希望


1116  装飾は本をより魅力あるものに変える!?



生身の体に服や装飾品を着けるのは、生物界で唯一人間だけがしている行為です。

元々は、服は殆ど毛の生えていない体を他のライバル生物や自然から守る為に身に着けるようになり、装飾品も仲間に属している証明や個性の表現の芽生えもあったのでしょう。
先史時代から現代に至るまで、世界中で見られる素晴らしい服や装飾品の数々は地域によって異なっていますが、また逆に時代や地域を越えて共通する服飾文化を育ててきたという思いもあり、人間だけが持つ特徴になっています。

80日間世界一周の元本の文章は一切変更することなく、本が書かれた当時(1873年)の世界状況や地理、社会,慣習、建築、科学などを分り易くイラストや写真、絵や簡潔な文章を服飾品の様に使って本の端に挿入することで、本がより一層魅力あるものに仕上がったペンギン社(ニューヨーク)発行のThe Whole Storyシリーズの中で、Around the World in Eigty Daysが、8割引で売られていたのをイギリスの本屋で見つけました。30年近く前に同じタイトルの映画を見た記憶があったので、買って読んで見た所、最高に楽しく、やはり本が遥かに優れているように感じました。そして、本に挿入された装飾品(イラストなど)が興味を倍に引き上げる効果を生んでいました。

