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希望

     
1051  地中海は陸地の真ん中



古代ローマ人はメディ・テラ・ネオと呼び、陸地(テラ)で囲まれた真ん中(メディ)にある海のことを我らの海と讃えました。

テラとはヨーロッパ大陸、アジア大陸そしてアフリカ大陸を指していて、都市国家ローマは三大陸に跨り、地中海を中心にした広域支配を長い間行いました。
さて、ヨーロッパという言葉には寒い、寂しい、日の沈む所といった意味が元々あったそうで、古代ギリシャ人の書き残した神話によると、日の昇る明るい、豊かなアジアの地で憩っていたヨーロッパという名の人間の美女に一目ぼれしたゼウス神が牛に化けて近づき、気を許した美女ヨーロッパが背に乗った隙に空高く舞い上がり、地中海洋上のクレタ島に連れ去ったそうです。神話は完全な作り話ではなくて、多分に歴史的事実を含んだものと云われていて、恐らくギリシャ人にとっては東にあたる太陽の昇るアジアこそ憧れの地と捉えた結果、トルコのイオニア海岸や黒海などへ早くから移民、植民して出て行ったのでしょうか?
文化や農耕、商売の先進地域であるアジアから技術や人材を持ち帰ることで、ようやくヨーロッパが明るく輝いたことを神話は語っているのかも知れません。
あるいは、ギリシャ神話の最高峰である'イリアド'の中で、スパルタ王の妻ヘレンをめぐるトロイ戦争も、アジアの地で繁栄する都市国家トロイへ後進都市国家同盟のギリシャ軍が、なりふり構わず殴り込みをかけた戦争だったと見ることも可能です。

時は移って、14〜15世紀に至ると、アナトリアの地にはオスマン・トルコ帝国が強大となりバルカン半島、北アフリカや近東、中央アジア地域にも支配を拡大して行きました。
結果として、地中海に面したアナトリアの一部をアジアと呼んだ古代ギリシャ人でしたが、インドやインドシナ、中国やシベリヤまでを包括する地域をアジアとヨーロッパ人は呼ぶようになりました。
近代ヨーロッパ人にとりアフリカやアジアは、キリスト教徒以外の異教徒の住む肌の色の違う、そして魅力いっぱいの物産(金、象牙、香辛料、絹など)に満ちた所であり、征服してキリスト教化しなければならないと考える傾向が生まれたようです。
それは大いに間違ったことであり、むしろ私達アジア人こそヨーロッパに住む白人にとっては、長い間文化や歴史、マナーや物産に至るまで教師であったことを誇りとすべきです。

さて残ったアフリカ大陸ですが、地中海の覇権を長い間競ったローマのライバルであった北アフリカ海岸の都市国家カルタゴの支配する土地のことを指して、アフリカと呼んだそうです。
アフリカの地中海に面したサハラ砂漠やリビア砂漠の北は、地中海文明圏に属していて、古代エジプト王朝以降早い時期から周辺地域にその存在を知られていました。
更に興味深いのは、北アフリカ一帯に住む人たちが一様に肌が黒くなくて、聖書に云うハム語を話すハム族であったりベルベル族など中間色の肌の色をした人が多いことです。

そしてサハラ砂漠以南となると、19世紀末まではヨーロッパ人にとっては謎に満ちた暗黒の地だった印象があります。勿論現在では、暗黒の地こそ、人間族が発祥した聖地であり、その楽園から何波にも亙って他の大陸へとチャレンジした(ボートピープルや流浪、放浪の旅?)お陰で、ホモサピエンス族が世界中にいて繁栄できたと考えられています。
それにしても分りにくいのは、アフリカ海岸や川には魚や貝が、ジャングルには果物や植物・動物が、そしてサバンナには動物がいて、一年中温暖な満ち足りた楽園(?)を何故後にして(アウト オブ アフリカ)私たちの先祖は未知の世界へ雄飛したのでしょう?

