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希望

    

1011  発想の転換こそ成功への道?



商業港として発展していったロンドンですが、しばしば時化(しけ)で船荷が海の藻屑と化してしまう航海時代の頃、コーヒー店に集まり航海の動向に気を揉む出資者(パトロン)たちを見ていた人達の中から、知恵が生まれました。

出資者が適当な金額を支払えば、万一の場合、船荷や航海費用を補償して支払う連帯引受人の組織が生まれました。今もザ・シティに本店を構えるロイド保険会社はこうしてできたそうです。
船の無事な航海を願う気持から始まった保険制度ですが、今ではあらゆるものに保証が付けられていて、中国で売られている中秋の名月に食べるという月餅にも製造年月日や賞味期限が期してあり、消費者を保護しています。

さて、発想の転換と言えば、現在(2007年夏)ロンドンでの話題の一つに日本で流行った安くて便利なカプセル・ホテルと回転寿司レストランを高所得者層をターゲットにして、商いする事業家が現れたそうです。さて、成功するのでしょうか?

まさかの場合に備えての保険は入っているのでしょうか?
     




1012  シャクティ(力)とシャンティ(平和、共存)



力(権力やカネ、暴力)と共存のどちらを取るか? インドの語ったのはシャンティへの道でした。

力を頼りに外へとチャレンジしてトップ(征服者)になることを正当化したのが、ヨーロッパを始めとする生き方でした。ビートルズが捜し求め、憧れたのはシャンティでした。
カネと一時の虚栄(出世や栄達)に解決(光)を見つけようと挑戦しつづけ,自己正当化してきたのが大方の人類の歩みだったように思えます。

元々、一神教の教え(オリエントに発祥した)もシャンティへの道を説いたものでしたが、神への挑戦(悪魔にそそのかされた人間のシャクティがくり返し行なわれたのが聖書の内容)は失敗に帰しています。
富も女も権力も、清浄な自己抑制と神を愛し隣人を愛する行為には勝てないことを語っています。ただ、あまりにもシャンティ(目に見えない心の内面の喜び)が安易に権力者に利用されてきた所為で、真善美すら動揺しています。
     




1013  2007年8月上旬の大英博物館では…



ロンドンの大英博物館2階にあるミイラ関係展示室の中に、永遠に変わらないで生きることを願ってつくられた数々のミイラの労作があります。

一番感動を呼ぶのは、たまたま死んだ人が自然の悪戯で、何千年もの間そのまま乾燥していった結果、今も生けるが如くみえるミイラでした。
また、1階の古代エジプトの石の彫刻群の中には、新王国18王朝時代(紀元前1350年頃)の石灰岩でつくった男女の坐像があります。有名なロゼッタ・ストーン近くの柱の傍に置かれていて、他の王たちの巨大な彫刻物と比べると遥かに小さなものです。
この若作りの無名の二人は、顔も肢体も理想化して描かれていて、頭にはカツラを被っています。当時のエジプト人は蚤や虱などに悩まされていて、男は丸坊主に近く女も短髪にしていたそうで、常にカツラをつけていました。男は金持ち、豊かさの象徴としてお腹が三段腹になっていて、栄養が充分足りているのを表し興味を引きます。いつまでも若くありたいと願うのは、昔も今も変わらないものなのですね。

コイン展示室には、徳川家康が1603年(江戸に幕府を開いた年)につくらせた大判が展示してありました。他のコインよりは群を抜いて大きなもので、豊臣秀吉の慶長大判の例に倣ってつくらせたようです。慶長大判は貨幣として流通させるよりは、戦国大名や家来への忠勤の褒美として鋳造したそうで、'大盤(判)振る舞い'の言葉が生まれました。

また、近くにはイングランドの歴史を見直すきっかけになったサットン・フーでの船の墓から見つかった諸々の副葬品により、先史人(ローマ人が2千年前に入植して来た以前から住んでいた人々)が遠くトルコや中近東、地中海世界と交易していたことが、20世紀に入り初めて分った部屋もありました。

