希望

    
1136  カッパではなくてキッパ


聖書の詩篇に、'山々がエルサレムを囲んでいるように、主はとこしえにその民を囲まれる'と書かれていますが、この町は周囲を山々で囲まれています。

'麗しさの極み'と聖書の詩人が詠ったエルサレムは、宇宙は唯一絶対神により創造されたと信じるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地であり、日の沈むころ一段と美しさを際立たせます。イエスはオリーブ山に登り、ケデロンの谷を挟んで見える西のモリアの山(神殿の丘)に建つ神の館である神殿が、やがて壊される定め(実際、紀元後70年にローマ軍により焼かれた)に涙したと云われます。今は、イスラム時代になってつくられた黄金の岩のドームやエル・アクサモスクが見えています。
過ってそこには、ダビデ王が地中海世界から集めてきた黄金や銀、象牙に杉材、銅などをふんだんに使って、息子のソロモン王(紀元前10世紀)が最初の神殿(第一神殿と呼ばれる)が建てられましたが、アッシリア帝国により壊されました。そして、新バビロニア帝国により大勢のユダヤ人がバビロンへと連れ去られました(バビロン幽閉と呼ばれ、70年に及んだ紀元前6世紀のできごと)が、ペルシャ帝国のキュロス大王はユダヤ人の帰還を許しました。そうして、エルサレムに再び神殿(第二神殿と呼ばれる)が紀元前6世紀の末に出来ました。神殿(聖所には、アーモンドの小枝や花を模った7つに枝分かれしたメノーラという名の燭台が数多く置かれ、至聖所には、モーセがシナイ山で神から授かった十戒の石版や御使いの像がありました)は西向きに出来ていて、沈み行く太陽に永遠を見た人達だったのでしょうか?

長い間、エルサレムの町の名前はヘブライ語のイール・シャローム(平和の町)から付けられたと考えられてきましたが、今ではセム人の女神サレムが薄暮の美女神として讃えられたのに由来しているとする説が有力になっています。
ユダヤ民族は、エルサレムこそ世界の中心であり、アブラハムが住まいし、愛する息子イサクを命じられるままに手にかけようとした所であり、ダビデ王がつくった町、そしてバビロン幽閉や紀元後70年の反乱でユダヤ人はエルサレムの地から追放(ディアスポラと呼ばれる離散民になる)れました。
いつの日かカナンの地へ、そしてエルサレムへ帰還したい願いを懐いて生き抜いてきました。世界各地へ散っていったユダヤ民族は、トーラー(モーセ五書)やタルムード(ユダヤ教徒が守るべき生活規範を記した書物)の教えをシナゴーグ(集会所)に定期に集い、学び継承してきました。ユダヤ社会では、成人と見なされる13歳以上の男子が10人以上でゴミュニティをつくり、120人以上集めれば領主(国や町)に収める税金の他にコミュニティの為の税金を徴収して、学校教育や福祉に配慮しました。
19世紀後半から東ヨーロッパに住むユダヤ人が中心となって、聖地へ帰ろうという機運(シオニズム)が高まり、少しずつパレスチナ(カナンの地)の土地を買い取り、バビロン幽閉から数えて2500年、ローマへの反乱から数えても2千年の離散という憂き目の後、集団で再び神がアブラハム・イサク・ヤコブの民に約束した土地・カナンへと帰って来る流れが第一次世界大戦後、本格化して、遂に1948年5月14日イスラエル国は誕生しました。

今はなき第一、第二神殿が建っていた神殿の丘を支える西側の石の壁(嘆きの壁)に寄り添うように、頭を何度も下げお辞儀しながら聖書を朗読する敬虔なユダヤ教徒たちは、万感の思いを懐いて日夜絶えることなく集ってきます。男性は頭に小さな被りもの(キッパ)を載せますが、失礼ながらカッパの頭の皿に似て見えます。女性も頭をスカーフなどで被います。それは全能の神を忘れず、神のお陰で自分が存在できていることを意識する為に被るのだそうです。
男性の多くは、山伏が額に小箱のようなものを括り付けているのに似たスタイルで、更に左腕にも小箱を皮ひもで巻きつけて祈っています。箱は、モーセが神から貰った契約を入れた箱のミニアチュール版になるようです。