幾つかの装飾品を、旅の流れに沿って紹介してみましょう。
・ 主人公の紳士は、ロンドンで紳士服の仕立て屋が集中するサビル・ロー通りに住んでいて、そこにはフランスのナポ レオン3世陛下のお気に入りの仕立て屋も店を出していました。後に日本では、背広と言う言葉がサビルから生まれ ています。
・ 鉄道や蒸気船の運行を記載した月間大陸列車時刻表の発行や旅行用のトランクの発達、あるいはスエズ運河の開通(1869)などあり、20世紀初めまで世界を見て回る旅 
 行が流行っていた。
・ 子供たちの間で、チョコレートの包み紙に描かれたイラストを収集してスクラップ・ブックに貼るのが流行り、80日間  世界一周は人気の的だった。
・ 1869年11月17日、ユージニー(フランス皇帝ナポレオン3世夫人)が豪華ヨット'イーグル号'に乗り、スエズ運河開 通式の先頭を切って通った際、遠くの沙漠からラクダに乗ってやってきた大勢のベドウィンが両岸に延々と並んで船 の通るのを眺めているのを見て、驚いたと述べています。
・ スエズ運河の建設は、インドの貧しい漁村ボンベイをアジア一の港に変えました。
・ イギリス人が好んで住んだバンガロー(ベランダ付きの一階建ての家)は、ベンガルが語源でした。イギリスは、ベン ガル州のカルカッタにインド支配の拠点としました。
・ カーリ女神は黒い肌、鋭い牙、舌から血が滴り落ち、額には第3の目があり、4本の手には武器や切り落とした生首 を提げていて、生贄(捧げ物)を要求する怒りのポーズで、配偶者シバ神(破壊の神で、インドで絶対的な人気があ  る)の死体の上で踊っている姿で表される。(カルカッタには有名なカーリ寺院があり、いつも参拝者で賑わっていた のを私も覚えています。)
・ 若くして亡くなった夫を荼毘に臥す際、妻を生きたまま火の中に投げ込む習慣(サティ)が、古くからインドの地方で  は行なわれていた。
・ 朝鮮は、当時鎖国をしていて、1880年代に入ってようやく門戸を外国に開いた。
・ エジプトやインド、イランや中国で育つオピオム(阿片)は、ケシ(ポピー)の未成熟の種を茶色の粉に加工して食べ  たり、吸ったりしていた。阿片は、医療治療に効くとして古くから使われていて、メソポタミアのシュメール人は喜びの 植物として、エジプト人は痛みを和らげ眠りを誘う薬で、鎮静や咳止め、下痢に効果があるが、同時に中毒性があり 多量に服用すると毒作用があると述べています。
 ヨーロッパでの阿片の常用癖は、インドでの勤務を終えて帰国した兵隊たちにより英国やフランスで1700年代後半 から始まりました。英国人は食べるのを好み、フランス人は吸飲を好みました。一方、中国では、阿片常用者が185 0年には200万人、1880年には1億2千万人に増えていきました。アヘン戦争(1840〜1842)の結果、1841年 に広東が、1842年に香港が英国領、そして1843年には上海が英国、フランス、米国の手に落ちました。1898年 には、99年間英国は香港や九龍半島一帯を中国から借り受ける条約を結んでいて、やっと1997年に至り中国に 返されました。
・ 小さな漁村だった横浜は、1859年にアメリカと結んだ条約により外国船受け入れ港となってから発展しました。外  国人居住地は出っ張った嘴にあり、長崎の出島のように横浜市民とは隔離されていました。町は賑わっていて、能  や浄瑠璃、歌舞伎などの劇場が建ち、旅芸人一座(軽業師、綱渡り,曲芸、踊り子などから成る)は村祭りや寺、町 中などで公演して廻り、通行人を客にして始まりましたが、元々は中国が卸し元であり、山楽(田舎で行なわれていた から?)が猿楽と呼ばれるようになりました。
・ サンフランシスコは、フランシスコ修道士を伴ったスペイン探検隊が1776年9月17日にサンフランシスコ湾に入っ たのが始まりですが、1835年になって初めて家が建ち、1847年に至ってサンフランシスコと命名されました。そし て、翌1848年にサクラメント川沿いで金が見つかり、ゴールドラッシュで大勢の人が押しかけてきて、一夜にして町 へと変貌を遂げていきました。
 今も目抜き通りとなっているモンゴメリー通りは、リチャード・モンゴメリー(1736〜1775)の名が付けられたもの  で、アイルランドで生まれアメリカに渡り、アメリカ独立戦争の最中、ケベック戦で戦死しました。
・ アメリカ鉄道史は西部開拓史であり、1865年(南北戦争の終わった年)オマハ(ネブラスカ州)から太平洋へ鉄道を 引く事業をユニオン・パシフィック鉄道社にオマハ・グラントと呼ばれる連邦領土払い下げ(Federal Land Grant  s)やサクラメント・グラントでは、セントラル・パシフィック鉄道社に払い下げを行い、合計6400エーカーの公共地を 下げ渡し、更に鉄道建設費用として平野では1マイル(1.6キロ)につき1万6千ドル、山岳の多いロッキーでは1マイル 4万8千ドルのローンが鉄道会社と連邦政府の間で組まれました。
 ロッキー山脈など自然の障害が立ちはだかる工事では、労働者の危険作業を伴い設計者の300メートルの高架橋  建設を含む高度の知恵が求められました。そこでは、大勢の中 国人労働者が働きました。また、インディアンの襲 撃にも配慮しなければなりませんでした。インディアンは、機関車を鉄製の馬と呼んで、縄張りを奪われていくのを怖 れ、工事を妨害したり列車やホロ馬車を襲いました。
 車内は快適に過ごせるように工夫がされ、パーラー・カーやキッチン・カー、ダイニング・カーなど登場して、スリーピ  ング・カーは夜は寝台車に変わるようになっていましたがジョージ・プルマンの発案でした。
 1869年5月10日、大西洋と太平洋を結ぶ鉄道が完成し、1週間で旅が出来るようになりました。
・ ニューヨークのマンハッタン島の道路は、1811年当時クリスクロス(十字交差)とかグリッド(格子)と呼ばれて、29 28のブロック(四方を道路で囲まれた市街の区画をいう)で構成されていました。人口集中に対処する為、最初のス カイクレーパー(摩天楼)が1883年に鉄材とレンガ(中空き)でつくられました。ニューヨーク港はハドソン川が大西  洋へ注ぎ出す河口にあり、1825年に完成したエリー運河で五大湖に直結することになりました。歴史的には、152 4年にイタリア人航海士ジョバンニ・バラサーノがニューヨーク港を発見し、1609年イギリス人探検家ヘンリー・ハド ソンがハドソン川を上流に向けて探検しています。そして、オランダ人が1624年にマンハッタン島の南に慎ましやか な交易所を開設しました。しかし、1664年に英国が取得する所となり、ヨーク公の名を冠してニューアムステルダム からニューヨークになりました。1783年アメリカの独立を英国が認めたことで、ニューヨーク州は米国に合流しまし  た。毛皮や綿花、砂糖などを扱う小さなニューヨーク港は19世紀になると、ボストンやフィラデルフィア、ボルチモアな どのライバル港を抜いて発展していきました。
・ イギリスのリバプールは18世紀までは漁港でしたが、大英帝国の海外発展に伴い、西インド諸島やカナダ、米国、 西アフリカ海岸とリンクすることで、倉庫やドックを備えたイングランド一の港になりました。1715年にリバプールで、 開閉式のロック(水門)を使い水の高低を調整して、船を運航する運河ができていて、後に世界一の紡績工場地帯と なったマンチェスターとリバプール間の運河もできました。
・ ロンドンのイングランド銀行は、1734年にスレッド・ニードル(糸針)通りで、小間物商人組合と野菜組合と協同して 土地と建物を使う小規模の銀行としてスタートしましたが、1788年にジョン・ソーンの設計で現在のイングランド銀行 (1階には窓のない要塞のような印象の)となりました。
・ トラファルガー広場とグリーンパークを結ぶポル・モール通りには、1823年にできたアテネウム紳士クラブがあり、 博物学者のチャールズ・ダーウィンや小説家のチャールズ・ディケンズ、ジョン・コンラッド、キプリンなどの層層たるメ ンバーがいました。
 19世紀当時は、ロンドンには900を下らない紳士クラブがあり、紳士クラブでの規則はメンバーは政治や文学は語 ったが、商売・商談ごとは一切しない、語らないことになっていました。また、アラビア産のコーヒー豆を使ったコーヒ  ー店が流行っていました。
・ ロンドン市街は、18世紀末から19世紀初めにかけて繁栄が始まり拡張していきました。人口も、1801年には90  万人だったものが1851年には240万人、1900年には650万人を数えました。

