希望

     
1221  インドは い〜んど〜!!




北インドの5つの町を7つの乗物に乗って見て回りました。

先ずは、益々巨大化した首都デリーで出迎えてくれたのが、以前と変わらないインド国産のバスでした。運転手と助手が座る前部空間が異常に広くとられていて、私たちの座る後部空間との間にはガラスの仕切りがあり、窓を開けるか扉を開けるかしか互いに会話はできません。主人や客のプライバシーを大切に考えた英国の馬車やタクシーを彷彿させるつくりになっています。
20〜30年前の同型のバスはエアコンはなく、デコボコ道を走ると窓が自然に開き外の土ぼこりが容赦なく車内に入ってきてしまい、仕方なく手ぬぐいで頬かむりして泥棒の集団のような恰好で仏教遺跡などを旅したものですが、流石に現在のバスはエアコン付きで窓もしっかり閉まっていました。

バラナシ(英国統治時代はベナレスと呼ばれたシバ神の聖地)へは夜行寝台列車で行きました。ニューデリー駅のプラットホームにはデジタルの電光掲示板が設置され、女性の声で電光掲示と連動して、順次各プラットホームに入ってくる電車の案内がヒンズー語と英語で流れていました。以前はプラットホームには掲示板はなく、何の前触れもなく突然に待っている列車の時刻変更や入ってくる番線の変更を、太い男性のがなり立てるような声で聞いたのを懐かしく思い出しました。寝具は以前はレンタルで列車に持ち込み、ベッドに敷いたり翌朝たたんだりする人を別個雇ったものですが、今は少し前の日本の寝台列車に似て,車掌に準ずる鉄道職員が敷布や枕、毛布を時間が来ればベッドに敷いてくれたりたたんでくれるし、暖かい紅茶のサービスも朝起きるとありました。'車中の夜は長いので、ビールでも買って一杯やりましょう'とお客さんと話していたところ、駅構内は言うに及ばず車中でもアルコール販売は禁止になっていたり、タバコの販売も吸うのもダメになっていました。
私たちの乗った車両はエアコン付きの2等寝台でした。ニューデリーのプラットホームで1時間近く始発の列車が入ってくるのを待ちましたが、以前と他には左程変ったようには思えませんでしたが、プラットホームでは錠前付きの鎖を売る男が寄ってきて、車中の危険を頻りにアピールしていたのが多少気になりました。そして、インド人ガイド氏がやおら寝る段になって、バッグから錠前付きの鎖を取り出してブリーフケースを窓の上に出っ張っている鉄製の棚に置き、ブリーフケースと棚を鎖で縛り鍵をかけ、上から毛布で覆いカモフラージュしたのには些か肝を冷やしました。
プラットホームに入ってくる他の列車を見て、A/C(エアコン付き)2等寝台車とそうでない2等寝台車では雲泥の差があるのもよく分りました。セコムの面から見て、明らかに窓が開かないA/C車のほうが優れているし快適です。一方、ただの2等寝台車はセコム用に鉄棒が15センチ間隔で窓の外に取り付けてあり、まるで囚人輸送車に見間違えかねないつくりです。ただ、夜が更けるにつれてA/C車は冷房が効いてきて、薄着で寝た日本人の中には翌朝、鼻をシュンシュンしている人もいました。
バラナシの1〜2時間手前になる町で、3本の聖なる川(ガンジス、ジャムナ、サラズヴァティ)がこの地で1本になると信じられ、16年に1度インド最大の宗教行事が行なわれるアハラバード駅では、列車は何時出るともなく30分近く停まっていました。朝8時を周る頃、プラットホームでは3人の中年インド人男性が、インド人ならではの独特の表情や手の仕草で立ち話しに耽っていました。ニームの小枝(街路樹として植えられ大木に成長する木で、小枝は歯ブラシとして利用され唾液と相まって、インド人の虫歯予防や白い歯づくりに貢献大と云われる)を小脇いっぱいに抱えた中年の女性が近づいて話しかけました。カバンを手にした一人の男性が3本ほど小枝を貰い、ゆっくりとポケットから金を取り出して渡してやった所、中年の女性は足らないといった手振りをしました。それに対して、動じる様子は全く見せず、ゆったりとした動作で更に金を渡しました。そして、小枝を他の2人に使わないか?と勧めましたが、二人は断わって去っていきました。
やがてこの紳士は1本のニームの小枝を口に入れ、イギリス紳士が葉巻でも吸うが如く、ゆったりと枝を解し始めていました。
これぞ正真正銘のインドの一端に触れた思いでした。
別の機会でしたが、ガイド氏から聞いた牛の糞と藁(ワラ)を混ぜ乾かしてつくる農村での煮炊き用の燃料の出す煙は、虫除けになっていて、マラリア病がインドで少ない理由だという話も感じ入った次第です。

