したヨーロッパの植民地支配時代の影響が色濃く影を落としているそうです。
従って、俗に云われるカンボジアの貧しさや悲惨さにも驚かないし、道端で売られている食料を買うと、正直に売るかのように見せて誤魔化して渡す人たちだと、厳しい評価でした。彼にとって目下の恐怖はカンボジアで知り合った日本人達だそうで、彼の放つジョークにも冷ややかな反応しか示さず、真面目一本で押し通す日本人にどのように接したらいいのか困っているとのことでした。

旅行が終り、自宅に寛いだ妻が唐突に言い出したのは、彼女の話に私が目を見て真摯に聞いていないのに気付いたそうで、それではと顔を近づけて目を合わせ真面目な顔をすると、嫌がって言下に叱られました。

どうも私達日本人は、自然に口に笑みを湛え、相手の目を優しく見ながら会話をしたり、スキンシップ(握手やキスなど)でコミュニケーションを盛り上げ、安心や幸せを互いに感じる民族ではなさそうです。
      





1227  カンボジアはザバーイとオックンチュラン



東南アジアのミャンマー、マレイシア、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナムの国々は、それぞれ多民族,多宗教、多言語、多文化を持った人々から構成されていますが、古くから西のインドや北の中国(シナ)の強い影響を受けてきたことから、一般にインドシナ半島の国々と呼ばれています。

ミャンマーにはイワラジ川、タイはメナム川、ラオスやカンボジア、ベトナムではメコン川流域に大勢の人々が集まり古代国家が形成されました。
一方、南に広がる大海原を舟で渡ってやってくる人たちとの交易も盛んになっていったことでしょう。近代に入り16世紀以降になると、この地を植民地化、キリスト教化しようするヨーロッパ列強の餌食に晒されることになりました。
やっと21世紀になり、それぞれの国の代表が集い、平和に暮らせる知恵を出そうと試みている様子です。

カンボジア建国神話では、インドからやってきたカンブ王子の子孫が国をつくり、カンボジアの祖となりました。カンブとは金を意味し、カンボジアとは黄金の国となります。
欧米で祝う秋の収穫祭での主役を担う巨大なカボチャ、日本でも体を温める効果があるとしてカボチャは、冬至の日には欠かせない料理の素材ですが、カボチャの名はカンボジアからついたそうです。漢字では南瓜と書き、鎖国に入る前盛んに行なわれた南アジアとの御朱印船による交易時代(1604〜1635)に、カンボジアから持ち帰り広く日本で食べられるようになったのでしょうか?
プノンペンの通称ロシア市場の中で売られている、チーク材を使って彫刻したカボチャの置物を目にしましたが、野菜(果物?)として売られるカボチャは残念ながら見ませんでした。
そして、カンボジアと聞けば、誰もがアンコールワットをイメージするアンコール王朝時代の遺跡群(802〜1432)が有名です。アンコールとは、サンスクリット語のナガラに語源を発するクメール語だそうで、日本語に訳すと都城となり、ワットは寺院を指します。
アンコール王朝・アンコール王城がインド発祥のヒンズー教や仏教を後ろ盾に繁栄した背景には、重要ないくつかの理由が考えられます。
まずは、トンレサップ湖の西北に広がる広大な肥沃な稲作適地があったこと。
次は、雨季に3倍にも拡張するトンレサップ湖から獲れる豊富な魚が、貴重な庶民の蛋白源になった。
そして、トンレサップ湖やサップ川、メコン川を使っての活発な交易が行なわれていたことがありました。
中国からやってきた商人は、アンコールを富貴真臘(金で飾られた富める国)と讃えました。また、御朱印船時代に日本から訪ねてやってきた人がアンコールワットの石壁に落書きした'祇園精舎'の文字も印象的です。祇園精舎はインドにありブッダゆかりの地ですが、アンコールの立派な寺院群見て、憧れのインドに辿り着いたと思い込んだのでしょうか?