新大陸アメリカが世界地図に加わるまでは、地中海を中心にしたヨーロッパ・アジア・アフリカの三大大陸だけ存在したように見えます。
3大陸の真ん中の海(地中海)の僅かな水の出入り口は一つは、地中海と黒海を繋ぐ海峡(ダーダネルス、マルマラ海、ボスフォラス)であり、紀元前5世紀初めにはペルシャ軍がバルカン半島へ攻め入り、また紀元前4世紀末にはアレキサンダー大王が海峡に船を繋いで橋をつくりアジアに押し渡りましたし、第一次世界大戦では英国とオーストラリア・ニュージーランド(アンザック同盟)軍が海峡に侵入してイスタンブールを目指しましたが、ムスタファ・ケマル(後のアタチュルク初代トルコ共和国大統領)率いるトルコ軍に負けています。
この海峡こそヨーロッパとアジア(ユーロ・アジア→ユーラシア大陸)を分ける、いいえ繋ぐ架け橋であり、フェリーで渡って20分、橋を車で渡れば2〜3分ですが、この海峡上で生まれた赤ちゃんこそ正真正銘のユーラシアの子供と呼ぶのに相応しいかも知れません。
二つには、アフリカとアジアの間に紅海があります。
スエズ運河が19世紀半ばに完成して、ヨーロッパとアジアを結ぶ海の道が大いに短縮されました。また、エジプト新王国18王朝時代ハトシェプースト女王(紀元前16世紀)は砂漠に運河を紅海へと掘り、プント王国(アフリカのソマリアあたりでは?と云われている)へ交易船を出したそうですし、聖書では、モーゼ(紀元前13世紀)に率いられたユダヤの民がエジプトを出てカナンの地(現在のイスラエル周辺)へ向かいましたが、紅海が二つに割け乾いた道ができた奇跡の起きた場所として知られています。
三つには、アフリカとヨーロッパ、そして大西洋を分けるジブラルタル海峡があります。
ギリシャ神話では、ヘラクレスの柱がそこには建っていて、柱にはノン・プルス・ウルトラ(先には何もない)と刻まれていたそうですが、コロンブスによる新大陸発見以降はスペイン帝国皇帝カルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)の皇帝旗にはノン・プルス・ウルトラに替わりプルス・ウルトラ(さらに先が)のラテン文字が記されました。また
711年には、北アフリカのベルベル族のターメリックに率いられたイスラム軍がジブラルタル海峡を渡り、対岸のヨーロッパの岩の上に立ちました。この岩山はジブラルタルと呼ばれますが、アラブ語のターメリックの岩がなまったものです。
1415年には、ポルトガル軍がアフリカのセウタの地を攻めイスラム軍に勝利して、その後ポルトガルはアフリカの西海岸伝いに南下して、アジアへ行く航路を国策としました。
2008年の正月には、3度も一番狭い11キロのジブラルタル海峡部を泳いで往復しようというスペインの水泳の名手がいるそうです。

さて、地中海ですが、過っては陸でありアフリカやヨーロッパと地続きだったこともあるそうです。
イタリアのシシリー島にほど近くアフリカのチュニジアへもあまり離れていないマルタ島の洞窟からアフリカ大陸にしか生息しない動物の化石(骨?)が見つかったと、以前行った時に聞きました。また、モロッコの砂漠近くの岩には、海の生物の化石が入っていたり、ヨーロッパ・アルプスも過っては 水の中にあったことはよく知られています。
想像を超える地殻変動が地中海一帯、いえ地球では起ったことでしょう。
二千三百年前にアレキサンダー大王のつくったアレキサンドリアの町も、地中海の海の底に一部沈んでいますし、トルコのイオニア海岸辺りにあった古代都市も今は海に飲み込まれています。
地中海から先史時代に生きた人たちの遺跡も沢山見つかっています。マルタ島にあるハイポジューム(地下神殿)では、石だけを使い岩盤を地下に向かって掘って行き、相当広い空間を確保して、目的に応じた葬祭用の部屋や墓を幾つもつくり、地上からの日の光が聖なる場所を照らす工夫されています。
また、地上でもマルタ島の別の場所ですが、見晴らしのいい台地の上に巨石を一定の形に積み上げて、謎の巨石遺跡を残しています。類似するものはイングランドの内陸に残るストーンヘンジやアイルランド、フランスのブルターニュ半島のカルナック遺跡などもあり、船を利用して地中海民族と大西洋上の島や半島に生きた民族との交易や交流があったと考えられます。