大勢の見学者に混じって、ユニホーム姿の日本人のボーイ・スカウトやガール・スカウトの一団もいました。聞くと、ボーイ・スカウトが生まれて丁度百年目に当っていて、節目の行事がロンドンで行なわれたそうです。ケンシントン地区にボーイ・スカウトの本部の建物があり、創設者バーデン・パウエル氏の銅像が入り口前に立っているのは、以前から知っていました。
20世紀の初め、南アフリカで戦われたボーア戦争(オランダ人入植者とイギリス人入植者の争い)で、イギリスの少年たちが敵陣の偵察、測候、見張りの役(ボーイ・スカウトと呼んだそうです)を努めたのがきっかけで、ボーイ・スカウトの組織が生まれたことを初めて知りました。

現在のボーイ・ガールスカウトは、自然や逆境の中にあっても、強く生きて行けるよう技術と知恵を身に付けるのが骨子のようです。
   




1014  三百万年前は肉食獣だったパンダ



上顎からサーベル状に長く鋭く伸びた犬歯を持った肉食獣だったのがパンダだそうで、気象の変化や生存競争を勝ち抜く過程で6〜7種類の竹だけを食べる大熊猫(パンダ)へと変身していった生ける化石なのだそうです。

僅か百グラム前後の小さな産毛を持って生まれますが、1年も経つと15〜20キロに成長し、成年になると150キロ前後になります。成長が早く、一日に8〜12キロもの笹や竹を食べ、野生世界ではオスは一人で行動していて、繁殖期だけメスに近づきます。
若し、双子の赤ちゃんが生まれるとすれば、一頭だけが育つのがやっとだそうです。
パンダの繁殖は難しく、生後1年で一本立ちして親元を離れ、平均30年で死にます。
オーストラリアで育つ樹上生活の名手コアラが、他の動物が食べない毒素のあるユーカリの葉を食べることで、種の保存を図ったのと似ている感じがします。

体重90〜100キロはあろうかと思われる、コロコロしてお腹の突き出た童顔のパンダ氏(いや失礼!ガイドの李さん)が、2時間たっぷり早朝の四川省成都市パンダ繁殖研究基地及び自然公園に案内してくれました。
野生パンダを保護する為に、生息する地域全体を世界遺産に認定した例は他にはないそうです。
東京では、2時間行列をつくって待ってパンダを見たのは1分だけだったと思わず漏らした、団体客の一人の言葉が象徴的でした。丁度、ルーブル美術館の至宝・モナリザの絵が日本にやってきて、長い行列の末にほんの一瞬だけ観賞させてもらった時と同じように…。
本場の成都では、本場のパリ同様違っていました。54頭飼育しているそうですが、様々な試みがされていて、生後間もない赤ちゃんパンダを育てている母パンダの檻の中の生活風景をテレビの画面がリアル・タイムで流していたり、子育ての嫌いで出来ない母パンダもいて、その赤ちゃんは哺乳器に入れ手厚く人間の手を通して育てているのを窓越しに見ました。
また、外に幾つかあるパンダの遊び場では、木の上でゆったりと日向ぼっこをしているパンダもいれば、私たちと一緒に写真に納まってくれるのもいて、様々に早朝の屋外でのひと時を過ごしていました。記念写真に出演しているモデルパンダは木の根元に座り、飼育係が差し出す竹の茎をしきりに口に入れ噛んでいました。その間に、パンダの後ろにそっと近づきビニールの手袋をはめた手でパンダに触り、カメラを構える別の飼育係の方を向いて笑顔のポーズをつくります。私たちは靴にもビニールの覆いをさせられたのは、きっと人間に付着している黴菌がパンダに移らない為だったのでしょうか?
入場者には、希望すれば誰でも無料でパンダとツーショットを撮れるように配慮してありました。
別料金で2万円も払った人は、別室へと案内され自然の大木を工夫した素晴らしい椅子に座り待っていると、30キロ前後の小パンダが運ばれてきて膝の上に載せてくれ、、パンダを前抱きにしたポーズで写真を撮れます。人間の方は全身にビニールの被り物を纏い、手や足もビニールで覆います。

