希望

    
1171  異教の馬が福音書作家のシンボルに



17世紀にベネチアを襲ったペスト病がやっと終焉を迎え、市民が挙って聖母マリアに感謝の念を込めて建てたサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会が、朝日を浴びて美しく輝いていました。

長い間修理修復の為、地下鉄の工事現場のような塀や足場が組まれていましたが、すっかり元通りバロック時代を代表する建造物が、グランド・キャナル(大運河)の入り口に蘇りました。ガイド女史によると、教会を支える床の下を掘った所、60万本の木の杭(松がほとんど)が打ち込まれていたことが分ったそうで、5〜6世紀にアジア系遊牧騎馬民族や蛮族の侵入を避けて浅瀬の中に避難して、内海を町の防御壁代わりとして使い、膨大な数の松の木を浅瀬の中に打ち込んで人工の島をつくり、生きてきた千年の栄光の歴史を演出したベネチア海洋都市国家の断片を覗うことができたそうです。

黒塗りの平底で、前後がきりっと水面から浮かび上がり、細く尖った舳先に立ち、漕ぎ易くする為に左側が20センチほど広く設計してある1人漕ぎの名物ゴンドラは、17世紀以降生まれました。それ以前は、ゴンドラは貴族の乗り物であり、大型で何人もの人で漕ぐ館船が主で、船体は様々な色が塗られ、陸で乗る馬や馬車替りに使っていました。

オリエント地方との交易で財を蓄え、分担して流れ作業で短時間で造った高速艇のガレー船を操り地中海海上での軍事力を誇り、情報収集も若き優秀な貴族が諸外国に外交官として派遣され行い、ベネチア都市国家の繁栄を支えました。そして、中枢の政治機構は複雑且つ綿密につくり上げられていて、独裁者や秘密洩れ、裏切り行為が出来ない仕組みになっていました。
そして、信仰・精神面のバック・ボーンは聖マルコ(イエス伝を書いた4人の福音者の1人)の遺体をエジプトのアレキサンドリアから秘密裏に持ち帰り聖マルコ大聖堂に安置したことで、確固たるものとなりました。

東ローマ帝国の都コンスタンチノープルの馬車競技場(ヒポドローム)を飾っていた4頭の青銅製の馬が、サン・マルコ大聖堂の2階のバルコニーに置かれ前面に広がる広場を俯瞰しています。この4頭の馬は、イエス伝を書いた4人の福音書作家(マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネ)を表していて、ベネチア市民を祝福しているかのようです。
しかし、元々はこれら4頭の馬は古代ローマ時代に神々を賛美してローマで制作され飾られていたようですが、コンスタンチヌス帝が遷都した折、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に持っていかれ、更に1204年の第4回十字軍戦争の戦利品としてベネチアへと持ち去られて以降、サン・マルコ大聖堂にありました。18世紀末には、ベネチアの支配者となったナポレオンが戦利品としてパリに持ち帰りました。フランスとナポレオン軍の栄光を讃えて造っていた凱旋門の頂上に置かれる予定でしたが、ナポレオンの失脚で再びベネチアへ返されたそうで、本物は雨露がかからない大聖堂の中に置かれ、コピーが以前同様バルコニーにあります。

ローマに行くと、有名な教会の前の広場にはオベリスクが立っていて、中世の末以降、巡礼者の為の道しるべの役割を果たしてきましたが、元はと言えば古代エジプト時代、ファラオが神々を讃えて神殿に奉納した太陽の光を象徴的に表す、花崗岩の一枚岩を四角錐の削り表面に神聖文字で自分の業績を刻みこんだものでした。古い異教の神を信仰した古代エジプト人のものを、2千年前のローマ人がエジプトから持ち帰り、それを更に450年前のローマ法王がキリスト教徒の為に再利用したことになります。

先の権力者が大切にした象徴物は壊され、その上に現権力者がこれ見よがしに大勢の被支配者に分りやすく、今の象徴物を乗っけてつくる(例えば、中南米で見かける神殿を壊して、その上に教会を建てたスペインの征服者たち)こともあれば、馬やオベリスクなどを再利用することで、権力者の力を誇示してきた例もあるのですね…。
     





1172  幸福な野蛮人よりも劣った文明人



地球の1/3を太平洋が占めています。

そこには、数多くの環礁で取り囲まれた島々があり、ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアと呼ばれ、早くから南アジアから双胴船やカヌーに乗り移り住んだ人達がいました。