文字を持つようになって歴史時代が始まるそうですが、古代エジプト、ミノア(クレタ島)、ミケネ(ペロポネソス)、キクラデス(ギリシャ沖の環状諸島)、そしてアジアの諸地域(メソポタミア、アッカド、バビロニア、ヒッタイト、アッシリア、ペルシャ、カナンなど)を巻き込んだ広域に亙る文明が地中海で生まれています。
フェニキア人はアルファベットの元を考えましたし、ギリシャ人やローマ人はヨーロッパ文明の生みの親の役を、カナンの地を神から貰ったユダヤ人はユダヤ教だけでなく、キリスト教やイスラム教の骨子をつくりました。

陸の中の海(地中海)は、魅力いっぱいです。
     



1052  ダフネに出会う?



アンカラ空港の上空は深い霧に覆われていました。

2008年1月17日夜11時近く、ミュンヘンから飛んできたルフトハンザ機は2度も翼を下げて着陸態勢に入りましたが、2度とも途中から急上昇して視界の効く夜空へ舞い上がりました。周囲を山に囲まれた盆地に開けたアンカラは、政治や学問、公務員の集中する町であり、街灯や家の灯りが照明を暗くした機内の窓の下に美しく見えていました。

一旦、地中海に面したアンタリヤへ給油の為向かう放送がありましたが、10分もするとイスタンブールへと変更したとの案内がでました。真夜中近くイスタンブール上空へやってくると、天空には満月に近い月や星があり、下界には大都会で生活する人たちの人工の灯りが連なっていて、そんな中に黒い一本の帯が流れています。その黒帯こそが、黒海とエーゲ海を結ぶ水の流れボスフォラス海峡であり、マルマラ海、ダーダネルス海峡でした。
給油が終って再びアンカラへと引き返し30分も上空を旋回していましたが、益々空港の上空の霧だけが梃子でも動かない決心をしたかのように低く大地にへばりついている様子で、結局イスタンブール空港へ午前3時に戻ってきました。
入国手続き、そしてスーツケースを貰って航空会社手配のバスに乗って空港近くのホテルに行き、部屋に入ったのは5時近くになってしまいました。部屋に追っかけるように、アンカラ行きの飛行機が正午丁度12時イスタンブール発のトルコ航空に決まった知らせがやってきました。ホテル出発は午前9時45分です。シャワーをとり仮眠をとった後で、地下一階のレストラン'ダフネ'で朝食を済ませました。

レストランの中は、四方の壁の半分が大きなガララ張りの窓になっていて、窓の外は青い海(マルマラ海)が広がりカモメが舞っていて、青い空が背景をつくっています。
ギリシャ神話の中で、アポロン(太陽神、音楽の神)は美少女ダフネに恋して執拗に追いかけますが、ダフネは父(河の神)により月桂樹(ローレル)の木に変えられて守られます。アポロンはダフネの替わりに月桂樹の小枝を取って頭に飾ったそうです。
私には、ふと前を流れている海がダフネの父である河の神と想定して、このレストランの名前を娘ダフネと付けたのでは?と思えてきました。ホテルの庭に月桂樹の木が植えられていたかどうかまでは分りません。ヨーグルト(トルコが原産だそうです)に蜂蜜をたっぷりかけて食べたことは憶えているのですが…。

アンカラで待っていてくれた日本語ガイド氏は、アンカラ大学の日本語学科を優秀な成績で卒業して、ガイド養成学校に半年通い、仕上げは52日間のトルコ周遊研修旅行(毎日早朝から夜遅くまで見て回っても、やっと全土に散らばってある名所・旧跡の7割がカバー出来ただけだそうですが…)をこなし、その後で行なわれた国家試験を見事パスした
33歳のガイド歴9年の精鋭でした。5年前に、お母さんが見つけてくれた女性と(トルコでは8割近くの男女は見合いで結婚するそうです)結婚していて、もうじき2番目の赤ちゃんが生まれるそうです。
そして、彼の長女は3歳で、今は何にでも興味を持っていて、どうして?何故?を連発する目の中に入れても痛くないほど可愛い娘だそうで、名前はダフネだそうです。
命名の理由は、ただダフネという名の響きが好きだったからと言っていました。

