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1191  嵐岬よりは希望岬と呼べば好い



1488年航海士バルトロメオ・ディアスは、アフリカ大陸の南端に達したことを、そしてそこは何時も暴風が吹き荒れていると、ポルトガル王ジョアン2世に報告しました。

東回りでインドやアジアへ行く航路を、エンリケ航海王子(1460没)以来探ってきたポルトガルでした。やっと見つけたアジアへの入り口は希望岬(Cape of Good Hope)と命名されました。
希望岬の沖合いでアフリカ西海岸を流れるベンゲラ寒流とアフリカ東海岸を洗うアグラス暖流がぶつかり、一般には大西洋とインド洋の出合う所と言われてきましたが、正確には希望岬の東に位置するアフリカ最南端にあたるアグレス岬の方が正しいそうです。

ケープ半島は2004年からテーブルマウンテン国立公園とも呼ばれていて、ここでしか育たない植物が多く、小さいながらもケープ植物地域は六大世界植物分布の一つに数えられていています。
そんなケープ半島の先端にあたる希望岬を、6月(2009)のある晴れた風のない穏やかな日に訪れました。2百メートルの断崖になった希望岬は、三つの突端から成っていて、西から希望岬、マクレアー岬、ポイント岬と呼ばれています。
西の希望岬の浜には、中が空洞になった固い黒ずんだ昆布(とても昆布とは思えない、折れた木の枝のように見える)が多く打ち上げられていて、2日前までは暴風で海が荒れていたのを感じさせていました。また、ここがアフリカ大陸の最南西端で、東経18度28分26秒、南緯34度21分25秒と書いた看板が立っていて、記念撮影の標的になっていました。
ポイント岬にはレストランやケーブル・カー、小さな資料館があり、展望台からは古来船がよく座礁したり沈没したという岩礁が見えていて、その周りは白波ができていました。
希望岬の発見は、西洋人による世界史、世界観が書かれるきっかけとなり、大航海時代の始まりでした。西欧キリスト教とオスマントルコ帝国(イスラム教)の対立により、地中海や陸路でのアジアへのスパイス交易ルートを絶たれた事や、キリスト教を世界中に広めたい熱情、新天地への憧れがヨーロッパ人を大海原に駆り立てました。

しかし、どうしてディアスに希望岬がアフリカの南の果てだと分ったのでしょうか?
古くは、ヘロドトス(古代ギリシャ人)は書の中で、フェニキア人が来たとも受け取れる文章を書いていますし、明の鄭和の船団(14世紀末〜15世紀初め)の分隊が来たかもしれません。また、マラッカ王国に交易にやってきたアフリカの船乗り達も知っていたかも知れません。それ以上に、アフリカ人同士の貿易が希望岬をまたいで行われていた可能性は大です。スペインとのアジア航路発見にしのぎを削っていたポルトガルにとり、情報収集や漏洩には神経を尖らせていたことでしょう。

ポルトガルが先鞭をつけた東回りのアジア航路は、1522年にスペインによる西回りで世界一周が達成され、後にオランダ、フランス、イギリス、ドイツなどが入り乱れて世界の植民地化戦争に没頭することになりました。
中でもオランダは、スパイスの宝庫であるインドネシアを手に入れたことで、南アフリカ(ケープタウン)を水や食料の補給地として重要視する政策から、17世紀半ばに入植してからボーア人(オランダ語で農民という意味)と呼ばれるようになりました。
希望岬沖合いで、嵐のため座礁して沈没したり進路を見失い彷徨うオランダ船が多くあった話にヒントを得て、19世紀のドイツ人オペラ作曲家リハルト・ワグナーは、'さまよえるオランダ人'(フライング・ダッチマン)をつくったそうです。それを裏付けるかのごとく、ケープ・ポイントの頂上に行くケーブル・カーはフライング・ダッチマンと書いてありました。
19世紀になると、イギリス人が大好きな中国茶の買い付けの支払いに、インドで栽培したケシを阿片に加工して売りつけたり、南アフリカでの金やダイヤモンドの発見が拍車を翔けるところとなり、希望岬は決して土着の黒人にとっては希望(グッド・ホープ)に満ちたものでなく、むしろ嵐岬になっていきました。
    



