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希望


        
1001  会場にお集まりの皆さん!



NHKの歌番組などで、司会者が最初に口にするのは'会場にお集まりの皆さん!ようこそ'の言葉が常套句ではないかと思います。

英語ですと、'レイディーズ アンド ジェントルメン 'が呼びかけに使われることでしょう。呼びかけに使う言葉の違いの背景には、日本では社会における大人と子供の位置づけを明確にしてこなかったのに対して、英語圏などでは子供は大人に従うものであり、躾けられてのち、初めて大人社会に仲間入りできるという明確な決まりがあり、公の場は大人だけが出席できるハレの席で、それに見合うマナーを身につけている必要があったのではないでしょうか?

ヨーロッパでは明らかに支配階級としての貴族が長い間君臨し、社会を引っぱってきた歴史です。教養もあり、スポーツなどで心身を鍛えマナーも身につけた紳士たちが家や地域、国を代表して政治、経済を司ってきました。
産業革命による経済構造の変化、あるいはフランス革命に始まる社会や思想の変化が起り、それ以降数々の新しい流れが生まれましたが、根本にはレイディーズ アンド ジェントルメンでありたいと願う人たちが今も大勢いるのではないかと思います。

日本では、レイディーズやジェントルメンが無理につくられ、鹿鳴館で洋装姿で踊った数年があるくらいではないでしょうか?勿論、本場のヨーロッパといえども成熟したレイディーズやジェントルメンの社交の場がどれほどのものであったかは疑問が大いにあるのですが…。

何故レイディーズと先に言うのでしょうか?
邪推ですが、女性のほうがきっとお喋りで私語に熱中しがちな所から、まず注意を喚起したのではないかと思ったりするのですが…。
大勢ではなくて、カップルを呼ぶ場合は必ず男性の名を先に呼ぶようです。
例えば、中学校の英語の教科書のタイトルだったジャック アンド ベティーやシェイクスピアのロミオ アンド ジュリエット、トリスタンとイゾルデなどあります。
猛々しく油断も隙もできない大陸では、民族や言葉、宗教や文化が錯綜していて,しのぎを削って生きてきた歴史です。男が先頭に立って愛する妻や恋人、子供を守るのが務めだったのが、カップルの場合男の名を先に呼ぶ理由ではなかろうか?と思ったりしていました。

イギリスに行った際、思い切ってイギリス人女性の公認ガイドに聞いてみると、あっさりした気の抜けるような答えが返ってきました。
レイディーズ アンド ジェントルメンもジャック アンド ベティーも単なる習慣であって、深い意味はないのだそうです。
    


1002  ローテンブルグやインターラーケンに泊らなくても…


7月の半ばとあって有名な町の宿は何処も泊り客でいっぱいのようです。

ドイツ・ロマンチック街道の至宝と讃えられ、15世紀の町並みがそのまま残るローテンブルグの町から30キロほど離れたバード・ヴィンズハイムという今まで聞いたこともない町に泊りました。バードとは鉱泉が湧き出す所に付けられることは知っていましたが、この町の鉱泉は外傷の治療に効くミネラル分を多く含んでいて、立派な療養施設もあればミネラルウオーターまでボトルに詰められて売られているところでした。
町はこじんまりしていて、石畳の敷かれた人口1万2千人ほどのドイツらしい歴史を感じさせる重厚で、冬は雪が沢山降る為か建物の屋根がかなり傾斜していました。町の中心はルネッサンス様式の町役場とその前の広場ですが、少し小高くなった丘の上にあり、風の吹きぬける鉱泉の出る町(バード・ヴィンズハイム)の名前が付いたのでは?と思えました。
役場の隣は古そうな教会になっていて、横には墓地が広がり広場からの下り道と墓地とを仕切る壁が第一次世界大戦(1914〜1918)で亡くなったこの町の人たちの名前が刻み込まれた記念碑になっていて、真ん中には剣を大地に突き刺し中世の鎧に身を包んだ武人の石の立像がありました。そして、その隣が私たちの泊った4つ星のホテルでした。
ホテルの人に聞くと、800年ほど前に町は大火で焼け落ち、その後町を災難から守ってくれる聖人として招聘された方こそ石像の人で、ローランだと言います。
8世紀末のイスラム軍との戦いでピレネー山中で亡くなりましたが、11〜12世紀に至り中世武勲詩で真のキリスト教の騎士として讃えられた人です。ホテルのロビー床には800年前の深い井戸跡が残っていたり、町役場前の石畳広場の中にも所々に大きなガラスが入れてあり地下が覗き込めるようになっていて、そこには焼ける前の建物の遺構や人骨などがありました。
私達日本人に知られていませんが、ヨーロッパの人たちには結構名の知られた町だという印象でした。

