希望

      

1046  なかりしか



瀬戸内海は無数の島を抱く海(多島海)です。

島と島、島と本州、あるいは島と四国との間に幅の狭い海峡があり、瀬戸(狭き門という意味)と古来呼ばれ、通常そこでは潮汐の干満によって激しい潮流が生じます。
そんな瀬戸が内に多くあるところから、瀬戸内海と呼ばれたのでしょうか?
瀬戸内の海は旬の魚を大いに育んでいましたので、漁師にとってこの上ない漁場でしたし、船荷を満載して航行する船や人、文化の往来にも役に立ってきました。日本神話に登場する海幸彦族と深い繋がりもあったことでしょう。
瀬戸内海を舞台にした源平のせめぎ合い、村上水軍や熊野水軍それに倭寇の活躍、江戸時代の水運の発達などもあり、明治10年の西南の役の後、いち早く明治21年(1889)に海軍兵学校が東京から江田島へと移されました。将来を見据えての移転でした。
その後、日清(1894)日露(1904〜1905)、第一次世界大戦(1914〜1918)へと続いていった軍事拡大のリズムの中で、広島や呉の港などが発展して行きました。

私は、小学校3年生終了時までの3〜4年を江田島の小用という港町で住んでいました。50数年振りに12月(2007)のある日、宇品(広島港)から高速艇に乗り、一人で小用にぶらっと行って見ました。所が浦島太郎に近い状態になってしまい、記憶の中の映像と目の前の景色の違いに戸惑い、また距離感の違い(もっと大きな集落だった気がして?)もありました。桟橋近くに建つ新築のレンガ造りの商工会議所に入り道を訪ねた所、何と商工会議所こそが、過っての小学校(小舟を風や荒波から守る出っ張った防波堤に囲まれた小港を眼下に望んでいた記憶があるのですが…)があった所だと言われ、小港は今は埋めたてられていて、分譲住宅や広い駐車場、そして将来を見据えての立派な船着場が出来つつあるのだそうです。
昼ごはんに立ち寄ったお好み焼き屋の女将(四捨五入すると70歳だと言っていた)の話す広島弁だけが変わらないものに思われました。

宇品港や小用港で見た地図で、江田島が広島や呉(いずれも本州にある)にほど近く、また江田島は西熊美島(にしのうびじま)と胴体がくっ付いていて、導入部は津久茂瀬戸で分かれていて、瀬戸をくぐって中に入ると広大な天然の入り江(江田島湾)があり、その一角に海軍兵学校がありました。また、西熊美島の下が東熊美島となっていて、早瀬瀬戸を挟んで倉橋島があり、倉橋島から音戸瀬戸をまたぐと呉市がありました。呉の港には呉工廠でつくった戦艦大和(全長236米、時速50キロ)の記念館ができていて、何分の一かに縮小された大和が見れるそうです。
五省という小文が帝国海軍兵学校では常に読まれ、将校教育に役立てられました。
一、 至誠にもとるなかりしか
二、 言行に恥じるなかりしか
三、 気力に欠くるなかりしか
四、 努力に憾みなかりしか
五、 不精に亘るなかりしか
今風に訳すとすれば、
一、 真心に反することはなかったか?
二、 言行不一致な点はなかったか?
三、 精神力は十分であったか?
四、 充分に努力したか?
五、 最後まで充分に取り組んだか?
とでもなるのでしょう。
海軍では、スマートさを重要視したとも聞きますし、ユーモアのセンスを大切にしたそうですが、五省では強い意志を持ち最後まで努力する道を真っ直ぐに歩む人たれと述べています。

米国海軍士官学校でも、五省が取り入れられていて将校教育に使われているそうですし、日本の海上自衛隊幹部候補生養成学校でも同様だそうです。

戦後何年も経って、国会で軍人恩給の支給が法律で通ったその日に、納谷の鴨居に首を吊って死んだ陸士(陸軍師範学校卒業生)もいたそうです。
理由は、部下を大勢戦場で死なせた自分には、恩給を貰う資格もないし申し訳ないと決断したからだそうです。

人は風土や教育、時代によりつくられるのでしょうか?
'独座観心'の四語が書かれた扁額を、親戚の家で仏壇のある部屋の欄間に見つけました。
どっしりと重みのある、味わい深い言葉だと思いました、
       




