希望


971  スペインの雨は本当に広野に降った


'The rain in Spain stays mainly in the plain' (スペインの雨は主に広野に降る)と歌ったミュージカル'マイ フェア レイディ'の中でのオードリ・ヘップバーン(ロンドンの下町の花売り娘イライザ役)でしたが、plain (広野)とはスペインの中央あたりカスティリヤ・ラマンチャ地方の高地帯(海抜600米〜800米)を指しているそうでメセタと呼ばれています。

そして、一年を通して滅多に雨が降らないことで有名です。
マンチャとはマンサ(アラブ語ですが、乾いた大地という意味)からつけられたそうです。
そんな赤茶けた大地が広がる平原では、雨が少なくても育つオリーブとか葡萄、麦などが植えられています。ヨーロッパの年間降雨量は日本のおよそ1/3から半分程度で、雨は主に冬に降ります。
そんな気候帯に適した作物こそが麦であり、西アジア(古代文明発祥の地)やヨーロッパでつくられてきました。秋に種を蒔いた麦(大麦や小麦など)が成長する為に、水を一番必要とするのが冬の雨です。4月から6月の頃のヨーロッパは、黄金色に色づいた一面の麦畑を目にします。

一方、米も歴史は古く、東アジアを中心に植えられてきましたが、春から夏にかけての成長期に雨を最も必要とする為、モンスーン地帯に一番適した作物となっています。
日本では、五月女が小さく育った苗を田圃に植え、梅雨期を経て9月から10月に収穫してきました。
また、一つの国の中でも水や気候の条件により麦や米を作り分けてきた所もあります。
インドの南では米を育てる米文化圏であり米を主食にした食事をとりますが、北では麦を作りパンやチャパティ、ナンなどを主に食べます。中国でも揚子江あたりから南は米文化圏で、北はパンやうどん文化圏です。
ヨーロッパでもイタリアのポー川(アルプス近く北に位置している)周辺とか、スペインの南フエルタ地帯(バレンシア周辺の灌漑用水を利用しての農業)では米を作っている所もあります。

真夏の日差しを感じさせる暑さが毎日続く五月の後半のスペイン旅行でしたが、マドリッド(メセタにある)に住む日本人ガイドは6月に入るまでは、本当の夏は始まらないと昔から言い伝えられていて、未だ長袖のシャツなどを仕舞いかねていると話した矢先でした。
翌日の夕方から土砂降りの雨が降り、日曜日の夕刻7時から始まる予定だった闘牛もやもうえず中止になったそうです。
折りたたみ傘を万一に備え、日本から持ってきた私達は'マイ フェアー レイディ'や'雨に歌えば'の歌詞を口ずさむゆとりがありました。



972  幸せの曲線


バルセロナに20年近く住んでいる日本人女性ガイドの話を紹介します。

総じて地中海に面したこの辺りに住む人はいい加減で、ポジティブ(前向き)で,大雑把な人が多いそうです。既婚女性の場合には、お腹の周りがふくよかに丸みを帯びているのを幸せの曲線と呼んでいるそうですが、一重に間食が過ぎるせいですし、男性も4人に3人は自分はイケ面(いい男)だと思っているとのアンケートが出ているそうです。

スペイン20世紀画壇の巨匠といわれるジョアン・ミロはバルセロナ出身ですし、ピカソは太陽海岸(コスタ・デル・ソル)の町マラガで生まれ10代20代の果敢な時期バルセロナで育っていますし、サルバドール・ダリもこの辺りの出です。また、モデルニズモ(19世紀末から20世紀初め)の旗手・アントニオ・ガウディもこの地を中心に活躍しました。
他の地域であれば、異常者とか偏屈者として白目で見られかねない人であっても、他人に干渉しない個人主義の精神が培われていればこそ彼らも自由に発想を膨らませることが出来たのでしょう。
歴史的に見ても、バルセロナは地中海や大西洋を渡っての船の交易で活躍していて、開かれた世界に生きてきましたし、外からやってくる独裁者に対して徹底して抗戦してきました。

港近くにあるピカソ美術館の見学を終えて、狭い旧市街の路地を歩いてバスに向かっていると、このガイド女史は'アヴィニヨンの娘たち'(1906)というピカソの出世作(後にキュービズムの始まりと称せられた)のモデルたちは、この辺りのアヴィニヨン通りにいたストリート・ガールだったそうですとボソッと言いました。
てっきり南フランスの法王庁の町・アヴィニヨンかと思っていたのでビックリしました。



