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希望

     
1076  ベルギーはヨーロッパの奇跡



西ヨーロッパの歴史をつくった二つの民族とは、一つはラテン民族でヨーロッパ・アルプスの南から出た地中海性気候に浴した人達であり、もう一つはゲルマン民族でアルプスの北に住んで大陸性気候圏(夏暑く冬寒い)の人達です。

この肌の違う民族の後継者が、ベルギーの北と南に分かれてがっちんこ(睨み合い)していて、折り合いが難しいようです。北のフランドル地方ではゲルマン語から派生したフランドル語(オランダ語)を話し、南のワロン地方の人は正確にはラテン化したゲルマン人と言うのが正しいようですが、ワロン語(ラテン語から派生したフランス語)を話します。
地形も、北は真っ平らな砂地が続く北海に面したオランダ(低地という意味)に似た所ですが、南は起伏に富んでいて石灰岩の地肌が露出する丘や渓谷が多くあり、川に沿って古代ローマ時代の遺跡があつたり中世の時代の城や要塞・修道院などが見られ、ジュリアス・シーザーが率いるローマ軍の通った道だった所です。
歴史的には、べルカイト族(ケルト民族でベルギーの語源になる)の住んでいたワロン地方(谷間という意味)に2千年前にローマ人が町をつくりましたが、やがて4〜5世紀になると北や東からゲルマン民族のフランドル地方への進攻が始まりました。
中世になると、北のフランドルへのバイキングの攻撃を乗り越えて、ブルージュやゲント、ブリュセル、アントワープなどの地方都市に羊毛の加工や皮のなめし業が発展しました。
フランドル伯やブラバント伯といった貴族による地方都市の支配が行なわれましたが、やがてフランスの中部を広域に亘って支配していた強力な権力を誇った大貴族ブルゴーニュ伯が商業の盛んなフランドルに目を付け、引っ越して(都を置く)きます。
あるいは、フランス王家(フランドル人の抵抗に遭う)やオーストリアのハプスブルグ家までが干渉する所となっていきました。
16世紀になると、スペイン王家とハプスブルグ家の結婚により神聖ローマ帝国皇帝カール5世がゲントで生まれました。16世紀後半からはスペイン帝国の支配に入りましたが、信仰の自由や重税からの圧迫を逃れようと低地地方(フランドルやオランダ)では、独立戦争(1568〜1648)が起りました。
オランダは独立して新しい市民国家を樹立して行きましたが、フランドルはカトリック文化圏に残りました。19世紀になるとナポレオン戦争があり、やっと1830年にベルギーが誕生しました。

やがて、ワロン語圏(アルデンヌ地方)で鉄鉱石と石炭を使った工業が盛んになり、北のフランドルへと勢力が広がっていきました。一方、フランドルでもアントワープやゲントなどの貿易が復活して、中世以来の商業の伝統に支えられたワロンへの巻き返しがありました。
現在では、経済的にはゲルマンの血の代名詞とも云える質実剛健、真面目、働き者、金銭感覚の細かさに優れたフランドルがワロンを凌いで、優位に立っています。
フランドルとワロンは事あるごとに衝突していて、果たしてまとまった国(ベルギー)として機能できるのか疑問視する人も多いそうです。
2002年に日本で行われたサッカーのワールド・カップでは、ベルギーと日本は予選で戦いましたが、日本は君が代を日本語で全員が歌いましたが、ベルギーは国歌をフランドル語(オランダ語)ワロン語(フランス語)、そしてドイツ語で選手もサポーターも出身地により歌ったそうです。それでも、これまで感じることがなかった一体感をベルギー人は持ったそうです。

二つの民族(ワロンとフランドル、あるいはラテンとゲルマン)はうまくやっていけるのでしょうか?
ヨーロッパの奇跡はベルギーで共存できるのでしょうか?
EU(ヨーロッパ共同体)の本部やNATO(北大西洋条約機構)の本部がベルギーの首都ブリュッセル(丁度ワロンとフランドルの中間にある)に置かれていて、新しいヨーロッパの創造を目指していますが、ブリュッセルがなければ、ベルギーは分裂する可能性もあると囁かれているそうです。
文化の違いを和らげようとして、ブリュッセルでは道路標識がフラマン語とワロン語で両方併記されています。