1192  バック トゥ アフリカ(アフリカへ向かって)



世界の陸地の1/4を占めるアフリカは、人類の発祥の地と今では考えられています。

19世紀の半ば、進化論や種の起源で寵児となったチャールズ・ダーウィン博士は、人に一番似ているゴリラやチンパンジー、モンキーが主にアフリカで育っているのに注目し、人類の起源(アダムとイブ?)はアフリカだったろうと語ったそうですが、当時の学会は一笑に付したそうです。以前ケニヤに行った時、アウト オブ アフリカ(アフリカを出て)というコーヒーのブランド名や小説(アフリカでライオンを育てた白人女性の書いたベストセラー)があったと思います。

過って、サハラ沙漠が一面草原であった頃(8千年前)、タッシリ文化が栄えていた(今は乾燥化した砂漠の岩肌に描かれた壁画が残っている)ことや東アフリカから見つかる数万年前の人の足跡や壁画、またアフリカ起源の農業から生まれたモロコシや豆などの雑穀、野菜ではウリ,ナス、キュウリ、スイカ、オクラ、コマなどがあります。

6月末から7月初めまでの8日間、南部アフリカ(南アフリカ共和国、ジンバブエ、ボツワナ、ザンビア)へ バック トュ アフリカのワクワクの旅に出かけました。
広州湾にあるランタオ島につくった香港国際空港でキャセイ航空からキャセイ航空に乗り換えて、その後は南シナ海を南下、インドシナ半島近くを通り赤道を通過してインド洋に出て、南西に進路を変えてマダガスカル島からアフリカのジンバブエの上空を経て、南アフリカ共和国のヨハネスブルグ空港まで13時間のノン・ストップのフライトでした。入国手続きと通関を終えてから、ブリティシュ航空に行きスーツケースを預け、チェックインそして出国手続きを行い、ザンビアのリビングストンに飛び、入国・税関手続きの後、マイクロバスで陸路国境を越えてジンバブエのビクトリア・フォールズのホテルに到着したのは、成田空港を飛び立って30時間後でした。

人類は、過去に何万年かに亘り何度も古里アフリカを出て,未知の土地にチャレンジしてきましたが、日本に安住の地を見つけた私たちの祖先の末席を汚す私は、アフリカへ(Back to Africa)帰る機会に恵まれた喜びと、何万年も賭けた先祖の日本へのチャレンジの旅が、たった30時間で古里アフリカに戻れる文明の利器(飛行機)に大いに感謝しました。  

アフリカが歴史の中で大きく変化したのは、15世紀に始まった西欧諸国による大航海によりますが、奴隷貿易に加え白人の入植が行なわれ、19世紀後半からの1世紀間はヨーロッパの植民地にされました。
振り返ってみれば、日本でも450年前に南蛮人がやってきて、交易やキリスト教化が図られましたし、鎖国が終った150年前も欧米による植民地化されかねない圧力や脅威がありました。
13世紀の冒険家マルコ・ポーロが、東方見聞録を口述して以来、神秘の国アジアへ行って見たいという夢は西欧人に浸透していきましたが、夢が現実のものとなったのは15世紀の末でした。

1453年にビザンチン帝国の都コンスタンチノポリスがオスマン・トルコ帝国の手に帰したことで、陸路でアジアに到達する道は閉ざされてしまったことや大型カラベラ船の誕生で、大海原(大西洋やインド洋、太平洋)を航行することが可能となり、加えて羅針盤を使っての航海術の向上、大砲や鉄砲などの武器を戦いに使用できるようになったこと、更にキリスト教を広めたいという宗教熱情と物欲(スパイス、金、銀、絹、陶磁器、螺鈿、漆用品など)が後押ししました。
やがて19世紀になると、中国産の茶を飲む趣向がイギリスで流行した為、膨大な金額の支払いの窮余の策として、インドで栽培したアヘンを売りつけました。香港周辺では戦争が勃発し、中国を属国化していく流れが加速しました。やっと、1997年に香港周辺が中国に戻されましたが、ランタオ島に新たにつくった香港国際空港は、その年にオープンした中国の威信をかけ心血を注いだものでした。