1047  十のつもり



父の死が、10年振りに父の故郷・広島へと私を誘い、ついでに小学校3年まで過ごした江田島市の小用まで一人で来てしまいました。

55年もの歳月が過ぎていました。呉の町が小用港の目の前に見えていたり、あんなに大きく感じた小用の漁村が、実際には迫りくる山と海の狭間にできた小村だったとは…。
昔ながらの板塀に、アルミサッシではない木枠の引きガラス戸を開けて入ったお好み焼き屋で出会った、四捨五入すると70歳だと広島弁で話す女性が作ってくれた、野菜のたっぷり入った、ソバ入り、豚肉切れや卵も入り、それに胡麻や青海苔、天ぷらかすを振りかけ,お多福ソースで味付けした出来立てホヤホヤのお好み焼きの上や周りから湯気が上っていて、アルミの大きなヘラでお好み焼きの塊を切り、ヘラの先にのせ,息を吹きかけ冷ます御呪いをしながら食べるのは、何とも懐かしく故郷そのものでした。
昔から互いに知り合っているように見える同世代の女性を相手にして、夕方5時からご主人の七回忌のささやかな法要をするので、親戚や友人が10人ほど集まってくれるので、その為の食事の支度は全てしてきたとか、金を何も残さないで死んでしまった主人だったが、こうして始めたお好み焼き屋の僅かな収入で健康で生きていけるのを感謝しているなどと、飾らない態度で終始喋っていました。
壁には、次のような長寿の心得と題した文章が貼ってありました。
一、 六十歳は人生の花
二、 七十歳で迎えがきたら、留守だと言え
三、 八十歳で迎えがきたら、早すぎると言え
四、 九十歳で迎えがきたら、急ぐなと言え
五、 百歳で迎えがきたら、時間をみて ボチボチ考える

お好み焼きは五百円でした。広島に住む妹の話では、普通千円ぐらい取るというお好み焼きの味の良さと会話のお礼を言うと、こんなとこじゃけど、また来てね!と言って気持ちよく送ってくれました。

そして、私が現在住んでいる千葉へと帰り、父の死亡届けを社会保険庁に持っていくと、親切に応対してくれた中年男性の座るデスク横の隣のブースとの仕切り壁には、十のつもりと題する文章が貼ってありました。
一、 高いつもりで低いのが教養
二、 低いつもりで高いのが気位
三、 深いつもりで浅いのが知識
四、 浅いつもりで深いのが欲
五、 厚いつもりで薄いのが人情
六、 薄いつもりで厚いのが面の皮
七、 強いつもりで弱いのが根性
八、 弱いつもりで強いのが我
九、 多いつもりで少ないのが分別
十、 少ないつもりで多いのが無駄

小用と千葉で見つけた教訓は、父が引き合わせてくれたように思います 合掌!
   




1048  巨大な黒い牛の看板は醸造会社の宣伝だった




スペインの高原(メセタ)やアンダルシア辺りをバスで走っていると、巨大な真っ黒い雄牛の看板がポツンと立っているのが、目に入ることがあります。

きっと、その辺りで闘牛用の黒牛を育てているのだろう?流石は闘牛の国だなあ〜と、長い間ぼんやりと想っていました。
トレド観光からの帰りマドリッドへと向かうバスの中で、長くスペインに住んでいる日本人ガイド氏が、元々はシェリー酒やブランデーなどを醸造する会社の宣伝用の看板だったと教えてくれました。

地中海に面したヘレス・フロンテーラ(グアダラ・キビル川の河口あたりで、近くには古港カディスがある)地方で、ブドウから作るシェリーやブランデーを3社が協同して黒牛印の商標で売り出し、カディスの赤い星(オズボルネ)社を全国に知ってもらおうと自動車道沿いに立てたそうです。フランコ総統時代(1975年まで)が終り、目障りな宣伝用の看板は美しい景色を邪魔するとして多くの看板が取り除かれていったそうですが、黒牛の看板だけはスペイン国民から、たった一人(1頭?)でマタドールやピカドール,観衆の好奇の目をもろともせず勇敢に闘う黒牛こそスペイン魂を象徴しているのでは?との声が上がり、途中で残されることになったそうです。

また、ヘレス・フロンテーラは16世紀から続く伝統のウィーン乗馬学校(ハプスブルグ家宮廷で行なわれてきた、音楽に合わせて踊る人馬一体となった動きで有名)用の馬の産地としても世界に知られています。
   





1049  ポルケ ノ テ カジャマ!



