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希望



966  ブリュセルの有名広場、アーケードにはチョコレート専門店が沢山



'ベルギーの歴史の教科書は薄っぺらい'と揶揄されるそうですが、ベルギー国が誕生したのは1830年のことです。

ナポレオン戦争の後(1815)のフランスやドイツ、イギリスやオランダなど周辺諸国の政治バランスの駆け引きからオランダから独立しました。しかし、独立後もオランダとの戦争や食糧危機がありましたが、ドイツ人貴族(サックス・コブルグ・ゴッサ家のレオポルド)がベルギー国王レオポルド1世になり、憲法制定や法制面の整備を行い国の基礎を固めました。
息子のレオポルド2世(1865〜1909在位)は、商業や工業などの実務才能に優れた人で, 何とアフリカの中央に位置する広大なザイール(昔のコンゴ)を1855年以来、彼の個人所有にしました。19世紀の半ばの頃、アフリカの内陸は未だ欧米人の知らない,俗に云う暗黒大陸でした。
生まれて間もないベルギーでしたが、個人の資格で列強諸国の間隙をついてアフリカの奥地へとチャレンジしたレオポルド皇太子の勇気、商魂、信念はベルギーを経済面で安定させるのに大いに貢献しました。
アフリカへのキリスト教布教や探検家として名を馳せた英国人リビングストーン博士の生死が心配される中、敢然とアフリカの奥地へと入り、博士の無事を確認した米国人ジャーナリストのスタンレーは、後にザイール川の探検を行いベルギーの発展に寄与しました。
1960年にベルギーから独立するまでは、ザイールはベルギー領コンゴと呼ばれ、首都はレオポルド・ビル(レオポルドの町)でした。ダイヤモンドや金、そしてチョコレートの原料になるカカオが多く産出されました。
私の夢の一つは、何千キロも続くジャングルの中を流れるザイール川を船で旅をすることです。

さて、チョコレート食べたりココアにして飲むようになったのは何時の頃からでしょうか?
原料のカカオの実をチョコレートに加工するまでの工程は、複雑で難しいのは聞いたことがあるのですが…。アフリカの熱帯に住む先住民の人達や猿などの動物はカカオの実をきっと食べていたことでしょう。
オランダのウィリアム3世とその王妃メアリー(イギリス王室の人)がイギリス国王夫妻として迎えられたのは、名誉革命(1688)の後でした。その際、ココア(チョコレート)をイギリスに持っていったそうです。また、後に大英博物館を興すきっかけをつくった医師スローン卿は患者にココアを処方して飲ませたそうです。
いずれにしても、ポルトガルが15世紀半ばからアフリカ西海岸伝いに大西洋を南下していく冒険の中で、カカオの実はヨーロッパに持ち帰られ研究が行われ、アフリカやインド、アメリカ方面からの物産の集散地であったフランドルやオランダが、いち早く目を付けたのでしょう。
ヨーロッパでは伝統の手作りのチョコレートも健在ですし、産業革命の波と共に始まった工場で大量につくる安くて日持ちもするチョコレートも、アメリカや英国などを中心に人気を保っています。

ブリュッセルっ子が粋でシックな所として好むサブロン広場には、古美術商の店やレストランが立ち並ぶ中、有名なチョコレート専門店が幾つか軒を並べていました。また、この広場と向かい合って小サブロン広場がありますが、そこには48個の小さなブロンズ像が柵の上に載っていて、一つ一つがブリュッセルを支える様々な職業(ギルド、座)を表しています。
次に行ったのが、あまりにも有名なグランプラスでした。
広場を取り囲んで、パン、ろうそく、桶、甲冑や弓矢刀、船、織物、肉、ビール、絵、などのギルド組合本部だった建物がずらーっと勢ぞろいしています。ここにも有名なチョコレート専門店が数軒ありました。また、近くにはレオニダス(ペルシャ戦争でのテルモピレーの戦いで戦死したスパルタの英雄の名)というチョコレート店もあり、ブリュッセルっ子が好きなブランドだと聞いていますし、100%カカオからつくるチョコレートの看板を出している店もあります。チョコレート博物館すら出来ているそうです。

そして、自由時間を利用して訪ねたのがグランプrスから歩いて5分の所にある聖ヒューベルト・アーケードの中にあるチョコレート専門店でした。
鉄とガラスの時代とは19世紀後半の産業革命最盛期の代名詞ですが、アーケードの天井がガラス張りで日光をいっぱいに取り込み、雨にも濡れないで散歩や喫茶、買い物が出来るシックなギャラリーが、金ギルド組合の建物を壊した跡に1850年代にできました。
王のギャラリーと王妃のギャラリーに分かれています。
日本の雑誌に載った店ですが、その店を紹介した紙片を手に男性二人(お客さんと私)でのチャレンジでした。王のアーケードに入ると、早速有名なチョコレート店が2軒右に見えます。中に入って尋ねると、若い女性店員は笑顔で、さらに先にある王妃のギャラリーの左側にあると教えてくれました。
私はこれまで聞いたことがないチョコレート専門店でしたが、店の中は明るく照明が灯っているのですが、入り口は閉まっていました。待つ間もなく60代後半のごく普通の主婦にしか見えない方がギャラリーの中を歩いてこられ、鍵を開けて店の中に入れてくださいました。聞くと、郊外で息子を中心に家族で手作りチョコレートをつくっているそうです。
3代続いた専門店だそうで、自分は店の番をしているだけだと言います。