人と大地と水と空気を共存させた自然からアンコール王朝時代の微笑か生まれましたが、フランスによる支配(1862〜1953)やポルポト時代(1975〜1979)の試練を乗り越えて、再びザバーイ(心地よい)とオックンチュラン(有難う)の優しいカンボジア人が蘇りました。





1228  ガソリンを道端でコーラなどの空き瓶に入れて、売っているプノンペンの町



カンボジアの中央にあり、北西から南東に130キロ細長くのびた瓢箪の形をした淡水湖がトンレサップ湖です。

メコン河を介してカンボジアを南シナ海と結ぶ水上の道として、古来使われてきました。
瓢箪の底にあたるあたりから南に向かって流れ出し、プノンペン近くで北東から流れてくるメコン河に合流するのがトンレサップ川で、大勢の人が生活する黄金水道メコンの一翼を担ってきました。雨季(5〜11月)になると、増水したメコン河の水がトンレサップ川に向かって逆流して流れ出し、メコンデルタを含む下流地域(ベトナム)を水害から守る天然の貯水池の役目をトンレサップ湖は果たしてきました。トンレサップ湖は雨季には乾季の3倍(1万平方キロメートル)の大きさになります。

プノンペンの町はトンレサップ川とメコン河が出合い、南シナ海に向かって南東に向きを変え流れるメコン河と南西のタイ湾方向に流れるバサック川とに分かれる分岐点にあり、15世紀にアンコールの地(トンレサップ湖の東)から時の王が遷都して生まれました。
プノンペン誕生伝説では、14世紀にペンという名の金持ちの老婆が大雨の日、川に流されてきた大木を拾い上げると、中から4体の仏像や神体が見つかったので、岸近くに土を盛って小山をつくり、頂上に寺院を建て仏像を安置しました。プノンとは山や丘を意味し、プノンペンはペン婦人の丘となります。緑の木立や公園の少ないプノンペンの町ですが、トンレサップ川近くの木立に囲まれた丘の上には、彼女が建立したというプノン寺院(ワットプノン)があり、市民の憩いの場となっています。

プノンペンに移り住んで7〜8年になるという60歳前後に見えるオーストラリア人女性の話によると、数年前までプノンペンの町は道は舗装されてなく、信号機もなく、他の町と左程違わない程度の所だったが、ここ数年で見違えるように様変わりして都会になったそうです。表通りはほぼ舗装され、停電もなく上下水管も設置され、デジタル式の数字が減っていく信号機が大きな交差路にはあり、銀行やショッピング・センター、高層の高級マンションなども建ってきているし携帯電話やテレビも普及していてポルポト時代(1975〜1979)の後遺症から脱却したように見えます。
さて実態はどうなのでしょうか?

娘の語るプノンペンとは、ないない尽くしの国の首都であって、年金、退職金、健康保険、失業保険は言うに及ばず、税金すらないそうで、安心安全衛生もすべて自己責任で、少しでも油断して隙を見せれば、何が起きても不思議はなく、常に緊張の糸を緩めることはできないそうです。大切なものは必ず鍵を掛ける徹底した危機管理意識を持って生きているそうです。恐い例として、モーターバイク全盛のプノンペンの町で、若し轢かれる事故が起きれば、加害者はわざわざ引き返してきて死んだかどうか確かめ、もし息があれば入院費用や弁償代など長く尾を引く煩わしい問題を避ける為、再度念押しの轢き殺しをして立ち去ると言います。
娘たちの住むアパートは、夜見回りの警備がある大通りから1ブロック奥に入った静かな割と安心して住める地区にありますが、出かける際にも在宅中も頑丈な鍵を掛けることを怠りなくしていました。