厳格なユダヤ教徒の男性などは、トーラーに書いてあるという服装や身だしなみを大切にしていて、揉み上げは耳のラインまで伸ばさないとか、髭は剃らないで伸ばし白いシャツの下から紐を垂らし、黒の上下服を着ることで敬虔な神に僕であることを人に分って欲しいと願っているそうです。また、自分たちは神様の軍隊であり、義務である3年の兵役には行かないし、神殿の丘にも登らないそうです。若し万一、第二神殿の焼失以来、2千年近く見つかっていない契約の箱の上を土足で踏みでもしたら…大変なことになる。との理由からだと言います。
女性は、結婚したら頭に被りものを常にすることで、他の男の目にとまるらないようにするそうです。

'神様は漢字も読めるから'と言って、私たちが願いごとを紙に書き、嘆きの石垣の壁の間に挟んで置いてくるように勧めたガイド氏も、いつの間にか、おでこと左腕に契約の箱をつけて壁に向かって歩いて行きました。
     




1137  ステパーノ門からヤッフォ門に向かって歩くと


ナザレ出身のイエスは、敬虔なユダヤ教徒でした。

旧約聖書の中で、YHWH(神ヤーヴェ)がアブラハム一族と契約を結んで以降、その子孫(イサク、ヤコブへと続く)を選民として認め、やがてその家系から救世主(メシア、キリスト)が現われ、神の元へとユダヤ教徒を導いていくと信じていました。
この世にやってくる救世主は、数々の苦難に直面することも預言されていますが、イエスはその通りに生きて死んでいった人でした。
果たして、ナザレのイエスはメシアだったのでしょうか?

イスラエルからの帰りの飛行機の中で話した一人の温厚なユダヤ人は、'聖書には、メシアが到来すると、間もなく善と悪の闘い(ハルマゲドン)が行なわれ、最後の審判の日がやってくる。と書いてあるが、イエスがやってきて2千年過ぎたけれども何も起きていないので、救世主ではなかったと思う'と語りました。

イエスの死後、弟子たちにより書かれた新約聖書によると、ゴルゴダの丘で杭に架けられたイエスは、3日後に蘇り,40日間地上に留まって知人や友人たちの前に現われた後で、オリーブ山から昇天されたとされます。
イエスの生前の言行や復活後の40日間の様子と教えを書き記し、旧約聖書に預言されていたメシアは、イエスその人であったこと、イエスを通して神との間に新しい契約が結ばれ、ユダヤ教徒は勿論のこと、他の大勢の人にも復活のチャンスが与えられた福音を知らせる人々が、イエス・キリスト教を始めました。

2千年前のユダヤ教徒も現在のユダヤ教徒も、神が6日働いて全てを創造した後に休んだ7日目の安息日を土曜日と定め、働かず静かに神を想う大切な時としています。一日は日没から始まり次の日の日没で終ると考えていて、土曜日は金曜の日没から始まり土曜の日没までとなります。
ユダヤ教徒であるイスラエルのガイド氏によると、イエスは2千年前の日曜日に弟子たちと共に、大麦の初穂を神殿に奉じ、また伝統の過ぎ越しの祭り(出エジプトの際、家の鴨居に羊の血を塗って、ユダヤ人の子供たちの命が救われた故事を思い起こし、神に感謝する)を祝う為にエルサレムにやってきました。恐らく、毎夜オリーブ山の麓にあるゲッセマネで、星を見ながら野宿していたのでしょう。そして、木曜日の夜、弟子と一緒に最後の晩餐をとった後ゲッセマネに行き、寝る前の祈りを額から血のような汗を掻きながら、直にやってくる悲しい死という宿命を切々と神に訴えた後で、ローマ兵に捉えられました。
大祭司カヤパの家に連行されましたが、その折弟子ペテロは夜明けを告げる雄鶏が鳴く前に、恐怖で3度も師イエスを知らないと言いました。地下牢に暫く入れられましたが、日が昇る(金曜日の朝)と、ローマ総督ピラトの官邸へ連れて行かれ裁判の結果、極刑(十字架刑とも1本の杭とも云われる)を言い渡されました。
そして、ゴルゴダの丘(当時は、エルサレムの町を取り囲む壁の外にあった)まで杭を背負って歩き、その杭に架けられて数時間苦しんだ末に死に、近くの墓に葬られました。
これら一連のことは、シャバト(土曜日の安息日)が始まる前、つまり金曜日の日没までに終ったはずだとの説明でした。
木曜日の夜から金曜日の夕方までの僅か1日足らずの事行を、キリスト教徒はパッション(受難)と呼び、イエス・キリストの犠牲に思いを深くします。

