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希望

    
1151  三国国境地点はライン川の上




アルプス山中から氷河が融けだして流れ出る水は、ボーデン湖へと流れ込み、西に向かって更に進み、スイスのバーゼルから北に方向を転じ、北海に流れ込む大河がライン川です。

バーゼル市内から市電8番に乗り、クルーインフニンゲン(Kluinhuningen)駅で降り、河畔に沿って15分ほど歩いて、3国国境を示すモニュメントが建つ岬に辿りつきました。
モニュメントは、三つの翼を持った先の尖ったロケットのようにつくられていて、手前の翼にはスイス、左側の対岸を示す翼にはフランス、前方を向いた翼にはドイツと書かれています。
そして近くには、'本当の自由は、心の平安の中にだけある'( It is only through 
inner peace that you can have true outer freedom)と刻まれた碑もありました。

地続きで国境を接する難しさを物語っています。
小さな巨人スイスの歩んだ道の険しさが偲ばれます。
過って行った南米のイグアスの滝近くでも、アルゼンチン、ブラジル、パラグァイの国境が二つの川が合流する川の中
になっていたのを、懐かしく思い出させてくれた12月末の、ある晴れた朝でした。
     




1152  ヨーロッパの平和は独仏の和解から



アルザスワインで有名なライン川近くのアルザス地方は、17世紀にフランスの王政下に入りました。

しかし、普仏戦争(1870〜1871)でドイツ領となり、第一次世界大戦(1914〜1918)後はフランスに戻されましたが、第二次世界大戦中(1939〜1945)中は再度ドイツが占領し、漸く戦後フランスに返されました。
作家ドーデ(1840〜1897)の'最後の授業'では、ドイツ軍の占領が目前に迫り、アルザス地方に住む子供たちが明日からは学校でドイツ語の授業が行なわれるので、フランス文化の象徴フランス語での最後の授業風景を描いたもので、国境近くに住む人達の悲しさを表しています。
丁度、マリー・キューリー夫人が女学生だった頃、ワルシャワはロシアの統制下にあり、国語であるポーランド語を学ぶのを禁じられていたことや、ピレネー山中に住むバスク人が国籍がスペインであれフランスであれ、死語に近かったバスク語をゼロから習い始めアイデンティティとしているのに似ています。

'ヨーロッパの平和は独仏の和解から'との考えで、アルザス地方の町・ストラスブールにEUの本会議場が置かれたそうです。
古来からこのあたりは、ヨーロッパの十字路として人や物、情報が行き交いました。
人口26万人のストラスブールは、ライン川の支流イル川をヴォーバム・ダムで堰き止めて運河で囲まれていて、ドイツの香りが漂う中世の旧市街がノートルダム・カテドラルの周りに残っています。近くのヴォージュ山地から切り出した赤砂岩でつくった見事な教会ですが、中には大変に珍しい貴重な天体時計がありました。またカテドラルと同じ頃つくられたサン・トーマ教会(13世紀半ば)には古い小さなオルガン(1740年作)があり、1778年にモーツアルトが弾いたことやアフリカの地で宣教活動や医療活動に貢献したシュバイツァー博士が1909年にやってきて、バッハの命日7月28日にモーツアルト同様演奏したことが書かれていました。

2008年の年の暮れ、ハイデルベルグからバーゼルに向かう途中、昼食を兼ねて立ち寄ったストラスブールでしたが、町の外のグリーンベルトでバスを降りて、駐車代と引き換えに、市電のチケットを各自貰い電車に乗って旧市街に向かいました。ドイツ語圏では早くから、公害対策として町への商業車や自家用車の乗り入れを減らし公共機関で賄おうとする取り組みが行なわれています。
カテドラル横の広場には、仮設のアイススケート・リンクができていて、大勢の家族連れや恋人たちで賑わっていましたし、教会や市庁舎の広場は、昔も今も変わらず市民の憩い団欒の空間として機能していました。
     





1153  新春のお笑いを一席



えー、戦後の目覚ましい復興は、日本人が優秀であることは勿論ありますが、日本の動物も優秀だったからであります。

タイガーや象が魔法瓶をつくり、亀の子はたわしを、ライオンは歯磨き粉を、そしてブルドッグまでがソースをつくったのであります。

添乗員仲間の小見氏のご高説を紹介した次第です。
さて…座布団は何枚貰えるのでしょうか?
はたまた期待を裏切られたあまりの酷さに、座布団がこちら目がけて飛んでくるのでしょうか?
  





1154  気宇壮大に生きよう!奇跡的に生かされている私達だからこそ



昼間、私たちを暖めてくれる太陽の火は、1億5千万キロ離れた彼方から届くそうだ。

地球は、丁度良い距離の軌道上を廻っていて、太陽に近づきすぎると地球上の水は蒸発してしまうし、離れすぎると凍結します。いづれにしても、生命の存在し得ない場所になってしまいます。1億5千万キロとは、時速160キロのスピードの乗用車が1日走り続けるとして(ル・マンで行なわれる耐久自動車レースのように)も、100年以上かかる距離だそうです。
太陽の中心核の温度は摂氏1500万度あり、一片を切り取って地上に置いたとしたら、140キロ以内に近づくのは危険であり、何億個の核弾頭の爆発に相当するエネルギーを毎秒放射しています。
太陽は地球が130万個以上入る大きさですが、特別大きいといえる恒星ではなく、天文学者は太陽を黄色矮星と呼んでいます。恒星の中には太陽の位置に据えると、地球がその中に入ってしまうものもあるし、土星までも飲み込んでしまうものもあります。
土星は地球の彼方にありますが、強力な拳銃から発射された弾丸の40倍のスピードで飛行する宇宙船でも、4年かかる所にあります。