町中では、モーターバイク(100CC〜125CCクラスのホンダのカブが多い)やトゥクトゥク・タクシー(モーターバイクの後ろに5〜6人乗れる座席を付け足した乗物)が我が物顔で走っています。モーターバイクの運転には免許は必要でなく誰でも乗れ、市内バスのないプノンペンの市民の足代わりになっていて、全国で百万台を越す(人口1400万人の国)ほど普及しています。
そんなトゥクトゥク・タクシーやモーターバイク利用者の為か?空になった1リットル〜1.5リットル入りのプラスチック・ボトルやガラスの瓶にガソリンを入れて道端の露天商が売っているほどです。町は単車や乗用車が吐き出す汚れた空気で充満していて、少しでも避けようと殆どの人がマスクやタオルで顔を覆い、ヘルメットの着用が義務付けられているのと相まって、町が覆面をしたモーターバイクに乗った強盗団に乗っ取られたかと見間違いかねない様相を呈しています。
中学校で英語を教えるよりは、トゥクトゥク・タクシーのドライバーとして働く方が収入がかなり多く、富を生む虎の子の商売道具・トゥクトゥク・バイクは盗まれないように三つも鍵を掛け、寝る際は枕元近くにおいていると語った温厚な元教師もいました。

税金を取らず、国の経営が営まれるカンボジアの政治とはどのようなカラクリになっているのでしょう?
目にとまったいくつかの?マークを書いてみます。
輸入された上下対になった5ドルほどで買える目立つ柄模様のパジャマは外出着として人気が高く、モーターバイクに颯爽と跨り走っているパジャマ着の女性をよく見かけました。
乾季(11〜4月)は結婚シーズンだそうで、結婚式と披露宴を自宅で行なうのが一般になっています。しかし、祝福する為にやってくる大勢の人が入るには狭すぎる殆どの家では、歩道は云うに及ばず車道の半分を占めるピンク系の明るい色のテントや垂れ幕を自宅前に張って、テントの中では朝から飲んで食べてと祝います。入り口横には、花嫁・花婿の着飾った縦横1メートルはある写真が飾られ、合わせてプラスチック製の金色にスプレーされた巨大なバナナの房で来客を迎えます。
たわわに実のついたバナナの房は、繁栄や多産を表しています。
カンボジア語で結婚式・披露宴はニャムガーと言いますが、ニャムとは食べることで、招待された人が腹いっぱい飲み食いするのが本旨でもあります。台所方は大忙しで、テントの外では歩道に置かれた鍋や釜がフル回転していました。
花嫁はお色直しを5回ぐらいは行なうそうで、町には写真屋やレンタルの衣装家が多くありました。

また、葬式も盛大に行なう習慣があり、結婚式同様車道にはみ出して白と黒色のテントや垂れ幕が張られていて、当然通行の邪魔になるのですが、そこは大らかなザバーイ・オックンの優しさが感じられた町でもありました。
     




1229  メコン河は河川のカピタン




ルイス・デ・カモイエス(大航海時代のポルトガルの詩人)が、ウズ・ルジアダス(ルシタニアの人々)の本で感動を込めて'メコンは河川のカピタン(長)'といいましたが、メコンは全長4500キロに及ぶ数億人の人々がその恩恵に浴して生活する黄金水道です。

船をも砕く荒ぶる岩礁のメコン、有り余る魚を恵んでくれる優しいメコン、世界一の稲作を育てる豊穣のメコン、仏塔に詣でる善男善女を安全に運んでくれたメコンなど様々な顔をもっています。
メコンの流れに身を置いてみたい夢がプノンペンで叶えられました。
世界からやってきて、この地で生活している20人の友人に加わって木造遊覧船を2時間チャーターして、夕暮れ時のトンレサップ川やメコン河、バサック川が交差するあたりを行ったり来たりしました。