'どうしてあなたは黙らないの!'とでも日本語にするとなるようです。

ドン・ファン・カルロス1世スペイン国王が中南米とイベリア半島の代表者会議において、ベネゼイラのチャベス首相に向かって発した一言でした。現スペイン首相の話を再三再四邪魔し、元スペイン首相をファシストと叫び続けるマナーを逸した行為に、業を煮やした国王の誰も予期しなかった発言でした。
中南米諸国とスペインとの間にはコロンブス以来、五百年に亘る愛憎入り混じった複雑なものがあるのだろうと想像するのですが、普通は品格を保った外交発言が交わされることでしょう。
また、'君臨すれども統治せず'の言葉は、立憲君主制のもとでは国王は多分に飾りや象徴的な存在になりつつある現代では当たり前と考えられていて、直接名指しで国王が相手国の元首(ベネゼイラの首相)に、ポルケ・ノ・テ・カジャマ!と活を入れたのですから、あっという間に言葉だけが独り歩きをして世界を駆け巡りました。
概ね、スペインでは国王の発言は好意的にとられていて、専制君主復活か?の疑念はなかったようです。
さしずめ日本であれば、2007年度流行語大賞を全会一致で受賞するぐらいのモテぶりで、ポルケ・ノ・テ・カジャマのロゴ入りのシャツが売られ、携帯電話の着信音にまで使われていて、何十億円もの経済波及効果を生み、スペインの人気を独占しています。

1975年にフランコ総統が亡くなってから国王になられましたが、初めの頃は国会議事堂内に一部の軍将校が押し入る事件が起きたこともありました。国王の毅然とした民主主義擁護の姿勢が、クーデターを未遂に終らせました。あるいは、2人の王女はセビリアとバルセロナの大聖堂で、皇太子はマドリッドの大聖堂で結婚式を挙げるなど、スペイン全土に気を使ってこられています。
3年前にマドリッドで起きた朝の通勤客を狙った列車爆破テロ事件でも、王室が先頭に立って、雨の降る中で無言の抗議デモの行進をしました。
国王はフランスのブルボン家の血を引く方であり、賢母と評価の高いソフィア王妃もギリシャ、ドイツの血を引く方というヨーロッパの典型的な貴族の国際雑種婚国王一家です。
日本の皇室と大いに違う所です。
      



1050  ライバルさえいなければ



2007年の年の瀬も押し迫った選挙戦最中の頃、ラワルピンディの路上でブット元パキスタン女性首相が殺されました。

40年前には、ケネディ・アメリカ大統領もテキサス州ダラスにおいて、走行する車を狙撃され亡くなりました。また、シーザーも2千年前ローマのポンペイウス劇場で刺し殺されています。
何故、暗殺は昔から今に至るまで跡を断たないのでしょうか?

中世の時代(11世紀〜13世紀)、近東でキリスト教徒の暗殺に従事するイスラム教徒の秘密結社があり、アサシンと呼ばれ恐れられました。'媚薬ハッシッシを食す人'というアラブ語アサシンが暗殺者という英語になったそうです。その秘密結社は山奥深くにあり、下界から連れてきた若者を麻薬や酒、そして美女づけにして擬似楽園を味あわせて、暗殺命令に絶対服従させたそうです。一度味わった楽園体験は、大いに若者を酔わせてことでしょう。万一、暗殺実行中に自分自身が死ぬことがあっても、本当の楽園へ即行ける保証があったと云われます。この秘密結社はモンゴル高原から長躯やってきたモンゴル軍団によって壊滅させられました。

しかし、今も似たような集団(アルカイダや一時の日本赤軍派、右翼、あるいはヤクザなど)があるようですし、漫画ではゴルゴ13のような単独で行なう冷静沈着、主義主張や感情を一切挟まないプロの暗殺引受人もいるようですが…。
人間だけが欲を掻くのは何故でしょうか?他の生きものには見られない現象です。

聖書では、人類の父母(アダムとイブ)は神から唯一つの木の実を除いて他は食べてもよいと言われたのに、ヘビ(悪魔サタン)にその実を食べると目が開け、神のようになるとそそのかされて食べてしまいました。結果は、楽園を追われ苦労する日々が始まりました。
仏教の開祖ブッダは、悟りの妨げは欲にあると言っています。

余計なことをしたがる(欲)、満ち足ることを知らない、他者を愛せない、など人間だけが持つ特質(?)は何処から来たのでしょうか?










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