インドネシアのモルッカ諸島で産するスパイスは、ヨーロッパ人の食生活にとって必需品となり、支配圏争いに最終勝利したオランダは、ジャワ島のジャカルタ(バタビアとオランダは呼んだ)を東アンド会社の基地とし、港湾設備や町づくりを行いました。
インドネシアとオランダを行き来する船にとり、水や食料の補給や病人の治療する為の中継地として目を付けたのが、アフリカ大陸南端に位置するケープタウンであり、オランダ人の入植が17世紀の半ばから始まりましたが、ボーア人(オランダ語で農民という意味)と呼ばれました。
ブッシュマン(狩猟や採集生活者)やホッテントット(遊牧・牧畜生活者)、カフィール(素朴な農業と牧畜を混合した生活者)などの原住民の住んでいた農業に適した土地を奪いながら、入植者たちは縄張りを広げていきました。
18世紀半ばになると、イギリスも南アフリカに触手を動かすようになりましたが、19世紀後半に見つかったダイヤモンドや金は、アフリカに何万年もの間住んできた先住民族の意向を全く無視した白人(イギリス人とボーア人)による傍若無人な支配政治を行なわせました。

世界最初の市民国家が17世紀のオランダで始めて生まれたと高く評価する考えもありますが、果たしてインドネシアや南アフリカでは、オランダ人は原住民にもオランダ人と同等の市民権を与えていたでしょうか?

アフリカ出身という共通の根を持つ人類がですが、白人(ヨーロッパ人)が有色人種(アフリカやアジア、アメリカに住む人達)を搾取した過去5百年の歴史でした。
やっと20世紀の後半になり、独立を認められて60近い国がアフリカで誕生しました。
日本は名誉白人として南アフリカでは、アパルトヘイト(人種隔離・差別政策)が行なわれていた時も特別扱いされていたことや、国連が1980年代に投資や援助を南ア連邦の白人政府に行なわないよう呼びかけた時でさえ、日本は参加せず投資を続け白人政府を孤立化させていく運動に組しませんでした。

私たちが学んだ世界史の中での近々の五百年は、これから様々な角度からの見直しがされることでしょう。ケープタウンのウォーター・フロント再開発プロジェクトで生まれたお洒落なショッピンセンターの中央入り口の近くにあった、南アフリカの民芸品を手広く扱う店の名前も'アウト オブ アフリカ'でした。
    




1193  モシ・オア・トゥンヤとホエリクワッゴ



ナイル川やザイール川、ニジェール川と並ぶアフリカ屈指の大河であるザンベジ川は、アンゴラの高地に水源を発し、ナンビア、ボツワナ、ザンビアからの支流の水を束ね、ザンビアとジンバブエの国境を駕しなが流れ、モザンビークを横断してモザンビーク海峡(インド洋)に達します。

わけても、ナンビアとボツワナ、ザンビア(ザンベジ川が国名となった)、ジンバブエの国境が交錯する辺り、瀑布が生まれ、現地名ではモシ・オア・トゥンヤ(水煙の上がる雷鳴の轟く所)と長い間呼ばれていたそうです。カナダとアメリカの国境を駕しエリー湖とオンタリオ湖を結ぶナイアガラ川に瀑布が生まれ、先住民はナイアガラ(雷鳴の轟く所)と呼んでいたのに呼応しています。
1855年に現地人に案内されてカヌーでやってきたイギリス人宣教師リビングストーン(生きた石?)は、時の大英帝国の女王ヴィクトリアの名をこの滝に付けました。
1. 7キロに亘って流れ落ちる滝が演出する音響や水煙は、2キロ離れたホテル(レイボーという名前)の屋上から見聞でき、爆音も夜通し部屋の中まで響いていました。
ずぶ濡れになる覚悟で臨んだビクトリア滝でしたが、15箇所ある見晴台に立って百メートル前後の落差を流れ落ちると滝は、大いに水しぶきを上げるにも関わらず、無風に近い状態と対岸(ザンビア国)が近すぎる為か、水煙が飛んできませんでした。ただ、終盤の12〜14番目の見晴台までくると、対岸が少し遠のき弱い風に煽られた水煙がやっと、ダイソー(百円ショップ)で買ったビニールの上下雨具着セットを濡らしてくれました。
最後の15番目のビューポイントは、ザンビアとジンバブエに跨る鉄橋でしたが、ダイヤモンドや金の発掘で財を成しケープ植民地の首相だったセシル・ロード卿が、北はカイロから南はケープタウンまで列車を走らせようという壮大な夢を抱いてつくらせた(1905年日露戦争の年)そうです。鉄道と車道の二つからなっていますが、、僅かな設計ミスを苦にした責任者が、完成直前に鉄橋から谷に身を投げて死んだそうです。今は、ここはバンジー・ジャンプの名所となっていて、また国境を行き来する人や車で賑わっています。
'ダイソーさん有難う'と感謝しながら、2百円のレインコートとズボンを脱いで、公園出口傍のゴミ箱に捨てていますと、公園で働く黒人従業員がやってきて取り出し、丁寧にたたんで持ち去りました。

