希望


      
1186  モスクワも七つの丘から



元祖七つの丘の町と云えば、ローマ帝国の都だったローマとなるのでしょう。

ローマが蛮族に侵入されて崩壊(476)してから、およそ千年の間コンスタンチノポリス(現在のイスタンブール)が東ローマ帝国(ビザンチン帝国とも云う)の都となりました。コンスタンチノポリスも七つの丘から成っていて、皇帝と大主教府(ギリシャ正教でのキリスト教の総本山)の町として栄え、双頭の鷲を帝国の国章にしていましたが、1453年にオスマン・トルコ回教帝国に滅ぼされました。
そして、第3のローマの町、即ちローマ帝国の後継者として名乗りを挙げたのがモスクワでした。
早くは14世紀前半にイワン1世は、クレムリン(モスクワ川に面してつくった要塞)内に大主教府をウラジミールから移して、ウスペンスキー大聖堂を建立して大公国として成長する土台をつくりました。その後、イワン大帝(イワン3世 1440生 在位1462〜1505)はビザンチン帝国の最後の皇帝パレオロゴスの姪ソフィアと再婚、帝国の国章双頭の鷲をロシアの国章として、またギリシャ正教をロシア正教として引き継ぎました。

現在のモスクワは1千平方キロ・メートル(タテヨコ33キロの空間)の中に、郊外から働きにやってくる人も加えると、1500万人もの人がひしめくマンモス都会となっています。
モスクワの名の由来は数多くあり、どれが正しいのか定かではありません。フィンランド語の森に住む熊から付けられた説もあれば、イタリア語の蚊という言葉がヒントになったという人もあり、また古代スラブ語で湿気の多い沼地のことをモスクワと云ったそうで、沼地には蛙がいてクワクワと鳴くので、ぴったし合うそうです。聖書に関係ある所では、アララット山に漂着して大洪水の難を脱したノア一家の息子の一人(モサク)が、スラブ人の娘(クワ)と結婚してモスクワとなったとする説もあります。
いづれにしても、北のスカンジナビアと南のビザンチン帝国を結ぶ交易路の一つとして、モスクワ川が使われたのが町の始まりのようです。

かのナポレオンは、モスクワを見下ろせる雀が丘(七つの丘の一つ)に立ち、2百年前に'モスクワは私のもの'と言ったそうですが、私たちもこの展望台に立ち、現在のモスクワを一望しました。モスクワ川のほとりのクレムリン(七つの丘の一つの上に建てられた)やスターリンの七姉妹と称される、ニューヨークの象徴エンパイヤー・ステート ビルディングに似た形の巨大な六つの建造物が眼下に見えていて、そして展望台の後方の丘に七つ目のモスクワ大学(20学部あり3万人の学生が学ぶ)新校舎が聳えていました。
モスクワには全長300キロに及ぶ地下鉄が張り巡らされていて、毎日800万人もの市民が利用する足となっています。中心部では深さ100メートルもあり、第二次世界大戦ではシェルター(避難所)として使われました。280駅もあり、地下宮殿と呼ばれていて、彫刻や壁画、ステンドグラスにシャンデリアなどが配され利用者の目を楽しませてくれています。
七つの姉妹も地下鉄もスターリン時代(1924〜1953)につくられましたが、ガイド女史によると、アメリカのエンパイヤー・ステート ビルディングは失業対策の一環でできたが、こちらは囚人を使ってタダでつくったとのことでした。
歴史ある建造物が整然と通りに面して造られた美しいモスクワですが、白い石組みの建物は15世紀、赤い煉瓦は主に17世紀、ブルーの色の壁をした宮殿や邸宅は18世紀、黄色や緑・水色の貴族館は19世紀、壁が厚く天井が高く丈夫なつくりのアパートはスターリン時代、天井が低く壁が薄いアパートはフルシチョフ時代(1953〜1960年代)、壁が崩れ易いと評判の悪いアパートはブレジネフ時代(1970年代〜1980年代)だとの竹を割ったような説明でしたが、古い建物を大切に使っている文化だということが分ります。

ボリショイとは,大きいという意味です。
ボリショイ劇場とかボリショイ・サーカスは有名ですが、雀が丘近くの常設円形劇場ボリショイ・サーカスで、帰国前夜2時間半童心に返ってピエロの道化に大いに笑い、空中ブランコや猛獣ショーにハラハラドキドキして過ごしました。中央のすり鉢の底にあたる円形の舞台で繰り広げらる演技に、周囲360度の観客席に陣取った子供連れのモスクワ市民と観光客が和して、盛り上がって行きました。サーカスとはサークルと無縁ではなく、切れ目なく繰り返す運動、変わらないもの、もっとも美しくバランスのとれた形、丸い円であり、それは人を安心させ幸せへと導いてくれます。

パンとサーカスをくれと皇帝にねだったのが古代ローマ市民でしたが、聖書に述べられている楽園追放前のアダムとイブの如くパラダイスを求めたのでしょうか?
レストランで早めに夕食を摂り、400ルーブル(約1500円)の入場券を手にして最上階の席(天井桟敷?)で楽しんだ私たちでしたが、一応パンとサーカスを自前でしたが一瞬体験したことになるのでしょうか?
                                                  ハラショ!ハラショ!
     