思いもしなかった霧のお陰で、アンカラやイスタンブールの夜景の美しさに浸れ、またイスタンブールのダフネに会い、そして名ガイド氏の娘ダフネにも近づきになれました。
      



1053  割礼と兵役は男を一人前にする



長身で,しまった体つき、優しい物腰で静かに話す青年とアンカラに向かうトルコ航空の中で知り合いました。

眼下には、真っ白に化粧したアナトリアの山々や高地が見えています。
彼はコンヤ(聖書にイコニウムの名で記された古い町で、中世にはセイジュク・トルコ王朝の都でした)出身で、イスタンブールで軍の経営する高校で学ぶ3年生で17歳だそうです。卒業後は、アンカラにある4年生の海軍士官養成学校に進学する予定で、将来は職業軍人として国の為に働く積りだと言います。
見せてもらった彼の通う高校の写真(絵はがきになっていた)には、国父アタチュルク大統領の顔が左上に載っていて、建物の前は水の流れが横たわっている夜景でしたが、どうやら何度かその建物の前をバスで走った見覚えのある金角湾に面した、過ってのタバコ工場だった歴史建造物のように思いました。
休みには魚釣りや水泳をするのが好きだと語り、冬休みを利用し帰るところだが、飛行機が霧か何かの理由でコンヤへ飛ばない為アンカラまで飛んで、そこから先はバスで帰省するそうです。
国の周囲をギリシャ、ブルガリア、ロシア、アゼルバイジャン、グルジア、アルメニア、イラン、イラク、そしてシリアの国々に囲まれた環境の中、国防は大切と考えていて、外交の最後の手段は軍事力しかないと思うと語ってくれました。目の澄んだ、もうじき大人になる若者と久しぶりに会話しました。

第一次世界大戦(1914〜1918)の後、オスマン・トルコ帝国の崩壊で、ギリシャやイギリス、フランスにイタリア、ベルギーもロシアも、そしてアルメニアまでが領土拡大を意図してアナトリア(日本の約2倍の広さ)へと進攻しました。アンカラ周辺(アナトリア文明の遺跡が多くある)しかトルコ人に残っていなかった状況でしたが、押し戻してアナトリア全土を取り戻した国防戦(1919〜1923)を名将ムスタファ・ケマルの指揮の下、あらゆる職業の人が義勇軍に参加してゲリラ戦で戦い抜いた経験があります。

寒村に過ぎなかったアンカラ(当時はアンゴラと呼ばれていた)を首都と定め、アナトリア(日の昇る大地という意味)を舞台にハッティ族からオスマン・トルコ族に至る1万年に及ぶ数多くの民族(24の王国か生まれた)が興亡してきたことに価値を見出し、またトルコ民族は僅か千年前にやってきただけに過ぎず、トルコ人は多くの民族から構成されていて、アンカラにアナトリア文明博物館をつくることを提唱したのもアタチュルク(ムスタファ・ケマル氏にトルコ国民が贈った苗字で、トルコの父という意味)大統領でした。
国を失い流浪の民になる恐さを知っていた、公平無私でトルコ国民を愛した政治家・思想家・そして軍人だったアタチュルク氏が呼び覚ました愛国の心は今も脈々と流れていて、至るところに国旗が立っていて、何が起っても国旗のある所に行けば安心だという思いを、国民に与え続けていると、ガイド氏は語りました。