バラナシでは、リキシャに乗ってガンジス川に夕べのプージャ(祈り)見学に行きましたが、人馬一体ならぬ人・牛・山羊・犬そしてバスに自動車、スクーターにモーターバイク、リキシャに人が混然となって活況を呈するバザール通りを盛り上げているインドならではの風景に出会いました。
夕べのプージャも翌朝のプージャもガンジス川に舟を漕ぎ出して、水の上から見ました。20人を乗せ少々重くなった舟は、2人の漕ぎ手が朝は流れに逆らって上流へと舟を進め、南インドのタミール州から巡礼にやってきた一団が沐浴しているガート近くに近づけてくれ互いに手を振り笑顔で挨拶を交わしたり、聖なる川の水に浸りながら黙々と洗濯石に布を叩きつけて汚れを落とす洗濯屋の仕事振りに見入ったり、焼き場風景や子供たちが小舟を寄せてきて小物の商品を私たちに懸命に売ろうとする楽しい一時でした。

バラナシからカジュラホへはキングフィシャー航空で飛びました。
過っては、海外向けにはインド航空、国内はインディアン航空の2社だけでしたが、今は民間航空もでき、キングフィシャー社もその一つのようです。インド人ガイド氏が搭乗する際に含み笑いの表情で、全員スチュアーデスはミニスカートでヒールのある靴を履き美人が多いのが特徴で、社長の趣味が反映しているせいに違いないと言います。
キングフィシャー(色鮮やかな鳥・かわせみ)ブランドのビールで財を成した実業家の始めた航空会社だそうで、伝統のインドスタイルを止め欧米スタイルでサービスしていて、イギリスのヴァージン航空に似た、社長自ら機内のテレビ画面に登場して挨拶をしていました。機内は清潔で明るく、新機材を使用していました。

カジュラホの観光を終えて、マディア・プラデシュ州の草原を伝統のインドバスで走りウター・プラデッシュ州に入り、州境の町ジャンシー(19世紀半ばに起った、英国支配に抗して勇敢に闘った女性戦士ミーラー・バイを誇りにする土地柄)から日本の新幹線の車内に似たつくりの急行列車でアグラに向かいました。デリー始発でありながら20分遅れで出発、バラナシ駅に1時間半遅れで到着した先日の寝台列車同様、今回も1時間遅れで出発した2時間半の車中でした。驚いたことに、2度停車した途中駅で出発するごとに軽食が無料でテーブルに配られました。サモーサやサンドイッチ、スープに紅茶、ミネラルウオーターは毎回でした。1等車ではなくて2等A/C車でしたのに…。

アグラのタジマハールへは、ガソリンで動くバスを降りて電池式のバッテリで動くアグラ市手配のマイクロバスに乗り換えて行きました。公害を出さないエコ車を導入していました。同じ配慮は、ジャイプールに向かう途中で立ち寄った、アクバル帝の遷都で生まれた、赤砂岩を木材のように繊細に彫刻した宮殿ファテプリ・シクリを見学した際もエコ車でした。

アグラでは早朝、愛妻ムーム・ダジの眠る白い大理石のタジマハール廟に呼応するように、ジャムナ川の対岸に、シャージャハン帝自身の廟を黒い大理石でつくる予定にしていた場所に初めて行きました。澄んだ空気の中に浮かび上がったタジマハール(糟糠の妻)の容姿は十分に見ごたえのあるものでした。
予定地だった墓所は公園化されていて、近くには早朝のプージャを熱心に行なっている仏教寺院があり、不可触民だったアンベート・カル氏(カースト制度を支えるヒンズー教の聖典マヌ法典を焼き捨てた人)が起した運動がハリジャン(不可触民)を集団で仏教に改宗させ(1956)生まれた、インド人による仏教布教センターを兼ねていました。