スイスのベルニナ・オーバーランド(ベルン山岳地方)の3名峰(アイガー、メンヒ、ユングフラウ)を愛でる為に宿泊する町の一つであるインターラーケン(ブリエンツ湖とトーン湖に挟まれた海抜560米の所にある)も、やはりピークシーズンとあって20分ほど離れたインターラーケンの後方の山の中腹(海抜1200米)の村ビーテンベルグに泊りました。道を登るにつれて、頂上部が雪を被った3名峰がすべてくっきりと正面に見えてきたのには大いに感動し、これまでこの地で泊ったグリンデルワルドやミューレン、ベルゲンやインターラーケンを遥かに越えるものでした。
ビーテンベルグの泊ったホテルは傾斜地に立っていて、いくつかの棟に分かれていて、複雑なつくりになっているように思いましたが、それは全ての部屋から3名峰が見えるように配慮されていたことによりました。早朝の、そして黄昏時の移り行く名峰3山の姿を3日間も楽しめたのは、偶然の悪戯(有名な町のホテルがいっぱい)によるものでした。

私たち日本人には、まだまだ知られていない小さな魅力ある町や集落、そしてホテルがたくさんあるのですね!


1003  言い訳はしないフランス新幹線


早朝のパリへ向けての出発とあってジュネーブ国際空港(フランスとスイスが共有で使っている)近くで泊ったホテルでボックス・朝食を用意してもらいジュネーブ市内のT.G.V.(フランス新幹線)駅であるコルナバンに行きました。

出発の45分前でしたが駅ポーターを従えて、中年の日本人女性が待っていてくれました。
長年ジュネーブに住んでいて様々な体験をしてきた方のようで、てきぱくと確認しながら駅の中へ案内してくれ、20分ほど使い残したスイスの小銭の処理時間をつくってくれ、スーパーで水やビール、チョコレートを買ったり公衆電話から日本へ電話をかけたりして使い切るとよいと言ってくれました。

5分前に全員集合すると、次はTGV専用のプラットホームの真下につくられたスイスとフランスの国境検問と税関のある狭い通路を先頭に立って通って行き、通り抜けた先は広い部屋になっていてトイレもあります。そこで上のプラットホームや列車内、そして途中駅(3ヶ所で停車する)での気をつけることを手短に説明した後で、更にスリ被害の多いパリの様子を短く明瞭に説明し終わると、スロープを登ってプラットホームと連れて行きました。
出発時間の15分前ですが、列車は見当たりません。
列車が入ってくるまで10分ほど待ちましたが、その待ち時間こそは彼女が体験したこの地での文化論の炸裂する所となっていきました。
水を飲もうと泉の周りに牛馬が集まるように、彼女の口から語られる話を聞き漏らすまいとする私達は、こんこんと湧き出す話の泉の周りに集い,一同笑いに包まれました。

始発の新幹線は早くプラットホームに入ってくることもあれば,ギリギリのこともよくあり、一度などは機関手が寝坊をしてしまったそうだという噂がでたそうで、フランスでは客よりは機関手の方が大切で、三波春夫の'お客様は神様です'は通用しないそうです。少々の遅れは当たり前と考えていて、一切言い訳や理由説明はないそうです、
パリ/ジュネーブ間は540キロありますが、3時間半もかかるのは在来線とTGV専用線路を併用しているからで、線路幅は同じであり日本の新幹線と在来線のように線路幅は違わないそうです。各車両にエンジンモーターがついていて車両間のジョイントがしっかりしているので、脱線や横倒しはなく揺れもほとんどありません。また、座席は固定されていて、回転して向きを変えることはできず、切符の検査も一度だけ車内で行ないます。
駅での改札はなく誰でも乗車できます。
ジュネーブ/パリ間の3回の駅停車のはずが2回だけのこともあったそうで、時間遅れで走っていたのでスキップしたのでは?と思ったそうです。
笑いの輪が広がる頃、出発予定時間ギリギリに入ってきた8両ワンセット連結(16両のこともあるそうです)の私たちのTGVは、待つのに慣れたヨーロッパ人やせっかち民族の私たちを乗せて、5分遅れで出発していきました。


