希望

  
1206 ブレッド ブレッド ブレッド




1991年に誕生したスロベニアの国は、スイスの半分ほどの国だという。

イタリアとオーストリアとスロベニアの国境をつくるユリアン・アルプスの最高峰トリグラフ山(三つの嶺をもつ山)は、新生国家スロベニアの国旗やコインにも描かれていて、スロベニア人なら誰でも一生に一度は登りたいと願うシンボルになっています。
氷河が削っていった跡に水が溜まったブレッド(Bled)湖からトリグラフ山が遠望でき、ブレッド湖に浮かぶ小島のブレッド島には9世紀に教会が建てられ、同じ頃湖畔の絶壁の上にはブレッド城ができました。
やがて澄んで美しいアルプスの鐘と讃えられるブレッド湖の教会に詣で鐘を撞くと、願いが叶うという伝説も生まれ、巡礼者が集う所となりました。

18世紀になると、オーストリアのハプスブルグ家のマリア・テレジア女帝は、岸と島を結ぶ5分ほどの舟の運行と湖畔の周りを巡る観光馬車の営業権を数名の村人に与えました。今も彼らの子孫が行なっているそうです。
私たちの乗った20人乗りの舟を一人で漕ぐゴンドリエは、意気高々な命令口調で左右のバランスをとる為か?誰一人として席から腰を浮かすことすら許さない人でしたが、250年も続く独占営業の誇り(埃?)が怒った肩に積もって見えました。

19世紀になると、保養・療養の地として脚光を浴びるようになりました。
鉱泉に加え、自然に恵まれた環境を利しての治療に目をつけた一人の医師の熱心な活動が実を結び、野菜を主にした食事や適度なスポーツ、日光浴(ヌードで行なったとか?)を組み合わせたものでした。更に、近隣での鉄鉱山の開発や鉄道の敷設も拍車をかけました。
そして、ハプスブルグ家のフランツ・ヨーセフ皇帝とヴィテルスバッハ家のエリザベート姫のハネムーンの地に選ばれたそうです。

ブレッド湖にブレッド島、ブレッド城に加え、ブレッド・ケーキ(小麦粉にミルク、砂糖を混ぜて焼いてつくる生クリームのかかったシンプルな味)が名物になっている風光明媚なリゾート地でしたが、食パンのブレッドとはRとL違いの全く関係のない町でした。
     





1207  左にも右にもハンドルを切るふりをしながら直進しなさい




第一次世界大戦(1914〜1918)後、生まれた最初のユーゴスラビア(南スラブ人という意味)は、セルビア民族とクロアチア民族間の血で血を洗う縄張り争いが発足当初から表面化したまとまりを欠くものでした。

第二次世界大戦(1939〜1945)では、ドイツやイタリアの侵略を受け占領されましたが、諸民族の友愛と団結をスローガンにパルチザンを結成してゲリラ戦を展開、勝利したチトーは1946年に第二のユーゴスラビア連邦をつくりました。彼は1980年に亡くなりましたが、35年間の治世中は多民族、多言語、多宗教、多文化の国を良くまとめ上げ、アメリカやソ連に偏らない中道政治を目指しました。セルビア民族とクロアチア民族の伝統の(?)抗争も沈静化したほどでした。
チトー大統領の側近は、複雑で分りにくいユーゴスラビアを他の国々に紹介する手立てとして、数え歌に模した方法を考え出したそうです。

7つの国(時計回りにイタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニア)と国境を接  し、
6つの共和国(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ。マケドニア) があり、
5つの民族(共和国のボスニア・ヘルツェゴビナを除く)から構成され、
4つの言語(スロベニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語)を話し、
3つの宗教( ローマン・カトリック キリスト教、東方オーソドックス キリスト教、イスラム教)を信じ、
2つの文字( ラテン文字、キリル文字)を書く、
1つの国家です。
また、油絵具で塗りこめたユーゴ、パッチワークの国とも云いました。

