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希望

1126  死海に舟を浮かべて塩をとる人たち




ヘブライ語でヤム・ハメラフ(塩を海)と呼ばれる死海は、シリア・アフリカ地溝(大陥没地帯)の中にあり、地上世界で一番低い(海抜マイナス400米)所にあります。

死海の水は、海水よりも10倍も塩分含有量が高く、ミネラル分を含み健康に良いので、リュウマチや皮膚病の治療に大勢の人がやってきます。
神がイスラエルの民に約束した、蜜とミルクの流れるカナンの地へとヨシュアに率いられた一行を、モーセが見送ったとされるネボ山の頂からは、遠くパレスチナやイスラエルの薄茶色の乾いた岩山の連なりが見えていて、手前にはヨルダン川が死海へと注ぎ込んでいくヨルダン渓谷の緑も混じる平野がありました。
死海の対岸には、イエス・キリストや洗礼者ヨハネのように水で体を洗い清めることで、復活を信じていたエッセネ派のユダヤ教徒たちが集団で生活していたクムラン遺跡(この地の洞窟に置かれていた瓶の中から見つかった紀元前2〜3世紀の800あまりの死海写本は、20世紀最大の考古学的発見と云われている)や、世界最古の城壁都市エリコがあり、また死海近くのヨルダン川でイエスがヨハネから洗礼されたとされる場所もあって、そこは数年前までは誰でも自由に入れたものが、今では金を払わないと見れなくなっているそうです。
ネボ山頂(海抜850米)には、モーセの記念碑やイエス・キリスト生誕2千年を祝ってつくった大きな碑に加えてギリシャ正教会跡地や仮設テントでは、ここでの発掘の歴史や発掘品が展示してありました。
ネボ山付近にはアイン・ムーサ(モーセの泉)と呼ばれる湧き水が、今も4つ機能していて、葡萄やオリーブの実が育っています。モーセ(アラビア語ではムーサ)伝説では、イスラエルの12支族のために12の地下水を出したと云われています。
このあたりは中世の頃から今に至るまで巡礼者の通った道であり、キリスト教徒の多く住む町として有名なマダバには、聖ジョージ教会の床に紀元後5〜6世紀につくられた古い教会の床に石のモザイクで描かれた聖地の絵地図が残っています。破損して消えてしまった空間はかなりありますが、中央に死海があり、その周辺の様子が描かれていて、ヨルダン川やシナイ半島、そしてエジプトのナイル川やエルサレムの町まではっきりと分ります。
エルサレムの町は壁で囲まれていて、大通りに沿って家がぎっしり並んで建っています。
死海では、海中から塩の塊を梳くって舟に取り込んでいる漁師(?)が描かれていました。

泊りは、4年前にドイツ資本でつくった高級死海リゾートホテル・ケンピンスキーでした。
死海へと傾斜する斜面を利用して、前面に死海が見えるように設計された部屋のベランダからの景色は、言葉では言い尽くせないほど素晴らしいものでした。
死海の青、対岸のパレスチナやイスラエルの荒野と岩山の薄茶色の連なり、その奥に薄いブルーの空、ホテルの庭を飾るヤシの林の緑、幾つかのプールのコバルトブルー、ホテルの壁土の薄黄緑、木のバルコニーの茶色、そして死海に浮かぶ黒い粒々(泥パックを体に塗り、腹を上にして日光浴をしている人たち)が見えます。
ブフェスタイルの夕食では正調寿司まである、21世紀版エデンの園を体験しました。

       



1127  緑のヨルダンといつの日か呼ばれたい



ヨルダンの国土の8割は沙漠だという。

そんな沙漠の中にできた刑務所を、国際人権問題監視委員会の人が調査にやってきました。
刑務所長は胸を張って答えました。
ここでは、人権を最優先していますから、牢屋には鍵がかかっていません。出入り自由です。心は、出て行っても水がないので、なんともならず引き返してくる以外に手立てはない。
20年ほど前に、シリアの丘の上からダマスカスの町を眺望したことがありました。
周りをぐるり見渡すと、背後の一段更に高くなった丘に、いくつかの大砲が据えられています。そこで、ガイド氏がすかさず言いました。
大砲に向けては写真を撮らないで下さい。若し写真が公表されれば、旧式だということが分ってしまいますので…。と言って笑わせてくれたのを思い出しました。
恐らく、その時も今回も同じダマスカスの飛行場ターミナルビルだったのでしょうか?
だとすれば、狭くて旧式の便所は変更なく健在だったことになり、天然ガスで潤う10年前にできた使い易い広々したドーハ空港の便所とは、大いに違いました。聞く所によると、ドーハ空港のターミナルビルは来年新しいのが完成するそうです。

