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希望

   

1071  荷物の上げ下ろし用のフックの縄で亭主を吊り上げた妻



オランダでは、家の間口の大きさや窓の数に対して、税金を掛けていました。

伝統的な建物の特徴は、間口が狭く奥行きが長い、ウナギの寝床に似た、人は狭い急な階段で上り下りする、税策を考えたものとなっています。荷物や家具調度品などの重たく嵩張るものの出し入れは、道や運河に面した屋根の頂上付近に取り付けた鉄のフックに滑車をつけ、縄を掛けて上げ下ろししました。
時には、ご亭主がジネーバ(稗や粟などの穀物でつくるアルコール度の高い値の安い地酒で、イギリスに伝わってジンと命名された)を飲み過ぎ帰宅することもあったそうで、そういった際には、道路でぐだを巻いてしまった亭主を縄り、フックに取り付けた滑車の縄を引っぱって吊り上げ、窓越しに寝室に運び入れることもあったとか…。

北欧では、強度のアルコール酒をビールと替わりばんこに飲む飲み方が、冷えた体を芯から暖める寒い冬対策として行なわれてきました。
中には悪酔いしてしまい、窓へと運び上げられる途中の中づり状態で、隣の家に住む美人妻に気があるのか?自分の妻の悪口を大声で怒鳴り散らしてしまった亭主もいたそうですが、妻は躊躇することなく、一晩中中づりでほったらかしにしたそうです。
くわばらな笑い話ですね。

男性の方々、ご油断めさるな!




1072  モットーは一生創作



歌にも歌われた、端し歩を突いた難波の男・坂田三吉を師匠に持ち、坂田の勝てなかった日本棋院の木村名人を破った男こそ、勝負師・升田幸三です。

升田さんは、生前インタビューで'人生は話し合い'(将棋は相手があり、替わりばんこに打つという意味か?)とか'一生創作'を続ける努力にあると言っています。
童話作家アンデルセンは、神がご自身でペンを持ち書いた話こそ、一人一人の人生だと言いました。物理学者アインシュタインは、2通りの人生があるのみと語り、日々が奇跡に満ちた新しい出会いの場と信じるか、毎日が同じことのくり返しと思い生きるかのどちらかだと言ったそうです。
NHKの番組'私の秘密'の名司会者・高橋圭三が番組の冒頭に、'事実は小説よりも奇なり'と語っていたのを懐思い
出しますが、事実の言葉の替わりに一人一人の人生という言葉に置き換えても良いのでは?と思っています。

春のオランダ・ベルギー旅行から帰国して2日ほど過ぎたある日、自宅の電話が鳴り、ツアーに参加された女性客のお
客の一人から、次のような内容の話を聞きました。
帰国の際、アムステルダム空港でスーツケースを航空会社に預けた後の集合場所を勘違いしてしまい、出国手続き場を通って中で待っていたそうですが、誰も来ないので不安になり, 搭乗ゲートに走っていったり免税店などの立ち並ぶ広い待合空間を駈けずり回ったそうです。最後の手段として、添乗員の私の携帯電話へ連絡をしようと公衆電話のある所へ行き、ダイヤルしたそうですが、焦っていたせいか?繋がらなかったそうです。
勿論、私の方でもお一人いないのに気付いて、出国手続き場近くのトイレの中や周辺を隈なく捜しましたが見つからないので、センディング・サービスの女性に引き続き捜して貰うようお願いして、出国手続き場を通って中に入ると、幸いそこに彼女がいて事なきを得ました。その際、彼女から集合場所の勘違いの詫びの言葉と共に、お金を入れたプシェットを電話口に忘れてしまったが見つからず、プシェットの事はきれいさっぱりと諦めると言われました。

ところが、今日になってオランダ航空の成田事務所から電話があり、そのプシェットが成田に届いていて、もうじき自宅に送られてくるという連絡があり、嬉しさのあまり私に電話を下さったそうです。
プシェットの中に日本からオランダへと飛んだ際、使用した搭乗券の半券が残っていて、プシェットを拾った善意の方がアムステルダムのオランダ航空のスタッフに届けてくれ、コンピューターで名前を検索して、既に帰国した団体のお一人であるのを見つけ出し、日本へと送られてきたようです。
'奇跡が起ったのですね!'と電話で喜び合い、人生捨てたものではない事を確認し合った次第でした。

過って、オランダ人は信仰の自由や重税からの脱却を求めて宗主国スペインに対して、80年に及ぶ独立戦争を行なったり、メイフラワー号に乗って自由を求めてアメリカへと旅立ったイギリスの清教徒を匿ったり、アンネ・フランクを始めとするユダヤ人を匿う優しさを歴史の中で見せてきました。
今回も、一人の日本女性に生きる楽しさ、信じる喜びを与えてくれました。

ダンキュウ  オランダ!
   