16世紀の初め、オスマン・トルコ帝国のスレイマニ大帝は8つの出入り門を持つ,旧エルサレムを取り巻く市壁をつくらせました。私達は東のステパーノ門(ライオン門ともいう)から入り、エッケホモ教会(ローマ総督ピラトの官邸があったとされる場所)から始まりゴルゴダの丘(聖墳墓教会が今はある)に至る、イエスがピラトに死の宣告を受けて処刑され墓の中に納められるまでの約500メートルに及ぶヴィア・ドロロッサ(悲しみの道)を通って、西のヤッフォ門へとゆっくり歩きました。
悲しみの道に沿って現在は、14箇所(ステーション)がイエス所縁の場所とされています。
しかし長い歴史の中では、12であったり17であったりしたそうで、実際にイエスが歩いた道も、現在のものよりは何メートルも深い所にあったと考えられています。
1番から9番までが2千年前のエルサレムの町の中にあり、10番から14番(イエスの着ていた衣が剥ぎ取られ、十字架に釘付けされ息を引き取り、十字架から下ろされて墓に納められる)はゴルゴダの丘とされていて、今はビザンチン時代(紀元後4世紀〜7世紀)から十字軍時代(紀元後11世紀後半から13世紀)、そして19世紀に至る各時代につくられた幾つもの教会が集う大建造物となっていて、聖墳墓教会と呼ばれています。
ユダヤ教では、墓は町の壁の外で、壁から25メートル離れていなければならないとされていたそうです。
聖墳墓教会は、1856年にステータス・クオ(そのままの状態に留めておく)の名で呼ばれる,各キリスト教宗派間のイエスの終焉の地をめぐる縄張り争いに終止符をつけ、現在はローマ・カトリックやギリシャ正教、アルメニア・キリスト教、シリア正教、コプト教など6つの教団が仲良く(?)同居していて、時には物議を起こしたりもして,天にいるキリストを苦笑させている様子です。
アルメニア教会の床には、ノアの箱舟のモザイク絵が描かれていて、ノア一家がアルメニアのアララット山へ流れ着いたエピソードを伝えていました。また、イエスに関連する聖遺物蒐集熱を最初に始めたコンスタンチヌス帝の母へレナが見つけたという、イエスの十字架の木片はアルメニア教会の床よりも更に深い地下にあったそうです。世界中から参拝にやってきた善男善女の熱気とお香でむせかえる教会を出て、ヤッフォ門へとやってくると、右手にイスラム教徒の墓石が二つありました。
スレイマニ大帝の期待に応えて、短期間で市壁を完成させた設計者二人の墓でした。
ガイド氏によると、彼らは完成後間もなく大帝の命によって殺されました。処刑の理由には二つの説があるそうです。一つは、これほど優れた設計者が何時の日か敵国の町の設計を行なうかもしれないと怖れたから…。二つは、元々エルサレムの町の中であったシオンの丘(ダビデ王の墓やイスラム教でも預言者の1人として讃えられるイエス縁の最後の晩餐の家などがある)やダビデの町をエルサレムの町の外とする設計の大罪を罰したとする説です。
さて?
    




1138  お祖父さんは刑務所長、お父さんは私と同じガイド


ユダヤ社会では、息子の1人がラビ(ユダヤ教学の教師)になってくれるのが父親の夢と聞いたことがあるが、あなたの場合はどうでしたか?と、30歳前後に見える背高のっぽのガイド氏に尋ねました。

父はそんなことはなかったとの返事で、外国にイスラエル人を案内するガイドをしていて、母親は小学校の先生、妻も高校の教師をしていて、来年の4月に最初の赤ちゃんが生まれるそうです。ガイド氏の父方も母方も祖父の代に、第一次世界大戦と第二次世界大戦の狭間の1930年代の初めにドイツやポーランド、ロシアからイスラエルにやってきたそうです。
日本語の読み書きはできないが、話したり聞くのはかなりできた青年ガイド氏は、様々な話を私たちに語ってくれました。心に残っているものを記してみます。