ケープタウンの象徴と言えばテーブルマウンテンですが、見た目に四角い机のように見える所から命名されたようです。高さは千メートルもあり、花崗岩や砂岩、泥岩などからできていて、4億年以上の歳月を経ています。
海流や気流の関係で、暴風雨が吹き荒れたり霧が発生し易い土地柄から、机型の岩山の大半が見えないことが多くあり、別名テーブル・クロスを敷いた山と呼ばれ親しまれています。テーブルマウンテンを背にしてテーブル湾との間にケープタウンが開け、テーブル湾の中にロベン島(オランダ語でオットセイという意味)が見えていて、ネルソン・マンデラさんも長い間この島の独房に入れられていました。
テーブルマウンテンは歴史の生き証人であり、様々な形容詞をつけて呼ばれました。
南の見張り番、嵐を起こす力を持つ巨人、眠っている美女神、東西のゲート番、植民地主義の老いぼれ親父、アパルトヘイトの沈黙の証人などあります。
しかし、先住民コイ人が呼んだ'HOERIKWAGGO'(ホエリクワッゴ?海の中の山という意味)が的を射ているように思います。このユニークな形の巨大な岩山は、150キロも離れた洋上の船からも見えたそうです。
スイス製のロープウエイ・ゴンドラが1929年に開通したお陰で楽に頂上に行けるようになり、更に現在はゴンドラの床が360度回転する仕掛けになっていて、じっとしていても、ぐるりと周囲が見渡せます。流石スイスの山を手懐け観光客を牽き付けて止まない、ど根性の持ち主スイス人ならではの知恵をここでも見せつけられた次第です。

白人ガイド女史(ジンバブエ生まれの英国籍、日本育ちの人)の弁を借りれば、滅多に見れない山頂に登れ、洋上に沈み行く太陽の放つゴールド色の光の帯が波間を伸びて、私たちの立つ展望台に達する光景は見たことがないとのことでした。
又、同じ日の夜、近くのシグナル・ヒルから見たケープタウンの夜景も格別でした。
通りの街灯の放つ淡いオレンジ色の光(霧用のフォッグ・ランプを使用)と各家庭や事務所ビルの白色光が程よく交じり合い、さながら金とダイヤモンドを散りばめた宝飾品に似ていました。
      




1194  虹のような国にしたい



聖書の中に、人間の愚かな行いに怒りを爆発させた神が、40日40夜雨を降らせ地球に大洪水を起こしますが、やがて神の怒りが解けて再び地上に平和が戻った徴に、空に虹が架かる話があります。

'アフリカに恵みを'の願いを込めて1912年に結成されたANC(アフリカ民族会議)の許で育ち弁護士として活躍し、1962年から1990年まで牢獄生活を送り、やっと1992年にアパルトヘイトが廃止され民主化が行なわれ、総選挙で南アフリカ共和国大統領に選ばれ一期(1994〜1998)努めた国民は勿論、世界中の誰もが尊敬する人がネルソン・マンデラさん(1918生まれ)です。
南アフリカ共和国は、120万平方キロメートル(日本の3.2倍)人口は5千万人、黒人(9民族に分かれる)が80%、白人(オランダ系やイギリス系が主)は15%、そして残りがインド系のアジア人を加えて12民族から構成されていますが、マンデラさんの願い'虹のような国にしたい'(平和で安心して誰もが暮らせる神に祝福されたところ)は、国民の支持を得ています。