ヨルダン人の願いは、いつの日か緑のヨルダンと呼ばれたいそうです。
街道に沿って植樹がされていて、所々に樹木に水を遣るための緑色に塗った水の入ったタンクが地上から1〜2メートル浮いた空中に置かれているのが目に入りました。
国中がナツメヤシの茂る緑いっぱいのヨルダンを、見たいものです。

    



1128  以前の遊牧生活に戻れるものなら…


チグリス川の上流の町モスルと古代ローマ時代デカポリス(十都市連合)の中心都市フィラデルフィアの名で知られたアンマン、そして紅海が切れ込んだ港町アカバを結ぶ石畳で舗装された古の軍事交易道路がキングズ・ウエイ(王の道)であり、帝国の東の守りとしてトラヤヌス帝(紀元後2世紀始め)により整備されました。

現代イタリア語でストラータと言えば道路と訳されますが、語源は衝き固めることからきているそうで、全ての道はローマに通じると讃えられた古代道に端を発しているようです。
オスマン・トルコ帝国の治世下、巡礼者や軍事補給の為に20年かけて、メッカとイスタンブールを繋ぐビジャーズ鉄道が1912年に完成しましたが、狭軌の単線の上を今も列車が走っているそうです。王の道とビジャーズ鉄道に沿うように、沙漠を貫通する新しく出来た広い自動車高速道路がデザート・ハイウエイとなります。

死海に近いペトラ遺跡から、バスで王の道とデザート・ハイウエイを利用して内陸の沙漠の中にある俗称'月の谷'と呼ばれるワディラムに行きました。
1969年に人類初の月面着陸に成功した折、白黒テレビに映し出された月の表面を髣髴させるような風景がワディラムにはありました。ヨルダン政府の指導で五百人程のベドウィンの人たちが定住し、観光客をもてなしてくれる施設で働いています。
生活や収入の安定と子供の教育の向上を願っての定住促進化施策のようです。
四輪駆動のジープに乗って、様々な色の岩肌と奇形の石灰岩の山々が遠く取り囲む中を、砂煙を巻き上げながらぺんぺん草(ラクダ草?)の生える大地や白や灰色、赤い細かい砂だけの原っぱを走り回りました。所々では下車して、紀元前5世紀頃の岩に刻み込んだセム語の文字や絵を見たり、山の中腹から今も湧き出すロレンスの泉の近くには生命を感じさせる緑の小空間がありました。
ベドウィンのテントの中ではミント・ティを馳走になり、ベドウィンの衣装の着付けや販売もあったり、外ではラクダに乗っての撮影も可でした。
赤い砂丘での休憩では、ベドウィンの運転手たちが赤い小さな石を水に溶かして、グループの昔のお嬢さんたちの両方の頬に丸い紅をつけてくれて、皆さん七五三の祝いのような童心に返ったはしゃぎ振りでした。また、ペトラのシクの縮小版を思わせる岩の割れ目に行くと、遊牧生活をしていた頃はテントを前に張って冬はよく過ごしたものだと話してくれました。
二人の運転手は、10年前までは100頭ほどの羊や山羊、3〜4頭のラクダを飼っていて、このあたりで遊牧生活をしていたそうです。春と夏、そして冬に場所の住み替えるテント生活でしたが、ベドウィンの男はシャイで滅多に愛していると奥さんに言わないのだそうで、男は白い服を着用し女は謙虚さを表す黒い服を着ます。
観光の終了後、お茶にと誘われたハムマットさん(運転手の1人で36歳)の家に行くと、中庭にテントが張ってありカーペットが敷かれていて、座って待つ間もなく美味しいミントティを奥さん(黒装束のガウンを着て黒いスカーフを頭に掛けていたが、顔は出していた)が、家の中から持ってきて下さいました。6人の幼い子供たちが戸口の周りで私たちを恥ずかしそうな身振りと目で見つめていましたが、1人の子が近寄ってきて紙に描いた絵を2枚プレゼントしてくれました。
この家では、今でも6頭の羊と山羊を裏で飼っているそうで、以前のベドウィン生活が懐かしい、戻れるものなら昔の生活に戻りたいと遠くの方を見つめた奥さんでしたが、誰かがカメラを何気なくカバンから取り出そうとする気配を感じると、すーと家の中へ消えてしまいました。

