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希望

     
1031  背番号制は正しい?



スエーデンでは、外国籍の人は国会議員になれないし兵隊にも行けませんが、公務員にはなれ市議会議員にもなれ、年金も貰えるし老人ホームにもスエーデン国籍を持つ人と同じく入れます。

スエーデン人の一生を縮めて語るとすれば、妊娠すると妊婦は助産婦の世話になり、ベイビーが生まれると母親は1年2ヶ月の休暇を貰えて、その間は貰っていた給料の8割の手当てがつきます。父親も同様に育児休暇があり、利用する人が多いそうです。
1歳半から6〜7歳までは、保育所が幼児を預かってくれるので、安心して両親は働けます。義務教育は1年生から9年生までで、小学2年から英語を学び、7年生(中学1年にあたる)からはもう一つ外国語が加わります。高校は17のコースに分かれていて、好きな学問を選択できます。大半の学生が大学へ進学するそうですが、大学では日本のような教養課程はありません。卒業するには工学部の学生は4年半、医学生は5年半、文学系は3年だそうですが、授業料はタダだそうです。大学院生になると、専門の研究者として扱われ給料が支給されます。18歳で成人として扱われ、61歳まで働きます。年金は61歳から70歳までであれば、いつでも貰い始めることができ、年金にもいろいろあり、社会福祉税からのもの、付加年金、企業年金、個人年金などです。
年金が貰える年齢が近づくと、毎年2月に年金支給額の予想が知らされます。

国民に加え、外国籍の人も背番号制になっていて、日本のように年金漏れとか公務員の年金ちゃくふくといった事態は起りえないそうです。
お隣のノルウェーでは、背番号制は勿論のこと、毎年数週間インターネット上で納税者一人一人の所得や収入が公開されていて、隣に住んでいる人の収入から友人、総理大臣に至るまで全て丸見えとなっていています。夜が長く退屈になりがちな冬に、この所得公開の期間がやってくるので、隠れたブームになっているそうです。

日本のように個人情報の保護を神経を尖らして監視している社会とは正反対のやり方をしています。
   



1032  レストランは夜はバンドの入ったダンスホールに


肉団子(ミートボール)は、スエーデンの'おふくろの味'に相当するのだとガイド氏はいいます。

今年は3度ストックホルムにきましたが、2度もミートボールを食べました。一度目はガムラ・スタン(古い町という意味)島にある老舗のレストランにわざわざ、ホテルからチャーターバスに乗って夕食のメイン・ディシュとして出る肉団子食べに行ったほどでした。小さな団子が大皿の中に5〜6個寂しげにチョコレート色のどろっとしたタレに包まって出てきました。正直言って、拍子抜けした思いでしたし、味も格別取り立てて言うほどではありませんでした。

そして、10月の今回はストックホルムのアパートが立ち並ぶ、紅葉した木々が美しい市民の住宅空間の一角にあるレストランで、昼食にミートボールがでてきました。
セルフサービスの料理をベースにして注文も可能な気さくな、近くに住む人をターゲットにしたキッチンの中も見える明るい内装になっていました。働いている人は女性ばかりで、しかもアジア系の人たちです。国籍を訊ねると、インドネシアやマレーシア、それにタイやモンゴルからの人もいます。
おふくろの味もアジアの女性がつくる時代になったようでしたし、スーパーで出来合いのミートボールを買ってきて、間に合わせる人も多いそうです。

このレストランの奥にステージがあったので、不思議に思い質問すると、夜はバンドが入り生演奏が行なわれ、近くのアパートで暮らす人がダンスに興じるそうです。
以前ウィーンのシェーンブルン宮殿近くでも、夜はダンスホールとして使われているレストランがあったのを思い出しました。
夜がなかく暗い冬が続く、気持が沈みがちな土地では、ダンスやコンサート、オペラやオペレッタなどが冬の慰めとして、市民に楽しまれ愛されてきたのでしょう。

男女が一緒に楽しめ、行動を共にする生活のリズムやコミュニティがあってこそ、民主主義や個人主義も芽生えると考えた(?)明治のころの私たちの先輩は鹿鳴館時代を演出しましたが、日本では根付きませんでした。

シャル ウィー ダンス ?
    



1033  ノーベル財団はどうして生まれたか?


