希望

     
1096  海岸通にマンションを持っているとか?



スエーデンが生んだ2大女優と言えば、古くはグレタ・カルボ、そしてイングリッド・バーグマンが思い浮かびます。

共に金髪の青い目をした美人で、ハイウッドで大成功を収めました。
二人に共通しているのは、アメリカへと雄飛する前はストックホルムの国立劇場で舞台俳優として、しっかりした基礎訓練を身に着けていたことですが、他方生い立ちに関してはおおいに違いがあるそうです。
グレタ・ガルボは、ガムラ・スタン島(ストックホルムは14の島から成っていて、最も古くから商業が栄えた所)の南に位置する隣の南島出身で、古来貧しい人達の生活する地区であり、彼女もそうでした。一方、イングリッド・バーグマンはガムラ・スタン島の北に隣接する富裕階層が多く住む北島の出で、海岸通りに面して建つ高級マンションで生まれ育ったそうです。

黒人のアメリカ軍人だった父とタイ人を母に持つゴルフ界のスーパースター・タイガーウッズは、ストックホルム出身の金髪で青い目をした美人と結ばれ、リトル・タイガー(お嬢さん)が生まれました。タイガーは、幼児の頃から世間の注目を浴び、まるでモーツアルトのように天才振りを発揮しました。モーツアルトが手塩にかけて誠心誠意育ててくれた父・レオポルド(ザルツブルク大司教付きの主席音楽家だった)と袂を別ったのに対して、タイガーはゴルフの技術面に留まらず、人間として人に優しく、しかし自分に厳しく強く生きることを教えてくれた人生の教師である父親を尊敬している点で、モーツアルトを超えているのかも知れません。
タイガーの奥さんは、スエーデン人プロゴルファーの赤ちゃんのベビーシッターをしていたのがタイガーと知り合うきっかけだったそうで、仄聞する所によると、今はストックホルムのバーグマンと同じ高級海岸通りにマンションを買い、時にはタイガー一家が休暇を過ごしにやってくるそうです。
タイガーと小タイガーのベビーシッターを受け持つ、今様シンデレラ物語のようで、好意的にストックホルム人は見ているそうです。
やがて、リトル・タイガーが父親同様、世界の桧舞台で活躍(ゴルファーとして?女優として?)するのでしょうか?
    


1097  モナコは穴の空いたチーズのような国



ヨーロッパで開かれる映画祭と言えば、元々は水の都・ベネチア映画祭が唯一あっただけだったそうですが、時のイタリアの最高権力者ムッソリーニに政治的に利用されがちだったのを嫌い、新たに生まれたのが南仏で行なわれているカンヌ映画祭だそうです。

1955年に行なわれたカンヌ映画祭に出席したのがハリウッド美人女優グレース・ケリーで,そこで出会ったモナコ公国のレニエ3世と翌1956年に結婚しました。彼女は、アイルランド系移民の子であり、アメリカ東部のペンシルバニア州の出身(映画ロッキーの主人公も、同じ州のフィラデルフアの出)で、名スリラー映画監督・ヒッチコックのお気に入りで、よく彼の映画に出演していました。
この結婚は衆目の的になり、モナコ公国は以後、モナコグランプリF―1レースやモンテ・カルロのカジノなど高級イメージで、世界にその名が知られることになりました。
 
僅か1.9平方キロメートルという世界で2番目に小さい(バチカン市国が最小)国であり、地中海にずり落ちそうな狭い急斜面の岩盤の上にしがみついているように見えるほどです。モナコの支配者グリマルディ家(中世の頃、イタリア辺りから流れてやってきた貴族)が、ナポレオン戦争(18世紀末から19世紀始め)やイタリア王国誕生(19世紀半ば)などで揺れ動いたヨーロッパ激動の中にあって、多くの貴族の領土が飲み込めれて消えていきましたが、しぶとく生き残った稀有な例(リヒテンシュタイン公国も同様)であり、岩盤をくりぬいて沢山のトンネル道で繋がれている所から、穴の空いたチーズ(スイスのグリュイエールチーズが有名)のような国と人は呼んでいるそうです…。
      



