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希望

     
1121  バイブル(聖書)の名はビブロスから生まれた



地中海が中心であった頃、レバノン(セム語で白い山という意味)の土地を制する者が世界を制すると考えられていました。

レバノン観光の3Bとはベイルート、ビブロス、バールベックであり、フェニキア、ギリシャ、ローマ時代の遺跡が多くあります。ビブロスはベイルートの北36キロにあって、紀元前3千年ごろ地中海交易でフェニキア人(カナン人)がつくった都市国家でした。
ギリシャ人が台頭する以前、東地中海貿易を独占していました。ビブロスのギリシャ語読みはパピルスとなり、即ち書物を意味していて、神聖な書物こそビブロス(バイブル)と呼ばれたそうです。
パピルスは下エジプト(ナイル川のデルタ地帯)で産する植物で、高価な紙や船、服など様々なものに加工されて、地中海世界に輸出されました。エジプトでは、早期王朝時代(紀元前4500年〜3500年)に世界最初の書き物用紙パピルスができました。
ビブロスの商人はエジプト産のパピルスを多く輸入し、手広く商いして利益を上げていたことでしょう。
しかし、後にパピルスの輸出をエジプトが停止した為、羊皮紙(パーシモン)がペルガモン(エーゲ海に面した都市国家)で生まれることになりました。多くのバイブル(聖書)は、羊の皮を薄く延ばしなめしてつくった羊皮紙に書かれました。
中国の紙は、後漢(紀元後1〜2世紀)の人・蔡倫がつくりましたが、9世紀にやっとイスラム世界に伝わりました。

パピルスも紙も羊皮紙も高価だった時代でした。
     



1122  劇場を貯水槽に



エジプトの領土を最大の版図まで拡大したことで、'エジプトのナポレオン'と讃えられるトトメス3世(紀元前1450年ごろ)の遠征記録の中にも登場する南シリアのボスラの町は、傍を川が流れ平野が広がるハウラン地方の穀倉を押さえる要衝の地にあり、ナバタイ国の首都になったこともあり、2世紀のローマ帝国時代はアラブ州の首都にもなりました。

地元で産する黒玄武岩とシリア砂漠のオアシス都市パルミュラ近くから持ってきた白大理石を組み合わせてつくった劇場はほぼ原型を留めていて、急勾配の観客席から見下ろすと、舞台が近く感じる見事な出来栄えとなっています。
劇場の観客席は3つに仕切られていて、舞台に近い前部がVIP用、中段は一般席、そして上段が女性用だったそうで、天井には絹の覆いを張って強い日差しを遮る工夫や芳しい匂いを発する香水糟が所々に置いて観客の体臭を消すなどして、快適な時を過ごせるようにしてあったそうです。
舞台横の2階ボックス席も当時からつくられていて、超VIPが真近で見学していました。
アメリカ南北戦争が終わったばかりの1865年4月14日、ワシントンのフォード劇場の舞台横の2階ボックス席の中で、ピストルで打たれたのが故で亡くなったリンカーン大統領でしたが、犯人は劇場内が騒然となっている中をボックス席から舞台に飛び降りて逃げていったことや、映画'プリティ ウーマン'でも着飾った主役の男女が、サンフランシスコの劇場の2階ボックス席の中で、上流階級も人を相手に会話している場面があったことを思い出させてくれて、改めて温故知新を感じました。

十字軍時代には、この劇場はアユーブ朝下のイスラム軍の巨大な貯水槽となり、それを守るために周りを頑丈な石造りの壁で高く囲ったそうですが、見ごたえのある劇場要塞が1950年からの発掘で現われました。
    




1123  アラム語で主の祈りを聞く



アンチ・レバノン山脈がレバノンとシリアの国境になっていますが、東レバノン山脈に近く海抜1650米の奇山が連なるカラモーン山の渓谷に多くの洞窟がありました。

初期キリスト教時代には、迫害を逃れたキリスト教達はこの地の洞窟に隠れ住んだそうです。現在はマアルーラ村と呼ばれ、人口5千人ほどが生活していて、イスラム教徒とキリスト教徒(ギリシャ正教やギリシャ・カトリック教)が仲良く共存しています。
イエス・キリストが使ったアラム語は、アラビア語が普及するまで西アジア一帯で広く話された国際語でした。旧約聖書の申命記には、イスラエルの民の祖先はアラム人であると記されています。

そんなアラム語が今でもマアルーラ村のキリスト教徒の間では話されていて、シリア政府の肝煎りで学校までつくり教えているそうです。殉教した二人の聖人を祀った4世紀の聖セルジウス修道院の本堂で、村に住む1人の女性がガイド氏に促されて、静寂な中、アラム語で主の祈り('天にまします我らの父よ'で始まる聖句)を聞かせてくれました。修道院の中庭に面した売店には、4世紀当時の教会の木造の扉が展示してあったり、神父さんからマアルーラ村で葡萄からつくったワインをご馳走になりました。