日本から3時間で行けるグアム島はマリアナ諸島の中にありますが、島の西に位置するウマタックにはマゼランの上陸記念碑が立っています。
1521年3月6日に上陸しましたが、世界一周を目指して地中海のカディス港を1519年8月に出港しました。船員の日記には、原住民は泥棒だと書かれていて、実際に泥棒諸島と呼んでいました。一方、ウマタックでは地元に伝わる口承伝をもとに、マゼランの来航を3場からなる劇にしてマゼラン一行の上陸した日に演じているそうです。
1場では、原住民が海の彼方からやってきた白人のマゼラン一行を、水や食物で歓待しています。
2場になると、贈り物を交換し合うのが島民の習慣ですので、原住民は喜び連れだって船に行きますが、追い返されます。
そして3場では、再度突如としてスペイン人が上陸してきて、家々に火を放ち住民たちを刀で切りつけた話になっています。
背景には、船に無断で押しかけ物を貰うのは、原住民(チャモロ人)にとっては自然な行為でしたが、スペイン人にとっては許しがたい行為ととった、所有感覚の違いがありました。
1668年には、グアムではサン・ビレトス神父によるキリスト教の布教が始まりました。
当時スペイン帝国の摂政として力を振るったマリア・アンナ妃の援助を得て、布教が可能となったことに感謝して、マリアナ諸島の名前がつけられました。

ミクロネシアはマリアナ諸島のすぐ南にありますが、近代に至り第一次世界大戦後はドイツ領から日本へ、そして第二次世界大戦後は戦略的な価値からアメリカ領土になりました。
各国の支配方法は、ズー・セオリー(Zoo Theory)と呼ばれるもので、援助(エサ)を貰った先住民は、動物園の動物ののように従順になるとの考え方によるものでした。
そして、この取引は第二次大戦中に話し合われ、戦後はソ連が千島列島を所有し、ミクロネシアはアメリカの帰属とする話し合いで決められました。
ミクロネシアのトラック環礁は、海中戦跡博物館として数多くの船や飛行機が沈んだままになっていますが、過ってトラック基地は'日本の真珠湾'と讃えられ、ハワイの真珠湾と同様に南太平洋に睨みを利かす戦略上の要の役目を果たしました。
右隣にはマーシャル群島が広がっていて、ロンゲラップ島民は1954年3月1日行なわれたビキニ環礁での水爆実験を目の当たりに体験して、'西から太陽が昇った''アメリカがメリケン粉をばら撒いた'と表現しました。本当に、南の島に雪が降ったかと思ったそうです。ビキニ環礁での原水爆実験は30年間続けられました。

ハワイ諸島は、ハワイ島出身のカメハメハ大王(1755〜1819)が欧米先進国から購入した新兵器鉄砲を使い統一しました。しかし、1世紀後の1898年にはアメリカに併合されています。ハワイ王朝最後の王となったリリオカラニ女王(在位1891〜1893)の手になる哀愁に満ちたアロハ・オエの詩は今も詠われ続けています。
1860年アメリカポーハタン号に乗りワシントンに向かった日米通商条約の批准書を携えた徳川家一行は、カメハメハ4世(在位1854〜1863)に面会していますが、イギリス人の血の入った混血のエンマ王妃の美しさを副使・村垣淡路守は、'生ける阿弥陀仏かと疑うばかり'と形容しています。
1881年には、カラカウア王は使節団を日本に送り、カイウラニ王女と山階宮定麿親王との婚約(ハワイ王家と天皇家の結びつきを深めることで、アメリカの一方的な強圧外交を避けようとした?)を提案しています。

そして、ゴーギャンの憧れたタヒチです。
42歳、妻や子供をフランスに残しての単身タヒチへの移住でした。彼は、それ以前にカリブ海のマルティニ島(フランス領)に行った経験がありました。
俗悪で煩わしい文明社会から逃れて、明るい原始に戻りたいという願いか昂じたものでしたが、パピエテ(タヒチ島の首都)には既に原始はなく、ヨーロッパ化されていて重荷でした。1500キロも離れたマルケサス島のヒバオアに行き亡くなっています。
'私は文明人だった。周囲に住んでいる幸福な野蛮人よりも、遥かに劣った人間だった。'と云っています。