作家のジュール・ベルンは、1871年から1905年に亡くなるまでフランスのアミアンに住んでいて、世界一周旅行はおろか外国へチャレンジした人ではなかったようです。
1873年に本が発行されると、間もなく劇場でもその劇が上演され、人気を博したそうです。



1117  イメルダが愛した歌だった



オリックス(アフリカ・カモシカの一種)の顔を尾翼につけたカタール航空に乗りました。

行きは、ラマダン中とあってビールを頼むと、そっと奥のギャレー(配膳室)から泡の盛り上がったビールをプラスチックの容器に入れて持ってきてくれました。ビールの容器そのままを人前で見せるのは憚られるのでしょう。帰りは、ラマダンも終っていて、機内ではビール、ワイン、ウィスキーなどアルコール類は食事中は勿論、何時でもスチュアーデスに頼めば、笑顔で席に持ってきてくれました。
天然ガスの産出で大いに潤っていると聞くアラビア半島の東、ペルシャ湾に面したカタールですが、客室乗務員はフィリピン人や韓国人、インドネシア人に日本人と様々な国の人がいて、人口の少ない国が一夜にして金持ちになったら、どうなるかを暗示しているようでした。1997年に設立して僅か10年で、83のデスティネーションに飛行機を飛ばす程に成長していて、中近東では押しも押されぬメジャーな航空会社となり、毎年優秀賞を受賞している様子です。
ドーハ空港のターミナルビルは冷房がしっかり効いて快適な状態に保たれていて、ゆったりした空間があり、5時間以上の乗り継ぎ客には無料の食事サービスがあり、トイレも清潔で広く、上質のトイレットペイパーが充分に用意してあり、チップを要求するトイレ係もいなくて、アンマンやダマスカス空港とは雲泥の差でした。
ムッとする熱風が吹いている建物の外で働いている殆どの男性は、顔中頭巾を巻いてサングラスをかけていて、子供の頃テレビや漫画で見たハリマオを思い出しました。コンクリート地面の照り返しや砂嵐に備えての恰好なのでしょうか?

