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希望

      
1026  セビリア生まれの人は、どちらかを応援する


去年の6月(2006)に結婚したという30歳前後の痩せた青年が、半日セビリアの案内をしてくれました。

ジューン・ブライド(6月の花嫁)という意味を知っているか?と尋ねると、知らないと言います。滅多に風呂に入らなかった頃は、麦などの刈入れが始まる6〜7月は暑くなり、汗を掻き体が臭くなったので、その前に結婚するのが慣わしだったと聞いていると言うと、笑ってくれました。
トイレ休憩で立ち寄ったサンタ・クルス地区のバーの主人は、緑色のユニホームを着てプレーするサッカー・チームを応援していて、私たちのガイド氏(赤色のユニホーム・チームを応援)とはライバル関係だそうです。セビリア生まれの人は生まれながらにして、緑か赤のどちらかのプロチームを応援するように宿命づけられているそうです。
朝11時に近い頃の店の中はがらんとしていて、昼時に備えてのんびりと準備をしている様子でした。
サッカーの小型版で、ミニサッカーと呼ばれるグランドも小さくプレイヤーの人数も7人と少ないものがあり、テレビでも時には放映していて、動きが速く得点数も二桁になるそうです。6人の子供をつくってゴールキーパーにガイド氏がなる夢を考えては?とけしかけておきました。最近は、セビリアの町も治安が悪くなってきていて、ストレスが溜まりがちだそうです。

町のランドマークの一つであるグアダラキビル川の川沿いに残る黄金の塔は、川を使ってやってくる海賊(川賊?)に備えて両岸に立っていた物見の塔でした。非常時には、二つの塔を鉄の鎖で繋ぎ船が進入してくるのを阻止しました。実際に、844年には当時最も恐れられていたバイキングがセビリアを襲ったそうです。今は役目を終え、八角形の塔の周りを飾っていた黄色のタイルも剥げ落ち、片方の塔だけが残っています。

ヒラルダの塔(大聖堂の鐘楼)に登ると町中が一望でき、イスラム時代の後も引き続き新大陸アメリカから持ち帰った物産を一手に引き受け繁栄した(16〜18世紀)頃を忍ぶことができます。大聖堂の中では、生前3度も新大陸に旅したコロンブスが、死後も5回も墓所を変えられ、大西洋を行ったり来たりしましたが、やっとここで眠っています。また、聖アントニオの礼拝堂には大理石製の大きな洗礼盤があり、ムリーリョ作の聖アントニオが幼いイエスの前に跪いている大きなキャンバス絵が壁にかかっています。19世紀に右下に描かれているアントニオ聖人の部分だけが切り取られ、持ち去られる事件がありましたが、半年後ニューヨークで見つかり、修復した繋ぎ目はよく見れば分かりますが、元に近い状態に復元されています。そんな事件があってから、ここにきて祈れば失くしたものが見つかるとか、ボーイフレンドにめぐり合えるとかという新しい信仰が生まれたそうです。しかし、現代の女性はここにきて祈るよりはディスコに行き、ボーイフレンドを捜す方が流行っているようだと、ガイド氏は私たちを笑わせてくれました。

何しろ伝説では、ギリシャ神話の英雄ヘラクレスまで遡るセビリアの町ですから、地下鉄工事が遅々として進んでいないそうで、掘れば必ず何かの遺跡にぶつかってしまう為、市では当面、路面電車を走らせることで交通緩和を試みているそうです。この市電も未だ試運転段階で、全てがゆっくりと進行している様子でした。
6月と10月はジャカランダの街路樹が紫色の花で満開となって、一段とセビリアが美しく輝くそうで、ガイドの仕事もフル回転になるそうです。
     




1027  強いアメリカに対抗するには?


9月の末、今にも雨が降ってきそうな雲行きの中、バルセロナの町が一望に見渡せるグエル公園を歩きながら、インテリのスペイン青年(公認ガイド)は熱っぽく語りました。

アメリカの強さの裏には英語(米語)と米ドルの二つがあるが、果たしてヨーロッパはどのように対抗できるだろうか?過ってエスペラント語を共通の言葉にしようとする運動があったが不成功に終わり、今もヨーロッパでは入り乱れた多言語が話されていて、とても統一するのは無理です。
2001年に導入されたユーロ貨幣は功罪は色々あったが、全体としては良かったと思う。
'若し、スペインが世界から集中砲火を浴びれば、ペセタ(2001年まで流通していた通貨)は3時間で持ちこたえられなくなる'と、スペインのゴンザレス元首相は云っていたと、懐かしそうに彼は口にしました。