バサック川では、川岸に繋いである竹を編んでつくった筏の上に木の家を載せ、電気もなく生活用水は雨水や川の水に頼って生きている人たちを目にしました。一羽の鶏が元気よく筏の船の中を飛び回っていました。近くでは、昔ながらの投げ網漁をしている小舟も見えていて、のんびりと生活している様子でした。
一方、トンレサップ川の川岸(王宮やワットプノム寺院などのあるプノンペンの中心地区がある)寄りでは、川底の砂を大型機械で吸い上げて岸へと運ぶパイプが水上に設置され、建築ラッシュに湧く首都を無味乾燥した高層ビルで埋め尽くそうと、土建業者の欲が胡坐をかいています。
西の空はやがて茜色に染まり、シルエットのように浮かび上がったプノンペンのダウンタウンでしたが、王宮の辺りは未だ緑の木立や歴史を今に残す建物が風景の主役を果たしていて、エレガントに傾斜した王宮の甍が時の流れに身を任せていました。

プノンペンもカンボジアも産業革命前の町であり国ではないだろうか?
日本の安全安心清潔に感謝しつつ、カンボジア人は幸せ?日本人は?
夢を抱いて中国に行き、暫く生活した経験を持つ30歳前後の日本女性と船上で交わした会話では、同世代の中国女性から本当に苦しい生活を強いられているから、とても明日の夢を語る時間もゆとりも持てないと言われ、ショックを受けたそうです。
メコンの流れが、沈み行く太陽がくれた静寂の中での思考の一時でした。

1週間後に、プノンペンからホー・チ・ミンへとバスに乗り向かった際にも、再びメコン河をフェリーで渡る機会がありました。
     




1230  長距離バスに乗ってみると  



カンボジアと聞いて、大方の人がやっと首都プノンペンとアンコール遺跡のあるシエムリアプの町ぐらいしか思い浮かばないのではないでしょうか…?

日本の半分の国土に、1500万人弱の人が住むカンボジアですが、都会と呼べるのはプノンペンだけかも知れません。プノンペンは1960年代は、東洋のパリと呼ばれるほど美しかったそうですが、その後は内乱が起りペンペン草の生える田舎町になったこともありました。そして、今は極度に一極集中化したマンモス都市になりつつあります。小一時間ほど車で走ってやっと田園風景の広がる郊外に至る、大都市に特有のドーナツ化現象が起きています。

そんなプノンペンでは市民の足となる市内バスはなく、モーターバイクにスクーター、そしてトゥクトゥク・タクシー(モーターバイクの後ろに5〜6人乗れる座席を取り付けた乗物)や頑丈なつくりの床の高い乗用車(雨季の悪路に備えてか?)が道に溢れんばかりに走っていて、モーターバイクの販売店や修理店、部品を取り扱う店が軒を並べています。ホンダのカブ(100〜125ccクラス)が人気のようですが、百万台を越すモーターバイク(15人に1人)が登録され、中古でも8万円はするそうです。
フランス統治時代は鉄道が走っていましたが、今は昔となり、プノンペンの中心に寂しく往時の中央駅だった重厚な石造りの建造物が残っていました。

しかし、長距離運行のバス会社は数社あり、互いに凌ぎを削る競争をしていて、シエムリアプとプノンペン、プノンペンとホー・チ・ミンを結ぶ路線は日に数本運行しています。プノンペンを軸にほぼ等距離で300キロ、北東に行くとシエムリアプ、北西にバッタンバン、南東にホー・チ・ミンがあります。
プノンペン/バッタンバン間が片道5ドル、プノンペン/ホー・チ・ミン(ベトナム)は10ドルという安さです。いづれも6〜7時間の旅ですが、途中トイレ休憩や昼食を兼ねた休憩があり、エアーコンも効いて快適ですし、バスの前方に備え付けられたテレビはコメディや歌謡番組のビデオを流していて、揺れもあまりなく道も舗装されていました。

プノンペンからホー・チ・ミンに移動した際はベトナムのバス会社でしたが、カンボジアのバス会社(韓国製の中古のバスを使用)と異なり、運転手・助手は緑色の制服やネクタイを着て、バスはドイツのベンツ社でした。出発すると程なく助手が1/2リットルのミネラル・ウオーターとお手拭のサービスをしてくれる気の使いようでした。車体は緑色に塗られ、マイリーン・ツアー会社と書いてありました。

