×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。



希望

    
1006  ピーター・ラビットの墓は何処と尋ねるアメリカ人観光客



イギリスの湖水地方(レーク・ディストリクト)を一日案内してくれたのが、ガイドのジョージ氏です。

地元のグラスミアで生まれ、グラスミアの小学校で学び、グラスミアのセント・オズワルド教会で結婚式を挙げ、娘二人の洗礼式もオズワルド教会で行いましたし、そして今もグラスミアの村に住んでいます。25年ほで職業軍人として空軍に在籍していた時以外は…。

グラスミアこそ桂冠詩人ウィリアム・ワーズワース(1770〜1850)が50年ほど住んだ地で、彼が'世界で一番美しいところ'と讃えた湖と緑の木立や農地の広がる小さな集落であり、セント・オズワルド(9世紀のサクソン王)教会の墓地に家族と共に静かに眠っています。
'I wondered lonely as a cloud '(一人雲のように彷徨っていた)で始まる有名な水仙の詩も,グラスミア湖のそばに住まいしたダブ・コテッジ時代(1799〜1808)に書かれたもので、彼の代表的な詩は400年近く前に造られパブ(ビールを飲むところ)でもあったダブ・コテッジ(鳩の家)で生まれています。
ずーと一緒に住んでいた,歳の少ししか違わない妹ドロシーがグラスミア日記を書き残してくれたお陰で、兄ウィリアムの生活振りが分っています。
彼女は兄の秘書のような役を果たし、才のある女性でした。
鍵をかけて大事に戸棚に締まってあった紅茶にはコーヒーの5倍もの税金がかかっていたことや、ロウソクは貴重で高価だったので自宅で羊の油と蜜を混ぜて作っていましたし、冬に凍るグラスミア湖上をウィリアムは木靴を履き氷上スケートを楽しんでいました。
ダブ・コテッジの白く塗られた外壁はパブだという目印だったそうで、それを嫌ったウィリアムはバラや蔦(アイビー)を壁に這わせました。
また、ウィリアムは幼友達のメアリーと結婚する前にヨーロッパ旅行しましたが、アネットというフランス女性と恋をして、今もフランスには彼女の生んだウィリアムの子孫がいるそうです。

ジョージ氏の近々の話題としては、日本人観光客から童話作家ベアトリックス・ポッター(1867〜1943)とハリー・ポッター(映画や小説で人気のあるマジック学校に通う少年)とはどういう関係かと真面目に聞かれたそうです。
ベアトリックス・ポッター女史もまた、湖水地方をこよなく愛した人で、彼女の寄贈した農場や建物がナショナル・トラストの保護の下に守られ、一般公開されています。
彼女は、人はそれぞれ違っているのが当たり前だとし、大都会のロンドンで生まれましたが、こよなく田舎暮らしを愛した人でした。
アメリカでつくられた'ポッター'という彼女をテーマにした映画の感想を聞くと、結婚(40歳)後の30年間の羊のブリーダーとして生きた時代が描かれていないのが不満ではあったが、概ね地元では好評だったそうです。

ワーズワースという名字は言葉に価値があるという意味だとすれば、桂冠詩人に相応しい名前になります。
また、ウールワースは羊毛に価値があるとなり、世界一と讃えられたイギリスの生の羊毛は長年外貨を稼ぎだす重要な役目を担っていました。そんな羊の品種改良に後半の人生を過ごしたポッター女史の姿を知って貰いたかったそうです。
私見では、今でもイギリスやアメリカにウールワースという名の庶民向けの雑貨チェーン店がありますが、一昔前はきっと誇りに満ちた高級店だったのではないでしょうか?
そして、今でも高級紳士服といえば、英国のウール地でできている感覚があるように思います。

グラスミア近くのウィンダミア湖畔にあるボーネスの町で、ピーター・ラビット(ポッター女史の処女作の主人公)の百年記念のポスターを見たアメリカ人観光客が、何処に行けばピーターラビットの墓はあるのかと尋ねたと言って、ジョージ氏は私たちを笑わせてくれました。
60歳を少し出たかに見える頑丈な体格の紳士は、こよなく故郷を愛するユーモアのセンスに富んだ人でした。
          




