希望

    
1041  バレンシアの誇りとは



バレンシア・オレンジや火祭りは世界的に有名ですが、11世紀の末にバレンシアの地で亡くなった英雄エル・シドについて話を向けると、中年のスペイン人女性ガイドは次のように言いました。

エル・シド(有名な騎士)はカスティーリャ国王アルフォンソ6世から追放され、1092年にイスラム王アル・カディールの支配するバレンシアにやってきて,回教王の下で仕えました。そして、1094年にカスティーリャに戻りましたが、1096年に再度バレンシアにやってきて回教王朝を倒し、1098年に没した人だそうです。
キリスト教世界であれ、イスラム世界であれ、騎士道精神が持て囃されていた時代ですから、一匹狼的な騎士が自分を認めてくれる主を求めて放浪していたのでしょうか?
エル・シドを有名にしたのは、彼女によるとハリウッド映画であり、映画エル・シドの中でロマンチックにチャールトン・へストンとソフィア・ローレンが演じたのと、フランコ総統支配時代(1936〜1975)に、バレンシアの地を回教支配から一時的とはいえ、キリスト教の手に帰したエル・シドを讃えることで、スペイン人民戦争(1936〜1939)で人民軍側に組しフランコ側を敵として戦ったバレンシア市民への気配りがあったからだと思うと語りました。

町を出入りする門とロンハの建造物こそが真のバレンシアの誇りであり、古代ローマ時代(1世紀)につくられた4つの門、アラブ支配時代(11世紀)の1つの門、そしてキリスト教支配時代(14〜15世紀)の12の門があった町であり、その多くは1865年に壊され(町の近代化に不必要?)、現在では僅かにセラノス門(14世紀)とクアルテ門(15世紀)が残っています。
地中海世界を相手にした海運業が盛んだった14〜15世紀のバレンシアですが、ロンハ(ロッジアが語源で、柱に支えられた空間という意味?)の建物は商業関係者の取引及び金融業を兼ねた目的で1407年にできましたが、15世紀末(1483〜1498)に絹織物商人ギルド組合の要請で現在目にするフランボイアン(火の燃え上がるような)ゴチック様式のものになりました。
ロンハと道路を挟んで反対側に建つ、1936年にでき市民の胃袋としての機能を今も果たしている常設市場も、ステンドグラスと鉄材を使った見事なものですが、その市場横の彼女お気に入りの喫茶店で、コーヒーを啜りながら話を聞いた楽しい30分でした。
      




1042  バントーをもじったバルトの楽園?


2007年11月の末、ミュンヘンへと向かうルフト・ハンザ機の中で、'バルトの楽園'と題された映画を見ました。

第一次世界大戦(1914〜1918)の初め、中国の青島(チンタオ)戦で日本軍の捕虜になった大勢のドイツ兵が、徳島県の坂東(バントー)捕虜収容所で過ごすうち、戊辰戦争とそれに続く北海道への開拓移民で辛酸を嘗め尽くした会津武士を父に持つ収容所・所長の真心に触れたり、バンドーの町の人たちとの交流が芽生え育っていくのを描いていました。
やがて戦争が終わりドイツに帰る前、捕虜たちは感謝を込めて一日坂東の人たちの為にドイツ文化(パンを焼いたり、大道芸を見せたり)を紹介する祭りを行ないますが、中でも足らない楽器や女性コーラスなどを工夫して,ステージで演奏したベートーベンの第九シンホニーこそドイツ人の心を写すものであり、今も彼らの誇り(会津武士の誇り同様に)として生き続けているように感じました。

久しぶりに手ごたえのある日本映画を見た思いがし、涙が乾かないぐじゃぐじゃの顔で後部ギャレー(配膳室)に行き、水を飲みながら日本人スチュアーデスに話しかけますと、普通1ヶ月ごとに機内の映画は替わるそうですが、バルトの楽園は何ヶ月も続けて放映されていて、彼女も好きな映画だと言ってくれました。

ドイツの北には大きな水の塊、バルト海があり、中世の時代二百近い商業都市が結束してハンザ同盟をつくりバルト海の貿易で栄えました。私たちの乗っている飛行機もルフト・ハンザ(空のハンザ)と名前がついていますし、若しかしたらドイツ人の誇り(楽園)をバルト海に託して、日本での捕虜生活の場となった、名前がバルトに似た板東(バントー)の町こそ地獄ではなく、心温まる楽園になっていったメッセージ(タイトル)だったようです。

旅の第一歩がドイツから始まりますが、大いに勇気づけられ弾みがつきました。
ダンケ・シェーン!
     