1187  西方で朝食をとる頃、東方では眠りにつく国



ロシアは日本の46倍、アメリカの2倍の大きさがあり、世界の陸地面積の1/8を占めています。

成田空港からモスクワまで10時間の飛行ですが、最初の2時間だけが日本の領空で、残りは全てロシアの上空でした。東西が8900キロもあり、南北に2千キロ走るウラル山脈を境にして、西がヨーロッパ・ロシア、東がアジア・ロシアと呼ばれ、ヨーロッパ・ロシアが1/4、アジア・ロシアが3/4を占めています。
ヨーロッパ・ロシアはドン川やヴォルガ川がカスピ海に流れ込む平原地帯で、ウラル山脈を越えるとオビ川までは西シベリア低地やステップが続き、その先エニセイ川までは草原地帯です。エニセイ川の東は中央シベリア高原が始まり、バイカル湖に流れ込むレナ川まで続きます。そして、太平洋まで極東東シベリアの山地が横たわっています。
ウラル山脈の東をシベリアと呼び、縦3千キロ横5千キロに及んでいます。民族も優に百を超え、11の時間帯(時差)に分けて生活しています。
国土は多様で、ツンドラ(永久凍土)や北極圏、タイが(寒帯性森林)にステップ(乾燥した草原)、半砂漠(ヴォルガ川下流)や山岳(北コーカサス)などです。

地球の温暖化が進行する中、数十年もすればシベリアの大地は世界一の穀倉地帯となるだろうという人もいれば、未だ地球は氷河期を終っていず間氷期の中にあるとする学者もいて、白夜の頃は日本で言う'狐の嫁入り'に似た、雨が突然に降ることがありがちだと語った極東の朝鮮族出身のサンクト・ベテルスブルクでのインテリ・ガイド女史の目には、これからのロシアはどのように見えるのでしょうか?
   





 1188  海好きだったピョートル



フィンランド湾のほとり、沼地の多いネヴァ(沼地というフィンランド語)川に木の杭を打ち込み護岸工事を行い、運河を掘り土地を確保してザンクト・ペテルスブルクの町づくりを行なわせた人が、ピョートル大帝(ピョートル1世 1672生 在位1682〜1725)です。

'ロシアの歴史は全てピョートルの改革に帰着し、そこから流れ出す'と評された人で、名実ともに大帝でした。彼には、様々な形容詞が冠されています。
2メートルを越える大男にて大酒飲み、大砲好き、近代化の父、ヨーロッパへの窓を開いた男、船大工、時計修理工、外科医、歯抜きマニア、髭切り・裾切り魔、下手物コレクターで新鋭アイディアマン、アンチキリストと言われた人、そして海好きだった男でした。
若き頃、身分を隠してオランダのアムステルダムの造船所で船大工として働いたこともあり、無理やりに貴族や商人・職人をモスクワから引き剥がして、遷都してつくった聖人ペテロの町・セント・ペテルスブルク(ピョートル大帝の守護聖人)は、アムステルダムやベネチアの町を手本にして建設され、工事責任者にはイタリア人やオランダ人がいました。
1703年に着手し、10年後の1712年には首都として機能させました。その後2百年間、1917年10月革命でニコライ2世が廃位させられるまでロシアの首都でした。
今は、モスクワに次ぐ人口5百万人の住む都会として、自由で明るい雰囲気を醸す世界中から観光客がやってくる所となっています。通りには、高さ22メートルを越えない建物が整然と並び、公園が随所にあり、また運河に大通り、劇場や美術館、教会に博物館、ショッピング通りなどが見事に配されていて、西欧の都会よりも西欧的な印象を与えています。
ネヴァ川や運河の護岸用の石に、花崗岩が惜しげもなく使われていたのにはビックリしました。日露戦争(1904〜1905)の際、日本海海戦に参戦したという巡洋艦オーロラがネヴァ川の一角に繋留されていて艦内を見学できるようになっていましたが、このオーロラ号が放った空砲が合図となって1917年の10月革命が起きたそうです。

ザンクト・ペレルスブルク郊外にはエカテリーナ宮殿(ピョートル大帝の妻、エカテリーナ1世の名が付けられた)があり、宮殿の外壁は白と金と青色に塗られていて、有名なエルミタージュ宮殿(美術館)の外壁が白と金、そして緑色で飾られていたのと対照的でしたが、同じ建築家の作でした。
エカテリーナ宮殿内には、大黒屋光大夫がエカテリーナ2世に謁見した(2百年前)という大広間があり、金がふんだんに使われたロココ装飾の空間を700本のロウソクが照らしていた当時のままに、復元されています。また、近くの琥珀の間は6トンの琥珀を使い、30年の歳月をかけて2003年に再オープンしましたが、プーチン大統領と小泉首相がセレモニーに揃って出席したそうです。金に勝るとも劣らない琥珀の深みのある金色の輝きに圧倒されました。