アメリカでは2007年9月になって、低所得者向けの住宅融資ローンの焦げ付きが表面化してきて、ヨーロッパでもやがてその影響が出るのでは?との心配が広がっているそうです。スペインでは1993年以降、不動産の価格の値上がりが続いていて、景気がよくインフレ傾向ですが、今年の末あたりでバブルが弾けるのでは?との懸念が語られ始めているそうです。
彼は、お母さんと二人で慎ましくアパート暮らしをしているので、影響を受けることはないそうですが、大勢の人は大変なことになるだろうと言っていました。

そして、帰りのオランダ航空機の中で見た映画は、バブルが弾けた現在から日本のバブル期までタイムカプセル(洗濯機を改造したものだった)で戻って行き、どこがおかしかったのか原因を探るというものでしたので、偶然の一致に疲れた頭の一部が醒めました。
       



1028  旅の醍醐味


司馬遼太郎さんの本の中に、井上靖さんと一緒にシルクロードに行った際、到着すると皆が早速見学に出て行く中、井上靖さんだけはベッドに潜り込み休んだと書いてありました。
尋ねると、30年もの間シルクロードへ行く夢を追い続けてきたのが、やっと適った喜びを噛みしめて、まず休みたいと云われたそうです。

同じく1970年代の末頃でしたが、何度か行ったアフガニスタンの旅で、殺風景な景色が延々と続くバスの中、飽きもせず窓に顔を近づけて外の景色を見続けていた、60歳前後の男性教師を憶えています。
連れの若い教師によると、校長(過って先生として教えてもらった人であり、今は勤める学校の校長だという)は長い間アフガニスタンに来るのが夢だったそうで、それが叶い、何の変哲もない乾いた土地に、ペンペン草や潅木に大小の石が見えるだけの景色や空を何時までも食い入るように見つめておられました。

1974年の3月でしたが、インドとネパールの2週間の旅行を案内したことがあります。
15名前後の構成で、絵を描かれる人を中心に、アグラにあった日本人経営のライ病院に勤めたことのある看護婦さんや数名の若者のサラリーマンが参加していました。
今も年賀状を交換している過っての青年サラリーマンだった1人から、やっと退職されインドへ再度行ったという手紙と写真を受け取りました。
早速、電話で時間の経つのも忘れて夢中になって話をしました。
30年余り前、インドに行くきっかけになったのは、ミナクシ寺院(南インドのマドゥライにあるヒンズー寺院)のポスターをふと目に留めたことによるそうです。しかし、その旅行では北インドとネパールが中心だったので、南インドは行けませんでした。
幼かった甥に,印象深かったインド旅行の思い出をよく語って聞かせたそうです。その甥っ子が成長して若者となり、リュック一つを背負って一人旅をするほどになってしまったそうで、今回はその甥に誘われて2人で南インドへ、そして憧れのミナクシ寺院も見てきたそうです。列車やバスに乗り、宿も安いのを探しての冒険旅行だったそうですが、髪や口の周りは白くなったものの、笑顔の写真はまぎれもなく30年前のエラの張った下駄のような四角い顔の青年が写っていました。

アムステルダムのスキポール空港の待合室で声をかけてこられたのが、60歳半ばに見える女性でした。1年ほど前エジプト・トルコ旅行に参加された人で、今回は一人旅で1ヶ月ほどチェコやハンガリー、オーストリア、イタリアを回ったそうでです。安い宿に泊り、洗濯もコインランドリーでして、スーパーで買出しして食事を済ませたり、相部屋になった若い韓国女性と話や旅をしたりと、次から次へと話題が飛び出し、チャレンジした人ならではの、目が輝き体が躍動しておられました。荷物は機内に持ち込む小型のスーツケース一つだけという出で立ちでした。

締めくくりに、私の両親について少し述べてみます。
父が70歳、母が66歳になって山口県の借家をたたんで、千葉に住む私の家族と一緒に住む為に引っ越してきました。すでに24年経過しました。なんと素晴らしいチャレンジだったことでしょう。

旅もまた人生の縮図であり、チャレンジする気持があるかないかが、旅を膨らませもするし、萎ませもするようです。
     




1029  フィンランドに住めば…



若作りで、10代の娘のようなオカッパ頭の張り切り奥さんガイドの祐ちゃんは、もう20年はフィンランドに住んでいるはずで、成人した子供が2人もいると、仲間の日本人ガイドがそっと教えてくれました。