1988年、オーストラリア建国2百年を祝して、11隻の帆船が故事に倣ってポート・ジャクソン湾に集結しました。そこは、1787年殆どが囚人からなる1044名を乗せイギリスを出航した11隻の帆船が、1770年クック船長が発見しニュー・サウスウェールズ(新しい南ウェールズ)と命名した所の近くにあたります。
移民船団は、1788年1月18日から20日にボタニー湾に入りましたが、さらに湾の奥へと船を進め、天然の良港と思われたポート・ジャクソン湾に1月26日に上陸したことで、この日がオーストラリア・デーとして祝われてきました。そして、上陸してつくった町は、当時のイギリスの内務大臣だったシドニー卿の名をとってシドニーとなりました。
しかし、一人のオーストラリア人・アボリジン作家はクック船長の祖国イギリスのドーバー海峡の岸辺に立って、次のような宣言を1988年に行なったそうです、

古代オーストラリアの貴族である私ことブルナム・ブルナムは、我が同胞アボリジン全員にかわって、ここにイギリスを領有することを宣言する。
ここに植民地を築くにあたって、我々は先住民である諸君に危害を加えるものではない。
代わりに、我々は諸君に良きマナーと上品な趣味をもたらすことを確約する。

イギリス人による長年に亘る数知れずの、人間扱いされないで追われ死んでいったアボリジニの悔しさを忘れず、しかし恨みではないエレガントな皮肉をたっぷり含んだユーモア(イギリス人の得意とする)に置き換えて、しっぺ返しをした痛快な日でもありました。

欧米文明の一方的な押付けを5百年に亘り太平洋諸島に行なってきましたが、第二次世界大戦後も核実験を大気圏で、あるいは地中で行ない続けました。また、今も公害による温暖化は水位の上昇や海の汚染をもたらし、島の人々の生活を根こそぎ崩壊させかねない状況に陥れています。
    





1173  美しい絨毯には天国の美女たちが潜んでいる



昼夜の温度差が30〜40度の乾燥地帯でテント生活をしながら、羊を飼っている遊牧民がつくったのが絨毯でした。

地面の上に敷く敷物が必要となり、毛皮を敷いていた生活から羊毛の敷物へと代わっていきました。羊毛の絨毯の特長は、丈夫で踏み心地が良くて、弾力性に富んでいて、更に湿気の吸収力に優れ(四畳半の大きさの羊毛の絨毯は、牛乳ビン7本分の湿気を吸う)汚れにくく、水気を弾き、染料に染まり易く色が褪せ難いところにあります。

イランで生まれたペルシャ絨毯は、縦糸2本ないし4本ごとに色糸のパイル(結び)をつけてつくりますが、そうすることで多くの空気層ができるので、保温と断熱の効果を生むことになりました。
現存する世界最古の絨毯は、アルタイ山中(ロシア)から出土したバジリク絨毯で、紀元前500年頃から紀元前200年頃にかけてつくられた、縦横1.83米 X 1.98米のものです。図柄は中央に格子状に花模様が描かれ、その周りにはトナカイ、馬を牽く人、馬に乗った人、有翼獣、牡鹿が配置されています。
11世紀には入ると、セイジュク・トルコ族に征服されましたが、絨毯界ではトルコ結びが生まれました。
メディア人(アーリア民族に属する)の中のパルスア(西南イランのこと)の人々がアケメネス朝王朝(紀元前6世紀〜紀元前4世紀)をつくりましたが、古代ギリシャ人は彼らをペルシスと呼びました。後に英語読みで、ペルシャとなりました。アーリア(高貴なという意味)人の国という意味がイラン(ペルシャ語)ですが、ペルシャがジャパン、イランが日本といった関係にあたります。

地下の水脈を利用したカナート(地下水道)は、紀元前8世紀頃イラン高原の北西部で始まったとされていて、東は中国の北西部から西はアフリカのモロッコまでの乾燥地帯に広がっていきました。カナートと絨毯は、長く親しい友達関係(刎頚の友)にあるようです。
イスファハーンに都した16世紀のサファーヴィ王朝では、王立絨毯工場で垂直織り機を使い巨大な絨毯をつくりました。以前、テヘランの絨毯博物館で見た数々の巨大な敷物は、きっと垂直織り機でつくったものだったのでしょう。