機内のスクリーンに表示される飛行ルートによると、日本海―中国―インドの北―イランーペルシャ湾の上空を飛んでいて、1万キロ近く離れていて、日本とヨーロッパ、あるいは日本とニューヨークを飛ぶのと変わりない時間がかかります。また、ドーハの町からメッカ間では、1500キロ離れていることも分りました。
親切なフィリピン人のスチュワーデスに、フィリピーノ(フィリピン人)なら誰でも知っている'ダヒルサヨ'の歌をそっと口ずさんで見ました。すると、即座に反応があり、満面の笑みを湛えて、次のように説明してくれました。
ダヒルサヨとは、貴方ゆえに(Because of You)で始まる恋の歌で、イメルダ・マルコスが愛して、よく人前で歌ったのだそうです。ミス・フィリピーノに選ばれた若きイメルダが、マルコス大統領に見初められて大統領夫人にまでなりましたが、若しかしたら初恋の相手が大統領だったのかも知れません。
南アジアの女性は総じて働き者ですが、フィリピンの女性もその例に漏れず世界中で働いていて、家計を支えフィリピンの経済に貢献しているように思います。

私は若かった頃、ハワイの結核病院に半年入院しましたが、入院患者の中に呼び寄せ移民(ハワイで働いて金を貯めた姉妹や親が、保証人になって兄弟や親戚の者を呼び寄せる)でやってきたフィリピンの若者たち(結核菌保持者)と仲良くなりました。陽気で歌好きな彼らからウクレレを弾きながら教わった歌がダヒルサヨでした。
あれから40年近く経った今も、歌詞を諳んじています。
若気の至りで、よく夕方になると、じゃんけんで負けた者が内緒で病院を抜け出して、近くの酒屋へプリモ(ハワイ産のビールの銘柄)を買いに行ったことや看護婦に見つかって叱られたこともありました。

  ダヒルサヨ ナイスクン マブハイ
  ダヒルサヨ ハンガママタイ
  ウンヌラポートイ ワラナンパンクーイル
  プサコイタンテゥイン イカウアト イカウルー
  Because of You There's a joy of living
  Because of You This is heavenly
  I never felt before Never felt a sing−
  le thrill before 
  Darling I'm in ecstasy Bacause of You

フィリピーノの女性達が、日本の老人養護施設で働く日も真近なようですが、明るくて働き者の彼女たちから元気をきっと日本の老人は貰えることでしょう。



1118  紀元後3世紀のシナゴーグに残るフレスコ壁画



チグリス・ユーフラテス川とナイル川を結ぶ肥沃な三日月地帯は、古来'文明の十字路'としてメソポタミア、エジプト、フェニキア、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、ビザンチン、イスラムなど数々の文明が興亡しました。

旧約聖書の創世記では、神を怒らせた人類を滅ぼすべく40日40夜の洪水が起きますが、ノア一家だけは助かり、やがて3人の息子(セム、ハム、ヤペテ)が再度神の眼鏡に適うべくチャレンジします。長男セムの子孫が、アムル人やカナン人(フェニキア)、アラム人やヘブライ人などのセム系民族となり、言語学上ではアッカド語、アラム語(シリア語)カナン語、ヘブライ語、アラビア語などを話す人たちに当たります。
乾燥した広大なアラビア半島一帯で遊牧生活を主にして住んでいたセム系民族は、やがて肥沃な三日月地帯へと移り住んでいきました。
東の低地にはシュメール人や高地のペルシャが、西にはハム族のエジプトや地中海民族、北のアナトリア高原にはヒッタイトなどの民族がいる刺激に富んだ環境の中で揉まれていくことになります。