1007  ホームビジットは楽しい


1ダースを少し越える人数で、ウィンダミア湖の端に位置するアンプルサイドの町に住む元イギリス外交官の家を訪れました。

観光の中に組み込まれたものでしたが、そうでもしないとイギリス人の実際の生活や彼らとの会話は、団体旅行で味わうことは到底難しい事の様に思います。
アンプルサイド付近は2千年前にローマ人が住んでいた跡が見つかっていて、19世紀の産業革命期に鉄道が敷設され大いに湖水地方が変貌しつつある中、詩人のワーズワースなどの文化や歴史を大切に思う人たちの保存活動のお陰で、昔ながらの落ち着いた素朴な石造りの建物がそのまま残るところです。
ナショナル・トラストの管理する、現在は観光案内所兼お土産店を兼ねた小川の上にかかる橋のような小さな2階建ての石造りの家には、過っては家族7〜8人が住んでいたそうですが、中に入ってみると2,3人で立っているだけでもう一杯になってしまうような可愛い建物です。その家の傍で乗ってきたバスを降りて、歩いて坂道を登ったところに元外交官ご夫妻の住む家はありました。

生憎、ご主人は留守で今も時には公演を頼まれ出かけられるそうですが、丁度その日に当ってしまったようです。花柄模様のワンピースに身を包んだ大柄で今も美しい上品な奥様が玄関口で迎えて下さり、早速庭周りを案内して下さいました。庭の手入れはご主人の仕事だそうで、夏のこの時期様々な花が咲いていますし、小さな青いリンゴが実をつけていました。
奥の庭からは、1650年ごろにつくられた一番古い居間や台所が見えていて、近くのグラスミアに住んでいたワーズワースのダブ・コテッジとほぼ同年代だそうです。
ご主人の長い外交官生時代(モスクワや旧ユーゴースラビア、カメルーンなどに駐在したこともある)は官舎生活を続けてこられましたが、10年前にリタイヤーされた際、この家を買い住むようになられました。
玄関を入り通路を通って奥の居間で紅茶や手製のケーキやクッキーをご馳走になりながら、彼女の笑みを絶やさない口元から様々な話を聞きました。

彼女はこの町で生まれ育ったそうで、2階に上がれば寝室の窓からお父さんが医者をしていた実家の家が良く見えるそうです。ご主人とはケンブリッジ大学で知り合い、共に語学を学んだ仲間だそうです。
ご主人はフランス語やロシア語の語学の才能に長けた人であり、長年の外交官としての功績を讃えて女王陛下から直々勲章を頂いたそうです。奥様もご主人の赴任先で、インターナショナル・スクールの英語の先生をされたそうで、生徒の中には日本人もいたそうです。
英語ではなんと言っても、シェークスピアが一番だとの話でしたが、名前は忘れましたがあるアメリカ人の作家も好きだそうです。
車で1時間ほど離れた所に住んでいる8歳になる孫娘が自慢の様子で、2階に彼女が何時来て泊っていいように寝室が用意してあるそうです。その部屋の壁には、彼女の写真や彼女の好きな飾り物がかけられ,ぬいぐるみ人形もベッドの上にありました。
また、居間の床はスレート石でしたし、そこには最初にこの家を建てた、ご夫婦の名前入りの1653年と刻まれた壁にはめ込まれた大きな木彫の艶のある戸棚がありました。
当時は高価だった香辛料を入れていた鍵つきの小さな扉があり、その中を覗くと結構広くなっていて暗いのですが、よく見ると更に奥の木壁に小さな扉があり、扉の奥の小さな空間に一家の宝物?を隠していたそうです。
居間の横の一段低くなった北側の部屋は、温度が少し低いのを利用して食料品などを貯蔵していたそうですし、こうした古い家を買い、時間をかけて少しずつ手直ししながら玄関近くの1階と2階を付け足して現在の姿になったそうです。