1004  団扇と皿


夏休みがもうじき始まろうとする頃、小学生だった娘が両面に絵を描いた団扇(うちわ)を学校から持って帰ってきたことがありました。

片面にはコアラの顔が、そしてもう片面には象の顔がうちわいっぱいに描かれていて、同じ形の空間の中に異なった動物の顔をデザインした創造の素晴らしさに感動したことがあります。
そのことを言って見ると、大人になった娘も鮮明に覚えているようで、先生は片面だけに何か絵を描くように生徒に言ったそうですが、彼女だけが両面に描いたそうで、'天才少女現る'と思った?と笑って見せました。

バカンスシーズンたけなわの7月末の頃、バスに乗り日帰りでパリからモン・サンミシェルに行きました。帰りにトイレ休憩で立ち寄った店の中に珍しい皿のセットがあり、見入ってしまい遂には買ってしまいました。
小学生が描くような魚の小皿が6つ、頭と尻尾が替わり番こに並べられていて、それらが深さ3〜4センチほどの長方形の大皿に納まっていました。小皿の流線型の魚は数字の8のようにできていて、白の基調にブルーで輪郭が描かれ、目とエラもブルーです。胴体とシッポの大小の凹んだ所に刺身と醤油を入れれば、ぴったし収まるようです。大皿の方も底に6つの魚の絵が頭と尻尾が交互に並べられて描かれているので、片付ける際には絵の通り並べれば6つの小皿がすっぽり1つの大皿に容易に納まります。
あとは日本まで壊れないで無事に着くように包装して貰えるかどうかです。
キャシャーの女性にその事を言うと、裏(倉庫)で働いている若い女性を呼び、パッキングが裏で始まりました。これが大変で、15分かかる一大作業だったのですが、出来上がって渡された箱は商品の優に倍はあるものでした。
スーツケースに入れて持ち帰りましたが、小皿(魚の尾)一部が一つだけ欠けていましたが他は無事でした。欠けた所もボンドでくっ付けて,近々夕食の食卓にのることでしょう。

どうやら、魚のデザインと大皿に6コも収まっている魚の姿が、団扇の両面をコアラと象で埋めた娘の発想の豊かさとダブって映ったようで、衝動買いとなりました。


1005  エリザベス女王もルイ14世もワシントン大統領も歯痛に悩まされた


歯痛は風邪の次にありふれたものだったそうです。

旧約聖書の伝道の書では、年をとると歯の数が減っていくさだめの悲しさを、ソロモン王の詩歌はもらしています。
中世の時代ヨーロッパの町広場では、派手な衣装を着た偽医者が痛み無しに虫歯を引っこ抜くと聴衆に豪語して、嫌がる振りを装う共犯者(桜)を引きずり出しエイヤーと気合もろとも虫歯を抜くと、偽医者の手には血のついた臼歯があり、広場に集まった人に見せます。虫歯の傷みに苦しんでいた振りを装う桜は、虫歯の除去のお礼に大金を支払う芝居を演じました。
それを信じた人々は、我も我もと虫歯の除去を偽医者に頼みますが、本当に引っこ抜く時は傍で太鼓やトランペットの音で悲鳴はかき消されたそうです。
時には、抜歯から数日後に敗血症に罹ってしまうこともあったそうですが、偽医者は当の昔に煙の如く町から消えていました。

