希望

        
1036  女性を扱うのは得意と語るスイス人


チューリッヒへと向かうスイス・インターナショナル航空の中で、隣に座っていた30代半ばにみえる真面目そうなスイス
人男性と知り合いました。

年4週間ほどの有給休暇のうち、3週間を使って沖縄諸島や東京、箱根を見て回った帰りだそうです。特に西表島の海の美しさに感動したそうで、日本人の親切な対応も気に入っている風で、また日本に行きたいと言います。広告業界で働いていて、2年前に東京に初めてやってきたのが、日本を知るきっかけだったそうです。

過ってスイスで目にした、英語で書かれたヨーロッパの5つの国の国民性を、'天国と地獄'というタイトルで表現した短い文章を彼に向けてみました。
天国とは、警察官がイギリス人、料理人がフランス人、メカニックがドイツ人、愛を語るのがイタリア人、そしてマネージャーがスイス人。
地獄とは、警察官がドイツ人、料理人がイギリス人、メカニックがフランス人、愛を語るのがスイス人、そしてマネージャーがイタリア人というものでした。
聞き終わると、にっこり笑って、自分はイタリアとフランスの血は入っているが、ドイツの血は入っていない。従い、女性を扱うのは得意にしていると言います。

フランス語圏(ジュネーブを中心にしたスイス西部)のスイス人とドイツ語圏(チューリッヒを中心にしたスイス東・中央部)との間には、ライバル意識が未だ強くあるそうで、選挙などでは表に出てくるそうです。古くは、2千年前に古代ローマ人がやってきて、スイスの西部を支配下において以来の捻れた関係とも受け取れます。
スイスはEU(ヨーロッパ・ユニオン)には加盟していないが、UN(国際連合)のメンバーになったそうです。長い間、永世中立国としてやってきましたが、伝説上の人物ウイリアム・テルに代表される男らしいスイス人傭兵の活躍は、彼のどこかに見え隠れしているようです。
日本の電通やアングロ・サクソン系の大手広告代理店と比べると、自分の会社は小さなスイス企業だと謙遜して見せました。
広告制作を依頼してくるスポンサーは、何もかも入れたがるが、メッセージはシンプルが良いと専門家の弁でした。
       



1037  オシャラはインシャラから



生まれつき体が弱く様々な病気にかかりましたが、日本の気候や環境に適していないと思うので、出来れば暖かくて適度に乾燥した所に住むのが良いだろうと、医者にアドバイスされて成長したそうです。

ポルトガルに住むようになって20年近くが経ち、その間にポルトガルの男性と結婚して、子供には恵まれませんでしたが、ご主人の両親や兄弟たちとの家族ぐるみの付き合いは密で、本当に楽しい家族生活をしているそうです。一人っ子で育ちましたが、今は日本の親も亡くなりました。ポルトガルに住むようになって心身ともに健康になり、安住の地を見つけたと語ったのが、私たちのガイド女史でした。

六百年あまり(8世紀〜13世紀半ば)イスラム教徒に支配された歴史を持つポルトガルですが、メンタリティはアラブに似たところが多くあり、'女は家の中で、男は外で'と云った、例としては道端や喫茶店で屯しているのは男性たちに限られていて、女性は見えないところで働いていることや、クリスマスが近づくとプレゼントを兄弟の子供たちの為に買うのはご主人の仕事ですが、最後まで決められない時は、彼女に相談することがよくあるそうです。
ポルトガル人のおおらかさもアラブの影響の所為だろう思われ、ポルトガル語で'オシャラー'(神が望むなら)と挨拶によく使いますが、アラブ語のインシャラーから生まれた言葉だと考えられているそうです。
ポルトガル語は、親戚語にあたるスペイン語よりは言葉表現が遥かに豊かで、日本語よりも長く長く続く美しい文章だそうです。

丁度その日の朝は、テージョ川のほとりジェロニモス修道院の中では、インドネシアから独立したチモールの大統領が国家元首としてポルトガル国に敬意を表する為に、ルイス・バス・デ・カモイエス(16世紀の詩人)の墓に詣でるので、赤絨毯が大統領が下車されるところから教会の中のカモイエスの墓までひかれ始めていて、音楽隊も準備を始めていました。チモールは、1512年にポルトガルに発見された歴史があります。
カモイエスは、'オズ・ルシアダス'という詩の中で、バスコ・ダ・ガマなど大航海時代に生きたポルトガル人(ルシアダス)の海の詩(こころ)を謳いました。

世界の国々の元首が、詩人の墓(通常は無名戦士の墓に詣でることが多い)にやってくるポルトガルは珍しいように思います。
日本に置き換えてみるなら、柿本人麻呂あたりの墓に詣でることになるのでしょうか?
それとも紫式部でしょうか?あるいは、万葉集の読み人知らずの墓とでもなるのでしょうか?
茶目っ気を出して数人の人を誘い、教会の正面入り口からカモイエスの墓の前まで敷かれたばかりの絨毯の上を歩いてみましたが、誰も見咎める人もなくおおらかなひと時を過ごしました。