1950年代から1960年代は、ソ連とアメリカが世界を2分する冷戦時代でしたが、ナセル大統領(エジプト)やネルー首相(インド)、スカルノ大統領(インドネシア)に周恩来首相(中国)など第3世界のリーダーたちと力を合わせ、友愛政治(鳩山首相は真似したかも?)で中道を目指したチトー大統領でした。

先を走るソ連のフルシチョフ首相の乗った車とアメリカのケネディ大統領の乗る車の後ろを走るチトー大統領を乗せた車の運転手が、どう走ったらいいか尋ねた笑い話が伝わっています。
左に曲がるふりをしながら右にもハンドルを少し切る感覚で真っ直ぐ走りなさい。という答えが返ってきたそうな…。

初めて訪れた(2009.10.13〜10.22)過ってのユーゴスラビアでは、チトー大統領の銅像も見ず、どのガイドからもチトーさんの話は聞きませんでした。
     





1208  紅の豚の活躍したダルマチア



ダルマチアとはアドリア海の東海岸 (バルカン半島の西海岸) を指し、南北600キロほど続く自然のつくりだした数多くの細く狭く陸地に切れ込んだ入り江と背後から迫り来る絶壁、そして海には無数の島々が浮かぶ、言葉で表わすには勿体ないほど美しいところでした。

この地では、古代ギリシャ・ローマ時代以来、中世・ルネッサンス期へと続く長い間を通して、地の利を生かしたイタリアやヨーロッパと近東を結ぶ交易が海上・陸路を使って盛んに行なわれ、中小の独立した都市文化が花開きました。
町の多くは、海上や内陸からの不意の侵略に備えた要塞化した(町の周囲を高い石壁で囲ったり、背後の山に沿って石壁を築く)つくりになっていて、安全・安心(長嶋茂雄氏のセコムしていますか?の甲高い声のコマーシャルが思い出される)に賭ける痛烈な市民の思いが伝わってきます。

宮崎駿氏のアニメ映画'紅の豚'(ポルコ・ロッソ)では、第一次世界大戦後のダルマチアを舞台にした海賊ならぬ水上飛行機による空賊が、金になりそうな船や人を襲う設定になっていて、有史以来海が狭く陸地に接近した所では、海賊が跋扈したカリブ海やマラッカ海峡、瀬戸内海やスカンジナビア半島付近、地中海などを思い出させてくれます。

夕暮れ時になると一段とダルマチアの輝きが増して見え、景勝の地トロギールにあるユーゴスラビア時代につくった最高のロケーションのホテル(今も国営ホテルという話)の部屋のバルコニーから見た風景は涙腺が緩くなるほどでした。

ただ、夕食の時、飲み物をカートに入れ我々の席に売りにくる中年の女性たちは、縄張り(担当のテーブル)が決まっていて、傍にいるからといって声をかけても応じてくれず、伝統の社会主義時代のサービスは生きていました。
    




1209  乱世にあって20年在位し、無事リタイヤーした珍しい皇帝



古代ローマ史の中で、2世紀は5賢帝時代と呼ばれる御世がよく治まった時代でした。

しかし、3世紀には入ると蛮族の侵入や内部対立による乱世が始まり、アウレリアス皇帝は272から278年にかけてローマの7つの丘を囲む周囲19キロに及ぶ城壁を造らせました。'パンとサーカス'の言葉に代表されるローマ市民の人気を保つ為の様々な闘技場や劇場、そして公共浴場などが造られましたが、今も残るカラカラ浴場(217年に完成)では1600人が入浴できたという、当時世界最大のものでした。
そして、ディオクレティアヌス皇帝(245〜313)の造らせた306年に完成した浴場は3000人も収容できたといいます。

温泉や浴場のことをテルメと言いますが、ムッソリーニ時代に建築の粋を結集してつくったローマのテルミネ駅の名は、ディオクレティアヌス浴場跡のすぐ傍にあることからつけられました。古代ローマ最大のこの浴場は、終着駅(テルミネ)前の現在はバス発着場になっているチンクエチェント(500という意味で、アニメで怪盗ルパン3世が乗るフィアット500を思い出しますが…)広場や隣接する巨大な噴水を湛える共和国広場、そしてミケランジェロの設計になる浴場の一部を活用した教会などを含む壮大な規模でした。