ベルギーは小さな(スモール)な国ですが、大きな(ビッグ)国であり、ベルギーを感じることはヨーロッパを知ることになるのかも知れません。
   



1077  ワロンとフランドルは永遠のライバル


ベルギー人は'レンガを手にして生まれてくる'という格言があるそうです。

衣食よりは住に手間隙かける人たちで、家は見た目よりは大きく、家を造ったり手直しするのが生来好きなようです。ベルギーの北のフランドルでは、砂地の平地が続く風景の中、レンガ建ての家が殆どで、南の高原と谷そして石灰岩の地肌が露出しているワロンでは、石造りの家が多く見えます。
気質は、北が金銭感覚に細かく現実主義者が多いゲルマン的なのに対して、南はウララ(どうしよう)セラビー(しょうがない)ビズ(じゃーね)などのワロン語(フランス語)に見られるように楽観主義でロマンチストが多くラテン的だそうす。
容姿を比較すると、女子テニス界のスーパースターであるジュスティン・エナがのっぺりとしたワロン的な顔立ちの代表とすれば、キム・クライステルがごつごつ顔のフランダースそのものだそうです。
地理的に見ると、北のフランドルが北海に近く、中世の初めにはバイキングの侵入があったり諸外国と交易して金銭感覚や情報に何時も敏感に反応してきた歴史に対して、南のワロンは農業を主にした歩みで19世紀には石炭や鉄鉱石を使った工業が興り、繁栄したこともありましたが、比較的のんびりした歴史のように見えます。
ジュリアス・シーザーに率いられたローマ軍がミューズ川に沿ってフランスから北上してオランダへと2千年前にやってきて以来、ラテン系の言葉(文化)の後継者となったワロン人と、5〜6世紀から始まったゲルマン民族の巻き返しの流れの後継者フランドル人が、ベルギーの真ん中で南北に分かれてがっちんこをしています。

ジュスティン・エナはミューズ川沿いのナムール(アルデンヌ地方の中心都市)からほど近いウェピオンの町(イチゴの生産地として有名)で生まれたそうですが、そこにはフランスの有名なスーパーマーケット'カリフール'がありました。カリフールとは日本語に直すと、十字路だそうです。実に言い得て妙としか言いようのないゲルマンとラテンの接点にベルギーは位置しています。

両民族は、水と油ほどに違うように見えますが…。
ワロン語もフラマン語もローマ字式に発音すれば、私達日本人でも通じると教えてくれた人が、ブリュッセル郊外に住んで毎日ワロンとフランドルを行ったり来たりする生活(バスや列車で両文化を跨いでガイドしている)をしている日本人男性ガイド氏でした。
優しく角を取って、口を大きく開けず色気をつけてセクシーに、情熱的に丁度テレビに出てくる田村正和のように、ぼそぼそと発音すればフランス語的になるそうで、オランダ語もはっきりと口をあけて、文字を読めばよいのだそうで、例えばLOOK(にんにく)はロークと発音します。ルックと発音する英語こそ出鱈目で、抵抗を覚え英語は分らないと言って笑わせてくれました。
そして、ワロン人の智者の代表としてアガサ・クリスティの小説に登場するポロア探偵を挙げました。大都会ロンドンを舞台に、癖のある英語を話し,背のすらっとした英国紳士とは程遠い、ずんぐりむっくりの傘とシルクハットのワロン紳士が、次々に難事件を解いていきます。

また、オランダ人を母に、イギリス人を父に持つオードリー・ヘップバーンこそ、尖がった目をし、華奢でワロン的でありブリュッセルで育った人で、ゲルマンを両親に持ち容姿はワロン、育ちは両文化の交じり合うブリュッセルで、明るいベルギーを指呼する最適なモデルとなるそうです。
   




