希望

      
1056  フォーマルなサービスが苦手な遊牧民の子孫



英国の国王をもてなす晩餐会で、ウェーターが国王の膝の上にスープをこぼしてしまったそうですが、謝らなかったそうです。

気を使ったアタチュルク大統領は、トルコ人は固苦るしいサービスに慣れていず、自由な遊牧生活を長くしていましたし、人前で謝るのは苦手なので社会マナーを教え難いと言って、その場を取繕ったそうです。
トルコ人は紀元後8世紀以前は、空を神として崇めるシャーマニズムだったそうで、青色は神様の色でした。青いトルコ石をお守りとして大切にしたり、通称目玉と呼ぶ幾重にも濃淡のブルーが交互に同心円を描き、真ん中の最も濃い青の目玉を囲んでいる飾り物も、空の神様の青色とメデュッサ(ギリシャ神話で、髪がヘビでできていて、彼女の目を見た者は石に変えられた恐い怪物)の目を重ねて、お守りとして今も広く使われています。

アナトリアの大地へトルコ民族がやってきたのは、今から千年を遡ることはありませんが、やがて定着して農業や牧畜業をするようになりました。それ以前は、テントに寝起きして数ヵ月ごとに水や牧草、そして安全性を求めて移動していった生活でした。遊牧民だった頃の習慣や習性は今も色濃く残っていて、田舎に行くと家の周りが汚れて汚いのは無頓着ですが、家の中は打って変わって綺麗に片付けられていて、床には絨毯が敷いてあり外で靴を脱いで入るそうです。
また、トルコ人一般は花や木には関心が薄いそうですが、トルコの大地に育つ植物の種類の多さは世界でも有数だそうです。何と桜はトルコが原産だそうです。遊牧の民は、木の苗や花の種を植えて、その成長を喜び愛でることはまずないそうです。

ガイド氏がスーパーマーケットへ出かけようとする日本人女性群に向かって、次のように忠告しました。お釣りが正確でないと気になる人、店員が親切でなくて、有難うございますと頭を下げてくれないと気に入らない人は、行かないで下さい。
お釣りが通常不足してくるのは、補助貨幣(クルッシュという名の通貨)のコインが不足していて、細かいお釣りは切り上げか切り捨てるかを、キャッシャーの判断で行なっていて、少々の違いは誰も気にかけません。イスラムの教えでも、寄付行為は大切な行いであり、恵まれない人たち(店員は給与が少ない?)に差し上げるという考えがあります。
決してごまかしたのではなく、お釣りがないだけです。有難うと言って頭を下げないのは、日本と違って礼拝で神様にだけするもので、'神様は神様、お客様はお客様'がトルコのサービスだと言って、笑わせてくれました。
コンヤで泊ったホテルの近くにある大型ショッピング・センターの中にあるスーパーに行かれた日本女性に、どうでしたか?と後で訊ねると、ちゃんと小銭のお釣も貰いましたと、笑顔が返ってきました。

トルコ共和国の国旗は、赤地に黄色の星と三日月が一つずつ描かれていますが、赤は先祖から脈々と受け継がれてきた血であり、星は遊牧民にとり大切な方位・方角を教えてくれ、三日月は月の満ち欠けで暦を読んだことやイスラム教の教祖マホメットがメッカからメディナへと移っていった時(イスラム教、イスラム暦の始まりとされた)、夜空には三日月がかかっていたそうです。
ウイーン近くからバルカン半島を経て、東は中国の新疆ウィーグル区まで今でも、トルコ語を使って旅ができると聞かされると、さすが遊牧民のスケールの大きさに自然に頭が下がります。
      




1057  モスクは国が建て管理し、僧侶は公務員


宗教と政治が一体化していたオスマン・トルコ帝国の悪弊を断ち切って、新生トルコ共和国は船出しました。

今も国民の殆どがイスラム教徒だそうで、神への感謝の祈りの時が近づいたのを告げるアザーンの声は、何処に行っても聞こえてきます。4〜5才で割礼の儀式があり、20代で結婚、そしてやがて死が男は平均68才、女は72才でやってきます。
結婚は町では75%、田舎では95%が見合いでするそうで、離婚率はきわめて低く、当然のことながら一夫一婦制です。市役所に届けでて調査(重婚とか病気のチェック)の後、結婚が認められます。披露宴パーティには、親戚縁者に加え、大勢の友人・知人や全く遭ったこともなかった両親の知人など様々な人がやってくるので、数百人を超すのが普通です。そういった為の会場があり、音楽バンドが入り食べ物は出さず飲み物だけのサービスで行なうそうです。
祝儀は両親クラスの人は5〜6万円程度の22金そのものをプレゼントし、兄弟従兄弟親しい友人クラスの人は2〜3万円、その他の人も5千〜1万円ほど包むそうです。大体,結婚に伴って生じる収支決算は帳尻が合うようになっています。