カモイエスの墓は教会を入ると右側にありますが、左側に対座しているのがバスコ・ダ・ガマさんの墓です。
    




1038  ブラジルとは木の名前



大航海時代の先鞭は、ポルトガルとスペインにより始まりました。

アフリカ大陸の最西端かと思われるベルデ岬と、その沖合い大西洋上に浮かぶベルデ岬諸島は1444年にポルトガル領となりました。ベルデ岬は今ではセネガル国の首都・ダカールの一部となっていて、毎年冬にヨーロッパとサハラ砂漠を縦断して競われるオートバイや車、トラックなどの耐久レースの終着点として名を知られています。
ベルデ岬諸島は、西経20度〜30度の間に位置していますが、1494年にローマ法王の仲介でポルトガル王とカスティーリヤ(スペイン)王とがベルデ岬諸島から西へ370海里(およそ西経40度あたり)航行した所で南北に線を引き、それより西はカスティーリヤ領、東はポルトガル領としてよいことになりました。トリデシャス協定と呼ばれました。
1500年には、ペドロ・アルバレス・カブラルがブラジルの東端に到達してキリスト十字の盾の刻まれたポルトガル国の石碑を立てましたが、トリデシャス協定に違反していなかったので、ブラジルはポルトガル領となりました。
しかし、この広大な大地は長い間、木しか取れない密林だけの土地だと思われて、ブラジルと呼ばれる原生林が国の名前につけられました。やがて、本当に金が採れる金の成る国(木?)だったことが分るのですが…。

ポルトガルが最も勢いがあった15世紀後半から16世紀初めにかけて、王として君臨したのがマヌエル1世です。彼は、リスボン港のテージョ川の中に大理石を使い、美しいエレガントなベレンの塔(物見の塔)をつくり、航行する船の監視を行ないました。
そのベレンの塔は、今はテージョ川の北岸にくっ付いて立っていて、岸の周りは緑地化され、訪れる人は塔の傍に寄ったり塔の中の見学も出来るようになっています。

緑地の一角に水上飛行機が展示してあって、1920年代の初め大西洋(リオデジャネイロ/リスボン間)を最初に飛んだサンタクルス号と書かれています。大西洋上のブラジルやポルトガルの領土の島々に立ち寄り給油しながら、飛行したかに思われる石版の絵図もありました。

大海原を船で、そして飛行機で冒険したポルトガル人の勇気を改めて知らされました。
    




1039  ハモーン・イベリコ豚がコルクの木の下で憩っていた



グアダラキビル川の河口から内陸に90キロ遡った所にある町・セビリアの港から出航していった冒険家たちの中に、新大陸にアメリカの名前が付けられたアメリゴ・ベスプッチや世界一周航路達成者マゼランがいます。

ベスプッチは、4回も大西洋を横切って航海して新大陸に到達しながら、死ぬまでその地をインドと思っていたコロンブスの間違いを正した人です。また、マゼランは1519年に出航しましたが、フィリピンのセブ島で亡くなった為、同僚のエルカーノが1522年にセビリアに帰ってきました。
1503年にイザベラ女王は、セビリアの町に新大陸からもたらされる物産全ての売買権を与え保護しましたが、この権利は1717年まで続きました。
さぞかしセビリアの町はヨーロッパ中から商人、仲買人、職人、貴族などかやってきて、賑わったことでしょう。セビリアを舞台にしてつくられたモーツアルトの'ドン・ジョバンニ'やビゼーの'カルメン'、あるいは'セビリアの理髪師'のオペラ音楽は、この隆盛時代に生きた人々を写し出しているのでしょう。

リスボンは、ポルトガル国がアフリカ西海岸に沿って南に下り、インド洋からアジアへと航海する計画を立案したエンリケ航海王子以来の港です。この町こそアフリカやインド、東南アジアからの珍しい物産が持ち込まれ、北海やバルト海で交易していたハンザ同盟都市からの商人やオランダ、ベルギー、イタリアの諸都市の商人たちがやってきて、賑わいました。
セビリアとリスボンこそ大航海時代(15世紀後半〜17世紀)の花形都市でした。