現在のシリア、ヨルダン、レバノン、イスラエル、パレスチナこそ古来呼びならわされた肥沃な三日月地帯に当たります。
最初にアラビア半島から北上してきた遊牧生活者アムル(アモリ)人は、紀元前1800年ころハムラビ法典で有名なバビロン第一王朝をつくりました。またカナン人は、シリア中部から地中海沿岸に進出してビブロス、ベイルート、シドン、ティール、エルサレム、エリコなどの地方国家をつくり海上貿易で栄えましたが、ギリシャ人は彼らをフェニキア人と呼んで怖れました。アラム人は紀元前11世紀末に、ダマスカスを中心とするベン・ハダト王朝をつくり,陸上貿易で栄えました。日常語として使ったアラム語は広く浸透していき、三日月地帯での共通の言語となり、イエス・キリストもアラム語を使っていたであろうと考えられています。
また同じ頃、ヘブライ人がパレスチナ(ペリシテ人の地という意味)に定着して、ダビデ、ソロモン王2代に亘る栄光の時代(紀元前10世紀)がありました。
鉄製の武器と騎馬で名を馳せたセム族のアッシリア帝国は、イスラエル10王国を滅ぼしました(BC721)が、やがて新バビロニア帝国に取って代わられます。また、残ったユダ王国も新バビロニアに滅ぼされ、バビロン捕囚(BC586〜BC538)で主だったイスラエル人は連れ去られました。しかし、ペルシャ帝国のキュロス王は新バビロニアを滅ぼし、イラン民族(インド・ヨーロッパ語族)による西アジア世界の支配が始まりました。
そして、アレキサンドリアの名の付いた都市を70もつくらせた英雄アレキサンダー大王が紀元前4世紀後半に登場して、シリアはセレウコス朝(BC312〜BC63)を経てローマの支配に入ります。ローマ帝国のライバルはアルサケス朝ペルシャ(パルティア)でしたが、漁夫の利を生かして貴族商人が支配するパルミュラ都市国家の文化は花開きました。やがて4世紀になると、コンスタンチノープルに遷都したビザンチン帝国のシリア支配が始まり、厳しい税の取立てとギリシャ正教の強制が行なわれました。
ササン朝ペルシャとの抗争がビザンチン帝国との間で激しさを増す中、7世紀初めアラビアから突如起った,神に絶対服従する集団(イスラム)が人口増加による食料確保を求めて、三日月地帯に侵入してきます。そして、シリア総督となったムアーウィアは4代カリフ・アリを倒して、紀元後661年にダマスカスにウマイア王朝を打ち立てました。その後も20世紀に至るまで、'中東を制する者は、まずシリアを制す'という言葉通り、数々の支配者(アッバス朝、十字軍、アイユーブ朝、マムルーク朝、オスマン・トルコ帝国、フランス)が君臨しました。ウマイア朝とセレウコス朝の時だけ統一国家だったと評されるほど、波乱万丈の歴史を歩んできました。

古くはスーリャと呼ばれたシリア、シャームと呼ばれた古都ダマスカスの国立博物館は、ウマイア家が好んで沙漠の中に建てたキャラバン・サライ(隊商宿)式の宮殿様式でつくられています。博物館では、二つのことに大いに驚かされました。