ディオクレティアヌス帝は、ローマ帝国のダルマチア州の州都だったサロナ近辺で生まれたとされ氏素性のハッキリわからない人ですが、軍人として頭角を現しローマ皇帝になりました。20年も在位した独裁者でしたが、当時としては大変珍しく暗殺されることもなくリタイヤーして、故郷に近いダルマチアの海岸スプリットに宮殿を建てて(295〜305)余生を送りました。
ほぼ正方形の形をした宮殿は、海に面した南側の1/3が皇帝一家の生活空間、続く真ん中の1/3がジュピター神殿や謁見広場、皇帝の墓として使われ、北側の残り1/3は兵舎になっていた様子で、北門からサロナ方面に向かう街道の出入り口は金門と呼ばれた軍人皇帝に相応しい堂々たるものでした。
総面積2万平方キロメートルの四方を石壁で囲った要塞宮殿は、7〜8世紀の頃から蛮族の侵入を恐れた近隣の住民が移り住む所となり、何時しか宮殿は変容して人々がひしめき合いながら生活する町になっていきました。
南フランスのアルルにある古代ローマ時代の円形闘技場が、中世の時代要塞化した雑居町になっていったのに似ています。

皇帝一家の住居空間だった1階の床に孔が空けられ、地下へとゴミや汚物が投げ捨てられましたが、かえってそれが幸いして、近世になり考古学者による発掘が行なわれた際、1700年前宮殿を支えた地下空間の土木構造が原型のまま見つかり、見事なローマ人ならではの半円アーチ建築工学の粋を見ながら進むと謁見広場に出られる見学コースになっていました。

ディオクレティアヌス皇帝の考えた蛮族対策用の東西ローマ帝国分割支配は、バルカン半島のアドリア海寄りの地域を境界とするものでしたが、後にスロベニアやクロアチアがローマ・カトリック西欧文化圏に属し、セルビアやモンテネグロ、マケドニアなどがギリシャ正教オリエンタル文化圏になり、中間に位置したボスニア・ヘルツェゴビナが両文化を吸収しつつイスラム化していったきっかけ(流れ)をつくりました。

宮殿正面(南)の前は、今はナツメヤシの植えられた心地よい広くて大きなプロムナード(散歩道)になっていて、心地よい海風が吹くスプリット市民の憩いの場です。
スプリット市民に習って日傘の下で、のんびりとコーヒーをすすった一時は、満ち足りたディオクレティアヌスの心境に似た思い(?)でした。
    



1210  ダルマチア諸都市を思い返して見ると…



ザダルは古代ローマ人の好んだ中心広場を軸にして真っ直ぐに碁盤の目のように道をつくる町づくりが今も残っていて、一方トロギールの町が古代ギリシャ人による入植に感化されでき、今でも道が曲がっていて、角では狭い通りに向かい合って建つ建物の2階が回廊で繋がっていて、トンネルの下を歩いているような印象で好対照でした。

ドブロブニクの旧市街は、町を囲む城壁の上を歩きながら見るのが一番良く、赤い屋根瓦で統一した中世の建物が眼下に密集して立ち並ぶ景色は、すこぶる美しいものでした。
モンテネグロのコトルの町は、用心に用心をした上で入り組んだ入り江の最奥に町をつくり、周囲を高い石壁で囲い、険しい背後の岩山にも尾根に沿って防御用の石壁が張り巡らし、所々に物見の塔が高く突き出ていました。どの町も共通しているのはギリシャ正教であれローマ・カトリックであれ、教会と市民の自冶象徴である市庁舎を中心にしたリズムで生きていたことを証するつくりになっていました。

コトルを見てドブロブニクに帰る際のモンテネグロとクロアチアの国境検問所では、コソボ国籍の大型バスが立ち往生していて、現在の厳しい国際関係を反映したチェックをうけている様子でした。バスを降りてタバコを吸う何人かのコソボ人に手を振られながら、私たちのバスは型どおりの検査を終え暗闇迫る中、彼らを追い抜いていきました。









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