1098  エナジー・ドリンク剤をキオスクで売っていた



7月始めの頃、スイスの2千メートル辺りの高原では、一斉に野草が花を咲かせハイキングする人の目を楽しませてくれます。

前夜、殆ど寝れなかったので栄養ドリンク(オロナミンCのような…)でも飲めば、元気が出てハイキングも何とかなるのでは?と心細そうに呟く若い女性を案内して、インターラーケン東駅前のキオスクに入り、疲労回復に効くビタミンを多く含んだ栄養ドリンクはあるだろうか?とギャッシャーのスイス人中年女性に尋ねると、反対側の壁の棚の上段に置かれた数種類のエナジー・ドリンクとラベルされた栄養ドリンクボトルを勧めてくれました。
日本人に似て、スイスでも栄養ドリンクを摂る人がいると見え、2本(日本から来た客に懸けて)の違ったボトルを買って飲んだのが効いたのか?一日中ベルニナ・オーバーランドに咲く高山植物や雄大な景色を楽しまれました。
キオスクのすぐ近くには、巨大なコープ(CO−OP)のスーパーマーケットを主にした様々な雑貨類を扱う新しいビルが出来ていて、下山した夕方立ち寄りましたが、大勢の客で賑わっていました。
コープも農協も元々はデンマークで始まったそうで、九州ほどの小さな国になってしまった(歴史の中で、スエーデン、ノルウェーを失い、更にデンマークの東や南をドイツに盗られた)どん底時代に、酪農家などの農業経営者が集い生まれたのが、農協でありコープでした。

インターラーケン(トーン湖とブリエンツ湖の間にある所から、そう呼ばれる)の町の中央に芝生の美しい公園があり、そこから南を望むと、左右から濃い緑の樹木で覆われた山が平地に向かった落ち(そんな所を山崎と古来呼ぶそうです)、その狭間の奥に白い万年雪を被ったゴツゴツした裸岩で樹木の一本も生えていないユングフラウ山が、朝もそして下山した際も,衝立のように立っていました。
広場前の目抜き通りに面したチョコレート専門店では、ウインドーに
'A dark Chocolate a Day keeps the Doctoraway'(黒チョコひとつで、医者知らず)の宣伝文句が貼ってありました。

次回はエナジードリンクに加え、黒チョコをなめる手もあるかも?と、ふと妙案が頭を過ぎりました。
    



1099  大河ドラマ'篤姫'を通して知る明治維新への道のり


2008年7月7日は、フランスのシャモニ近くの2千メートルの高原を、高山植物を愛でながらハイキングしました。

日本では古来、中国文化に習って節目の日(同じ数字の月日)を大切にし、天の川を挟んで若い男女がこの一夜だけ出会う(牽牛星と織姫星)という吉兆を七夕祭りとして祝ってきました。また、本家の中国では、8月8日を北京オリンピックの開催日としていて、1ヶ月先に近づいています。
翌7月8日の朝は、前夜の雲が消えて快晴となり、エギュー・ドゥ・ミディ(針の山という意味)展望台からはアルプス連山が遠く近く、くっきりと見渡せませました。近くにはモンブラン峰やグランジョラス(アイガー、マッターホルンを加えて、アルプス3大北壁として登山家の憧れ)が、また遠くにはモンテ・ローザ山や屈折ピラミッド型をした狐峰マッターホルンがありました。
大型ゴンドラ・ケーブルカーに乗って針の山展望台駅へと向かいますが、麓のシャモニの乗り口で、'日仏友好150年'そして頂上駅(3776米)から展望台(3842米)へと登るエレベーターがつくられて、丁度50年の節目を祝うと書かれたパンフレットを貰いました。3776米といえば、'頭を雲の上に出し、四方の山を見下ろして、雷様を下に聞く、富士は日本一の山'と歌われた富士山の高さではなかったでしょうか?

150年前と言えば1858年であり、有力諸藩(島津、福井、水戸など)と協力して徳川幕府は攘夷の難局を乗り越えようと日夜頭をめぐらしていました。しかし、その建白書を出した島津斉彬が死に、篤姫(島津斉彬の養女)のご亭主・13代将軍家定も身罷った年であり、大老には井伊直弼がなり、1853年にアメリカ・ペリー提督による4隻の黒船艦隊の江戸湾乱入で始まった,神国日本の大騒動でしたが、徳川幕府だけの知力と体力でけで決着をするべく欧米諸国と通商条約を結びました。そして、国内に対しては'安政の大獄'と呼ばれた弾圧を始めています。

冷静に振り返ってみれば、250年続いた徳川幕府の体力も知力も弱っていて、有力大名の協力を得て政治を行なっていく時がやってきていたのは明らかでしたが、権力の座にあるものは得てして見えないものです。幕府を中心にした集団指導政治から幕府を外して、天皇を担ぎ出しての革命政治へと大きく方向転換していくことになります。
恐喝外交で日本の門戸をこじ開けさせたアメリカは、国内問題(1861年に始まった南北戦争)に忙殺されて日本から手を引いていきますが、英国やフランスは明治維新に至るまで陰に日向に大いに影響力を振るいました。