クムラン遺跡近くの洞窟から見つかった死海写本は、20世紀における最大の考古学上の発見だと云われています。2千年以上の昔、羊皮紙にヘブライ語で書かれた聖書をベドウィンの少年が偶然見つけました。1947年のことでしたが、全部で800枚ありました。字が読めないベドウィンの人たちは、巻物を暖を取るために燃やしたり、町に行きそのまま安く売っていましが、やがて半分に切って売ると1枚が2枚になり儲けを増やすなどしたそうです。あるいは、聖書を靴に仕立て直して履いた人もいたそうです。
現在は、アメリカやヨルダン、イスラエルの博物館に大切に保管されています。

兵役は義務であり、男子は3年、女子は2年高校卒業後行きます。
僅かですが給料も支給され、バスや列車もタダとなり、週末には家に帰れます。兵役が終った後も、毎年数週間は訓練が行なわれていて、仕事を休んで行かなければなりません。
日本の過っての赤紙に似た郵便物のようで、届けば直ぐ分る兵役を知らせる通知書だそうです。どんな訓練を何処でしたかは、軍事機密だと言って笑わせました。'同じ釜の飯を食った同期生'という仲間意識が生まれ、今も交流しています。

大人社会への仲間入り(成人式?)の儀式は、男は13歳、女は12歳になると行なわれます。シナゴーグ(集会所)に2〜3ヶ月通って、旧約聖書の読み方を教わり(詩を歌うようにリズミカルに発声するそうです)儀式に備えて準備します。
儀式では男の場合、通常は女しか入れない2階に男友達も上がり、階下にいる自分目がけてキャンディを投げつけて祝福してくれるそうで、当ると痛いけれど嬉しい体験が一生の思い出になります。

イチジクの花は蜂が交配してくれて実がつきますが、葉っぱは世界最初のファッション・ブランドだったと語りました。神に呼ばれたアダムとイブが、イチジクの葉で思わず恥部を隠したエピソードを紹介した際でしたが、日本側からはすかさずサイズが日本人は小さいから、もみじの葉っぱ(日本では、紅葉の頃のイスラエルの旅でした)になるだろうな…と切り返したのですが、果たして彼は理解できたかどうか?

ユダヤ教には厳しい規則が沢山あり、朝目が覚めると最初に言う言葉も決まっています。
トーラー(モーセ五書)と他の旧約聖書の比重関係については、月曜、木曜、土曜日の3回シナゴーグで1年かけてトーラーを読むそうで、格段に大切にしている様子が覗えます。
シャバト・シャロームは神の休まれた7日目に当り、ユダヤ教徒は特別に思っていて静かに神に感謝し過ごします。金曜日の日没から土曜日の日没までがシャバトなので、食事の支度からあらゆる細かい準備は金曜日の夕方までにし終えておかなければなりません。
そして、シャバト中は指一本動かさず、ワイヤーが町や村の周りを囲っている外へは出ません。外へ出ると、働いたことになるそうです。
実際にバスで走っていた時、空中に道路に沿ってワイヤーが村の周りに張ってあったのを指差して、あれがそうだと教えてくれました。

過ってベルギーのアントワープで、ガイド氏から聞いたお伽話は、根も歯もある本当の話だったことが理解でき腑に落ちました。話というのは、第二次世界大戦が終ってアントワープの市民はユダヤ人のダイヤモンドを扱う商人たちにもう一度町に帰ってくれるように交渉したそうです。ユダヤ人が条件として出したものには、ユダヤ人の生活する地域(アントワープ駅前に集中していて、世界有数のダイヤモンド売買が行なわれています)の周りにワイヤーを地下に埋めさせて欲しいと望んだそうです。何故?と市の代表が尋ねると、お呪いですとの返事だったそうですが、市民や観光客には分らないけれどもワイヤーが埋まっていますと言っていたのを思い出しました。

