×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。



希望

1081  三叉の槍を持つ人は誰?と聞かれて、フォークを発明した人と答えた少年



川が合流する所という意味を持つ言葉が、ガンタだそうです。

スヘルデ川とレイエ川の交わるデルタの町がゲント(フランス語ではガン)と呼ばれる由縁になりました。1521年に、この町の中心にある聖ニコラス教会近くの宿に泊った画家が、ドイツ人アルブレヒト・デューラーです。彼は神聖ローマ帝国皇帝・マクシミリアンから功績を認められ、若くして生涯年金を貰える栄誉を与えられましたが、このゲントの町で生まれた皇帝の息子のカール5世の治世になると、手違いから年金が支給されなくなる事態が起った為、陳情して訂正してもらおうとドイツから旅をしてやってきたそうです。滞在中は、40キロ離れた古都ブルージュへ日帰りの強行旅行をしたり、風を引いて寝込んだりした記録が残っています。
著名人だったデュラーの滞在した建物の壁には、立派な装飾文字で彼の事績が刻み込まれて、デューラー・ファンを喜ばせています。

スヘルデ川に架かる聖ミハイル橋の上に立つと四方が見渡せ、この町の重要な建物が望めます。プリミティブ・フランドル絵画期の至宝・ヤン・ファン・アイク作'神秘の子羊への礼拝'の絵のある聖バーブ大聖堂と市民の自冶精神の象徴である鐘楼、そして聖ニコラス教会の尖塔が重なるようにして東に見えていて、川の南には修道院だった所や聖ミハエル教会が、川の北には両岸に50ものギルド業者の石造りの立派な建物がひしめくように建っています。元々は、木造のギルドハウスでしたが、頻繁に起る火事の為、3〜4百年前から石やレンガの建物に変わって行きました。火事の際は、川から水を汲み上げて、いち早く消火する為に水を運ぶ道が川岸から広場へ通じていましたが、今でもギルドハウスの間の細い石畳の消火道が残っています。
川の北側の奥にはフランドル伯が居城とした堅固な要塞城が少し見えていて、12世紀に十字軍に加わりシリアへと遠征した折、イスラム世界の優れた要塞建築に感化され出来ました。要塞城近くにあり、川岸傍の魚市場だった建物の正面入口の上には、網を手にするヘラクレス像と籠に魚が一杯入っているアフロディティ像の彫刻が飾られていて、頂上部には三叉の槍を手にする海の神・ポセイドンが立っています。誰?と聞かれて、少年はフォークを発明した人と答えてそうです…。

魚市場の隣の建物は、6百年の昔から肉屋の市場だったそうで、建物の出っ張った所では内臓や皮などを売っていたそうです。今は建物の中では、様々なレストランや民芸品を売る店が入っていて、観光客で賑わっています。また、楽しみの少なかった中世の時代は、公開刑が城の前の広場で行なわれましたが、死刑執行人は犯罪者の持ち物(服や装飾品、指輪など)を貰えたそうで、罪人の指や指輪が泥棒避けになるという言い伝えから、肉市場で売って金にしたそうです。
健啖家で旅行好きだったジャーナリスト・開高健は、臓物を素材にするホルモン焼きのホルモンの言葉は、日本の肉屋では臓物の使い道がないと判断し、放って捨てた所からついたと述べています。

日本と大陸の動物の肉や内臓・皮を食す習慣の違いを浮き彫りにしているようですね!
     



1082  水泳教室の仕上げは、服を着たまま25メートル泳ぐこと



アメリカで知り合ったオランダ国籍の男性(インドネシア系)と結婚して、オランダに住むようになって20年近く経ったそうです。

75パーセントの女性は、今でも自宅で助産婦さんに手伝ってもらって出産するそうです。
二人の愛の結晶であるベイビー(息子)が病院で生まれましたが、鼻の穴が二つ平べったい顔の中に空いているだけで、鼻が三角形に顔の真ん中から突っ立っている隣近所に寝かされている赤ちゃんとは違っていたのに気付かされました。ヨチヨチ歩きするようになると、息子はおでこを擦りむくのに対して、オランダの白人の子は鼻を擦りむいていたそうです。
海面下で生活する人の多いオランダでは、非常時に備えて泳げることは大切と考えていて、4歳になると水泳訓練を受けますが、仕上げは水着の上に服を着て靴を履いて25米泳ぐ試験があるそうです。
虫歯の検査は年2回行なわれていて、子供はタダでした。
小学校では、誕生日を迎えた子供がケーキを自宅から持参して級友に配る習慣になっています。また、給食はなく昼ごはんは家に帰って済ませ、午後の部は13時から始まるので、学校までの送り迎えは親の責任となります。