ガイドのパンダ氏(実際、陰では彼のニックネームはパンダさんでした)は、私でしたら1万円で皆さんの膝に乗り、何でも芸をするし、パンダの縫ぐるみすら着てもいいですよ!と言って、大いに笑わせてくれました。
10時を回ると、飼育係たちは一頭づつ屋外に出ているパンダを檻の中に入れる作業を始めました。折角朝寝を樹上でむさぼっていたパンダなどは中々下へは降りてこず、係員が木の上に登っていき竹で誘ったり、手や足そして背中を押したり引いたりした末に、パンダは不承不承下ろされていました。見ていて、大変に根気の要る仕事で、檻の傍まで行くと、先ずは飼育係が中へと入って行き、その後をパンダが続くのですが他の係員がパンダの尻を押していました。

丸々2時間パンダ漬けで、大いに笑い感動したのですが、自然界の掟は厳しく飼育センターで育ったオスのパンダを森へと自然へと戻したこともあるそうですが、保護飼育されたパンダは野生界では、縄張り競争に負けてダメだったそうです。
次の計画は、いよいよ真打登場?メスパンダを野生に返してみるそうです。
メスには出来るかもしれないという期待が高まっているそうです。

パンダ・センターへと向かうバスの中で、パンダ氏が駐車場の周りはパンダ・グッズを売る店や人でごった返していて、中国はコピー商品の先進国でありコピー・パンダ商品やお釣も偽札があるかも知れないので、買わないようにとのアドバイスが効いてか?皆さんセンター内の店で思い出のお土産を買いました。
        





1015  風疾舟中 伏枕書懐



川と運河で囲まれた、成都郊外の貧しい草堂に晩年の4年暮らした人が、憂国の詩人と死後讃えられるようになった詩聖・杜甫(712〜770)だそうです。

生涯に1400ものリアリティに満ちた詩を書き残しましたが、1/4の作品はこの地でつくられたそうです。
人里はなれた所にある住まいと町を繋ぐ舟の中のひと時は詩心を大いに掻き立てた様子です。
時折、吹き抜ける風に書を飛ばされないように身構えていた様子が、タイトルの言葉の中に覗えます。

8月のある日、暑く湿気もある月曜日の午後、杜甫草堂博物館を訪れました。
'百聞は一見に如かず'と言いますが、今はこの辺りは成都でも物価が高く、1平方メートル当たり2万元以上(32万円)もする高級住宅地区だそうで、学校の集中する文教区であり、表通りに面して建つ背丈の揃ったアパート群は、何れもねずみ色の屋根瓦に白壁でバルコニーのついたシックな様相をしています。

侘しい草葺の住居だったと考えられる杜甫の家は最早なく、立派な門構えの入り口を入ると広い庭園があり、その中にレンガと漆喰の幾つもの建物が杜甫を記念してありました。
僅かに、入り口近くに運河が今もあることで、往時ののんびりした田舎の情景を無理やり想像してみました。

四川盆地は天府の地と讃えられ、自然の恵みに浴していて、三国志の中で諸葛亮(181〜234)の天下三分の計'で有名ですが、四川省の周りには天然の要害とも云うべき高い峰が林立していて、夏蒸し暑く冬は寒い土地柄です。
中国で辛い料理で有名な所と言えば、江西、湖南、そして四川だそうで、何れの土地も夏は湿気が強く冬は一段と寒いそうです。
日本の京都も盆地であり、夏暑く蒸し冬は寒い土地柄なのに、何故料理は辛くないのか?
と、つい口にしてみると、日本では辛いもの(唐辛子)がなかったからだろうとの返事でした。唐の国から伝わってきたから唐辛子と命名されたのでしょう。

杜甫草庵から車で5分ほど行った所にマーボー豆腐の老舗のレストランがあり、昼食はそのレストランの2階でいただきました。
説明では、明の時代の頃、陳麻婆(麻とはあばただそうで、痘痕顔の陳婆さん)が唐辛子と山椒を使った豆腐料理をつくったのが始まりで、評判を呼び四川を代表する料理になったそうです。
汗をかきながら辛い豆腐を口にしていると、やがて汗が乾き涼しく感じ始め体からジメジメ感が消えていくそうです。
陳麻婆豆腐レストランの1階では、労働者風の人も食べていて、暑いのか?あるいは料理が辛い所為でか?その中の一人は上半身裸になっていました。
2階は高級イメージの内装になっていて、昼時の頃、子供連れの中国人家族などで賑わっていました。

私の口には、スープ以外の料理は全部辛すぎ、トイレに駈け込むほどでした。
ただ、確かに汗が不思議に引いていく清涼感は感じました。









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