派手で華やかな外交官生活ではなかったか?と思いがちですが、僅かにアフリカの人形やロシアのサモアール(紅茶などを沸かす器具)がある程度で、たまたま職業として外交官を選択したにすぎず、足元をしっかり見つめながら歩んできた老イギリス人外交官夫妻の初めて手にした私邸(愛の巣)でした。
ご主人の名字はスパローだそうで、イギリス南部の出身で雀さんとなりますが、珍しい名字であり,居間には雀の日本画や置物もありました。
      



1008  流石は習慣法を大切にする国



小雨が降ったり止んだりするイギリスの夏の夕刻でしたが、バスターミナルで落ち合うと、まずはチェスターの顔である大聖堂とクロイスター(中庭のある回廊)が見える所へと門番に一言二言言って立派な門をくぐり、丸や四角い石が敷き詰められた駐車場にも使われている広々した中庭へ案内してくれ、千年の歴史を歩んできた大聖堂コンプレックスが一番美しく見える所だと言ってくれました。

チェスターの郊外に住んでいるという中年のイギリス人ガイド女史は、よく大聖堂内の食堂で昼食を済ますことがあるそうです。
過ってここでは、一日に2度だけ厳格な規則のもと、聖書朗読が一人の僧侶によって行なわれる以外は他の僧侶は沈黙を保ち、ただ黙々と冷たい食べ物を口に運んでいたことでしょう。クロイスターに面した僧侶たちの食堂が、今は誰もが利用できる食堂兼喫茶店となっています。
16世紀半ばまではカトリックの僧院だったものが英国国教会の大聖堂に変わり、教会は演奏会や合唱コンクールの会場としても使われています。
次に行ったのは、北門(ノースゲート)大通りに面して建つルネッサンス風の市庁舎の横の細い通りでした。巾5米、奥行き3米ぐらい市庁舎の壁が道に沿って地下へと掘られていて、4〜5米下には大理石製の四角い太い柱が横になっていて、過ってローマ時代にこの場所に官庁の建物があったことを示していました。更に彼女は北門通りに面した市庁舎近くの衣料店の中へと導き入れ、床の一部がガラス張りになっている所を指差し、地下にローマ時代の太い円柱があるのを教えてくれました。

四方を今も壁で囲まれたチェスターの町ですが、東壁の直ぐ外に7千人を収容した円形闘技場の半分が発掘されているのは見て知っていましたが、まさか市庁舎の下や店舗の床下までに及んでいて、保存されているとは…。本当にビックリした次第です。
尤も、チェスターの町全体が2千年前のローマ人の前哨基地であり、先住民族のローマに組しないウェールズに住む人たちを睨んでつくられたことを思えば、なるほどと頷ける訳ですが…。
更に彼女はハイクロスと呼ばれる所へと案内して行き、四方に伸びる大通りに沿ってロー(row)という名で呼ばれる2階の建物の前部を貫いてつくられた、オールシーズン用(雨や雪、強風に備えた)の天井付きの通路を説明してくれました。この仕掛けは13世紀のイギリス王エドワード1世(6つも城をつくったことでも有名)がウェールズに遠征した際、国境近くの要衝の町チェスターの大改造を行なったことで生まれたようです。
世界にも類を見ないつくりで、ガイド女史自身興味を持っていて、似たものがあると聞けば遠くトルコのイスタンブールやスイスのベルンの町まで出かけて行ったそうです。
過って大通りでは、牛や馬、羊それに荷車なども人に混じって通ったであろうことを考えれば、所々に設けられた石段を登ってローに行けば人間オンリーの通りがあり安心して歩け、商売人にとっても価値が高くロー通りの両側から客に呼びかけることが出来、便利だったことでしょう。ローの外側は一段高くなったバルコニーとなっていて、充分に商品が陳列できる空間になっていました。
この町には、今でも紳士だけが出入りを許された会員制のクラブが残っていて、彼女はいつの日か入って見せると茶目っ気たっぷりに大通りに面して建つその建物を指差してくれました。元々は、そこでは希少で貴重な新聞や雑誌が読めたそうで、ロンドンのポルモル通りに似た同好の趣味の紳士の集う社交場がチェスターにもあるようです。