1073  ヤンキーとは太郎・次郎



オランダのゴイセン(海の乞食)たちは、16世紀から18世紀に世界の七つの海にチャレンジしました。

ニューヨークのマンハッタン島へやってきたオランダ人は、その地に住む先住民族(アメリカ・インディアンから島の一部を安い取引で手に入れました。境界に木の柵(ウォール)をつくりましたが、その柵のあった所こそ、世界の金融街として後に有名になったウォール街です。新しく手に入れた土地はニュー・アムステルダムと呼ばれるようになり、発展していきました。
オランダのアムステルダム中央駅近くにアムステルダム市の守護聖人であり、合わせて船乗りの守護聖人として、またサンタ・クロース(クリスマスにお馴染みの)の名で広く世界に知られる聖ニクラスを祀った聖二クラス教会や物見の塔(港から船出してゆく船員の夫や恋人を見送って泣いた婦人が大勢いたので、涙の塔の別名もある)があります。
オランダ黄金期の陰には、未亡人となってしまった女性が数多くいたことでしょう。

英蘭戦争でイギリスが勝利した結果、ブラジルの北東にある小さなイギリスが持っていたスリナムとニュー・アムステルダムは交換されました。名前も、イギリスのヨーク地方から大勢の入植が行なわれたので、ニューヨークと改められました。しかし、マンハッタン島の北に広がる地域を20世紀初めに高級住宅地として開発しましたが、オランダの羊毛産業や貿易で繁栄した歴史ある港町・ハーレムに因んで命名したそうですし、ケネディ空港のあるブルックリン区の名前も、ミュージカルでお馴染みのブロードウェイ通りも、オランダ語のブレートウェイ(広い道)からつけられました。

そして、ゴイセン(オランダの船乗り)で一番多かった名前が、ヤンでありケースだったそうです。日本語で言うなら、太郎・次郎に当たるのでしょう。
ヤンケースがヤンキーと呼ばれるようになり、アメリカ人の代名詞(北部に住む白人アメリカ人)になっていき、名門ニューヨーク・ヤンキーズの野球チームの名前も生まれたそうです。
    




1074  カルファ・ストラート付近では



カルファ・ストラートとは子牛通りとでも訳せ、成牛の取引が行なわれたアムステルダム市の発祥の地ダム広場と羊の市が17世紀初めまではたっていたというムント広場を結ぶ、緩やかにカーブしたアムステルダム市民の大好きなショッピング通りで歩行者天国になっています。

ガイド女史によると、カルファ通りは世界で2番目に古い歩行者天国なのだそうで、1番目はロッテルダムにあるそうです。さて、自転車や自動車がなかった時代に親牛と別個に子牛がこの通りで売買されていたとすれば、歩行者専用の通りになったのは第2次世界大戦以降のことでしょうか?
日曜日の朝は、アムステルダムの町全体が静かで車も自転車も人も殆ど見ることはなく、王宮や新教会、国家記念塔(第2次世界大戦の犠牲者慰霊塔)などのあるダム広場も静寂に包まれていました。しかし、午後を回る頃から商店のシャッターが開き、レストラン・喫茶店もオープンし始めると人や自転車、車が何処からか湧き出したように出てきて、いつもの活気に満ちた風景に変わりました。
7つの通りが交錯するムント広場にはムント塔があり、今は時を知らせる役目をしていますが、過っては町を外敵から守る市壁の一部として使われたり、塔の名の由来となった貨幣の鋳造も17世紀には行なったそうです。そして、傍を流れるシンケル運河沿いに二百年の伝統を誇るシンケルの花市場があります。
カルファ通りをダム広場に向かって歩くと、やがて左手にアムステルダム歴史博物館が見えてきます。孤児院や修道院として使ったいた古い建物を利用して、館内は換骨奪胎(剥製文化)した21世紀空間になっていて、13世紀半ばからアムステル川を堰き(ダム)止めて川の両岸に少しずつ町が広がっていった市の発展の過程が分り易く、時代を追って現在に至るまで展示してありました。

羊広場(ムント広場)から子牛通り(カルファ・ストラート)を通り、成牛取引広場(ダム広場)へと、世界で2番目に古い歩行者天国を散策してみては?
      




1075  ヨーロッパの女性は下着で勝負する 下着の文化がある!?



ヨーロッパでは、女性の下着だけを売る店が現れているようです。

町の中心通りを歩いていると、マネキンがブラジャーとパンティだけでショーウィンドーに飾ってあったり、色とりどりの下着が明るい広い店内いっぱいに売られていて、人目を引きつけています。以前は目にすることはなかった現象で、特別な通り(町によっては売春が認められていて、赤線や青線地帯とか妖しげなストリップ劇場やバーなどがある)に行けば、照明を赤系統で照らした入り口付近の小さい窓に下着に似た類のものを置いて、その先にあるものを暗示するのが限界だったように思います。
ある日本からの女性添乗員が、ベルギーの主要都市の表通りであっけらかんとして女性の下着が飾られているの見て、日本では決して目にすることのない現象に驚き感動して、こっそりデパートや衣料専門店の下着売り場で買っていた自分をダブらせながら、ヨーロッパ女性の解放された自己主張する文化に賞賛の声を上げたそうです。

北のベニスと讃えられ、羊毛産業で栄えた北方ルネッサンス芸術発祥の地ブルージュで、ガイドをしている60歳を少し出た2メートル近い大男のベルギー人男性に、女性の下着店の進出について訊ねてみました。
女性は、若いときは下着に関心もないし必要も感じないだろう。そして、老年になると若いとき同様、関心が薄れるだろう。しかし、多くの中年の女性はキャリアウーマンとして働き生活も豊かになった今、自分を美しく見せる自信向上に役立つ(?)下着に強い関心を抱くようになったからではないだろうか?そういった年齢層をターゲットにした店ではないか?と分析してくれました。
このガイド氏は、1967年に東京で行なわれた世界バスケット・ボール選手権のベルギー・チームの一員として来日し、代々木にある宿泊所で寝起きして、東京見物も殆どすることなく日夜練習に明け暮れ、5位に入賞したそうです。日本とも対戦しましたが、日本の選手は背が自分より頭一つ低く容易に勝ったそうです。

石畳の道を歩いていると、前方からヨーロッパ人の団体を案内してきた、未だ美しさの残る中年女性ガイド女史とすれ違いざまに濃厚なキスをしているので、一段落したところで聞いてみると、奥さんだとのことでした。












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