そんな祐ちゃんが語ったフィンランドあれこれを、思い出しながら書いてみます。
冬は湖は勿論、海も凍ってしまい、薄い所で40センチ、厚い所では4米もの氷が張り、世界の6割をフィンランド製の砕氷船が占めているそうですが、その砕氷船の活躍する季節です。
10月になると、長い半年続く冬に備えて車はスパイク・タイアに換え、海の上までも車の走れる道が生まれるそうです。マイナス20度に達すると、大掃除の日と決めてあり、雪も降らず青空が広がる中、布団を外に干すとダニが死ぬのだそうです。マイナス30度から40度では、バナナを金づち代わりに持って、釘が打てるそうです。
赤ちゃんは生後1週間ほどで、マイナス15度以下にならなければ毎日2時間ほど目と鼻と口以外は完全防寒着を着せ、乳母車に乗せて外に出します。その間、母親は家の中でコーヒーでも飲んで過ごしますが、誰も赤ちゃんや乳母車に近づくことはしません。
生後1週間すると、クル病防止の為、ビタミンDの入った飲み物を与え始めます。

サウナで暖まった後で、凍った湖に穴を開けた水の中に、裸で飛び込む大人のフィンランド人もいれば、また木の枝に引っ掛けて体が血で染まったまま裸で雪の上を走っている大人のフィンランド人などがいて、まるで子供っぽさが残っているそうです。
スキー休みまである国ですが、概して冬休みは短くなっています。

12月23日には、家庭で飾るモミの木が市場で売り出され、翌24日のクリスマス・イブはサウナで体を清め、墓参りを兼ねて教会に行き、ロウソクを点けて回ります。
25日には、教会に行ったり友人を訪ねたりして過ごします。夜のクリスマス・ディナーでは、豚肉の塊を皆で分けて食べるそうです。若し、クリスマスに働くと3倍の収入が貰えますが、犯罪を犯すと3倍のお仕置きがあるそうです。
サンタクロスは煙突から入ってくるのではなくて、玄関から堂々とやってきて、子供たちにプレゼントをくれますが、一人当たり20箱もあるのだそうです。勿論、サンタを雇うのは親となります。

一方、夏休みは長く、7月に入ると町は空っぽで、背広を着たサラリーマンは消え、テレビ局まで休みニュース報道もなく、人気の高いテレビドラマは9月から再開します。
のんびりしすぎた国で、車のクラクションを鳴らす人もなく、食べ物もこれといって美味しいものはありません。太陽が出たら働かず、ビキニ姿や裸になって甲羅干しする人も大勢います。
住宅感覚は、駅から3分ほどの便利な所は安く、海や湖に近い不便な場所ほど高い一等地となります。
ハンザ同盟時代(14〜17世紀)の昔から、タールや紙、材木を輸出して、塩を輸入してきた国ですが、今はノキア(携帯電話)を始めとするハイテク産業が伸びています。

バルト海を囲む国々のビール事情は次のようになっています。
フィンランド人は安いビールの買い付けにロシアやエストニアに行き、スエーデン人はデンマークへ、デンマーク人はドイツへ、ドイツ人はポーランドへと云った図式が成立しています。
ムーミンのような優しい男性(フィンランド男性の4人に1人は、姿や形も性格もムーミンに似ていると聞いています)と、きっとめぐり合った祐ちゃんなのでしょう。
お幸せに!
    



1030  冬の休暇は何処へ?



10月の中ば、ヘルシンキからボスニア湾に面した古都トゥルク(六百年間スエーデンが支配した時代のフィンランドの首都だった)にバスで向かう中、私たちの前を走るRUSのスティッカーをお尻につけた少々古い型のバスを指して、トゥルク港からフェリーに乗りスエーデンや他の北欧の国々を見て回るロシアの観光バスだと、フィンランド人のドライバー氏は助手席に座る私に話してくれました。

ロシアのバスには運転手が2人乗っていて、ガイドつきでツアー料金が安いので利用する人が増えているそうです。ロシアと北欧の往来が自由化されたお陰で、強力なライバルが登場している様子です。以前、彼自身バスを運転して、ヘルシンキとザンクトペテルスブルグ間(400キロ)を往復したそうですが、国境検問で長い間待たされたそうです。

1990年代の初め頃、東欧の古い型のバスのに乗り、バスの中で寝泊りし、バナナやパンを車中や公園でかじりながら、憧れのミュンヘンやウィーン、パリへとやってきた東欧の観光団を目にしたのを思い出しながら聞いていました。

11月になると、10日間の休暇があるそうですが、今年は人気の出ている中近東のドバイへ行くそうです。今までも、アフリカのモロッコから百キロ海の中に入った大西洋に浮かぶ常春の島・カナリア諸島や地中海のキプロス島そして南スペインにも行ったことがあるそうです。
よく聞いてみると主旨は、暖かい所で終日何もせず、ビールでも飲みながらリラックスするのが休暇(バカンス)だと考えていて、空っぽ(Vacant)とバケーション(Vacation)が同根だという説を裏付けているようです。
スエーデンでもノルウェーでもドライバー氏達は、暖かい国(タイは人気があるそうです)を休暇先に選んでいるようでした。










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