地中海に面したシリアの北、ウガリット遺跡(BC19世紀〜BC12世紀)から見つかった楔型のウガリッド文字は世界最初のアルファベットと考えられていて、フェニキアに影響を与えました。商取引記録を通して、当時の地中海世界との交易が明らかになってきているそうです。
紀元前3千年期の遺跡として世界的に有名なマリ遺跡から左程遠くなく、ユーフラテス川沿いで見つかったデゥラ・エウロポス遺跡(紀元後3世紀〜7世紀)では、3世紀半ばのシナゴーグ(ユダヤ教徒の礼拝所)の内壁が全面フレスコ絵で描かれていたことです。
ユダヤ教では神や予言者を絵や彫刻で表さないはずだと思い込んでいた私には、青天の霹靂とも思えるほどの驚きを覚え、旧約聖書に登場する預言者たち(アブラハムやモーゼ、サムエル、ソロモンなど)のエピソードがビビッドに描かれていて、文字の読めないユダヤ教徒の多くは絵を通して聖書の世界に感動したのであろうと、想像した一時でした。
デゥラ・エウロポスは様々な地域からの隊商が遣ってきて、寛容な文化や宗教があった所だったそうです。

アブラハムが太陽か、それとも月を信仰しようかと迷っている絵もありました。



1119  ラクダとダニ



十字軍戦争(11世紀末〜13世紀末)は、西洋史の教科書では重要な位置づけがされていて、イエス・キリストの処刑された聖地エルサレムを不当に占拠して、ヨーロッパからの巡礼者を妨害したイスラムに制裁を与えるべく行われた聖戦であったと言われてきました。

しかし、実態は理想とは程遠く、まとまりを欠いた烏合の衆に似た私利私欲の軍事集団であったことが多く、同盟軍のコンスタンチノープルへ乱入したり、女や子供の軍まであったりと、軍事面は勿論、生活文化マナー面でも、ヨーロッパは近東のイスラム文明圏に劣っていました。未だイベリア半島はイスラムの支配下で繁栄していて、ヨーロッパ内では宗教政治経済の火種が燻っていたのを、外に目を逸らさせて団結を図ろうとした戦争だったと見るほう方が当っているようです。
シリアの北の要衝アレッポと南のダマスカスを結ぶ街道の中間にあるオアシス町がホムスです。ダマスカスやアレッポに次いで3番目の都会で、人口は150万人を越え、行政の管轄は東はシリア砂漠のオアシス都市だったパルミュラから西は地中海のタルトゥースまで広がっていて、灌漑用水を使っての農業が盛んに行なわれています。現アサド大統領の奥さんもホムス出身だそうで、国王と奥さんの出会いは英国で共に医者になる為の勉強をしていた時だったそうです。インテリや美人の産地としてシリアでは有名だそうです。

ホムスとタルトゥスの中間にあり、街道を見下ろす絶好のカハラ山には十字軍以前から城がありましたが、聖ヨハネ騎士団を中心にした十字軍は更に堅固な二重の要塞(アラブ語ではカラット・アル・ハッサン)シタデル・クラック・デ・シュバリエ城をつくりました。
2千人の兵士と千頭の馬が、5年分の水や食料、武器と共に配されていました。
イスラムの英雄サラディンも、1188年に1日だけ攻めただけで立ち去ったエピソードを残しています。しかし、1271年にはイスラムの軍門に下りました。
第9回十字軍に参加したイングランド王エドワード1世は、1272年に帰国するとクラック・デ・シュバリエ城に似た城をイングランドやウェールズにつくらせました。
内城の頂上にあたる(天守閣?)レストランでの昼食は最高に美味しいシリア料理でしたし、眺めも抜群でした。

イスラム側から見た十字軍は次のようになるそうです。
イスラムとって十字軍は、ラクダの背中のダニのようなものであった。暫くの間そこに留まっていたが、ラクダが殆ど感じないうちに落ちてしまった。

西欧こそイスラムの影響をスペインやシシリー島、十字軍を通じて強く受け、やがてルネッサンス、大航海時代を経て近代へと変容していったと見る方が的を射ているようです。
      1120  ご神体はラクダの背に乗って