星の数は幾つあるのでしょうか?
肉眼で見える星はせいぜい3千個ほどですが、太陽系が属する天の川銀河だけでも1千億を越す恒星があり、1秒に一つずつ数え1日24時間続けたとしても、全部数えるのに3171年かかるそうです。銀河が500億あると推定する人もいれば、1250億あると計算する学者もいます。
銀河の大きさはというと、天の川銀河の直径は10万光年で、光が毎秒30万キロのスピードで進んでも銀河を横切るのに10万年かかります。

太陽系に目を移してみると、木星は巨大な防御物(盾)となっていて地球の千倍以上強い引力があり、木星がなければ、宇宙を飛ぶ巨大な飛行物体が現在の1万倍も激しく地球に降り注ぐことになります。
太陽系は、銀河系の両極端の間の理想的な位置にあります。
中心部は恒星がひしめき合っていて放射線量が多く恒星同士が異常接近していますし、外縁部は生命に不可欠な元素が足りません。
月は美しい夜間照明として、また地球の傾きを一定に保つ働きをしていて、その傾きのお陰で季節が巡ってくる恩恵を与えてくれます。

保護シールドの役目をしてくれるのが、大気です。
太陽は健康に良い光線と有害な光線を放射していて、致死的な光線が地球の超高層大気にあたると、普通の酸素がオゾンに変わり光線の大半を吸収してくれる働きをします。
大気は自前の傘に相当します。

物理学者のアインシュタイン博士は、人には2通りの生き方があり、一つは毎日が同じことの繰り返しと思うか、または毎日が奇跡に満たされた瞬間の連続と考えて生きるか どちらかだと云ったそうです。
     




1155  '歓喜の歌'の合唱はなし




歳月の過ぎてゆくのは早いもので、ドイツのミュンヘンとデットモルトの町で'歓喜の歌'の合唱をしてから丸3年が過ぎました。

そして、今回はスイスのバーゼルとチューリッヒで80名による年末の演奏旅行がありました。きっと前回と同様、ベートーベンの歓喜の歌がメインに組まれているのだろうと思い、少し勉強をして出かけました。
ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーベンはナポレオン(1769)より1年遅く1770年に生まれ、父親がピアノ教師でしたので特訓を受け、幼児期はモーツアルト(1756〜1791)のように早熟の音楽家を目指しました。16歳でウィーンに行き、モーツアルトの弟子になろうと試験を受けましたが、その夢は適いませんでした。ただその折、'この子は見込みがある'と、大先生モーツアルトが洩らしたそうです。
1792年、再度ウィーンにやってきたベートーベンはハイドンに1年だけ弟子入りしています。

1800年(29歳)に第1交響曲を書き、1803年には第3交響曲(エロイカ、英雄)をつくります。当時、ヨーロッパでは自由、平等、博愛の理想を掲げ始まったフランス革命(1789)旋風が吹き荒れる中、彗星の如くナポレオンが登場していました。新しい平等な社会を生み出してくれるヒーローとして、ベートーベンはこの曲を書きましたが、やがてその夢は破れ、ナポレオンは皇帝となり独裁者へと変っていきました。後にエロイカの名を冠したこの曲は、'ある偉大な人物の思い出'とベートーベンは名を変えたそうです。そして第9シンホニーは、1821年から1823年にかけてウィーンの郊外の温泉保養地バーデンで書き上げられました。近くのヘレーナ渓谷の中を,天候に関わりなく毎日ハイキングのような散歩をしながら、楽想を練りました。シラーの'歓喜に寄す'という詩(1787年に発表)は自由を讃え、平等の理念を高く掲げた内容ですが、第9の中にその歓喜'Freude'を取り入れて、高らかに自由や平等への抑えることの出来ない魂の躍動を歌い上げました。
初演は1824年5月7日ウィーンで行なわれましたが、聴覚の機能を失ってしまったベートーベンはコンサートマスターの横に座り、じーと聞こえない音楽に聞き入っていたそうです。

しかし、今回はイエスの誕生に合わせた小曲集を中心に構成されていて、しかもドイツ語だけでなく日本語でも歌うものとなっていました。
教会2階の聖歌隊席でパイプオルガンに合わせて練習する、日本からの合唱団の歌声が堂内に流れ、外は暗闇が覆いだす5時を回る頃、敬虔な信者たちが三々五々入ってきて、暫く留まり去っていきました。彼らは、例外なく頭や3首をしっかりガードした防寒着で着膨れしていて、教会近くに住むバーゼル市民のようでした。
ドイツ語で歌うミサ曲、そして日本語でのミサ曲を聴いて、言葉の文化が醸す響きの違いは、どのようにドイツ人に感じられるのでしょう?
正直、私の耳には合唱団がナチュラルに,繊細に歌い上げる日本語での小曲が心に響いていました。

イエスの誕生を祝ってベツレヘムにやってきた羊飼いや東方の三賢人、近在の人々や家畜が集う場面の人形達に光が当てられ飾られている、この時期にしか味わえない華やいだ雰囲気の教会でした。









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