973  アイム ディファレント (自分は変わり者だ)


フランスワインもフランス料理もチーズも皆嫌いで、中華料理が好きで自分でつくることもするし、日本食では麺類が好きで他には寿司ではツナ(マグロ)とサーモン(鮭)のみ食べると言います。

出身地は?と聞くと、ベルギーだと言うので、ベルギーの何処?と更に聞くと、ブラバントだとの返事です。ブラバントは北のフランドル(オランダ語圏)と南のアルデンヌ(フランス語圏)に挟まれた地方に当たり、首都ブルッセルがあります。
また、オランダのブラバント地方(ベルギー・ブラバントの東隣り)出身に、19世紀の孤独な画家ゴッホがいます。
南仏の町、ニースとモナコ公国の半日観光を案内してくれる日本人女性ガイドが何となく話しにくそうにドライバーに接している様子なので、割って入って笑顔で英語で話しかけ、パリまでの6日間のバスの旅で一緒するツアーの添乗員だと名乗りました。
すると以外にも流暢な英語が帰ってきました。この50歳前後に見える白髪交じりで筋肉質の白人運転手との楽しい会話は、以後パリの空港から私たちが日本に飛び立つまで続くことになりました。

コート・ダジュールに面したアンチーブ(画家ピカソのアトリアがあった)の港町に住んでいて、仕事の休みの時は庭いじりするのが趣味で、都会は好きでないといいます。英語のほかにはフランス語、イタリア語を話すそうで、テレビを見るのは嫌いで読書するのが好きだそうで、私たちがバスを降りて観光している間は,本を読んで待っていてくれました。
車中では時々クラシックの名曲を流してくれたり、1/2リットルのミネラルウオーターの客からの注文にも、その都度日本語で'ありがとう'と言い、運転席の横の冷蔵庫から取り出して渡していました。
以前は愛犬を連れてバスを運転していたそうですが、心無い韓国系アメリカ人女性のクレームにより今は止めてしまったそうです。ちょっとしたジョークのつもりで言った'韓国では犬を食べるそうですね'の彼の言葉に異常反応し、また周りのアメリカ人たちも'そうだろう'とからかったのが悪かったようで、アメリカに帰るなり旅行会社にビッグなクレームあったのだそうです。
家を留守にする時は、30年も変わらず一緒に生活している男性(同じドライバー仲間だそうです)と二十歳になる息子が犬の世話をしているそうです。

ロワール川では、予定にないブロアやアンボワーズの町がよく見える対岸にバスを停め、写真を撮らせてくれるなどの配慮をしてくれました。モン・サン・ミシェルでの昼食の時間を利用して、近くのガーデニング・ショップにバスで一人行き、高さが1メートルほどある女性の半裸の噴水の出る石像を、ちゃっかり買ってきてバスのお腹に積み込んできました。自宅の庭に置くのが待ちきれないといった様子でした。
空港へ向かう前パリでの最後の食事はルーブル美術館近くの'フォンテーヌ・ドゥ・サント・ノレ’(聖女ノレの泉)レストランでサーモンを食べましたが、生憎と彼はバスを停める所がないので食べませんでした。そして、このレストランの一階中央には、聖女オノレが上半身裸で石像となって立っていて、過ってここに井戸か噴水があったような印象でした。彼に是非見せてやりたいと思ったほどでした。

'アイム ディファレント'と語った彼が懐かしく思い出されます。



974  一ヶ月早いツール・ド・フランスを見た?


6月の初め、パリの左岸シテ島近くでは、約10分ほど道が封鎖され、路上は大勢のローラー・スケーターたちで占領されました。

背中にナップサックを背負い、ヘルメットを被った老若男女のスケーターの大群が、サン・ミシェル噴水広場の前をコンコルド広場方面に向かって走り抜けて行きました。行軍のしんがりは救急車とパトカーでした、恐らく日曜日とあって、ローラースケート愛好家たちが企画した'パリの街中を走る会'にでも出くわしたのでしょう。
そう言えば、15年余り前にもベルギーの首都ブリュッセル(7つの丘から出来ているといわれる)で、たまたま自転車ロードレースに遭遇し、警官が交通遮断している大通りを猛スピードで走っていくユニフォーム姿のサイクリストたちを、観光バスの中から30分ほど見つめていたことがありました。