小さかった息子も、今は天然の縮れ毛に顔も結構凹凸のある若者に仕上がりました。
オランダ人の台所は何時もピカピカに磨いてありますが、揚げ物などをする時は油が散ると、その都度拭き取るという細かさや、また引越しをする際は壁紙まで剥がして持っていく徹底振りに、ようやく慣れたと笑って語ってくれた日本人ガイドでした。

異国で生活する人の話には、何時も新鮮な驚きを感じ得ません。旅の喜びは未知の人に出会えることであり、自分の視野を広く出来る機会にもなります。
      




1083  鰊(ニシン)のぼりと言ったら税金は掛けられないで済んだ?



ザーンセ・スカンス(ザーン川の水辺という意味)の日本で言えば明治村に似た、古いオランダの風景や伝統工芸を見せてくれる村は、5月4日の朝は大勢の観光客で賑わっていました。

名物の風車が風を受けてゆっくりと回っています。風を大きな翼にで受けて回し、動力に変え巨大な石臼を回転させて、ピーナツ豆を挽いて粉にし、それを袋に詰めて圧力をかけて油を絞る風車納屋があり、隣は住宅空間が連なっています。
庭に3〜4匹の鯉のぼりが、澄み切った青空の中を泳いでいました。一般公開されている風車納屋の中に入ると、30代の小柄なオランダ人男性がピーナツ粉を詰めた大きな布袋を、木枠の中にセットしていて、やがて上や横から圧力が加わり油へと変身することを覗わせています。
男性に声を掛ける間もなく日本人の奥さんが顔を出し、暫く立ち話をしました。
鯉のぼりのことを聞くと、日本にいる両親が孫(7歳)の為に送ってくれたもので、税関で高い輸入税(1万6千円相当)を支払わされたそうです。この贈り物はオランダ人が大好きな鰊の飾り物で、日本では古くから鰊のぼりを立てて男児の節句を祝う習慣があるとでも言えば、情状酌量になったかも?と笑い合いました。すっかりオランダ生活に馴染んでいる様子の彼女は、5月4日はオランダにとり特別な日であることを教えてくれました。

第二次世界大戦では、ドイツ軍によるオランダ占領が1945年5月4日まで続き、大勢の人が犠牲になりました。アムステルダムのダム広場では、その日は女王陛下が戦没者慰霊塔に詣でて、花輪を捧げるそうですし、午後8時を期してオランダ全土で3分間の黙祷をすることや、風車を管理する人たちも8時に5分前に戦争で犠牲になった人たちへの哀悼を示す十字型の風車をつくり、そして黙祷が終るとドイツからの解放・喜びを表す十字形に変えるそうです。5月5日は解放記念日として祝っています。この日ばかりは風車を持つオランダ人は、家を留守には出来ないそうです。
また、戦争中はドイツ人には分らないオランダ人だけが理解できる信号を、風車の十字形のポジショニングで発信したそうです。デン・ハーグ(オランダの行政の中心都市)の郊外に北海に面してオランダ随一のリゾート町・スケベニンゲンがあります。戦争中は、ドイツ人スパイかどうかを見分けるべくスケベニンゲン(日本人男性にとっても、なんとなく後ろめたい感じの言葉ですが…)の発音はオランダ人にしか正しくできない微妙な言葉だそうで、スパイを見つけ出すのに使われたと何処かで聞きました。

そして、5月4日の夜はホテルで食事の際、レストランの責任者に8時から3分間沈黙に協力してくれるように言われました。また、翌日デン・ハーグの市役所広場では、若者達による耳をつんざかんばかりの賑やかなロックコンサートが昼間から行なわれていました。
    




1084  新米社長はいじめられる?