1078  ユトレヒトでは祈る人の建物が再利用されていた



ヨーロッパの中世は、祈る人(僧侶)・闘う人(騎士)・そして働く人の3つの階層文化時代といわれます。

中でも祈る人の役割は重要であり、今でも中世の文化に浸ろうとすれば、必ず教会に行かざるを得ないほどです。教会は地上での神の家、そして神の教えの布教センターとして町や村に必ず建てられましたが、そこには当時の最高レベルの芸術や文化、建築技術が集まっています。
あるいは、'揺り籠から墓場まで'というキャッチフレーズで第二次世界大戦後間もない英国にあって、労働党が社会福祉の充実を訴え選挙に勝利したそうですが、正に揺り籠から墓場までという人間の一生に関わることを請け負った組織こそ教会だったと言えましょう。
捨て子から未亡人、老人や病人、不具者や精神病患者に至るまで、社会の弱者層へ精神的・物質的な救いの手を差しのべたり、文字の読み書きを教えたりしました。同様に、修道院でも働く人への実務指導を行い、生活向上に大いに貢献しました。
しかし、中世も終りに近づくと、教会の教えに反発する(プロテスト)流れが始まりました。オランダでは、宗主国スペインによるカトリック一辺倒の高圧的な指導と重税に対して、ユトレヒト同盟を結び抵抗運動が起こり、長い間戦いました。

ユトレヒトの大聖堂の中に入りますと、カトリック教時代に堂内を飾っていた彫刻や絵画、タペストリーやステンドグラスなどの装飾品は消し去られていて、シンプルなゴチック空間があるだけです。神の教えは、唯一神の言葉が語られた聖書の中にだけあるとして、あるいは祈りを通して直接神と接触することで救いが得られると信じるプロテスタント教では、目にすることのできない神の姿を人間が形に造り、その像を拝むことで神に近づこうとするやり方(偶像崇拝)を否定しました。聖書が初めてヨーロッパ人の日常話す言葉に翻訳され、写本ではなく印刷された本となり安く大勢の人に読まれる時代になったことも、大いに宗教戦争(16〜17世紀)を掻き立てることになりました。

旧市街の外れ、運河沿いに過っての孤児院であり修道院、教会であったレンガ造りの建物があります。今は、ユトレヒト市セントラル・ミュージアムとして再利用されていて、中は2千年前に古代ローマ人がユトレヒト近くのライン川沿いに集落をつくったのが町の始まりとされる展示室からバイキング船や中世、近世、現代に至るまでの生活文化の数々があります。道路を挟んで向かい側には、15世紀の精神病患者を収容した病院を改造して、2年ほど前(2006?)にオープンした、当地出身であり今も郊外の自宅から自転車でユトレヒト市内の仕事場に通ってくるというディック・ブルーナー氏(1927年生まれの、ウサギのミッフィーで世界的に有名なイラストレーター)の作品を集めたハウスがあります。製作中は、常に真摯に見つめる子供の目を意識しながら、彼自身少年の心を持ち続けた人のようです。又近くには、未亡人や老人が何百年にも亙って住んできた一階建てのレンガ造りの長屋が残っていて、今もそういった方々の為に使われているそうです。

街中の運河(アメリカのテキサス州にあるサン・アントニオの運河に似ている)近くには、15〜16世紀につくられたレンガ造りの教会が、オルガン・オルゴール博物館となって再利用されています。17世紀から20世紀に及ぶ手動、自動の大中小様々なオルガンやオルゴール、仕掛け人形つきの時計などがあり、案内人のマジックハンドにかかると、たちまち人形は動き出し当時の美しい音色を奏でてくれます。
太く重い鉄のシリンダーに無数の針を突く刺し、それに触れて音を出した時代のオルゴールから、軽いペーパー(厚紙に穴が空いている)のシリンダー、そして折りたたんだパンチカードへと進化を遂げ、一つの楽器の演奏からオーケストラへと変わって行きました。
コンサートに行かなくても、コーヒーショップや街中の往来で聞けて楽しめる、一部の特権階級にだけ許された楽しみから誰もが楽しめる時代になっていった流れが分ります。
図体も際立って大きく、耳をつんざくような音を出しますが、何故か体が自然に動き出したくなるような軽やかなダンス・ミュージックを奏でるストリート・オルガンに惹かれました。

換骨奪胎(剥製文化)した教会や孤児院、修道院、精神病患者を収容した施設、改め博物館に感動を覚え、また建物の持ちの良さと知恵に感心しました。
      




1079  オランダでモーツアルトに出会う



ヴォルフギャング・アマデウス・モーツアルト(1756〜1791)は、創造的な仕事をする人は'人生の1/3は旅をすべし'と語ったそうです。

また、その言葉通りの人生を送った人でもありました。きっと、旅を通して未知の人に会ったり、違った風景を見たり様々な文化に触れることは、彼の生来の音楽素質を見出し鍛え、磨き、大きく開花させるのに必要不可欠な要素と考えていたのでしょうか?
特に、成人するまでの幼・少年・思春期に行なった広域に亘る旅は、目を見張るものがあります。