バルト海とメーラレン湖に跨って、水上交通を使っての物産取引で栄えた島がガムラ・スタン島です。

石畳の狭い通りを挟んで、16〜17世紀ごろの商館が今も建っていたり、王宮や大聖堂、貴族の館などもあります。ガムラ・スタン島で生活する人や動物(使役に使われた)が水を飲んだり、水を汲みにきた当時の水汲み場が残る大広場に面して、権威あるスエーデン学士院(終身会員19名から成る)の建物があります。

1階はノーベル博物館となっていて、過去百年のノーベル賞受賞者(750名あまり)の受賞スピーチを初め、彼らの創造性やアイディアを生んだ環境を知ることができます。
ノーベル(1833〜1896)の遺言で物理、化学、医薬、文学及び平和に貢献した人を讃える賞ができました。
2007年10月12日の昼過ぎ、ぶらっと入ってみると、今年の平和賞はアル・ゴア前アメリカ副大統領とIPCC(気候変動に関する政府間パネルで、世界気象機関と国連環境計画が共同で設立)の地球温暖化に警鐘を鳴らし、歯止めをかけようとする運動に決まったところだと、受付の中年のスエーデン女性が教えてくれました。大きな広間の中央高く取り付けてあるテレビ画面もそう言っていました。

夕方のスカンジナビア航空でオスロへと飛び、オスロ空港からバスに乗り市庁舎の前を通ってホテルに向かいましたが、オスロ市庁舎の1階ホールで12月10日(ノーベルの命日にあたる)に平和賞の授賞式が行なわれるそうで、偶然に2ヶ月近く時間を先取りして動いている私たちの、旅の不思議さに驚きました。
他のノーベル賞は、ストックホルムで授賞式が行われますが、唯一平和賞だけはオスロで行なわれるようになった理由については、誰も分からないそうです。ただ、ノーベル氏が亡くなった19世紀末はノルウェーという国は誕生しておらず、スエーデンの支配下にありました。独立を目指す運動が起きていた時代の流れの中にあって、平和に生きれればと言う願いを込めての決定だったと言われています。

さて、ストックホルムのガイド氏は、ノーベル氏は今で言うと何兆円も財産があり、3百近いパテント(特許)を持った大金持ちだったが、女性に持てず一生独身で子供がいなかったからこそ、ノーベル財団が生まれたのだと言い、笑いの煙に包んでくれました。
     




1034  信長の先見性恐るべし!


弟分であり客分でもあった家康に、統治者としての器量を尋ねられた信長は、情報にありと言ったそうです。

1990年に出た未来学者アルビン・トフラーの書いた'パワー・シフト'という本の中で、権力(パワー)は3つの要素から成っていて、それぞれ軍事力(暴力)、経済力(金)、情報力(インフォメイション)であり、歴史の流れは軍事や経済を重視した時代から、情報が最も重要になってくるのが21世紀であろうと予言しています。
情報こそ鍵というキーワードを450年も前に信長は、知っていて実行していたことになります。
桶狭間の闘い(1560)でラッパ(偵察隊)のもたらした今川義元軍の休息を天与のチャンスと捉えた信長は、電光石火の早業で進軍し、隙を突いて勝利しました。
また、西欧から伝わった鉄砲を足軽に持たせ、従来火縄銃の問題点とされた発砲するまで時間がかかるのを、鉄砲隊を三列に並べて火縄の発火をずらすことで、間断なく発砲できるやり方を考え出し、長篠の闘い(1570)では武田の騎馬軍団に勝利しました・
また、長槍を使っての戦い振りも見事で、戦に弱いといわれた尾張軍の面目を払拭しています。鉄砲も長槍もスペイン軍が得意として使った武器で、16世紀(信長の生きた時代)は'日の沈むことのない帝国'と讃えられたのがスペインでした。
日本にやってきたカトリックの宣教師たちから世界情勢についての数々の情報は、信長の耳に届いていたことでしょう。アフリカの黒人青年を小姓にして剣を持たせ、信長自身も西欧マントを羽織り、皮ズボンにブーツを履いてワインをギヤマンのカップでたしなんでいたと聞くと、私の想像は更に羽ばたいていきます。