ファテプリシクリのあるウター・プラデッシュ州をバスで走り、ラジャスタン州の沙漠の玄関口にあるジャイプールに向かいました。熱心なヒンズー教徒であり、誇り高い勇猛果敢な武人としてインド中にその名を知られるラジプート族の本拠地です。18世紀の始め、サワイ・ジャイシン王が山城から平地に進出して碁盤の目状の道を配したピンクシティ(ジャイプール)をつくりました。現在もマハラジャの直系の子孫がシティパレス( 町の中心にある)で生活しています。郊外の山城(アンベール城)へは象の輿に乗って行くのが常でしたが、何年か前、象が暴れ観光客を含む象使いまでもが怪我をする事故が続いて起きたそうで、私達は何台かのジープに乗って裏道を通って登城しました。裏道を通ったお陰で庶民の住宅や生活を垣間見る機会となりました。周辺の山々の尾根には城壁が連なり、山城からの下界の景色も見事という他ありませんでした。

その後、デリーに向かいましたが、昼食はハリアナ州境に近いレストランでしたが反対車線側の道沿いにある為、何と百メートルほど分離帯を越えて反対車線の路肩近くを走るという離れ業をやってのけての違反承知の運転での到着でした。レストランの入り口の上には、象の顔を持つ神様ガネーシュの彫刻が飾ってありました。ガネーシュ神は富や幸せ、繁栄をもたらすとされ、人気の高い神様になっています。
アショカの木が植えられた庭での食事でしが、近くのテーブルではシンガポールかマレーシアあたりからやってきたインド人家族が食べていました。家族は英語に加え、南インドで話されるタミール語らしい言葉で話していて、インドを離れ東南アジアへ移民して成功した人たちだろうとのことでした。

以前はなかった七つの世界遺産(クタゥブミナール、フマユーン廟、レッドフォート、カジュラホ寺院群、タジマハール、アグラ城、ファテプリシクリ)のあるデリー、バラナシ、カジュラホ、アグラ、ジャイプールの五つの町を七つの乗物(インドバス、列車、リキシャ、舟、飛行機、電池式マイクロバス、ジープ)に乗って巡った旅行でした。
     




1222  洋服で国を出て、インド服で国へ帰ってきた人



マハタマ・ガンディ(本名モハンダス・カラムチャンド・ガンディ1869〜1945)は、生来人前では恥ずかしがりやで、上がりやだったそうです。

22歳で弁護士となったガンディは、翌年南アフリカに行きました。
インド洋に面したターバン港に上陸、蒸気機関車に乗り内陸のヨハネスブルグに向かいました。しかし、有色人種差別に会い、客車からプラットホームに放り出され、貨物車へと移されました。乗合馬車に乗った際も、客室ではなく御者台や御者の足元に座らされるなどの差別を味わいました。

そして、洋装で南アフリカに渡ったガンディは、1915年に足にはサンダルを履き、白い木綿のインド服に身を包んでボンベイに帰ってきました。
こうして彼の生涯を通して貫いた非暴力、不服従による不屈の闘いサティヤ・グラフ(真理の主張を貫く)は始まりました。1917年から1933年まで住んだインドの西に位置するグジャラート州アーメダバードでのアシュラム(生活信条を共有する協力者や弟子たちとの共同生活を行なう実践修行の場)において、昼食前の30分をチャルカ(糸紡ぎの車)を回して糸を紡ぎ、できた手織り織布(カーディ)を巻くだけの質素な生活を続けました。