国旗にも虹の色が生かされているように思います。
赤は独立のために流した尊い血を、白は白人、黒は黒人、黄色は金やダイヤモンドなどの地下資源を、緑は大地や農業、青は空や海、川を表しているようです。
新生南アフリカ共和国が生まれて20年足らず、多難な前途が横たわっているでしょうが、'虹のような国にしたい'夢がある限り、天も味方してくれることでしょう。

現実は、ヨハネスブルグ在住の日本人ガイド氏(彼の夢は、楽園に似た動物が自由に生きるクルーガー国立公園で、いつの日かレインジャーとして日本人を案内したい)が、ヨハネスブルグ空港内の郵便ポストに案内して言った言葉、'絵はがきを投函する前に、お呪いをして、良く届くと評判のポストに入れてください'が現状を語っているように思いました。

     




1195  プレトリアの観光名所を巡って感じることは…




海抜1600メートルのサバンナにあるヨハネスブルグは、19世紀後半に突如湧き上がったゴールド・ラッシュブームで一攫千金を夢見る人たちが集まり、何もなかったところが町となり、今は高層ビル群が林立する大都会に発展しました。

郊外には、台形の形をした裸山が残っていて、金を採掘した後のボタ山だそうです。
夕暮れ時、空港から町へと向かうバスの車窓には、右に摩天楼群、左にボタ山が見えていました。
小さい頃から、'いつかアフリカに住みたい'夢を抱いていたという40代半ばの日本人ガイド氏は、数年前長く務めた商社を辞めプレトリアの町(ヨハネスブルグから車で1時間の距離)に奥様と2人で住んでいるそうです。何度か仕事で南アフリカにやってきたり、休暇を利用して綿密な調査をした末に、プレトリアの山の手なら安全・安心が確保できると決断して家を買いました。思い描いたアフリカのイメージに近かったそうで、今は動植物の名前や特質を勉強していて、やがてクルーガー国立公園でレインジャーとして、日本人観光客を案内したい更なる夢に挑戦しています。
そんなガイド氏が常に励行しているのは、仕事以外では決して夜間は外出しないようにしていて、身の安全確保に万難を期しているそうです。
ヨハネスブルグのビル内でのダイヤモンド店の出入り口の厳重さは当たり前だったとしても、プレトリアでの夕食レストランの入り口にも男性2人がガードしていましたし、市の中心の鉄道駅近くの宿泊ホテル・マンハッタンでも入り口はしっかり警備されていて、受付ロビーは2階になっていました。

翌日の午後にはケープタウンに向けてヨハネスブルグ空港から飛ぶ日程の中、午前中プレトリア観光で案内された所は、町の発祥となったチャーチ・スクエァー(教会広場)にボーア・トレッカー モニュメント(開拓者の碑)、そしてユニオン・ビルでした。
いづれもボーア人(17世紀後半、ケープタウンに移住してきたオランダ農民の子孫)に縁の深いものばかりです。17世紀はオランダの黄金時代と云われ、東西インド会社を設立してアジア(モルッカ諸島のスパイスを主力とする)とアメリカ貿易が盛んになりました。
ジャワ島のバタビア(現在のジャカルタ)とオランダの間を行き来する商船や艦隊ガ寄港して、水や果物,野菜や穀物、肉類を補給したり、病人を上陸させ看護できる小規模な城塞をつくることを提案したヤン・ファン・リーベックにより、ケープ植民地は(1652〜1795)始まりました。オランダから入植してきた農民(オランダ語でボーアという)
は、酒やタバコなどと先住民の土地を交換したり、武力で占領したりして縄張りを広げていきました。
先住民の黒人たちには様々な生活様式があり、白人は狩猟採集民をブッシュマン、牧畜民をホッテントット、混合型をカフィール、また白人と黒人の間に生まれた混血児をカラードと呼び、差別しました。
こうした17〜18世紀の入植民の子孫はアフリカーナと呼ばれ、独自の言葉、宗教、歴史意識、社会組織をつくり、農村的環境を保持しながら黒人を奴隷や下働きに使役した農業経営で生活しました。