やがて何事もなかったかのように、シテ島と左岸を結ぶ道は歩く人で溢れ、私たちも晴れた日差しの中ノートルダム大聖堂へと向かいました。12世紀末から建設が始まったこのゴチック様式の教会には、イエス・キリストが被ったとされる棘(イバラ)の冠の一部が納められているのだそうです。
聖地エルサレムのある東に向いて造られたラテン十字形の教会です。
西正面入り口から入り、南の側廊を進むと左手にやがて北のバラ窓のステンドグラスが見えてきます。そこには、旧約聖書(救世主の到来を待つ主旨で貫かれている)のエピソードが絵で描かれていて、全体としてブルーの色彩が際立って見えています。
更に奥へ進むと、突き当たりは教会の東の壁をくり貫いてつくられたステンドグラス群が現れ、教会の名前の主(ノートルダム・私たちの貴婦人)である聖母マリアに関するエピソードがそこには描かれていました。また近くにはピエタ(嘆きの母)の石像彫刻が置かれていて、ミケランジェロの影響を強く受けた仕上がりになっています。東奥の聖壇のある所こそが一番大切であるようです。
次は北側の側廊へと回り進むと、左手に南のバラ窓が見えてきます。
そこには、新約聖書(主イエスが言ったり行なったりしたエピソードが書かれている)の場面がステンドグラスになって描かれていて、陽が当たるせいか明るい赤色系の色彩がよく反応しています。
北半球に位置するパリでは、南は日差しが強く北は日差しが弱いのを利用して、救世主を待望する旧約世界では暗く、そして到来した新約世界では喜びに溢れる明るい色調を神の恩寵(日の光)が演出している感じです。
また、西のバラ窓や大聖堂前の正面入り口の彫刻デザインは最後の審判をテーマにつくられていて、殆どの人が文字が読めない中世の時代にあって、目で見て明々白々に分る聖書物語が絵や形でつくられてことが分ります。

屋根に降る雨水の吐き出し口の樋の先に悪魔よけを兼ねた恐い顔をした石の飾りがあるのも、この教会を訪れる楽しみの一つです。



975  床が木でできているスカンジナビアの空港や船、それにホテル


日本がすっぽり入るほどの大きさのバルト海を、北から包み込むように西へ長く伸びている半島(フィンランド、スエーデン、ノルウェーがある)と西の端から上へと突き上げるように出ているユーラン半島(デンマーク)に周辺の無数の小島を合わせて,総称してスカンジナビアと呼ぶそうです。

またの名前を北欧5カ国(アイスランドも加えると)とも言い、北緯55度あたりから北極圏(北緯66度33分以北)にまたがっていて、ヨーロッパ最北の地域になっています。
共通している点が多々あることに、夏(6月)のころ訪れて改めて気付きました。
一つは、空港(ヘルシンキ、ベルゲン、コペンハーゲン)や船(ヘルシンキとストックホルム間を結ぶ大型フェリー)に、そしてホテル(ヘルシンキ、ストックホルム、オスロ、ノルウェーのフィヨルド観光地、ベルゲン、コペンハーゲン)でも全て木が床に使われていました。木材は足に優しく、しっくり床に吸い付くようで滑りませんし,木の素肌を生かした落ち着いた感じを与えてくれます。
また、ホテルやレストランの内装や家具調度品にもトール・ペイントで塗られた独特の模様や絵が描かれているのを多く見ました。

長い時間をかけて氷河が地形を削っていった結果、地上のなだらかな岩盤の上に木々(落葉樹や針葉樹など)の緑や芝が色づき、湖や川、滝に運河、そして海があり'緑と水'の国となっています。
朝食や夕食のバイキング(日本だけで呼ばれるブフェ式の食事)のテーブルには、必ず鰊(ニシン)がありました。塩やカレー味、そしてマリネート(油と酢を使う)味になっていて食欲を増してくれました。

木を多く使う住の空間、ニシンやタラ・ウナギなど魚を多く食べる食の伝統が綿々と続いているのに気付かされ、バイキング時代やハンザ同盟海運時代、プロテスタント教へと転向していった苦難の頃、また近代における大国との摩擦やスカンジナビア内での凌ぎあい、そして何よりも大自然との共存の道を求めて歩いてきた人達であり、今は教育そして社会福祉の面で世界を引っ張るリーダーになっています。





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