東ゲート門の上には、1897年に造られたビクトリア女王在位60年を記念してできた時計塔が立っていて、そこから西方を望むと遠くにウェールズの低い山並みが見えていました。彼女曰く、この時計塔はロンドンの時計塔(ビッグベン)に負けず人気があるそうです。

郷土愛丸出しのチャーミングなこの女史に、何故大勢の人に話しかけるスピーチはレイディーズ アンド ジェントルメンで始まるのか?何故男女一人づつの場合は男性を先に呼ぶのか?(ロミオ アンド ジュリエットやアントニー アンド クレオパトラ等のように)と聞くと、ちょっと考えてから深い意味や理由はなく、ただそういう習慣だとのことでした。
    



1009  タバコは200円、ガソリンは140円、酒も安いと聞いて



30年近くバスを運転してきた、中部イングランドのシェフィールド(7つの丘に5つの川、そして刃物製造の町として有名)に住む愛煙家の私たちのドライバー氏は、話好きでウィットに富んでいました。

イギリスではタバコは一箱千円以上しますしディーゼルオイルも1リットル250円、そして酒も高いので、日本のそれらの値段が桁違いに安いと聞いて、老後は日本で住もうかな?と言い出しました。
タバコもジャガイモもウォルター・ローリー卿が新大陸アメリカから持ち帰って、イギリスで広まっていきましたが、エリザベス女王に後に首を切られてしまいました。ローリー卿は女王お気に入りの愛人だったそうですが、女王は何人もの妻の首を刎ねさせた父王ヘンリー8世に似ていたのかもしれません。

サパーとは寝る前にとる食事だと彼は教えてくれました。
軽く食べるのが普通ですが、運転手氏はカレーが好きで、お腹が空いていては眠れない性質なので、しっかり毎晩食べるそうです。イギリスでは夕食(ディナー)は6時ごろ食べるそうです。
そう云えば、聖書の中でラスト・サパー(最後の晩餐)を終えて、深夜のゲッセマネの森へと弟子を伴ってイエスは入っていったのを思い出します。

また、イギリス人の好きなドッグレースにはレース場をぐるぐる回るのもあれば、野山を駆け回って予めつけてある兎の臭いを追跡する競争もあると教えてくれました。
日本で老後を送るとしたら、時にはバスの運転手もしてみたいと言うので、イギリスと日本が似ているのは車が左側通行だけで、道路標識は漢字で書いてあり道路標識と無関係な広告宣伝用の看板が無数に道沿いにあるので大変だぞ!と少し脅してみました。

ユーモアを大切にする文化の国に行くと、思ってもみない出会いがあり喜びがあるものです。
        



1010  ロンドンとパリは似たもの同士



ロンドンにはテームズ川が、そしてパリにはセーヌ川がそれぞれ町の中心を貫いて流れていて、河川を利用しての人や物の船による水上運搬で発達してきた歴史を持っています。

また、約2千年前に地中海からやってきたラテン語を話す古代ローマ人の支配に4百年前後服していて、当時一番輝いていた文化や技術の恩恵に浴しています。
それ以前は、イギリスにもフランスにもケルト系の民族が住んでいました。
ローマ人の次は、ゲルマン民族の大移動によりアングル・サクソン族がイギリスに、そしてフランク族がフランスに入って新しい時代を築き、段々とキリスト教化されて行きました。
そして、8〜11世紀にはバイキングやノルマン族の侵入があります。
ロンドンもパリも、その対策に苦慮しました。そんな中、何よりも両都市は王の住む都としての地位を確立していったことも似ています。
河川や運河を利用しての富の蓄積により、富裕層の市民を中心とした人たちと王権との対立構造も早くから生まれていたようで、愛憎入り混じった関係が見られます。

勿論、最初に山河ありきで、互いの町には七つの丘と川があったことを外しては語ることは出来ません。










トップへ
トップへ
戻る
戻る