一方、葬式には金はかからず、公務員の僧侶がお経をあげてくれます。ただ、40日目には故人の知り合いが集い会食するそうです。
宗教法(シャリア)は廃止されていて、憲法のもとヨーロッパに法をとった民法が共和国では行なわれていて、宗教の選択は自由になっています。
イスラム教にも他の宗教と同様に多くの教団がありましたが廃止され、モスクは国が建てて管理していて僧侶は公務員です。

聖遺物崇拝は、多くの宗教につきもののようです。
仏教では、お釈迦様の骨や灰、歯など、キリスト教ではイエスの被ったとされる棘の冠や杭に架けられた時の木片や釘、衣など数多くの聖遺物や聖者を埋葬した寺や教会があります。ユダヤ教・キリスト教を同根の兄弟宗教と考えるイスラム教でも同様だったようです。

絶大な権力を誇ったオスマン・トルコ帝国は長い間イスラム世界の覇者であり、宗教面でもリーダーシップを発揮しました。
1517年にスルタン・セリム一世はエジプトへ遠征した際、当地を治めていた支配者(アッバス王朝の末裔)から降伏の印として、数々の聖遺物のプレゼントを貰いました。
最近、これらの聖遺物の展示がイスタンブールのトプカプ宮殿で始まりました。
古い順に展示してありますが、アブラハムの使ったとされる柄のついた深鍋、モーゼの杖、ダビデの剣、ヨセフ(イエスの父?)のターバン、ヨハネ(洗礼者?)の腕や頭蓋骨、マホメットの足跡や顎鬚、マホメットの剣、マホメットの旗を入れた箱、カアバ神殿の扉の鍵や雨樋、カアバ神殿の扉につけてあったカーテン、カアバ神殿内に安置してある黒い聖なる石を包んでいた金でできた容器などがあり、私たちのような物見胡散の観光客とは大違いで、トルコ人は一つずつ丁寧に説明に目を通しつつ、食い入るように聖遺物に見入っていました。
そして、そこでは公務員となった僧侶が交代で24時間途絶えることなくコーランを読んでいて、その低い声はマイクロフォンを通して館内にバックミュージックのように流れていました。
     




1058  二度も世界史を変えた場所



ガイド養成学校での仕上げの研修ツアーは、35日に及んだそうです。

毎朝、夜が明けやらぬ4〜5時に起きだして活動を開始、そしてすっかり暗くなった10時頃次の宿へ辿りつくといった強行スケジュールで、トルコの名所や遺跡を見て回りました。
古代世界七不思議のひとつに数えられるアルテミス神殿や図書館、アントニウスとクレオパトラが歩いた石畳の海岸大通り、聖母マリアや福音書を書いたヨハネ、そしてパウロも滞在したというエーゲ海に面したエフェスの遺跡すら、僅か30分ほど見ただけだったそうです。それでも、やっと7割をカバーしたに過ぎなかったと、10年前の体験を懐かしく語ったのが今回のトルコ人の日本語男性ガイド氏でした。