エルミタージュ宮殿近くのネヴァ川に面した公園の中に、ピョートル大帝が私的な時間を過ごした小ぶりな邸宅があり、そこから海を見るのが何より好きだった人ですと語ったガイド女史も、忙しくよそよそしくて冷たいモスクワよりは、人情があり優しく開放的なザンクト・ペテルスブルクの方が好きだそうです。
     




1189  2008年発行の50兆ドル札をお土産にくれる国




お札の表紙には木々を遥かに凌駕して見下ろす、三つに重なった大きな岩がデザインされていて、裏面は1頭の巨像が鼻を高く持ち上げて木の枝を折ろうとしている場面と、現代のテクノロジーを表すダムが描かれていて、両面とも薄い緑色の色調で穏やかにまとめ、表にはジンバブエ国立準備銀行総裁の名で'このお札の持参者には、求めに応じて50兆ドルを支払うことを約束する'と印刷されています。お札の隅には表裏とも5を先頭にしてゼロが13コ並んだ数字があります。

3つの巨岩は、国の名の由来'ジンバブエ'という巨大な石造建築を全国につくり、11世紀から19世紀にかけて農業や牧畜、金の採掘や東アフリカ沿岸に加えアジアとの貿易が盛んに行なわれていた栄光の時代を表していて、首都ハラレの郊外にあるチレンバ・バランシング ロックと呼ばれています。

19世紀の末になると、金やダイヤモンドの発掘で財を成し、ケープ植民地の首相を務めたイギリス人のセシル・ローズの罠に嵌り、国の名前もローズの名をとってローデシアと呼ばれました。白人によるアパルトヘイト(人種差別と人種隔離)に苦しめられましたが、1980年にやっと独立してジンバブエ共和国となりました。しかし、政治混乱やファースト・トラック(白人の農場を強制収用して、黒人に再分配する)の失敗、国際信用の失墜など重なり、経済は極度に悪化しています。

ビクトリア・フォールズ市(人口5万人)のレインボー・ホテルの従業員が、発行して1年も経ていない50兆ドル札を土産にくれたのにはビックリしました。既に通貨としてジンバブエ・ドルは機能を停止していて、替わりに米ドルが流通しています。過って北ローデシアと呼ばれたザンベジ川を挟んで北隣のザンビアも、西隣のボツワナでも同様に米ドルが使われていて、泥沼状態が広がっている印象でした。夕方近く1時間ほどショッピングを楽しんだオープン・バザールでは、木や石を素材に彫ったり着色してつくった置物や容器などの類似商品が所狭しと広場に並べて売っていましたが、互いに売り子たちは助け合って生きていて、ザンベジ国立公園(ジンバブエ)やチョべ国立公園(ボツワナ)で見た動物たちの共生生活に似ていました。
自分で制作したものを並べて売っていた店では、何一つ売れない収入のない状態を愁い、妻や子供のために何でもいいから一つ買って欲しい、今日を生きて明日への希望を与えて欲しいと懇願され、同情して石の小さな置物(裏には彼のサインが彫ってあった)を言値で買いました。
ビクトリア滝ではレインボーが架かることが多いそうですが、泊ったホテルもそれに因んで付けたのでしょう。
聖書の中で、人類の不従順に怒りを爆発させた神はノアの大洪水を起こしましたが、40日後怒りが解けて平和が再び地上に戻った証に、虹を空に翔けたエピソードがあります。

再び、自国の通貨が流通し、自信を取り戻し、安心と幸せをもたらす希望の虹が現われることを願わずにはいられません。
      



1190  ダチョウは恐竜の子孫?



頭が小さく、首が長くて(頚椎の数が他の動物の2倍もあるという)、2本足で歩行し、足首から先は肉感のある前方の太い爪と後方の小さい爪があり、小さい方で体のバランスを支えます。

喜望峰を見ての帰り、ダチョウを飼育している牧場に立ち寄りました。
アルファ・アルファが一面に生えた広い牧場では、生後間もないダチョウから性別が未だ不明の1年半未満のダチョウ、そして巨大なダチョウ君やダチョウ嬢、ダチョウおじさんやダチョウおばさんなど分けて育てていました。
空は飛べないが時速70キロで地上を走るダチョウは、姿見は映画'ジュラシック パーク'に登場した恐竜を髣髴させますが、草食獣であり,過っては羽1グラムが金1グラムと等価交換されたほど貴重(稀鳥?)でした。
勿論今でも、皮はハンドバックや靴、ベルトに変身したり、肉はコレステロールが低いとの評判を得て食卓に登場する機会も増えているそうです。また、赤ちゃんを産んだ後の殻も、寝室のムードづくりに貢献してランプの傘として使われたり、色付けや図柄をを描かれた置物として使われています。

そんな貢献度大なダチョウですが、南アフリカ共和国の発表によると、人間を殺傷するナンバーワン・キラーがダチョウ(前足で飛び蹴りして、内臓破裂させるほど強力なキック力がある)で、ナンバーツーにはこれまた草しか食べないカバだそうです。

柵の外に落ちていた3グラムぐらいありそうな羽を記念に拾って、牧場を後にしました。










            

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