信長の行なった岐阜や安土の町での、楽市楽座は商業を盛んにし人々にやる気を起こさせ、既得権に胡坐をかいていた人たち(座の組織の上に商売を独占していた)を、大いに慌てさせたことでしょう。この楽市楽座こそは信長の先見性の冴えたるものだったと思います。
若しかしたら、西欧でも座に似たギルド(同業者組合)があり、商品流通が流れにくいことを宣教師から聞いていたのかも知れません。
また、スペインの君主(フィリッペ2世)が都を古都トレドから無名に近いマドリッドへ移した理由の一つに、ローマ・カトリック教のスペインでの総本山トレド大聖堂の高僧たちが政治に介入することに嫌気が差していたとも考えられます。立地条件からみても、三方をタホ川が取り囲むトレドでは、発展性がありませんでした。
日本でも同様に、過って8世紀の末に僧侶の政治への過度の介入に業を煮やして、平城京から平安京へと遷都したと言われています。信長の時代には、越前の一向宗や大坂の石山本願寺、そして比叡山の僧侶たちなど仏教界との正面きっての対決は、キリスト教の布教を一方では促しながら、他方では僧侶の政治への干渉を断固拒絶するものでした。

室町時代(14世紀半ば)から続いていた東南アジアとの海の交易でしたが、その恩恵は西日本の九州や中国地方に偏っていたこともあり、信長の頭の中には中国地方や九州を制圧する夢が大きく育っていたと思われます。部下も出自の如何を問わず、成績次第で抜擢する大胆な人事をした人ですが、プライドが高くプッツンした光秀に裏をかかれ本能寺でなくなりました。

信長の好んだという'人生50年?'の詩も好きですし、もう少し長生きしていたら?を見てみたい思いもあります。
信長の跡を継いだ秀吉や家康には、信長と共に歩んだことで、信長の匂いを嗅ぐことができるような気がします。
       




1035  膝や腰の痛みに効く薬か何か買ってきて欲しい


古代ギリシャの大理石の神殿も中国の昔の役所や日本の奈良・平安時代の都も、建築材料(石、レンガ、漆喰、タイル、木など)の如何を問わず、彩色されていました。

そして、ヨーロッパで唯一オリジナルのイスラム建築が残るグラナダのアル・ハンブラ宮殿やコルドバのメスキータも、天井から壁や床に至るまで美しく彩色がほどこされていました。今は殆ど色は剥げ落ちてしまいましたが、幾何学文様や草花、装飾文字を駆使して神(アラー)を讃えたイスラムの人たちでした。

マドリッドのグランビア(大通り)近くに、トーレス・ベルメハスというタブラオ(フラメンコが観賞できるレストラン)があります。
狭い通りに面した入り口を入り階段を降りると、左に小さな空間がありバーカウンターや踊り子、演奏者、ボーカリストなど出演者の着替え室になっていて、客はほとんど気づかない縁のない場所です。右へと導かれて部屋に入ると、全てが彩色された別世界となります。イスラム装飾を再現していて、様々な原色の色が天井や壁という壁を塗り尽くしています。床から1米ほど高くつくられた舞台は、5メートル平方ぐらいで決して大きなものではありません。舞台を三方から取り囲んで見るようにテーブルや椅子が配置されていて、百人前後入ればいっぱいになる狭い空間で、舞台と私たちが一体となれるようにしてあります。
食事を始めてしばらくすると、マドリッドに住んでいる日本人の友人が私を訪ねてきましたので、初めて反対側にあるバーカウンターに行き、ビールを飲みながら昔話に華を咲かせていました。すると、やがて着替えを終ったダンサーやボーカリストなどがバーカウンターの周りに現れ、それぞれ入念なウオームアップ(タップを踏んだり小声で歌ったり)を始めました。真近で見る厚化粧のダンサーたちに笑いはなく、真剣な面持ちと少しの生活苦(年老いていく?)を感じさせる目の傍の皺すら見て取れました。
友人が言うには、ダンサーたちは一様に膝や腰の痛みに苦しめられていて、日本に行く機会があれば、薬か何か痛みを和らげるものを買ってきて欲しいと頼むそうです。

やがて友人が帰っていった頃には、舞台では2人のギターリストと2人のボーカリストの奏でる演奏に合わせて、4人の女性ダンサーが鉄火肌の粋な深川芸者が啖呵を切るように、強くタップを踏みながら踊り始めていました。





































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