国教ではなくなったイスラム教ですが、国民の大半は神アラーを信じていて、男子は5〜6歳で割礼を受け、徴兵制により15ヶ月の兵役があり、この二つを通過することで初めて一人前の男になれる社会だそうです。
流暢に日本語を操る33歳のガイド氏は、決して日本語が好きだから、日本が知りたいから大学で日本語を選んだのではないそうで、フランス語の先生が日本語を話せたら将来仕事には困らないだろうと勧めてくれたのが、直接のきっかけだそうです。若者が多く、人口7千万人の2割近い失業者をかかえるトルコにあって生活していく為に日本語を学んだが、在学中の日本語力はたいしたものではなかったそうです。短い文章を丸暗記して、その中に当てはまる単語を少しづつ増やしていくやり方で覚えていったそうです。
カッパドキアのとある町の交差点で日曜日の朝でしたが、小学生が一人で立っていました。塾に行く為にバスを待っているのだそうです。しかし、小中学校は午前と午後入れ替えの二部授業だそうですが、ガイド氏の厳父は大きな私塾の校長をアンカラ郊外でしておられるそうです。

時にインターネットで知る日本で起きている殺人、若者のだらしなさ、家族愛や隣人愛の欠如にビックリしてしまい、バスや電車で老人や大人を無視して座り続ける若者はトルコにはいないと話し、日本からツアーでやってくる若者の話す新日本語はよく理解できないそうです。蒙古草原にいた突厥族などのトルコ系民族が、西に旅してやがてトルコをつくり、東に旅した仲間が日本に行って日本をつくった兄弟民族と考えることも可能だとすれば、百年ほど前オスマン・トルコ海軍の船が和歌山県の沖合いで難破して死線を彷徨う船員を直肌で暖めて蘇生させた日本女性の友情の篭った愛、イラン・イラク戦争の直前テヘランで日本からの飛行機を待つイラン在住の日本人三百人余りを、トルコ大統領の決断でトルコ航空機2機を送り無事救出させた行為、西部アナトリアで起きた地震ではいち早く救援隊を送った日本です。ボスフォラス海峡の上には橋が、そして海峡の地下には鉄道が日本の技術協力で出来ています。

日本を知る、そして日本を愛するトルコ人たちは今の日本を心配してくれていますぞ!
        




1054  一千言に勝る一枚のグラフ



フローレンス・ナイチンゲールは近代看護の母と称されていますが、同時に長けた統計学者であり、1858年に女性として初めて王室統計学会の会員になりました。

クリミア戦争で負傷した英国兵士の看護を戦場近くで女性として初めて行い、衛生の大切さに気付いた最初の人でもありました。平時においても軍施設(バラック)で生活する兵士は、市民と比べると倍の死亡の可能性があることを明らかにして、バラックでの衛生向上運動を推進しました。

'ナイチンゲールの薔薇'もしくは'ナイチンゲールの鶏頭'と呼ばれたグラフは、クリミア戦争(19世紀半ばのロシア軍とトルコ・イギリス連合軍の戦い)での兵隊の死亡原因を三つに分け、今でいうパイ・チャートにして、一目でわかるようにしたものでした。
予防可能な伝染性の病気(コレラや赤痢など)で亡くなった人は青色、負傷が原因で死んだ人は赤色、その他不明の要因の人は黒色で表示し、右回りに円を描くように年を追って月別、地域別に繋げて赤や黒を同心円の真ん中近く、外側に青を配した図式算法となっていて、戦争が最も激しかった1854年11月でも、負傷が原因で死ぬ兵士よりも伝染性の病気で死ぬ方が多かったことが分ります。
結果としては、軍病院内の衛生向上に役立ちました。
ナイチンゲールが活躍したトルコでの病院だった建物は、イスタンブールのアジア側のマルマラ海近くに今もあります。また、ロンドンには国会議事堂とテームズ川を挟んで向かい合うようにセント・トーマス病院があり、そこで世界最初の看護婦養成学校ができました。