ガンディの最大の関心は、貧しくて飢えている大多数の農民の救済にありました。
原料となる綿花を使っての綿布は、加工過程で糸紡ぎの仕事を欠かしては作れず、農民自らの努力によって飢えを克服する為のうってつけの副業であり、働くことへの意欲と誇りを取り戻せると考えてのことでした。
やがてイギリス製品の不買いやボイコット、国産品愛用(スワジシ)運動に結びつくことになりました。インドを代表する大財閥となっていったタタやビルラ一族との深い絆も、彼らが綿紡績工場の経営者であったことがガンディや彼の運動を支持したコングレス党を結びつけ、殖産興業の波に乗り大きく成長していくことになったと考えられます。

また、ガンディはヨーロッパの機械文明を厳しく批判して、次のように言っています。
'我々の非協力は、イギリスとの非協力でもなければ西方との非協力でもない。我々の非協力は、イギリスがつくりだした制度との非協力であり、物質文明及びそれに伴う貪欲と弱者に対する搾取との非協力である。'

1930年3月に、歴史に名高いガンディと78人の弟子による塩の行進が行なわれました。アーメダバードのアシュラムから320キロ離れたアラビア海のキャンベイ湾に面したダンディまで、24日かけて歩きました。

1848年1月30日デリーのビルラ邸の庭で行なわれる夕べの祈り(プージャ)の集会に向かう途中、イスラムとの融和を嫌うヒンズー教至上主義者の発した3発の銃弾を受けて79歳の生涯を終えました。

生前、ガンディは次のように言っていたそうです。
'人間への信頼を失ってはなりません。人類は大洋です。
大洋の数滴は汚いものであろうとも、大洋は汚くなることはありません。'
    






1223  大都会の宿命!?




ムンバイ(ボンベイ)国際空港は広大なスラムに取り囲まれています。

25年ほど前ですが、町へと向かうバスの車窓に映る空港近辺のあまりの悲惨な光景に驚かれた高齢の日本女性が、'可哀そうに!未だ火山噴火の後遺症が残っているのね…'と溜め息混じりに云われたのを、懐かしく思い出しました。
彼女の脳裏では、南イタリアのベスビオ火山の噴火(79)で火山灰の下に埋もれたポンペイの町と混同されていたようでしたが…。

2008年のアカデミー賞の最優秀作品に選ばれたのが、インド映画'スラムドッグ ミリオニアー'でした。ムンバイ国際空港傍のスラムで生まれ育った3人の若者を軽快なタッチで、しかし現在のインドが抱える都会の問題を提起しながら描いていて、社会の圧力に屈せず愛を育んだ生き方を肯定しています。
30〜35年前に見たベンガル映画では名監督サダジット・レイが、何時終るともなく続く社会重圧の中で、淡々と半ば諦めて生きる人たちを描いた手法と、対角線上にある印象でした。

ムンバイは、元々小さな貧しい漁村が島伝いに点在するアラビア海に面したところだったようです。16世紀にポルトガルが所有しますが、17世紀に入るとポルトガルのお姫様がイギリスの皇太子と結婚することになったのを機に、持参金(ダウリー)の一つとしてイギリスに譲渡しました。
ムンバイ(ボンベイ)の発展は、1838年にロンドンとの間に定期航路が開設されたことや、1869年にはスエズ運河開通により時間も距離も半分に短縮されたことで一段と拍車がかかりました。また、綿花ブームに乗り、インドでの最初の鉄道が1853年にボンベイとターナ(綿花地帯)間34キロを走りました。デリーの鉄道博物館には、世界最古の蒸気機関車'フェアリークイーン号'(1855年製)があるそうですが、線路幅1,676メートル(広軌)の上を走りました。日本では、1964年に開催された東京オリンピックで初めて東京/大阪間を広軌の新幹線が走ったことや、広軌の線路巾が2千年もの昔からイギリスでローマ人の乗った馬車の轍(わだち)巾をそのまま使ったことを聞くと、
歴史の一貫性、権力の凄さをつくづく感じます。