イスラム教の教祖モハメット(570〜632)は、この世で質素で慎ましやかな生活を送れば、天国では華やかな生活が待っていると説きました。
天国とは、きらきらと流れる小川、溢れる葡萄酒とミルクと蜜、涼しい眼をした乙女達がいて、豊かな果実に満ちた世界であり、美しい絨毯には天国の美女たちが潜んでいると語ったそうです。小さな絨毯一枚(祈り用)で、大きいモスクに負けない祈りの空間が生まれ、絨毯には抽象化した穏やかな曲線模様の植物(アラベスク)が織り込まれていて、楽園への憧れが表現されました。

乾燥した風土と羊を飼う遊牧生活、そしてイスラムの教えが相乗効果を生み、絨毯を天国への高みへと(空飛ぶ絨毯?)導いて行きました。
    



1174  レストランの名はハーフ・ムーン



運河に架かる橋を渡ると、たもとにはアムステルダム市の縄張りに入った証拠を示す小さな看板が、そして運河の傍には過って活躍したであろう風車があり、道路を挟んで向かい側の'De Halve Mean'(半月)レストランで夕食を摂りました。

店は木と板張りの2階作りで、天井から壁いっぱい様々な往年の生活用具が飾られていて、従業員は御揃いのTシャツ姿です。従業員に何故ハーフムーンという名前がついたのか尋ねましたが、分らない様子でした。そこで、すかさず同席していた茶目っ気の多い私たちの運転手が、フルムーンになるほど客も入らず味もまあ〜まあ〜だったからだろうと言うので、一同笑って終りとなりました。
傍の壁には木箱が架かっていて、木箱の底には白いシャツに白いズボン、白い帽子を被って一人ゴルフ・コースでプレーする20世紀初頭?頃の男性が描かれていて、箱の中には現在のゴルフクラブよりはかなり小ぶりの2本の木製の棒(木の先には小さく曲がった金具が取り付けてある)や、あまり飛びそうにない小さなボール、その他のゴルフに必要な小道具が入っていました。また、その箱の近くには色あせた板絵があり、'トリニダッド号'と書かれた2本マストの帆船が描かれていて、下に110トン、1521年マゼランと付されています。きっと世界初の一周航路を達成したマゼランの乗った船なのでしょう。
ドライバー氏が自分の名前を日本語で書いてくれとせがむので、カタカナで書くと、大切そうにポケットに紙切れをしまい込みました。

そして、翌日雨の降る中、傘をさして訪ねたアムステルダム中央駅近くの涙の塔のレンガの壁には、15世紀につくられたこの海の見張りの塔は、大航海時代(15世紀〜18世紀)には出航していく何時帰るか分らない夫や恋人を涙ながらに見送った女性たちの塔であり、また1609年ヘンリー・ハドソンがハーフ・ムーン号に乗り、アメリカ大陸の北(北極海)を廻って太平洋に出る航路を見つけるべく船出して行ったと書いてありました。
やっと、前夜のレストランの名前が腑に落ちました。ハドソン(イギリス人探検家)は、ニューヨーク州周辺を探検して廻り、オランダの領土を増やしニュー・オランダ、ニュー・アムステルダムと命名した人で、後にハドソン川・ハドソン湾として、今も世界地図にその名を記されています。
    



1175  気の利いたホテル


ホテルは山の手にあり、近くには巨大な建造物で有名な最高裁判所やアール・ヌーボーの生みの親ポルタのデザインした博物館がありました。

泊ったブリュッセルのNHホテルの部屋の洗面所に取り付けてある、顔近くに引っ張りだせる丸い鏡の縁周りに、
I see a lot of faces and I have never seen a smiling face that was not beautiful.
(沢山の顔を見るけれど、笑顔が美しくなかった顔を見たことがない)
と英語で書いてあり、朝から思わず笑ってしまいました。

そして、朝食に行こうと3階の3機あるエレベーターの前に立つと、閉まっている扉にそれぞれ
Today's question:
who will be in the elevator?
Make a guess.
(今日の質問:誰がエレベーターに乗るだろうか?想像して見給え)
All our pastries are fresh− made.
perhaps now you would prefer the appetite.
(私たちのペイストリーは、全部できたてホヤホヤです。きっと、食欲が湧くことでしょう。
Today's recommendation:
Make a friend next to you.
Smile at the person.
(今日のお奨め:隣の人に笑顔で接し、お友達になりなさい)
と英語で書いてあり、再び笑ってしまいました。

朝から何となく気分が良くなりました。












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