イングランドの女王エリザベス1世(16世紀後半の人)とて歯の痛みから逃れることはできませんでした。あるドイツ人の記述によると、女王は虫歯に犯された黒ずんだ歯をしていて、原因は砂糖の取りすぎだったと述べています。1578年の12月には、虫歯が女王を日夜苦しめましたが、医者の抜歯の勧めには断固として応じなかったそうです。
恐らく、抜歯の際の痛みを恐がったからでしょう。そこで、ジョン・エルマーという年老いた人が、残っていた歯が少なかったにもかかわらず、歯を1本(虫歯だった?)女王の目の前で抜歯してもらう蛮勇を見せ、女王にも歯を抜くよう促したそうです。

当時の一般人は、散髪屋とか鍛冶屋に行き虫歯を抜歯したそうです。生活が豊かになるにつれ砂糖の摂取量も増え虫歯も増えることになり、上手に抜歯する職人(歯医者?)の需要も増えました。医者や外科医の中には興味を持つ人もあったようですが、参考にするような専門書もなく1から始めなければならず、習得した知識も外部には漏らさない風潮だったそうです。

エリザベス女王から約1世紀あとのフランス王ルイ14世(太陽王)は、生涯の大半を歯痛に悩まされました。1685年には、左側の上あごの歯全部を抜歯しましたが、フランス人のカトリックを選ぶかプロテスタントを選ぶかの信仰選択の自由を奪うという王の裁定に微妙に影響を与えたと考える学者もいるほどです。その結果、ユグノー教徒(プロテスタントの一派)の弾圧が始まったり、ルイ14世のきらびやかな宮廷文化は歯の専門家を生む事になりました。宮廷や社交界で成功するには見かけの容姿が大切になり、見た目に美しい義歯が競って求められ、エリート層を上得意とする職業が育ちました。
パリで評判を高めた歯医者の一人がピエール・フォシャールで、散髪屋や大道で行なうペテン医師の抜歯を批判して,自ら初めて歯の外科専門医と呼んだ人でした。
また彼は歯に関する情報を外部に漏らさない慣行を止め、1728年に彼の知りうる限りの知識を本に書きました。歯医学の父と呼ばれたそうですが、初めて患者を床ではなく椅子に座らせて治療したり、歯を抜く為の5つの器具を開発したり、歯医者の訓練養成やうろ(抜歯したあとの歯ぐきの穴)を埋める方法も考え出しました。うろを埋めた上で象牙でできた義歯をスプリングで留めてのせました。

ルイ14世から百年後の人であるジョージ・ワシントン大統領もまた若い頃から虫歯に悩まされ、毎年のように歯を抜いたそうです。1789年にアメリカ合衆国初代大統領になった時には、口の中には歯が殆ど残っていませんでした。歯の抜けてしまった精神的苦悩や義歯がしっくりしなかった所為もあり、生まれたばかりの合衆国のパブリック・イメージとしての自分がどのように見えるか人一倍気をもんだと言われます。ワシントンの義歯は人の歯や象牙、鉛が使ってあり、大統領の治療にあたった医者は、恐らく墓の死体泥棒から歯を入手していたと思われます。歯の売買人は軍隊の後を追い、戦場で亡くなった死人の歯を抜き取っていました。従い、義歯は金持ちだけに許された贅沢なものでした。

1850年代に至り、ようやく硫化したゴムがつくられるようになったお陰で、義歯の型がとれるようになりましたが、未だ義歯は一般人には縁遠いものでした。
また、何故歯痛が起きるのかも定かではありませんでした。
古代から1700年代頃までは、歯痛は何らかの虫が原因であろうと思われていましたが、1890年にドイツのベルリン大学に勤務していたアメリカ人歯医者のウィロビー・ミラーが、歯の疼く原因はバクテリアの一種が砂糖の含まれるものを好み、歯を攻撃して酸化することにあるのを見つけました。
また、水の中に含まれるフッ素が多いか少ないかによって、虫歯に侵されるかどうかも分ってきました。

今では、大半の歯痛は虫歯によって起き、砂糖がそれを助長し、フッ素が予防に役立つことが分っています。勿論、適切に歯を磨くことが何よりも大切であるのは言うまでもありません。
部分麻酔による歯の治療が進んでいて、歯医者に出向くのは楽しみではないものの、一昔前のような苦痛を伴うようなことはなくなりました。
幸せなことですね。





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