次に1812年のナポレオン軍によるロシア遠征の悲惨さは、半世紀後の1861年にフランス人メナード(ダムや運河、橋をつくる土木エンジニアーだった人)が一枚のチャートで表しました。
縦軸の中に1ミリを1万人の兵士として計算し、モスクワに到達するまでの兵隊は金色の帯で、そしてその下に黒色の帯でモスクワから引き返してくるナポレオン軍が時が経つにつれ細く細くなっていった様子が描かれていて、チャートには川の名や町の名、戦場名が記された地理、時の経過、ナポレオン軍のとったコースや動き、残存兵の数まで載っていました。また、チャートの下にはモスクワからポーランドへと退却していく兵士を容赦なく襲った寒波(気温の急降下)の有様も時間を追って記されていて、目に余る惨状を赤裸々に示したものでした。
ポーランドをモスクワに向けて出発した時には42万2千人の大軍隊でしが、モスクワに到達したのは10万人でした。そして、僅か1万人の兵士が再びポーランドの地に帰還できただけでした。
随分前のことですが、ワルシャワに行った時、郊外の宿に泊ったことがあります。
そのホテルは、過って貴族の館だったと聞かされ、ナポレオンがモスクワ遠征に備えて滞在した場所で、貴婦人との間に赤ちゃんまで生まれたのだそうで、記念にナポレオンのNのマーク入りの分厚いガラスの花瓶を貰ったことがありました。
     



1055  コンペで優勝したアタチュルクの考えを形にした廟



トルコ共和国(1923年に誕生)の父と讃えられるアタ(父)チュルク(トルコ)初代大統領は、1881年にテサロニケ(現在はギリシャ国)に生まれました。

誕生日は分っていません。しかし、第一次世界大戦(1914〜1918)が終った翌年の1919年、トルコ独立の為に立ち上がった義勇軍の指揮を執るために、黒海に面したサムソンにイスタンブールからやって来た日(5月19日)を生まれた月日としたそうです。亡くなったのは1938年11月10日午前9時5分で、イスタンブールのドルマバチェ宮殿でした。
今もトルコ中の公園にはアタチュルク氏の胸像や騎馬像があり、公共の建物には彼の演説や書物から抜粋した文章が飾ってあります。
名前はムスタファといい、小さかった頃から頭がよく勉強好きな子供だったようで、算数の先生がケマル(秀でた)というニックネームをつけたそうですが、以後ずーとムスタファ・ケマルと呼ばれることになりました。白い肌に青い目、金髪の若者へと成長していき、ミリタリー・アカデミー(軍隊式訓練を重んじる私立の高等学校)、軍の大学を経て陸軍の歩兵将校になりました。

戦場にあっては自身の身の安全には全く無頓着で、戦略や戦闘での天才的な指揮が冴え渡りました。一躍民衆のヒーローになったのは、第一次世界大戦の初めガリポリ戦(1915年の10ヶ月に及んだ戦い)で、オーストラリアとニュージーランド軍(アルザックス)を主力にした英国軍は、狭いダーダネルス海峡(ヨーロッパ側のガリポリ半島とアジアの間)を通って都イスタンブールの陥落を企てましたが、陸軍歩兵中佐ムスタファ・ケマルの獅子奮迅の活躍で阻止されました。
しかし、4年に亙った戦争はオスマン・トルコ帝国の敗北に終わりました。
1831年にトルコから独立したギリシャが、新ギリシャ帝国(過ってのビザンチン帝国を夢見た?)の成立を目指して、1919年5月15日にスミルナ(今のイズミールでエーゲ海に面した重要な港湾都市)に上陸しました。それに対抗して、5月19日にはレジスタンスが組織され、トルコ独立戦争が始まりました。1921年9月にはギリシャ軍がアンカラ近くまで攻め込みましたが、ようやく1922年9月9日スミルナの奪還に成功して、やがて戦争は終結しました。

オスマン・トルコ帝国の衰退から崩壊、様々な国々の恰好の餌食になりましたが、常に民衆を勇気づけ戦い抜き、新生トルコ共和国の誕生にまで漕ぎつけられたのは、ムスタファ・ケマル・パシャ(将軍)に負うところ大でした。そして、彼のリーダーとしての優れた資質は、灰に帰したアナトリアの地をもう一度蘇らせるプランを持っていたことでした。
政治と宗教が分離した、主権在民の近代国家をつくるために,王とその家族を国外に追放し、フランス家族法(一夫多妻の廃止)を取り入れ、新憲法(1924)をつくりました。
宗教は危険でありアヘンのようなもので、医者が使えば薬になるが、マフィアの手に落ちれば毒になる(カール・マルクスが言ったそうな)として、イスラム教は国家の管理下におかれました。女性の髪や体を覆っていた衣(フェズ)を廃止(1925)し、結婚は市役所で行なうようにしました。独立できたのは、危険を顧みず武器をつくり運んだ女性のお陰であり、夫や父親が死んでも金銭の保障を得られるよう女性の地位は法律で守られるようになりました。1934年には、婦人参政権が与えられました。それは、日本(1945)と比べて11年も早いものでした。
また、書き言葉としてのトルコ語をアラビア文字からラテン語表記に改め(1928)、本来のトルコ語の特長が活かせるようになりました。経済面では自給率を高めるようにし、先進技術の習得の為、明治維新の後で日本がしたように留学生を国外に送りました。
1935年には国民は初めて苗字を持つことになり、ムスタファ・ケマル氏はアタチュルクの苗字を国民から貰いました。