敬虔なイスラム教徒の私たちの中年ガイド氏が、敬意を払って神父さんに接していたのが強く印象に残りました。
     



1124  ガイド氏もいろいろ



シリアとヨルダンの国境まで迎えにきてくれたミスマル氏は、30代半ばで青年時代をを未だ引きずっているように見える日本語の堪能な人でした。

ヨルダンを治安の悪いイラクの一部と考えている日本人がいるが、実は安全で治安がよく、警察に3年努めたことがあるが、事件がなくて退屈なので辞めたほどだと語ります。
1日に80キロを越える距離をこなす仕事をしている者は、ラマダンは免除されているそうで、ジェラッシュ遺跡の中のレストランでは、しっかり昼ごはんを食べていました。
シリアのガイド氏は、毎日200キロ以上を走って各地を案内してくれたが、日中は一切水や食べ物を口にしなかったことや青年期に10年間、ナショナルチームのサッカーの選手として活躍したそうだと言うと、心から尊敬しますと返事が返ってきました。
みっちゃん(ミスマル氏)の奥さんは日本人で、アンマン大学に留学してきた時に知り合ったそうで、人に紹介するとすれば日本式に愚妻ですと言う方が好きだと語り、古い日本の文化にも造詣があることを覗わせました。たった二人しか日本語ガイドはアンマンにいないそうで、毎日忙しく飛び回っていて、二人の子供や奥さんとゆっくり過ごす時間がない様子です。

一方シリアのガイド氏には6人の子供があり、24年連れ添った奥さんが遺伝性の肝臓の病気で5年の闘病生活の末亡くなられ、仕事家庭金銭面で大変苦労したそうで、インシャアッラー(人として出来うる限りの努力の先は、神のご意思のままにお任せする)と語りました。やっと病苦から解放されて楽になった妻を思い、残された幼い子供の面倒を世話してくれる約束で、友人の紹介で知り合った離婚の経験がある子連れの女性と、近く再婚する予定だと言います。近隣のレバノンやヨルダン、パレスチナやイスラエルをどう思うかと尋ねると、人は皆同じで好きだが、国という看板を表に出すと難しいギクシャクしたことになるそうです。レバノンで物議を起こしているヒズブラ(イスラムの過激組織)については、アラブの心を代表して戦ってくれていて、イスラエルとの間に平和がくることを誰もが望んでいるが、アラブの気持が生かされる形での決着を願っているそうです。
最近は、イギリスとの関係が改善され、ダマスカス郊外に英語を教える大学や専門学校、各種の先進工業国の工場が建ってきて、若きバジャール・アル・アサド大統領の指導力に賛辞を送っていました。

人口の一極集中の激しいヨルダンの首都アンマンでは、歴史ある旧市街地区はダマスカス同様に活気がありましたが、それ以上に新市街では外国資本による町づくりが盛んで、欧米のような町が誕生していました。
シリアとヨルダンを案内してくれた、それぞれのガイド氏を通して、隣り合う国が独立後(第二次世界大戦後)歩んできた道の違いが感じられたように思いました。
     




1125  ペトラではエドムホテル



エドム人は、ヨルダン高原の割れ目がワディムーサ(聖書のモーセの名をつけた渓谷?)川となって死海へと流れ落ちるペトラ(岩という意味)オアシス一帯に広く住んでいた民族で、聖書のヒーロー・ダビデ王(紀元前10世紀前半)と折り合いが悪かった人たちだそうです。

世界遺産ペトラ遺跡の西の入り口近く、商店やレストラン、ホテルなど立ち並ぶ大通りの裏に、三ツ星ホテル・エドムはありました。
水の出が悪かったり、シャワーのキャップは壊れ、浴槽の栓もなく、ハエが部屋の中を飛び交い、エアコンは轟音をあげて埃と臭い匂いを出すものの一向に涼しい風は送らない等問題続出のホテルでしたが、優しい従業員の対応振りと聖書のダビデ王の敵役で登場する役柄、そして遅れてこの地にやってきてペトラ王国をつくったナバテア人の露払い役を務めたエドム人に愛を感じたホテル経営者(?)の判官びいきに味方したい気持で過ごした2晩でした。