久しぶりに、セビリアからリスボンまでバスに揺られて旅をする機会に恵まれました。
昼食はエボラの町でしたが、この町も古代ローマ人やアラブ・イスラム文化、そして大航海時代に王侯、貴族が好んで過ごして所であり、未だ市壁が町をぐるりと取り巻いていて、天正年間の遣欧少年使節団(1582〜1590)の一行も立ち寄りました。
朝、セビリアを出発して国道433号線を西北に向かって走りますと、乾いたアンダルシアの大地が消え、起伏に富んだ植林された大木の茂る、水蒸気を感じさせる風景に少しづつ変わっていっているのに気付かされます。
最初は、樫の木が続く山かな?と思っていたのですが、何割かの大木が根元から3メートルぐらいまで幹の皮が剥がれ、その部分が赤くなっていたり黒く変色しているのを見つけ、やっとコルクの木だと分りました。ポルトガルは有名ですが、スペインのコルクは聞いたことがないので少々ビックリしました。
アンダルシアの西部、ポルトガルとの国境近くにはポルトガルに似た風景や大地が広がっているのは当たりまえだという感覚を、遅ればせながら気付いた次第です。
羊や馬、牛がのんびりと草を食べている風景に混じって、所々では豚が同様に自由に8〜10メートル間隔に植えられているコルクの木の下で憩っていました。
北スペインのガリシア出身の小柄で純朴なバス運転手リカルドさんが、何度もハモーン・イベリコがいると教えてくれました。生ハムの中でも、ハモーン・イベリコこそマニアの垂涎の的とも言うべき存在であり、口に入れるととろけてしまうほど柔らかく、まろやかな味だと云われています。

野山で見る家畜は、体毛が体を覆っているものですが、体毛のない(薄い?)豚が1頭だけ柵のない野原で体を休めている景色にうっとりしました。そして、日本の豚に同情の念が起きました。
       




1040  スペイン人の風景



コスタ・デル・ソル(太陽海岸)は、ここ15年余りは建築ラッシュで、個人住宅は勿論高層ビル(ホテルやマンション、アパートに事務所ビル、ショッピング・センターなど)をつくる為の、大型クレーンがあちこちに見られます。

30年〜40年前は、静かな漁村と山の斜面を利用した細々とした農業で生きていたというミハスの町は、温暖な気候に加え地中海が見下ろせる景勝の地の利が幸いして、今は観光客が立ち寄っていく人気の高い場所になっています。
狭い石畳の道の両側は土産物店がびっしり並んでいて、明るい色付けのセラミックや羊の毛や棉で織った絨毯、棉の地の色を生かした女性の服、スペインの家畜の皮を労賃の安いモロッコで革製品に加工(ジャケットやベルト、財布など)した物を安く売っている店など様々な品物が売られていて、観光客の目を惹きつけます。
展望台からは澄みきって晴れていれば、遠く西の方角にジブラルタルの平らな岩山やアフリカのモロッコにあるアンチ・アトラス山脈まで薄っすらと望めます。
ミハスの人々は農業も漁業も辞め、長くあるいは短く滞在する為にやってくるイギリスや北欧の人々、そして数時間を過ごす私達観光客を相手に生活しているそうです。
ミハスに住む人が買いに行く食品市場は裏通りにひっそり建っていて、午後2時には閉まるそうですが、そこと郵便局だけはゆっくりとしたリズムが流れていました。

オリーブの木が限りなく続く中、ミハスからセビリアへとオートビア(無料の自動車専用道路)を走る途中で、トイレの為オートビアを下りて立ち寄った店では、入り口を入ると正面奥にバー・カウンターがあり、そこにはタパス(ビールやワインと一緒に軽くつまむ様々な一品料理)が置かれていて、後ろの壁にはクリスマス宝くじと書かれた張り紙の下に、宝くじのチケッツトが掛けられて売られていました。
スペインでは、街中にONCE(オンセと発音する)と書かれた、大人が2〜3人入ればいっぱいになるような小さな緑色のボックスが建っていて、宝くじが売られています。売っている人は身体障害者であることが多いそうです。また、首から宝くじを数珠繋ぎにぶら下げた、目の見えない人が通りに立って売っていて、買う人が近寄って行き、宝くじと交換に金を優しく手渡して上げている姿を何度か目にしたこともあります。そんな目に見える優しい行為を市民が互いにし合っています。
レストランになっている奥の部屋の中を覗くと、シンセサイザーを使い鍵盤を叩く一人のミュージシャンの前で、30人ほどの中高年のスペイン人グループがダンスに興じていました。

1992年にセビリアで開かれた世界万国博覧会では、郊外にホテルがいくつも建てられましたが、今ではそういったホテルの周辺はアパートが数多く建ち、昼間はセビリア市内で働き夜は郊外で過ごす人が増えています。そんなホテルの一つに泊る為に、ループになった道にバスは入りましたが、前方に乗用車が一台停まっていて、どんなにハンドル操作をしても先へは進めません。クラクションを鳴らして持ち主を捜しても無しのつぶてです。
暗くなる中,ぼうふらのように集まってきた5〜6人の男性が、思い思いに私たちのドライバー氏にアドバイスをくれましたが、15分が過ぎようとする頃、全員で意を決して邪魔している乗用車を'いっせいの〜せ(?)'の掛け声で、何度か車体を揺さぶり端に寄せてくれました。
運転手は一声お礼を外に向けて言ってバスを発車させました。後方でぼんやりと光る街路灯の中、彼らは闇の中に消えていきました。








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