1043  スイスに脱帽



シーズン・オフ(ハイキングするには遅すぎ、スキーには早すぎる)の11月末、インターラーケンの西駅前に建っている靴屋の大きなショーウインドー横の小さな入り口の階段を登ると、狭いホテルのロビーがありました。

部屋も狭く、洗面所には浴槽はなくシャワーしかありません。
朝食はコンチネンタルだと聞き、少々がっかりして床につきました。
翌朝、山の天気が気になったので、窓を開けてビックリしました。駅前の道を走る車の音や駅の騒々しさが初めて階下から上がってきて、部屋の防音や防寒設備がしっかりできていて、一晩中暖房が入っていて心地よく眠りを演出してくれていました。
5階(最上階)のレストランも、6時半きっかりにオープンして中に入ると、ハムやチーズもあり、ネスカフェ社の器械からは水や各種のコーヒー、そしてジュースまで出てきます。ヨーグルトに加え、焼きたての暖かいパンもあります。
たった一人のスタッフ(女性)が早朝から朝食の用意をしたと見え、しばらく私たちの食事の進み具合を見ていましたが、やがて階下へと降りて行き、他の1〜2人のスタッフと一緒に、廊下に出した私たちのスーツケースをエレベーターに乗せてロビーに運んでいました。彼女は部屋の掃除も後でするのだそうで、さすがしっかり者のスイス人は、今も健在であり遠い昔、犬飼道子さんの'私のスイス'の本の中にあったがしんたれスイス人の伝統は今も続いていました。

ロビーに行くと、女性経営者(中年)が1人狭いロビーで、スーツケースを玄関口横に並べていて、通る人の邪魔にならないように配慮していました。
快適な睡眠と美味しい朝食のお礼を言うと、素直に喜んでくれ、ホテルを数人のスタッフでやっていて、前夜遅く着いたときに受付にいたネパール人に似た顔つきの女性のことを言うと、小さい頃インドから養女としてスイスにやってきた人だと話してくれました。

去年リニュウアルしてオープンしたばかりだそうで、大きなホテルにはない、輝く小さな光(心を和ませてくれる)を、このホテルに見たように思いました。
       



1044 鶴の一声の威力


1936年の冬季オリンピック会場になったバイエルン・アルプス山中のガルミッシュ・パルテンキルヘンは、食べるものにも窮する寒村だったそうです。

ドイツでの最高峰ツークス・ピーツ山の懐に位置していたガルミッシュ村とパルテンキルヘン村は、時の最高権力者ヒトラーの鶴の一声で合併され、オリンピック村として開発されました。今では、人口3万人の町となり冬には毎月3万人ものスキー客がやってくるリゾート・タウンになっています。
11月からは、山頂ではスキーが出来るそうで、登山鉄道やリフトの設備も充分に整っていて、周辺には30ほどのゲレンデがあります。
しかし、今も村人の中には、両村の合併には賛成しない人も大勢いるそうです。

バイエルン王・ルードウィッヒ2世(19世紀の人)の未完成の夢の城ノイシュバン・シュタインを見る為に、初めて60キロほど離れたガルミシュにある王の家(ケーニッヒ・ホフ)ホテルに1泊しました。夕食の美味しかったのは勿論ですが、朝食もハムやソーセッジ、ベーコン、チーズに卵、ヨーグルトなど盛りだくさんの料理が並んでいました。
しかし、私たちのドイツ人ドライバー氏は、コーヒーとパンだけで、パンを半分に切ってバターとジャムを塗り食べただけでした。訊ねると、ずーとそうしてきたからだと言い、朝から油っぽいスペック(ベーコン)やソーセッジは口にしないと言います。

たとえ食べ物に困っていた寒村であっても、権力者によって一夜にして合併させられ様変わりさせられドイツ一のスキーリゾートになったこの地の人の中には、ずーとそうしてきた伝統の生き方を惜しむ人が多いことを、ホテルの若い従業員が教えてくれました。

朝食を終え、ノイシュバン・シュタイン城へと向かうバスは、その大半をオーストリアの中を通り、到着直前にドイツに入るという離れ業(?)で、到底日本では体験することのない経験でしたし、ドライバー氏自身スキーを愛する一人だそうですが、行くのはドイツではなくて通常オーストリアだと言って、笑わせてくれました。
     



1045  父と子



95回目の誕生日を目前にして父が亡くなった。

その為、たった一人の妹が広島からやってきて、本当に久しぶりにゆっくり話す機会ができ、私には見せなかった父の顔を知りました。父は18歳で教員になり、瀬戸内海(多島海である)にある島の一つ・倉橋島に赴任したそうです。そこで知り合った教頭の富士馬先生に大いに啓蒙されたそうで、米国の収容所で生まれた私に尊敬する富士馬先生のようになって欲しいと願い、名前をつけたと妹に語ったそうです。ただ、字画が縁起上良くないとの判断から不二馬としたのだそうです。
私はこれまで,てっきり単純に日本の象徴の富士山(不二山と書いたこともある)の裾野を馬が駆けるイメージでつけたのだろうと思っていたので、少々びっくりしました。
妹の名前も元々は、父は小春を考えたようですが、芸者の名に似ているとの母の反対で、母の好きなユリの花を平
カナでゆりと書くことにしたのだそうです。

父をライバル視して、素直に聞く耳を持たなかった大学生の頃でしたが、父から'人生には三度チャンスがやってくる。それをつかめるかどうかが成功するかどうかの鍵だ。'と諭されたことがありました。正直な所、いい印象で聞いたような思いはありません。やっと私が30歳近くになって、再び父に会い、初めて年老いた父の姿を目にしてライバルではなくて、いとおしい人生の先輩として母以上に愛を感じるようになりました。そして、父の亡くなるまで25年近く、千葉に住む私の家族と一緒に生活してくれました。

父の生前の希望は、広島の故郷の寺で短いお経を住職にあげてもらい、先祖の眠る墓の傍に眠りたいと言っていましたので、親戚縁者の皆様のご協力を得て、そうなりました。合掌。

























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