ペルシャ帝国とローマ帝国の狭間に位置し、漁夫の利を得てBC1世紀からAD3世紀末に栄えた、シリア砂漠のオアシス国家がパルミュラです。

アラビア半島から北上してやってきたセム系民族のナバテア人がつくった独自の文字を持っていた王国で、様々な地域から隊商隊が群れをなしてやってきて、通行税や取引税を支払って町の中に入り、アゴラやストアは大勢のラクダや商人たちで賑わったそうです。
年間降雨量は200ミリに満たない乾燥した所ですが、幸い地下を流れる水脈が湧き水となってこの地を潤し、ナツメヤシの茂るオアシス(パルミュラの語源となった)をつくり、遠くは中国の物産がシルクロードを通って運ばれてきて、更に地中海世界に向かいました。

アラブのゼノビア女王(3世紀後半の人)は、パルミュラを象徴する女傑として有名ですが、強大なローマ帝国に弓を引きました。結果は敗れてローマへと連れて行かれ、公衆の面前で晒し者になりますが、彼女は最後まで女王としての威厳を失いませんでした。ゼノビアの悲劇として、後世まで長く語り継がれました。

パルミュラの遺跡の入り口にある博物館(日本の資金協力で完成した、冷房付きのゆったりとした空間の建物)で、発掘品や地図、模型(ベル神殿)などを見た後で、遺跡を見学したお陰で、沙漠に埋もれていたパルミュラが、列柱道路や浴場、神殿に劇場、アゴラやストアに加えて、西の方には彩色壁画で飾られ、20米の高さの風穴から自然の涼しい風が吹き込む通気孔のある石組みの塔墓やT字型のレンタル墓も兼ね備えた地下墳墓などから成っていた壮大な都市国家だったことがよく理解できました。

ベル(パルミュラの最高神で豊穣の神)神殿は、タテ205米・ヨコ210米の石の壁に囲まれていて、正面入り口を入り広い中庭を真っ直ぐ貫く、少しずつ傾斜して高くなっていく石畳を登った先にありました。ベル神は太陽神と月の神を従えていて、嵐や春夏秋冬、豊穣、平和や知恵などの恩恵をパルミュラの人々にもたらしました。
神殿入り口近くの床には、神殿の上部を飾っていた石柱の彫刻が置かれていて、モチーフにナツメヤシの木やオリーブの木、そして様々な果物(葡萄、イチジク、ザクロなど)が入ったバスケットが豊穣神に献上されていて、ベル神は背後を太陽の光と三日月で守られている姿に描かれていました。また別の崩れ落ちた柱には、年に一度4月6日のベル神を祝う祭りの行列場面が刻まれていました。
先頭に生贄用の動物たち(羊や牛など)が歩き、神官たちがその後に続き、そしてラクダの背に乗せられたベル神のご神体、最後に町の人々が描かれたいます。
広いこの敷地内を練って歩いた祭りでしたが、動物が生贄台で殺され、肉は町の人々に配られました、。そして、動物の聖なる血は生贄台の下の石畳の下を流れる湧き水の管へと流れ落ち、その水は神殿の外の田畑を潤して植物の豊穣を願いました。

全能者であるベル神の象徴は天空を舞うワシで描かれ、それはローマ帝国やビザンチン帝国、神聖ローマ帝国、ナポレオン、アメリカ合衆国に至るまで使われています。
列柱通りには、遠くエジプトのアスワンから運ばれてきた花崗岩の柱が使われていたり、石畳の車道の下には下水管が、一段高くなった歩道には上水道が流れていて、歩道の天井は屋根付きで、店舗が並んでいました。

訪れた9月末は、夏から秋への季節の変わり目に当っていて、砂塵が起こり易く、サングラスで強い日差しを避けた目以外は全て頭巾で頭部を覆い隠すスタイルで、ラクダの背に跨って遺跡見学するお客の姿に、映画'アラビアのロレンス'がちょっぴり重なって見えました。





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