初日の夕食は、マイクロバスで真っ暗な山道を所々に街灯の明かりの灯る村をやり過ごしながら登っていきました。私たちを身代金目当てに誘拐して、一時人目を避ける為に隠しておくのなら最適かと思われる、街道から外れた原っぱの中にできたベドウィン部落のテントへ連れて行かれました。案内人は、年若いガイドのマホメット、運転手は中年のアブラハム、そしてオサマ(ガイド氏の友人だという)のトリオでした。
目が慣れてくるに従って、原っぱの周辺にもテントが張ってあって、観光客をもてなすことで生活しているベドウィン部落である様子でした。原っぱの奥にはフットライトに照らされ、ぼんやりと小ペトラと呼ばれる岩山群が浮かび上がっています。元々は、この部落の人はペトラ遺跡の中で生活していたのだそうです。

大テントの中はがらんとしていて、カーペットが床に敷き詰められていています。そして天井から裸電球が何個か照らす中、タテ5米ヨコ10米ほどの白い布で覆われた脚のないテーブルが4〜5つ無造作にこしらえてあり、テーブルの周囲は座布団に似たクッションが30〜40置いてありました。やがて別のテント(台所)で大鍋でつくったご馳走が、そのままテーブルの一角に運ばれてきて、ベドウィンの男達が皿に盛り付け、座っている私たちの背後から無造作におきました。ミントティも巨大なヤカンから直接、空になった湯呑にごつい手で注いでくれました。大地に足をしっかり踏みしめて、自然と共に生きてきたベドウィンの素朴な笑みを感じながら、酒気なしで過ごして楽しい一時でした。

一夜明けたペトラ遺跡は、、人と馬、馬車、ラクダにロバでごった返す、正に2千年前遠くインド方面からの隊商隊が、アラビア半島の砂漠を横切りヨルダン高原が死海へと落ち込む谷間に奇跡的に生まれたオアシス都市ペトラにやってきて小休止の後、西の地中海や北へと目指して旅をした在りし日を彷彿させてくれました。
紀元前6世紀頃、西アラビアからやってきた遊牧民族のナバタイ人は、信仰するセム系の宗教を、やがて砂岩の地ペトラをヘレニズム美術で表現して開花させました。
迫り来る岩山が切れ込んだ細い谷間の地形を利用して、西に永遠をみた墓地群、中央には政治経済文化などの生活空間、東は神殿群を配した町づくりでした。
圧巻は、1キロも続くシク(岩山の裂け目)で、両側の切り立った崖には草一本生やさない覚悟の荒々しい乾ききった岩山があり、その先に僅かに青空が見えていました。シクに入る前は暑かった強い日差しも遮断され、ひんやりとした谷底を歩いていきます。
生きものを拒絶するような不安を抱き始めるころ、突然に前方に'ど根性大根ならぬ、ど根性イチジクの大木'が一本、地面の岩の間から生えていたり、過ってナバタイ人が谷の外から水を引き入れた岩を掘ってつくった導水溝が残っていたり、岩の間を流れ落ちる雨水を貯めた人口池の石の堤があったり、彼らの信仰したデゥシャラーのアイドル(口のない目だけの正方形の抽象の石像)が立っていて、少し安心しました。
そして、やがて狭かった岩間の先に光が当たっているのが見えると間もなく広場に出ます。
広場の正面の平らで巨大な岩の壁を掘ってつくった二層の霊廟エル・ハズネに目を奪われます。どういう目的で誰が何時つくったのか?憶測を呼んだと歴史は語っている石窟建造物です。古代エジプトのファラオが、財宝を密かに隠した所(エル・ハズネの名前の由来)という説もあったそうです。広場をぐるりと囲む砂岩の岩山は色も様々に違っていて、太陽や月、星の光に微妙に反応することでも知られていて、広場で夜蝋燭の光だけを灯して、ベドウィンの楽器が奏でられる中で時を過ごす趣向もあるそうです。

エル・ハズネを右に回りこんで進むと、視界が開け岩山が退いていきます。これらの岩山には墓として使った人工の穴や洞窟が掘られています。動物を生贄にした犠牲祭壇が山の中腹に残っていて、エル・ハズネから始まるこのあたり一帯が、ネクロポリス(死者の町)を形成していました。そして更に進むと、ペトラが交易で栄えた証であるパルミュラの遺跡に似た、石造の様々な公共建造物跡がありました。また、ナバタイ人は洞窟に住むのを好んだそうで、墓の石窟に似た現世を過ごしたであろう石窟住居も多くありました。

自然がつくり上げた造形(水,風、地震、地盤の変動など)に、人の手が加えられて(導水溝や人口池、宗教政治経済文化など都市生活に必要な建物)つくり上げられた石の文化の結晶が、ペトラでした。
過って、和辻哲郎博士が船でヨーロッパを目指しアラビア半島の沖合いを航行した際、乾燥した風景を遠望して魅了され、後に名著'風土'が書かれたそうですが、日本の風土からは雨の恵みによる木の文化が、乾燥した近東では石の文化が育ちました。








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