シャバトは母がロウソクに灯を灯し、父がカップにワインを並々と注いでから始まります。
テレビやラジオ、携帯電話もダメ、車の運転もしません。土曜日の朝は、男は白いシャツ、白い帽子を被り、黒い上下のスーツに、白の生地に青いストライプのケープを肩から掛け一家で揃って歩いてシナゴーグに行き、7人の男性が順番にトーラーを朗読するのを聞きます。苗字がコーヘン(僧侶あるいは祭司の家系)と言う人が、詠うように読みます。
泊っていたガリラヤ湖畔ティベリアのホテルでも、シャバトの日は2機あるエレベーターの1機はシャバト用と張り紙が張られ、ボタンを押さなくても自動で開閉する各階どまりになっていました。

地中海に面した歴史深い港町アッコの十字軍時代の石造りの遺跡では、往時テンプル騎士団やイタリアのジェノア、ベネチア、ピサの都市国家が基地として使ったそうですが、イスラエルが独立した直後の1948年から1950年までは刑務所だったそうで、お祖父さんが所長をしていた所だと胸を張って入り口で、ガイド氏は開口一番言い放ちました。
砂糖が使われるようになったのは十字軍時代(11世紀末〜13世紀末)からだそうで、虫歯が爆発的に普及する(?)きっかけとなりました。

今年(2008)は2度ほど日本にイスラエル人の旅行団を引率して来たそうですが、食事に様々な規則制限(コーチャ)のあるユダヤ教徒には、ドライブインのラーメンの汁の材料は何なのかなど細に至るまで気にして、何時も質問攻めに遭って閉口したそうです。
朝食では、パンに豆腐をかけて食べる人までいたそうです。
チーズと思い込んでのことでした。
     




1139  トロイに似たメギド


ヨハネ黙示録によると、メギドは世界最終戦の戦場となると書かれています。

神の教えに従わない悪霊に支配された全世界の王たちを、ヘブライ語でハルマゲドン(メギドの山という意味)という所に召集して、馬に乗るイエス・キリストが率いる神の僕軍と闘います。そして、勝利した正義軍は平和な約束の地へと導かれます。
メギドは、古来から南のエジプトと北のシリアを結ぶ交易ルートと西のフェニキアに通じる交差路に発展した、戦略上重要な要塞都市であったことが発掘で明らかになっています。
7千年の間に25回もメギドでは町が出来ては壊されました。メギドと周辺の渓谷では、何十という戦いが過去4千年間に行なわれました。
BC24世紀のエブラ文書にメギドの記述が早くもあり、大きな城壁で囲まれた町でした。
エジプトへの反乱を企てた軍事同盟に加担した結果、トトメス三世軍に包囲された(BC1478)こともあります。その他、ソロモン王(BC10世紀)、ユダヤ王アハジア(BC840)、ヨシア王(BC610)などもこの地と深く関わっています。
13世紀のモンゴル軍は最初の敗北をこの地で体験しましたし、第一次世界大戦では英国軍がメギドでトルコ軍を破り、指揮したアレンビー将軍はロード・オブ・ハルマゲドン(ハルマゲドン卿)と呼ばれるようになりました。

訪れたメギドの遺跡は、小高い丘になっていて、前方に広がるエズレル平野の奥に遠くナザレの町(イエスの育った)が丘の上に見えていました。石やレンガや土が何層にも重なり合ってつくられてきた町跡が、僅かに看板の説明と通して感じられる程度で、性急に発掘した現場(丁度、トロイでシュリーマンが行なったように)なども教訓として眼下に見えました。城壁の外にある湖に地下道を通って、敵に知れることなく生活用水を汲みに行ける仕掛けを歩いたり、前以て案内所で紹介のフィルムを見れる配慮があり、トロイの遺跡よりは工夫がされていました。
トロイもメギドの遺跡も、ホーマーのトロイ戦争の著述や聖書作家の著述が発端となって、歴史への夢を湧き上がらせた結果、見つかったものです。交易や軍事上の要衝の地として栄え、同じ場所に何度も繰り返し町が築かれたのも共通しています。

日本の歴史にはない大陸ならではの城塞都市をめぐる天下分け目の戦いが繰り広げられた所でした。
天王山の戦いと言い、関が原の戦いと言い、日本で言う天下分け目の戦いは町を落とすものではなく、野戦だった違いにも興味が沸いてきました…。
     