しかし、1814年にイギリスは軍事力でケープタウンを占領、アフリカ人やボーア人は支配されました。また、19世紀のヨーロッパからの移民は都市型住民が多くなり、アフリカーナを見下すようになります。1830年にイギリス議会で奴隷貿易禁止令が成立すると、ますますボーア人(アフリカーナ)への風当たりが強くなり、やがて安住の地を求めてエクサダス(ケープ植民地を脱出)が始まりました。
1838年12月16日、アンドリュー・プレトリアスが指揮する少人数のボーア軍(女や子供までが鉄砲の玉をつくったという)は、ズール軍4万人にブラッドリバーの戦いで勝利しました。その戦いから丁度百年後にあたる1938年に、プレトリアの郊外の丘の上にボーア トレッカー モニュメント(開拓者の碑)がつくられました。戦争当時を再現したつくりになっていて、円形にぐるりと張り巡らされた荷馬車のデザインが組み込まれた鉄柵は、内側に篭って防戦した様を彷彿させ、中心に建つ巨大で堂々とした建物は地下1階から屋上までエレベーターで行けるようになっていて、展望台からは遠くまで見晴らしが出来ました。地下の大広間の中央には、'一人一人が南アフリカのために'と刻まれた石碑があり、12月16日には太陽光線がここに差し込むように設計してあるそうです。
いかにもボーア人が先住民を支配する正統性を表現したものでした。
この丘の周りは広い緑の芝が覆っていて、ムーがのんびり草を食んでいたのと、モニュメント公園の入り口近くに冬に咲くというアロエの巨大な筒状の花を見たのが救いでした。

1852年にようやくイギリスは、ナタール・オレンジとトランスバールの2国をボーア人の共和国として認めました。プレトリアの中心にいち早く教会ができましたが、今はその教会はなく、名前だけがチャーチ・スクエアー(教会広場)として残っていて、広場の周りには中央郵便局や裁判所、造幣局銀行や議事堂だった建物があり、広場の中央には小太りな紳士・ポール クルーガーの銅像が立っていました。ポール・クルーガーは第一次英蘭戦争(1880〜1887)でのボーア人の英雄で、クルーガ金貨やクルーガー国立公園でお馴染みです。質素をモットーに生き、信仰心の厚かった彼を象徴するかのごとく小振りな邸宅が広場近くにありました。

そして、ユニオン・ビルの建物は広大な公園を前面に、その奥に美しいプレトリアの町が一望できる丘に建てられた1910年イギリスとボーア人の和議により誕生した南アフリカ連邦の議事堂です。
1867年にトランスバールがダイヤモンドの埋蔵地帯であることが分り、また1886年にはヨハネスブルグで金が発見されたのが火をつけるきっかけになり、1回目のイギリスとボーアとの戦争(1880〜1887 ボーア戦争)や2回目のボーア戦争(1899〜1901)が起りました。2度に及ぶ白人同士の戦争は、イギリスとボーアが手を組み白人支配の連邦国家をつくる方向に導くことになりました。
そして、悪名高いアパルトヘイト(人種差別と隔離)が始まりました。
アパルトヘイトの概念は
1. 4つの人種集団(白人、カラード、インド人、アフリカ人)に分別する
2. 文明化された人種である白人が、国家の絶対的な支配圏を持つ
3. 黒人よりも白人の利益が優先する
4. 白人は、アフリカーナ系(ボーア人)と英語系(イギリス人)から成る単一の民族と考える
というものでした。
人口の80%を占める黒人を如何にして白人の為に使うかという一点に的を絞り、黒人を国土の14%の土地(ホームランドと呼んだ不毛の痩せた黒人移住区)に閉じ込めて、安い賃金で働かざるを得ない状態に追い込んで、白人の為に働かせようとしました。

春(10月)にはジャカランダの街路樹が紫色の花を咲かす町として有名なプレトリアは、2年前スワナ(伝説のズール族長の名)と改名されています。







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