カンボジアの国境検問所を済ませベトナムに足を入れると、様相は大きく変わりました。
舗装された道幅が広がり、分離帯には樹木が植えられていて街路灯が一定間隔で設置され、道も清掃され信号機も多く見えていました。田畑には遠くまで何かが植えられていて、緑緑した風景がどこまでも続いていて、太った牛がのんびり草を食べていました。プノンペンでは道端でペットボトルに入れてガソリンを売っていたのが印象的でしたが、ベトナムに入ると直ぐに、植木鉢に入れた蘭の花が道端で売られているのを目にしたのは、かなりのショックでした。
過ってサイゴンと呼ばれたホー・チ・ミンは800万人の人の生活する大都会であり、プノンペンの町の賑わいの比ではありませんでした。市民の足としては、バスやプノンペン以上にモーターバイクが走っていて、トゥクトゥク・タクシーは時代遅れの様子で、替わりにエアコンの効いた日本製の乗用車(トヨタが多い)がタクシーになっていました。メーターを誤魔化したり、遠回りする運転手が横行するベトナムという情報でしたが、バス部門に加えてマイリーン社のタクシー部門は安心して乗れ重宝しました。

カンボジアでは、プノンペンだけで交通信号機をみましたが、バッタンバンに向かう間中もバッタンバンの町でも全く信号機はありません。バッタンバンはサンカー川(トンレサップ湖に流れ込む)の辺に開けた、数万人の人が住む静かで落ちついたプノンペンに次ぐ第二の町ですが…。プノンペン/バッタンバン間の車窓に映る景色は、冬という時期のせいか?あるいは未だ地雷の埋まっているかもしれない危険を避けてか?道から少し離れた田畑は何も植えていない殺風景なものでした。バッタンバンに向かう途中で、トイレと昼食を兼ねて立ち寄った休憩所は、GSTバス会社(私たちの乗るカンボジアのバス)と提携している様子で、食事は1ドル前後で出来る、風が吹きぬける気持ちよい窓のないゆったりした空間にテーブルや椅子が置かれていました。また、入り口近くではバスの車体と同じ色(オレンジ)の衣を身に纏った僧侶たちが食事をしていましたが、食事代もバス代も無料と見受けられ、僧に敬意を払うカンボジアならではの風景でした。
昼食を済まし走り出して間もなく、後ろのタイヤの一つがパンクしたらしく、道端の修理屋に横付けし30分かけて直していました。修理場にはハンモックが天井から吊るしてあり、道や小屋の後ろの原っぱとの仕切りとなる窓や建具などはなく、粗野に近い素朴な木造ですが、3〜4人の汚れた白いランニング・シャツの若者がバスから取り外したブリジストンのタイヤから小道具を器用に使いながらチューブを取り出し、水に漬けながら孔を探し出しパッチをして元通りにしました。その作業をずーと温厚な30歳前後のドライバー氏は、時には優しく彼らに語りかけたりしながら見守っていました。
バッタンバンに近づくにつれ、チョップチョップ(停まって!)と客席から声がかかると、運転手氏は直ぐに停車して、客の希望する場所に下ろしてあげます。すると、何所からともなくモーターバイクに乗った青年がやってきて、客や荷物をバイクに乗せ自宅まで送り届けるタクシー・モーターバイクが活躍している様子でした。バスは予定より1時間遅れてバット(杖)タンバン(失くす)に着きました。町の入り口にあたる道の真ん中に両膝を地面につけて、杖を両手で捧げもつ王の銅像がありました。

楽しい楽しいバスの旅を3度(プノンペン〜バッタンバン、バッタンバン〜プノンペン、プノンペン〜ホー・チ・ミン)もできました。

オックン・チュラン!

















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