1140  6回も世界から挑戦状を突きつけられたユダヤ人


絶対神(YHWH,ヤーヴェ)が、アブラハム(BC2千年頃)に契約を申し込んでアブラハム一族は神の民(選民)となり、故郷のウルの出てユーフラテス川を渡ってカナンの地(乳と蜜の流れる所)を目指しました。

それから、ヘブライ人(川向こうからやってきた人)と呼ばれるようになりました。
アブラハムの息子はイサクで、イサクの息子はヤコブ、そしてヤコブには12人の息子があり、後日12支族に分かれます。神はアブラハム・イサク・ヤコブの神として契約を続行して行きました。ヤコブはある時、神の御使いと格闘した勇気を讃えられて、イスラエルと呼ばれるようになりました。12支族の中のユダ族が選民の伝統を継承したことで、ユダヤとも呼ばれるようになります。従い、ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人は基本的には同じ人たちのことだと云えましょう。

モーセに率いられてエジプトを出た(BC1200年代)ユダヤ人も、ダビデ王やソロモン王の繁栄した王国時代(BC900年代)も、エルサレムの第一神殿がアッシリア帝国に壊されたり(BC700年代)、新バビロニア帝国ネブカドネザル王(BC500年代)により大勢のユダヤ人がバビロンへと連れ去られた70年続いたバビロン幽閉事件、そしてペルシャ帝国の大王キュロスによりカナンの地への帰還が許され、第二神殿をつくった(BC510年)ことも、一代の英雄ヘレニズムの嵐を巻き起こしたアレキサンダーの出現に至るまでのアブラハムから数えて、およそ1700年間は1回目の挑戦期として捉え、一握りの遊牧民ユダヤ人が芝居のエキストラのような存在として、バビロニアやエジプト、アッシリアやフェニキア、ペルシャなどの異教の支配する世界の中を彷徨った時代でした。

次は、ギリシャ・ローマ世界からの挑戦を受けました。
この時代にナザレのイエスが登場し、ユダヤ人が長く待ち望んだメシア(救世主、キリスト)の出現騒動が起りました。

三番目の挑戦は、二つのユダヤ主義です。
神がユダヤ人に約束したカナンの地はパレスチナ(ペリシテ人の土地という意味)にあり、既に先住民が住んでいました。アブラハムが一族を連れて入植した4千年前から現在に至るまで、パレスチナ人との土地問題が続いていて尾を引いています。
過ってイスラエルのガイド氏が、神がモーセにシナイ山で十戒を与えて選民のステータスを再確認した折、モーセが一言カナンの地ではなくて、カナダの地を下さいと願っていれば、問題は一挙に解決していたのに…と言って笑わせてくれたのが思い出されます。
二つのユダヤ主義とは、一つがパレスチナの地に固執する考えであり、もう一つはディアスポラ(離散という意味のギリシャ語)のユダヤ主義です。紀元前6世紀のバビロン幽閉から始まった異郷の地に住んでいても、モーセ五書(トーラー)とタルムード(ユダヤ教義解釈法典)を軸にシナゴーグ(集会所)に定期的に集い結束を固めることによりコミュニティを形成して、優秀な人材を育成していく新ユダヤ主義が生まれました。
13歳の男子が120人いれば、国や町への税金の他にユダヤ・コミュニティ用の別の税金を集めて、シナゴーグを設け、学校や社会福祉の為に使いました。
もう一度パレスチナの地に戻って暮らそうというシオニズム運動(19世紀後半に東ヨーロッパで生まれた)を物心両面から援助したのは、ディアスポラ組の成功者たちでした。

4つ目の挑戦はイスラム教でしたが、総じて穏やかないい関係を保ってきました。しかし、1948年にイスラエル国が出来てからは、パレスチナ問題が生々しい互いに譲れない所となっています。

5つ目は中世の時代でした。ユダヤ社会の持つ生来の宗教的結束力と経済や文化、あるいは権力者の官僚としての優秀さは、時と場所によりプラスにもマイナスにも働きました。ユダヤ人を排除しようとする流れは、13世紀にイギリスやフランス、ドイツで生まれて以来、6つ目の近代に至るまでユダヤ人に対する極端な憎悪や偏見が続きました。

4千年の長い間、神の方からアブラハムに近づいて、契約を守るなら選民にしようという約束を信じて生きてきたユダヤ人の強さに脱帽する以外にありません。







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