古代ローマ時代には、港は地中海世界の物産を満載した船で大いに賑わい、25万人もの人が生活していたエフェスでしたが、今は川の上流から運ばれた土砂で埋まり、海岸は遠く7〜8キロ先へと去りました。
誰もが驚嘆した、目を見張るほど大きく美しかったアルテミス神殿には、たった一本の途中で折れた柱が立っているだけです。神殿の屋根を支えていた石柱は、イスタンブールのアヤ・ソフィア寺院(ユスチニアヌス皇帝時代6世紀)建設の為、持ち去られました。
発掘は今も続けられていて、約3千年前にギリシャからやってきた人々により丘の上に町が築かれ、現在の遺跡は3回目に場所を変え、丘の斜面を利用し港まで拡大発展したヘレニズム・ローマ時代の最も栄えた時代に属していて、建設の素材には石灰岩、レンガや金属を使い、大理石の美しい化粧板が表面を覆っていた上下水道が完備された堂々たる町でした。
人間の営みに必要な宗教、政治、経済、文化と関係する建物が海岸通から丘へと続く大通り沿いに建っていたことが、これまで発掘した町の一部を通して分ります。よく古代ローマ時代の町づくりを知るには、ポンペイ(南イタリアのナポリ近郊)かエフェスが最適と言われます。1時間半のエフェス見学は、'もっと居たい''また来たい'という思いを与えてくれました。
それにしても、見ても殆ど見分けがつかないほど崩れてしまったトロイの遺跡が世界遺産になっていて、こちらエフェスがそうでないのは合点がいかない。背景には、ヨーロッパ人の一方的なトロイへの思い入れがあるに違いないと斬ってみせたガイド氏でした。

さて、現在のトロイの遺跡はエフェス同様、海岸から遠く10キロ近く内陸に後退しています。過って港町としてアナトリア(アジア)の最西端に位置したダーダネルス海峡の出入り口を押さえ睨みを効かせた、大いに繁栄した都市国家でした。
しかし、今も発掘がシュリーマン以来、百年以上続いていますが、日の目を見た遺跡を歩いてみても、到底紀元前3千年から紀元後数世紀まで九つの都市国家がトロイの地で、栄華を繰り返したのを想像するには、石と日干し煉瓦が丘の一角に残っているだけで、時の経過は何もかも消し去っていく'諸行無常は常ならむ'の印象を感じただけでした。

しかし、'一つはギリシャ神話に中で、もう一つは第一次世界大戦で、この地こそが世界史を変えたのです。'と斬新に新説を披露したガイド氏の目線でみると、違った映像が見えてきました。
幼年時代に、お父さんから聞かされ続けたギリシャ神話に登場するトロイ戦争は、本当に起ったと信じ続けたシュリーマンのお陰で、今では6番目に栄えた(紀元前1250年頃)都市国家こそ神話の舞台だったことが分っています。

神話では、トロイ王プリアモスが生まれてくる息子の所為で、トロイが滅亡する夢をみます。正夢になるのを恐れた王は、部下に新生児(パリス)を密かに殺すよう命じますが、不憫に思った部下は替わりに羊を殺し,その血をパリスの服につけて、王には嘘の報告をします。イダ山(トロイの後方、エーゲ海にかけて広がる山)中で羊飼いとして成長したパリスは、やがて父王に会い帰国を許されます。一方、ギリシャのオリンポス山では神々の集った結婚式に、ただ一人招かれなかった戦の女神アレスが嫉妬から黄金のリンゴを宴席に投げ入れます。リンゴには、'最も美しい方へ'と書かれていたのがきっかけで、女神三人(ヘラ、アテナイ、アフロディテ)が自分こそはと名乗り出てしまい、ゼウス神に審判を仰ぎましたが、誰を選んでも遺恨を残すことになるのを知っている智者ゼウスは、パリスに白羽の矢を当てます。そこで、女神たちのパリスへの口説き作戦(世界最初の買収?)が行なわれます。結果は、人間界で一番美しいと評判の高いヘレンを与えると約束したアフロディテ(ローマ神話ではビーナス)が選ばれました。しかし、ヘレンはすでにスパルタ国の王妃であり、略奪婚でパリスと結ばれましたが、へレンを取り戻す為にギリシャ連合軍が結成され、10年に亙ってトロイ戦争が戦われました。決着はギリシャ軍の木馬作戦という機略が功を奏しトロイ軍は負けてしまい、王子パリスはアイエネスに短剣を与え、落ち延びさせました。そのアイエネスが祖先となって、ローマの建国神話が始まることになります。
ガイド氏は、先進都市国家として要衝の地を占め、交易や各種の産業が盛んで富んでいたトロイへと殴り込みをかけたヘラスの人々(バルカン半島の先端に住むギリシャ人を指し、人口増加や土地不足で禿山が増えていた)が辛うじて勝利した結果、その後アナトリアのエーゲ海沿いや黒海へギリシャ人の入植が始まり、エフェスもその一つだったといいます。
世界史を変えた古代ローマの誕生に大いに関わったトロイは、遺跡から何も出ず何もなくても(シュリーマンが掘り出した高価な服飾品は多くロシアの博物館にあるという)、最重要と考える西欧人の思い入れがあるのだそうです。