アメリカでの南北戦争(1861〜1865)が終了すると綿花ブームも去り、ムンバイを中心とするマハラシュトラ州では飢饉が襲い(1876〜1879)、125万もの人が死にました。ムンバイは仕事を求めて大勢の人が流れ込んできて、スラムは肥大しました。
そんな中、ケニアや南アフリカ(金やダイアモンドのブームに涌いた)へ移住した人もありました。ムンバイ市内には、大聖堂を思わせる重厚なビクトリア駅やインド総督が着任して上陸する際使ったインド門、歴史考古博物館や広い公園など英国統治時代の面影を今に伝えるものが残る一方、パーシー教徒(イラン発祥のゾロアスター教の流れを汲む)のインド人成功者ジャムシュトジー・タタのつくったインド門の傍に建つタジマハール・ホテルは、ロンドンでも見ることのできないお城風のゴージャスなホテルを残しています。
熱烈なヒンズー教の地盤であるムンバイで、1885年第1回国民会議派(マハタマ・ガンディやネルー首相、ガンディ首相などが育った)大会が行なわれました。

現在のムンバイは、インド全体の40%以上の貿易額を取り扱う貿易港として、ハリウッド映画に対抗するボリウッド映画のメッカとして、あるいは新旧の長所を取り込んだ21世紀のインドの夢の体現者たらんとする地位にいますが、果たしてスラムがなくなるのは容易ではないようです…。
      1224  半島国家の悲しさ

戦国の世に終止符が打たれ江戸に幕府が開かれ(1603)、徳川家主導の幕藩体制が250年続いた安定した時代は19世紀半ばに、アメリカ合衆国ペルリ提督率いる4隻の木造船に鉄板を貼り付けた蒸気船が無断で江戸湾に突入した事件(1853)を皮切りに15年後には、過って関が原の戦い(1600)で敗れ外様大名の地位に甘んじて江戸期を耐えた、薩摩,長州、土佐、佐賀の起した天皇を担いだ政治体制・明治時代が始まりました。

俗に明治維新と呼ばれますが、何から何まで新しい仕組みを短期間でつくり上げなければ、西欧列強の餌食にされ、植民地化されかねない危機感が国内に充満していました。伝統を大切に守ってきたリーダーたち(大人)は表舞台から去り、未だ経験の浅い未知数の若者たち(20〜30代)が日本の舵取りを任されました。
¥広く全国から人材を探し早急に育成して抜擢する施策の元、青雲の志を抱く者は誰でもチャンスが与えられた時代の始まりでした。

作家・司馬遼太郎さんの書いた'坂の上の雲'は、四国松山藩(徳川の親藩)出身の3人の若者が、それぞれ秋山好古(陸軍騎馬隊を創設して、ロシアのコサック騎馬隊に勝利)秋山真之(日本海海戦において、バルチック艦隊を打ち破る作戦をたてる)そして正岡子規(近代短歌を確立)が3者3様に明るく生き抜いた作品に仕上がっています。
人気を博した戦国武将・直江兼続を主人公にしたNHK大河ドラマ'天地人'(2009)
が終る間もなく、'坂の上の雲'が始まりました。1年に5回、3年に亘り続くドラマだそうですが、評判になりつつあります。
敗戦(1945)から65年近く経過した日本ですが、政治、経済、教育、社会福祉など多くの分野で出口の見えない暗闇が広がってきていて、世相も諦め自虐に似たムードが漂い始めている中での目覚ましの大砲の一発になるかもしれません。
ドラマの中で、半島国家・朝鮮の置かれた厳しさ悲しさに言及した場面があり、中国やロシアに背中をいつも突付かれてきた不運な地理的環境のことを語っています。

さて、地中海に面したヨーロッパには三つの半島があり、西からイベリア半島、イタリア半島、バルカン半島となります。
半島は古来、民族が通過する宿命を背負っていて、それぞれの民族・部族が育んだ文化(言葉、宗教、衣食住に関わる生活全般、習慣や慣習など)の影響を強く受けました。
イベリア半島は600〜800年もの間イスラム勢力の支配下にありましたし、ポルトガルは同じキリスト教を奉じる背後に位置するスペインを脅威に感じてきました。両国はイスラム支配からの脱却をバネにして大航海時代へと突入していき、一大海洋帝国を打ち立てました。
イタリア半島では、5世紀半ばから19世紀半ばまでの長い間、まとまった国を持つことは適わず諸外国から様々な干渉を受けましたが、中世の終りから近世の始まる頃(13〜16世紀)、小さく光り輝く個性に富んだ都市国家を生み出し、近代ヨーロッパへの口火を切りました。
そしてバルカン半島においては、前の千年間はビザンチン帝国の支配、後の五百年間はオスマントルコの支配を受けた後遺症が随所に見られ、ヨーロッパ人とアジア人の通過する宿命的な立地条件にあり、20世紀末まで戦火が絶えず、バルカン問題・バルカン化という熟語まで生まれ、解決不可能の代名詞として使われたほどでした。