異国船打ち払い令や攘夷から始まった国内騒動が、、開港通商へと方向転換していきました。
結果として、誰も想像だにしなかった1600年関が原の戦いで徳川に敗れ去った外様大名の下級武士層が指導する明治体制が生まれることになりました。
1856年に養父・島津藩藩主・斉彬の密命(14代将軍に水戸家出身の一橋慶喜を推挙することで、徳川家の内から改革をもくろんだ)を帯びて輿入れした篤姫でしたが、1858年以降の徳川家の女としての役割(髪を下ろして天璋院と名乗る)はどうだったのでしょうか?薩摩出身の大久保利通や西郷隆盛、小松帯刀など旧知の若者との繋がりはどのように生かされたのでしょうか?

1853年から1868年までの僅か15年の道のりは、日本の歴史の中で最も興味があり、真実が未だ明かされていない分らないことだらけのように感じています。
維新以降も続いた、一歩間違えば植民地化されかねない危険や国内分裂の危機を孕みつつ、実際に佐賀の乱や西南の役などの国内戦争が起ったこと、また幕府が結んだ日本に一方的に不利な通商条約を克服するために40年近くの歳月を要したことを考えると、よくも危機を乗り越えた(クライシス・マネジメント)ものだと思います。

上(島津斉彬、松平春獄、水戸斉昭などの藩主)から始まった政治改革運動が、下(下級武士や町人・市民)へとバトンタッチされて、文化大革命(日本の歴史を180度変えた)に変容した15年の激流の時代でした
   



1100  民族の大移動で混む高速道路の裏をかく作戦には…



スイスの東に位置する冬のリゾート町ダボスでは、2月になると世界中からトップクラスの政治家や経済人、そして文化人たちが集まって、グローバルな地球問題を話し合うダボス会議が開かれます。

この町に住んで20年になるという私たちのコーチ・キャプテン(バス運転手)は、60歳前後の中肉中背でエネルギッシュな無口ではなく社交好きな、名前をチョウチョウと自己紹介した人で、40の手習いで夜学に通って英語を習ったそうですが、ダボスに住んでみて初めて英語の重要性に目覚めたのが、その理由だったと同僚の若いスイス人運転手(殆ど英語を解さない)に、昼食のレストラン(アルプスの少女・ハイジ村にある)で話していました。私達は、彼のことを日本をイメージしてつくられた歌劇'マダム・バタフライ'に真似て、ミスター・バタフライと呼んでいましたが、なんと奥さんのマダム・バタフライから彼の携帯電話に、昨日7月5日(土)から始まったスイスでのバカンス・シーズンの為、チューリッヒから真っ直ぐイタリアへと下る高速道路は混んでいてマヒ状態であり、ライン川に沿い源流へと向かい、クールの町近くから右折してオーバーアルプ峠道へと向かう在来線なら空いている情報がもたらされました。
実際にその通りにすると、ヴァリスアルプスの登頂のの町ツェルマット(電気自動車か馬車しか乗り物がない無公害宣言村)に行く為にバスを降りて電車に乗り換える町テーシュには予定よりも1時間早く到着したほどでした。

ミスター・バターフライは、1年中切れ目なく運転の仕事があるそうです。
最近は、ダボスにはロシア人の金持ちがやってくるのが増えていて、奥様方や恋人はリムジンをチャーターして遠くイタリアとの国境の町ルガーノやミラノまでショッピングに出かけるそうです。マダム・バタフライからは、その後も電話がバタフライ氏に何度も入りましたが、ラジオで流されるバカンスが始まったばかりのスイスの道路情報を聞きながら、ご亭主(テーシュの町へ速やかに着くように願って)に伝えると言う二人三脚・夫唱婦随のお陰で、峠道(オーバーアルプやフルカ峠など)の素晴らしい景色を満喫できました。
三つの峠道が出会うザンクト・ゴタール中央山塊の窪地アンデルマットに向かうスピンカーブの多い道の狭いオーバーアルプ峠道では、上から下ってきたオランダ国籍の乗用車とハチあわせになりました。
オランダもスイスも伴に、そのがめつさ振りや意固地さが世に知れ渡っていて、さてどうなることかと興味を持って見ていますと、重量(バス)と地元(縄張り内?)の利に勝るミスター・バタフライの主張が通り、渋々オランダ氏はバックして道を譲りました。

我関せずと、悠々牛や羊たちは急斜面に生えている草を食んでいました。







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