トロイの遺跡を見た後、フェリーに乗ってヨーロッパ側へ渡る為に、アジア側のチャナッカレ船着場に向けてバスで走って、トルコで一番美味しいチーズ(ペイニリとトルコ語でいう)を作るエジーネの村を過ぎる辺りで、窓の向こうにダーダネルス海峡に沿って迫り出すようにヨーロッパ側にあるガリポリ半島が迫ってきました。
横に長く低く連なる半島の中腹に、木々が四角く切り取られ広い空き地になった所があり、兵隊の姿に似た白い石像が遠く空き地の中に見えてきました。
何の記念碑かとガイド氏に問うと、ガリポリ戦争(1915年の10ヶ月に及んだ英国連合軍とオスマン・トルコ軍の戦い)では、両軍合わせて60万人の兵士が亡くなったそうで、軍事大臣だったチャーチルは退任に追い込まれたそうです。トルコ軍の勝利に帰しましたが、もし英国が勝利していたら、イスタンブールは落ち戦争は早く終っていただろうし、黒海へと連合軍は進出し、ロシアで共産党(ボルシェビッキ)革命(1917)も起らず世界史は変っていたと思うといいます。
対岸に見える白い石の像は、ガリポリ戦争で闘った兵士を表していて、そこに行くと、
'旅人よとまれ 知らないうちに踏んできたこの土は ある時代が終って 新しい時代が始まった'と記されているそうです。
松尾芭蕉が奥州平泉に行ったとき、詠んだ
'夏草や 兵どもが夢のあと'に当たるでしょう。と静かに言い添えてくれました。
       




1059  タジンこそエジプト料理!


ルクソールの西岸に日が沈み涼しい風が吹き出す頃、ホテルの中庭を突ききってナイル河の辺につくられた中華レストランで夕食を取りました。

世界中何処に行っても、中国人料理人がつくる中華レストランがあり、味も一定していて現地の人が好んで食べている風景を見ると、さすが世界に冠たる中華料理だな〜といつも感心していました。念の為、給仕をしているエジプト人に確認すると、厨房のシェフはやはり中国人だとのことです。
ここ10年ほどは、日本食ブーム(カロリーが低く太らないヘルシーなフードで、エキゾチックな味と雰囲気に加え、高い値段も魅力になっている?)が世界中で起きていますが、シェフは見よう見まねで昨日今日覚えた日本人ではない人がやっているレストランが多くあります。日本の中華レストランは別ですが、まず海外で中華レストランに入り、中国系でないシェフがつくる料理にお目にかかったことは滅多にありません。

テーブルに出された料理には殆ど手を付けず、僅かに特注した何の具も入っていず、味も付いていない茹でただけの麺(パスタ)を盛った皿に、しきりに塩と胡椒をふりかけてフォークで食べたのが、エジプト人ガイド氏でした。
パスタ(麺)の中に訳の分らないものが入っているのは嫌いで、他の中華料理も口に合わないそうです。そして、胸を張ってタジン(野菜を煮込んだ香辛料入りの肉や魚料理)こそエジプト人の好むものだといいます。
また、声を荒げて話す中国人も嫌いだし、安い中国製の品物も一回使うと壊れるのでダメだといいます。日本人や日本食はどうか?と聞くと、日本人は静かで分別があるから好きだし、日本食は値段が高すぎるので食べたことは未だないそうです。

所変れば品変るとはいうものの、中華料理が嫌いな人に出会ったのは初めてでしたし、よく掛ってくる彼の携帯電話の着信メロディは、コーランの一節を男性の朗々とした声で静かに詠いあげるものでしたが、会話の内容は分りませんが、少なくとも私には彼は中国人のように相手に怒鳴っているように思えてなりませんでした。
      



1060  大局観を失うと…


水や湯が充分に出るか当てにならず、部屋の中にヤモリや蜘蛛や蚊がいたり目覚ましコールの電話も壊れて鳴らないアブシンベルの宿でしたが、庭からのナセル湖の眺めは素晴らしく早朝から小鳥が鳴いていて、食事もそれなりに美味しくて、少なくとも冷凍食品や農薬漬けの野菜や穀物は使っていないと思えます。