15分足らずの交流でしたが、お茶した一時と月の谷(ワディラム)がヨルダンで一番良かったとのどなたかの弁が聞こえました。

    



1129  父のくれた助言



去年(2007)の暮、95歳を目前にして鬼籍に入った父が、大学に入学して間がなかった頃の私にくれた助言を、最近思い出す機会がありました。

確か、駅前近くの喫茶店へわざわざ出かけて行き、聞かされたように思います。
当時の私は父に対する反抗心が強く、素直には会話ができない頃でした。
父の助言は、'男には3度、転機(チャンス)がやってくる。それを見極め、掴むかどうかが一生を左右する'といった内容でした。

最近旅した近東へのツアー客の中に、お一人図抜けて明るくて、前向きで少し知的でもあり、大食いでもあった中年の女性に、日が経つにつれ惹き付けられ魅了されていきました。
その女性に父のアドバイスを語ってみると、彼女の場合は、
一つ、教師になったこと
二つ、子供たちに生きる勇気を与える機会を持てた(結婚しなかったことは気にしない)
三つ、今は世界を旅行して周って写真を撮り、元気に生きていることをメールで知人に知らせたい
でした。この方(50代半ば)は、4年前に突然難病(手足の関節が硬直して、言葉のろれつが回らなくなっていく)に襲われたそうです。それは、日に日に進行して行きました。
子供時代は父親に嫌われ、酷い折檻を何度も受けたそうですが、母親の愛と助言に助けられてぐれないで、学業を続け教師になりました。
30年の教師生活でしたが、よく学校に泊り込んで授業の進め方(この方法で上手くいかない場合は、次の策、更にといったバックアップ手段を幾つも考え準備する)を日夜考えたそうで、気付いてみると先生職と結婚していたそうです。養護学校の高校生に絵を教えてきましたが、次第に悪化する病気との闘いの中にあって、あらぬ誹謗やデマが飛ぶ前に校長にお願いして、教員や父兄、生徒に全員集まってもらい、病気について隠さず語り、病気は教えることの妨げにはならないと訴えました。
そして、暫くして決心して仕事を辞め、半年が経ちました。
杖を突きながら、毎月1回のペースで海外旅行をしていて、撮った写真をメールで知人に送るのが楽しみになっています。

アラブの屈強な男性たち(バスのドライバー、ガイド、商店の経営者、モスクに祈りにやってきている人、道を行き交う人など)が、彼女の天真爛漫な笑顔と簡単な日本語とジェスチャーに魅了され、カメラマンになったり介護士になっていました。
店で高〜いといって値切って買った何着もの民族衣装を日替わりで着て、昼間の観光や夕食の場に登場したり、ラクダにもロバにも乗られました。歩いていて、2度も路上で転倒されました。何があっても笑顔を絶やさず、会話では相手の目をしっかり見ておられ、人生の達人に出会えました。

次なる人は、私の30年来の友人で添乗を1年半前までしていました。
定年を目前にして、両足切断という交通事故に見舞われてしまいましたが、家族の支えとリハビリのお陰で見事なカムバックを遂げ、10月には16日間もイタリア・フランスへ奥さんと長女を案内して、無事帰国しました。
彼曰く、両足を失ったが、幸いにも九死に一生を得ることができた。天からのプレゼントと思い、これからの人生を楽しむ積りだ。老後の生活や借りた子供の奨学金も全額返金でき、ひと安心となり、車椅子生活者の目線から見えてくる海外情報を旅行好きな同じ境遇の仲間に伝え、勇気を出させてあげたいと、夢を語ってくれました。