退廃していて無知、無能で陰気であるとか、歴史の中でヨーロッパに攻め入ろうとした恐ろしいトルコ人、あるいはキリスト教徒でないので無価値な人たちと言ったヨーロッパ人の抱いていたイメージや先入観の払拭を推し進め、退歩して自信を失いつつあったトルコ人に自信と希望を与え、未来志向の国へと変容させた人がアタチュルク大統領であり、後にエジプトのナセルやイランのシャー,その他のイスラム諸国のリーダー達のモデルとされましたが、誰もアタチュルク氏ほどの成功を収めることはありませんでした。

寒村にすぎなかったアンカラを首都にした理由としては、軍事的に重要であり安全性が高いこと、地域の経済発展を増すこと、そして独立戦争での感謝が込められているようです。
アナトリア(日の昇るところという意味)の地は、古来多くの民族が行き交ったところであり、国は簡単には出来なかったし簡単には無くなって欲しくない願いを込め、新しく出来たトルコ共和国は多い民族からなる国であり、アンカラにアナトリア文明博物館をつくることを提唱しました。

トルコ共和国の成立(1923)から大統領の死(1938)までは15年ほどでしたが、
時・場所・目的(TPO)がぴったりと一致した稀有な例であり、今もトルコの人から愛され尊敬され続けています。

アタチュルク大統領の廟はアンカラの丘にトルコ中の土や木々を持ち寄りつくった公園にあり、参道の両側はアナトリアを舞台に興亡した24の国を象徴する24頭のライオン(力を表す)の坐像(素直さを意味する)があります。素直で従順なライオンですが、歯を露にしているのは闘う意思を示しています。
参道が尽きると、広い四角形の広場にでます。広場の左奥に廟が見えていて、石段を登った高いところに直線美の極みを見せていました。廟はギリシャ・ローマ風の建築様式で、屋根はテント型になっていて遊牧民族の伝統を、そして天井にはヘレケの絨毯模様が描かれています。また、霊廟の前のバルコニーに石碑がおいてあり、'主権在民'1952とトルコ語で刻まれていて、いつも念頭において執務した座右の言葉だそうで、1952年にこの廟が完成したことを意味しています。
そして、廟の外回りの回廊の角に、岩の台座が一つだけ残っていて、生前よくこの岩に座って愛煙家だったアタチュルク氏は、一服しながら先に見えるアンカラ要塞を眺めて時を過ごすのが好きだったそうです。

私たちが訪れたのは、1月半ばの朝霧が残る寒い頃でしたが、引率された30〜40人の一団となった若者が次から次にバスを降り、参道を通り廟に入り、その後は広場の周りにつくられた建物や廟の地下にある記念館で、ガリポリ戦や独立戦争時を再現した戦闘場面や共和国になってからの歩みを写真や思い出の品々を見ながら順路に従って、共に歩きました。彼らは、これから15ヶ月の兵役につく徴兵された全国津々浦々から上京してきた若者だそうです。気軽に手を振り、笑顔で話しかけてきたりしてくれました。
一方、広場では寒い中、四方をガラスで囲ったボックスに入って微動だにせず銃を持って
立つ、一見すると人形ではないかと見間違えかねない若い兵士が警備の任についていました。
その傍には、こんこんと空に翻る巨大な国旗がありました。







































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