落日後、アブシンベル神殿を舞台にして行なわれる光と音のショーや早朝の一条の朝日が大神殿奥の聖所にある御神体を照らし出すのを見る為には、この地に泊る他はありません。
アスワンの町から250キロ離れた沙漠を貫いてつくられた一本の舗装道路を、観光警察の車に先導された大中小のバスが連なって走り、スーダンとの国境まで僅か60キロのアブシンベルにやってきました。途中は、本物の蜃気楼(山や湖があるようにみえる)と本物の砂の山と水溜りが混然とした風景がありました。

1971年に10年の歳月をかけて完成した新アスワン・ハイダムですが、ほおっておけばナセル湖の底に沈んでしまい、永久に失われてしまうアブシンベル(金の出る所という意味)神殿(紀元前13世紀の第19王朝ラムセス2世のつくらせたもの)でしたが、ユネスコの働きかけで資金と知恵が結集して丘の上に移されました(1968年)。
ラムセス2世は聖書に登場するモーゼ(出エジプトや十戒で有名)の頃に活躍した人で、ヒッタイト人を相手にしたカデェシュの戦いで有名ですが、長期に亙ってファラオとして君臨しました。また、ヌビア人(肌の黒い上エジプトに住む、エジプト人とは異なった言語や文化を持つ人たち)の美女ネフェルタリを愛した王であり、アブシンベル小神殿は彼女の為につくらせたとも言われています。
そして、私たちの宿こそ1980年代の初めに遺跡近くにできたネフェルタリ・ホテルでした。

朝食が終り庭で雑談が始まると、自然と話が中国製冷凍食品になってしまいました。
すると、女性のお一人が20年前に、作家の有吉佐和子さんが'複合汚染'と題する本で、農薬や産業廃棄物などのもたらす害を書かれていたと言われ、ご自身は長い間40坪の畑を農家から年6千円で借りて、野菜を作っていると話されました。
現在の疲弊した日本の農業はどうして起ったのでしょうか?
旅行業に長い間、身を置いている私には米作日本一と持て囃された、昭和40年代前半から農協主催の農家の方々がハワイやアジアへと出かけていかれたのが、始まりではなかったかと思っています。後継者に恵まれた明るい農村をつくる手助けとなるはずの農協が、本来ならアメリカのような大型農業であって初めて必要となる農業機械を、もしくは地域で数台購入して管理し順番に農家が使えば済むものを各農家に買わせたり、マイナス面が必ずある農薬を安易に勧めた事は残念でなりません。勿論、自民党政治や高度成長期の浮かれたマスコミ報道の責任は重要だったと思います。
そして、今でも土地開発・団地造成業者は鵜の目鷹の目で金儲けをの種を探しています。
例えば、メディカル・モールが一例のように思えます。
総合病院などで働く若い医者の過重勤務、低収入に目を付け、開業すればプライドや夢を掴むチャンス(収入が上がり、患者への誠意ある対応が可能となる)だといって勧め、団地やショッピング・センターなど人の集まる所に、広い駐車場,医療に適した建物や部屋空間を用意します。30代の勤務医にすれば、何から何まで揃っていて借地代を払えば、即夢が適う思いに駆られるそうです。ただ、病気の原因を見つけるための各種の高額検査器械を購入するのに1億円はかかるそうです。1億円の借金を背負っての開業では、果たして医は仁術なりのような赤ひげ先生は永久に望めないように思います。

カナダのトロントにあるオンタリオ州立議事堂前の大通りに沿って、4つの大型専門病院(小児、産婦人科、内科外科、脳など)があります。聞くところによりますと、大通り下の地下空間は、それぞれの病院が繋がっていて連帯して購入した巨額の医療検査器械が置かれているそうです。初めに患者ありきの姿勢で公共に奉仕する病院や医者なくして何の意味があるのでしょう。
何もかも自分でしなければ気が済まない、嫌なものを目にしたくない小さい人間にはなりたくないですね。
ヤモリや蜘蛛、蚊のいる部屋も互いに縄張りがあり、越境するものが餌食になる自然の条理が働いているように思えて、一夜の宿(出来立ての頃は、美女のネフェルタリのように輝いていた?)にも愛着が生まれました。ホテルの為に言っておきますが、蚊避けの為の電気仕掛けの器具が枕元にありました。









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