オランダに長く住んでいると見えないものが見えてきたり、分らなかったものが分るようになってきたと、ある日本女性が言いました。

鼻の穴が洋ナシの形で、髪はブロンドでウエーブがかかり、雨が降っても傘を差さず歩き、髪は乾かさなくても頭を一振りすれば様になる元の髪型に戻り、足が長く顔は小さい,何とも恰好のいい人たちだそうです。更に、日頃自転車に乗っていて、冬はアイススケートといったスポーツ好き人間で、腕っ節も足腰も並外れて強いのだそうです。
ある時、ご主人(金髪でウエーブのかかったオランダ人?)の友人の引越しの手伝いに行き、ソファやベッド、冷蔵庫などを腕木(アムステルダムでよく見る、屋根の頂上付近に取り付けた太い壁から突き出した木で、滑車とロープを使い、重い大きな荷物を窓から上げ下ろしする)を使って降ろしたそうです。無事に家具が地上に下りた際,皆一斉に手にしていた縄を放したので、彼女だけが宙に舞い上がってしまい、つくづく自分の非力とバツの悪さを痛感したそうです。

オランダは平らな国であり、横が何処までも見える風景ですが、社会も横社会で友達意識が強く上司に諄々と従うことはありません。会社では、会議は意見を言い合う場と心得ていて、往々にして日本からやって来た新米社長はいじめられる?場面が多くなり、酷い目に遭うそうです。胸に付けるネームも小さく書かれていて、服装では見分けがつき難く、社長を捜すのも一苦労するほどです。
世界最初の市民国家をつくった伝統は、今も脈々と横社会型の国、会社、家庭の中で生き続けているようです。
        



1085  二つの失敗



インドの西、パキスタン寄りの乾燥したグジャラート州育ちで聖者と讃えられ、インドを大英帝国から独立へと導いた指導者が、マハタマ・ガンディです。

ロンドンで法律を学び弁護士となり、、南アフリカで白人社会から差別されて生きる有色人種の為に弁護活動を続け、やがてインドに帰還し高い税金のかけられた塩や衣服など英国の販売する商品を買わない運動を起こし、自らの力で生み出した物を食べ着ることで、権力におもねない、権力を怖れない、権力に暴力で対抗するのでなく、内から湧いてくる信念を大切に誇りを持って生きることをインドに住む人達(宗教や人種、カースト制度を越えて)に訴え続けた人でした。

'ガンディ マイ ファーザー'という長男から見た父ガンディを描いた映画を見ました。
結婚して間もない長男が父の仕事を手伝おうと、南アフリカへ行く所からストーリーが始まり、1948年1月30日にデリーで射殺され、翌31日に大勢の人に惜しまれながらガンディがジャムナ川で荼毘に臥され、しばらくして街中で浮浪者となって倒れていた息子は病院へと運ばれましたが、誰も看取る人もなく寂しく死んでいく最期までを,回想を交えながら描いた秀作でした。

父と同様にロンドンで勉強して弁護士にないたいと願う息子ですが、息子への愛は人一倍持っている父でありながら、他の人たちと同様に公平に扱おうとするガンディ(父)を理解できず、少しずつ不満が生まれ、父と別れてインドへ帰り、独力で夢を掴もうとしますが、社会の目は'偉大な父の息子'というレッテルでしか見てくれませんし、偉大な父の名声を利用して金儲けを持ちかけてくる輩の罠に落ちていくことになります。
やがて、インドへ帰ってきた父母の元に何度も駆けつけ、良き息子たろうと努力はしたのですが、結局は自分のスペースを社会の中に見出すことなく乞食になって朽ち果てていきました。

神のような全き心を持ったガンディ(父)でしたが、生前二つだけしくじったことがあると述懐したそうです。
一つは、共に大英帝国からの独立を勝ち得ようと活動したイスラム教徒の指導者・ジナー(パキスタン独立の父として讃えられている)を説得できなかったこと、そして二つには、
長男を導くことに失敗したことでした。
新約聖書テモテ第一の4章8節に、当然のことですが、自分に属する人々、ことに自分の家の者に必要なものを買えない人がいるなら、その人は信仰を否認していることになり、信仰のない人より悪いのです。と書いてあります。
最下層の人たちにまで愛を注ぎ、ハリジャン(神の子たち)と呼んだガンディですが、一番身近な長男と和解することなく世を去ってしまいました。

生きものの中で、一番難しいのが人間なのですね!








トップへ
トップへ
戻る
戻る