オランダの政治面での首都はハーグであり、過ってのホランダ公であるオレンジ・ナッソー家の森の中にあった狩猟の館の周りに、国会議事堂を始めとする主要な公官庁の建物が集中していますが、同時に市民の生活空間が通りを隔てて広がっていて、気取らない政治が行われている様子が覗われます。国会議事堂を囲む壁に沿って少し歩くと、市電やバス、乗用車や自転車などがひっきりなしに走る大通りの交差点の一角に、オランダで一番大きなスーパー・マーケット・チェーンを展開するアルバート・ハインがあります。ミネラル・ウォーターを買おうと立ち寄った、そのマーケットの入り口の横の壁に9歳のモーツアルト(1765〜1766)が、この場所に滞在していたと記した黒いオーバル型の石版がモーツアルトの顔と共にはめ込んでありました。現在の建物はコンクリート製ですので、愚考するに過ってここには貴族の屋敷か司教の屋敷でも建っていたのでしょう。
また、スーパー・マーケットの向かい側には、巨大な白い壁とガラス窓が特長の何年か前に完成した市庁舎がありました。

アムステルダムの国立博物館で、'ハーレム市長の娘の結婚'と題したフランス・ハルス(レンブラントと同時代の画家)の作品を鑑賞した後、ハーレム郊外のホテルに泊りました。過って、羊毛産業や交易で栄え、富裕な商人の住む町として知られたことから、ニューヨークのマンハッタン島の北側を20世紀の初め、有産階級の住宅空間として開発した際に、わざわざハーレムと命名したほどでした。名門私立コロンビア大学もありますが、大恐慌時代(1930年代)以来、黒人が多く移り住むようになりスラム化していったことは、よく知られています。
本家オランダのハーレムは、中世以降(13世紀)勢いが盛んになり、グロット・マルクト広場の周りに聖バーブ大聖堂や市庁舎、ギルドハウスが競うように建てられていきました。また、1573年のスペイン軍によるハーレム包囲戦では、守備側のプロテスタント教を奉じたハーレム市民からは多くの犠牲者が出ました。大聖堂の主祭壇後ろの壁には、当時の市民の合言葉であった'犬も猫も食料(game 獲物)'と書かれた記録が刻まれていて、餓死者が大勢出た凄まじい戦いとなり、80年に及んだ独立戦争の中でも、今に語り継がれるほどの壮絶なものでした。やっと退却していったスペイン軍の残していった食料(ジャガイモ、玉ねぎ、人参など)を柔らかくなるまで煮込み、鍋の中に入れ押しつぶし、ねっとりとさせて食べたヒュッツポットは、今もオランダでは好んで食べられる料理だそうです。
足元の大聖堂の床は、古くは15世紀に土葬された人の墓石を含む1500人ほどの墓石から成っていたり、空中には船長ギルド組合の寄贈した16〜17世紀の帆船の模型が架かっていて、海や川の交易が盛んだったことを偲ばせています。
そして、西の入り口を入った2階の壁いっぱいに30メートルの高さで、5068本のパイプを使ったクリスチャン・ミューラー・オルガンが目に飛び込んできます。当時、10歳(1766)だったモーツアルトが演奏したものであり、ヘンデルも演奏したそうです。
ヘンデルはハノーバー家(ドイツの北にある名門貴族)の当主ジョージ(英国王ジョージ1世となる)に付いてロンドンへ渡り、テームズ川での国王の船遊び曲'水のワルツ'をつくりました。

複数の異形の煙突が特長の13世紀に作られた市庁舎や、中世以来老人ホームとして使用されてきた1階建てでレンガ造りの長屋風の建物は、今はこの町出身のフランス・ハルス美術館となっていて、長い間噂に聞いていたハーレムの町を一見できたのは、アムステルダムに宿が取れないお陰でした。