シリアのガイド氏(48歳)は、
一つ、10年間、ナショナルチームのサッカーの一員としてプレーしたこと
二つ、24年間連れ添った妻が、5年も遺伝性の肝臓ガンで苦しみ、長い闘病生活の末、死んだ。10歳から24歳まで    の子供6人が残されている
三つ、もうじき、35歳の女性と再婚する予定。全てはインシャ・アッラーと語り、来世では、日本であるいはシリアで、カ    メラ好きの元教師と出会い、結婚するかも知れないと私たちを笑わせてくれました。

さて、亡父は果たして三つのチャンスを掴んだのでしょうか?
一つは、教師になれたこと。
    戦前にあっては、教師は尊敬され自身も誇りに思える職業であった
二つは、ハワイに雄飛して働いたが、真珠湾攻撃を屋根の上(日曜日の朝)から裸眼で見ていたそうで、後に米本土    で3年の収容所生活をした際、心に感じるものが多くあったようです
三つは、事業に成功したこと
    なつかしの日本に帰り、焼け野原の中からの再出発でしたが、縁あって米軍基地内で米兵相手の散髪屋や靴    の修理などの共同経営者になって、羽振りの良い時期があった
などとなるのではないかと思います。
小さい頃はよくキャッチボールの相手をしてくれた父でした。     





1130  洞内を2周して2ユーロ




前日の午後は晴れていて風はなく波は凪いでいるのに、青の洞窟行きの船は出ませんでした。

10月の半ば、かプリ島のマリーナ・グランデ(大湊)の風景です。翌朝、8時40分に再挑戦で港に行くと、船を洗っていて、やっと10分後に出航、一番乗りで波が少々立っている青の洞窟前に到着しましたが、誰もいません。
5分後にやっと、来る途中追い抜いた'お椀の舟に箸の櫂'で始まる一寸法師の歌を連想させる、狭い入り口をするりと潜り抜け洞窟内に導き入れてくれる3〜4艘の小舟(大湊からジーゼル・エンジン付きの船のお尻に数珠繋ぎになって引っぱられてやってきた)が到着しました。私たちの船(30人乗りぐらい)から、海上で船べり越しに小舟にひらりと(冷やりと?)乗り移ると、船頭の掛け声で舟底に全員(4〜6人)仰向けになって天国の門(地獄の門?)を潜り抜けて洞内に入り、一周して戻ってくるのが普通です。
積年の夢を果たして、コバルト・ブルーのこの世のものとは思えない天国を垣間見させて貰ったお礼に、1ユーロずつ(三途の川の渡し守は6文だった)船頭にチップを渡します。

しかし、今回は朝一番のお客(あるいは財布の紐の緩い日本人を見越してか?)ということだったのでしょうか?2周してくれましたが、チップはちゃっかり2ユーロ巻き上げられました。
'天気晴朗なれども波高し'の打電で始まった日露戦争(1904〜1905)の日本海海戦でしたが、波が高ければ入り口が低く狭い為、波を被ってしまい営業停止になるのが、こちら青の洞窟観光の筈です。波の穏やかだった昨日の夕方は、何故休んだのでしょう?
冬のシーズンに入りつつあるこの時期(10月半ば)は、ゆっくり仕事をしているのが実情のようです。

15年ほど前、ローマ郊外の消防署を訪れ、消火訓練を見学したことがあります。
その際も、始動したのは約束の時間を30分も遅れてでした。しかし、一旦始まると消防士達は忍者宜しく凹凸のある建物の石の壁をよじ登っていき、窓から突入して消火するやり方を目の当たりに見た、ブツブツ30分の遅れを非難していた日本側の同業者の人たちは、ダイナミックな発想と隊員の勇敢な動作に圧倒されてしまったのを思い出しました。
石造りの建物では、部屋から部屋へと連鎖して燃え移ることはあまりないので、火元になった部屋を消火すれば、大事には至りにくいとの説明でした。

動かないことが多いイタリアですが、動くと風や火の如く素早く大胆に行動するのでしょうか?我が日本でも風林火山のキャッチフレーズで活躍した武将がいました。










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