幸いにも半島国家ではない日本ですが、明治から150年近く経った今日、目に見える物資文化の頭打ちも問題ですが、目に見えない人の内面を形成する、心の優しさ・思いやり・豊かさ・言葉使いなどの修繕、いやオーバーホール(分解掃除)が急務のように思います。
     1225  パリ市は商売上手

セーヌ川の水源はフランス中部ブルゴーニュにあり、セーヌという神父が祠を建て(小さな教会?)住んでいた辺りだそうで、神父さんの名前に因んで付けられそうです。

フランス語では大きな川は女性名詞、小さい川は男性名詞となり、歴史を通してライバル関係にあるお隣のドイツ語での川とは正反対になっています。また、ネクタイはルイ14世(太陽王と自ら呼んだ17世紀後半のフランス専制君主)を警護した近衛連隊(クロアチア兵)が首に巻いたのが始まりとされ、首を絞めるので男性名詞であり、一方スカーフは女性を優しく包んでエレガントに見せるので、女性名詞になるのだそうです。
ありきたりの'美しい方'などの褒め言葉は当たり前すぎてダメで、フランス女性は'知的な方'と言われるのを好むのだそうです。

2千年前、ローマ人がルテチア(水に浮かぶ家という意味)と呼んだパリは、歴史の中で6度の大きな侵略をされましたが、ブルバールの名の残る道は過って兵隊が通った城壁の上の通路を意味する言葉で、セーヌ川から外へと拡大していった町の歩みを語っています。
周囲36キロのペリフェリック(自動車の通る環状線)こそは、百年前まで建っていた6度目の城壁跡になります。
中世からは、'たゆたえとも沈まず'の言葉に残る帆かけ舟を使っての水運業が盛んになり商業や文化が栄えました。現在のパリ市の紋章は当時セーヌ川を行き来した帆かけ舟となっています。

パリ市は商売上手とのもっぱらの評判で、セーヌの川岸の緑色の木箱を使ってのブキニスト(古本を商いする人達)や街角ごとにあるキャフェの歩道にはみ出しての商売、あるいは絵になる町(絵になる国とフランスを評したのが、NHKニュースセンター9時の男と言われた磯村尚徳でした)パリを使ってのファション服に身を包んでのモデル撮影や映画撮影ではパリ市警が交通整理を行うなど至れり尽くせりのサービス振りですが、すべてコストがかかり、パリ市のかなりの税収入になるそうです。

夏には、セーヌのほとりに砂場やプールを用意してパリジャンや観光客を喜ばせ、冬は
12月になると、今年(2009)はシャンゼリゼ通りの裸木に白色の発光ダイオードをふんだんに使った水の雫が少しずつ垂れて落ちるデザインで飾ってあり、更に観覧車やサンタクロース・トレイン、クリスマス・マーケットもお目見えして大勢の人で賑わっていました。
パリ16区(高級アパルトマンが建ち並ぶ)での夏の名物と言えば空巣ですが、トラックで乗りつけバカンスで留守になった部屋の中のものを一切合財持ち去るそうです。仁義をわきまえた空巣は、バカンスから帰った家族への思いやり(直ぐに警察に被害届けの連絡をできるように)から電話器はそのままにして立ち去ってくれるそうです。

また、日本にあってフランスにないものが換気扇だそうです。
フランス人は音、色、臭い、光には殊の外うるさいそうです。

パリを知るにはどれだけ時間が必要だろう?
1週間?1ヶ月?半年?1年?5年?一生?とフランス文学を専攻する学生に問いかけ、一生住んでも無理だろう…と自ら答えを出し、だったら1日で充分だ言われた巌谷国士教授が懐かしく思い出されます。








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