万事、塞翁が馬であり、何事も前向きに考える方が人生楽しくなるようですネ!
泊ったハーレムの外れにあるホテルから町中へは、公営バスで往復しました。
ワンマン・バスの運転手から切符を買う(1.6ユーロ)ようにホテルで教わりましたが、30人が乗るためには幾つかある出口から乗る他はなく、一駅目で降りてフランス・ハルスの美術館を目指す私達は、乗る間もなくブザーを押して、一斉に前方の運転席へと向かいました。所が、黒人の男性運転手は料金を取らず、私たちを下車させてくれ、笑顔で見送ってくれました。
帰りは、始発のハーレム中央駅前からバスに乗りましたが、出発時間の5分前に運転席に座った女性運転手は、いちいち丁寧に1.6ユーロと引き換えに切符にスタンプを押して、手渡してくれました。出発したのは、予定時刻を10分近く過ぎていました。
そして、運転席近くに立っていた私に、出発する前の5分間はのんびりとタバコを吸う心算だったと言い、本来は観光局で事務や接待の仕事をしているのだが、今日はたまたまバスを運転する羽目になったといって笑わせてくれました。
    




1080   オランダ黄金期(1600年代)を飾る四人の画家たち



デン・ハーグのこじんまりしたマウリッツ・ハウス美術館でも、巨大なアムステルダムの国立博物館でも4人の作品は見られます。

2008年4月現在、著名な建築家カイパースの設計になる国立博物館は長期の修復工事に入っていて、展示物や部屋を限定して見せるという変則の公開をしています。
しかし、お目当ての4人の作品は、いつもは部屋を別にして遠く離れているのですが、今は互いに近く寄り添って置かれていて、集中して比較しながら観賞できるチャンスを見学者に与えてくれています。
アムステルダムの国立博物館におかれている彼らの絵から受ける印象やエピソードを紹介してみます。

先ずはレンブラントですが、夜警と自画像やユダヤ人の花嫁を通して、絵の依頼者である市の有力者たちの希望とは裏腹に、自分の信念を貫く絵への姿勢が強く感じられます。
明暗の画家とか魂の画家と呼ばれる所以でしょう。レンブラント生誕四百年(1606年に生まれる)を祝って、ビールで有名なハイネケン社が一年間、'レンブラント有難う'と題するコマーシャルをテレビで流したそうです。その中で、夜警(本当は昼間の警備に出かけようとする自衛団だそうですが…)の絵に画家自身の横顔が、兜を被った人物とシルクハットの人物の間に描かれていたのを紹介したことで、それまでは殆ど知られていなかったニュースの国民は大いに驚いたそうです。

フェルメールは青の画家として知られていますが、高価なラピッツラズリ(輝石)を粉にして青の顔料をつくった人であり、ブルーを基調にした美しい繊細な画法は、ミルクを注ぐ台所の女中や恋文を読む女、手紙を読む婦人などに見て取れます。

フランス・ハルスは大胆な筆使いで、人生の表と裏をやんわりと描いた'ハーレム市長の娘の結婚式'と題する絵や赤ら顔の酔っ払いの男の作品を通して、陽の人だった印象を持ちました。

最後はヤン・ステーンですが、道徳家であり無駄を戒める宗教心に篤い人物だったようです。12月5日は聖ニコラスの日であり、オランダでは互いにプレゼントを交換して祝うそうですが、一枚の絵の中にプレゼントを独り占めしている欲張りな女の子が描かれていて、その家の床は汚れていて物が散らかっています。躾けの出来ない家庭を戒めた作品です。今でも、'あそこはヤン・ステーンの家です'と言えば、台所は綺麗で料理は下手、温かい料理は1日に一回だけという典型的なしまりやのオランダ人を指すそうです。

おまけにもう一人加えるとすれば、ヤン・アセリジンとなるでしょう。
オランダ人なら誰でも知っている、キャンバス一杯に羽を広げた白鳥の絵(1650年)を描いた人です。白鳥こそオランダ国王の化身であり、水辺に低くうずくまり白鳥の卵(卵にオランダと書いてある)を狙う得体の知れない動物(敵国のイギリスを表している)から羽を大きく広げて威嚇しながら体を張って卵を守ろうとしている作品で、オランダ国民の愛国心を鼓舞するのに貢献したそうです。











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