傷みやすいデリケートなものなので、日本へ帰るまで(5日ほど先)持つかどうか心配だと問うと、缶に入れてはどうか?箱を密封してはどうか?何時までブリュッセルにいられるのか?などと親切に聞いてくれ、プラリネ(クリームやナッツの入ったチョコレート)の試食をさせてくれました。
そして、自分は詳しいことは分らないから、工場にいる息子に連絡してもらえば良い知恵が出るかもしれないと言い、名刺を下さり合わせてお土産に金や銀色の包み紙に入ったオーバル型のプラリネを7〜8個袋に入れてくれました。

結局、何も買わないで店を出てしまいましたが、何とも後味のいい一期一会のひと時でした。



967  西洋絵画の流れ


'偉大な国は自伝を三つの原稿で残す。業績を書いた本、詩歌、そして美術だが、信頼に足るのは美術だけだ'と言った人が、ジョン・ラスキン(ビクトリア朝時代の英国の批評家)です。

また、芸術家は時代のある条件下においてつくられるものであって、芸術家が時代をつくるのではありません。絵画の鑑賞は絵を見比べるだけでは不十分であり、出来る限り画家とその時代(政治や経済、社会状況など)を知っておくべきでしょう。
例えば、イタリア・ルネッサンス(14〜15世紀)の背景には都市国家(ミラノ、フィレンツェ、シエナ、ウルビーノなど)の成立があり、やがてローマ(16〜17世紀の法王の下でバロック芸術が華開く)へと引き継がれたことや、17世紀のオランダ美術の黄金期は世界を相手に交易した市民国家の繁栄をぬきにしては語れません。そして、18世紀はフランス宮廷文化の照り返しがヨーロッパに影響を与えました。

もっと古くには旧石器人は洞窟の壁に、あるいは古代ギリシャやローマ人は家や公共建造物の壁に絵を描きましたが、殆ど残っていません。
イコン絵は中世を通して、その後も16〜17世紀に至るまで描き続けますが、西洋の美術とは同列に論じるのは難しいようです。イコン(聖人画)は宗教的事物(礼拝の対象)として使われ、制作者は自分の考えを作品に表現する自由はありませんでした。
それと比べると、イタリア・ルネッサンスでは画家の考え(個性)を表す自由がみられ、その新しい流れは現代美術に至るまで綿々と続いています。
他の文学や音楽と肩を並べて、美術は文明を最もよく表現する代弁者になっています。

近代ヨーロッパ絵画の流れを理解するには、宗教とパトロン(保護者、庇護者)を理解する必要があります。18世紀までは、宗教を抜きにした表現は許されませんでした。パトロンは国や家柄により違いがありますが、イタリアではローマ法王ユリウス2世がミケランジェロやラファエロを庇護したり、メディチ家も数多くの芸術家を養いましたし、ヨーロッパ中の宮廷も19世紀まで美術家の保護者でした。
例外はオランダで、中流階級の一般人がパトロンでした。

そして、19世紀の初めの頃ロマン主事運動が起こり、芸術家は中世以来社会の中で職人階級というレッテルの中で生きてきましたが、反逆の烽火を上げ社会のプレッシャーを撥ね退け、自由に生きて表現することを始めました。彼らはボヘミアン、社会のアウトロー、反逆者などと呼ばれましたが、この傾向は今も芸術家の心の中に脈々と引き継がれています。
'人がすべての測りである'とプタゴラス(古代ギリシャの哲学者)は言いましたが、ルネッサンスとは何?との問いに一番適した答えのようです。
中世は神の目で見た世界観でしたが、翻ってルネッサンスは自分の目で世界を見るヒューマニズムの流れを起こし、独立した理性のある半神性の英雄となり、自分の運命をコントロールできると考えました。

ジオットこそ最初の偉大な革新者であり、固く閉ざされていたビザンチン絵画(人物を神聖、神秘性を感じるように表現する)を打ち破り、人物に体重があり空ろでなく、三次元世界にいて顔や手が感情を持っていて、人物配置や景色を使って絵にドラマ性を与えました。文学でのダンテ(ほぼジオットと同時代に生きた)に匹敵する人でした。
ジオット(14世紀初め)からラファエロ(16世紀初め)に至る美術の流れは、目に映る実体(現実)をありのままに表現する方法を緩やかに修得していった過程でした。
イタリア・ルネッサンスの最高峰(ハイ・ルネッサンス)と言えば、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロと誰もが認める三人です。

何もかも知りたがった(鳥がどのように飛ぶのか?子宮の中で胎児はどうなっているのか?風や雲はどのようにつくられるのか?など)人がダ・ヴィンチであり、常に真理を追い求めました。今に残る彼のスケッチ・ブックから物を克明に観察して分析した姿勢こそ、ルネッサンスの知性そのものであり、芸術家であり同時に科学者であったダ・ヴィンチは歴史家を驚かせました。
ミケランジェロの絵や彫刻は、私たちを巨人や英雄の世界へ引き込む迫力に満ちていて、体と心と霊が一体となったルネッサンスの精神を感じます。
そして、ラファエロは芸術と知性を結晶させた人であり、ミスター・ルネッサンスと呼ぶに相応しい人でしょう。
ハイ・ルネッサンスは長くは続きませんんでした。1527年にスペイン兵がローマに乱入して終わっています。それ以降の16世紀は不安と疑い闘争があり、宗教ではプロテスタント運動が、美術ではマニエリズムが起こりました。1590年にやっとローマにサン・ピエトロ大聖堂が完成しています。
17世紀に入ると、新たにバロック芸術(ローマ・カトリックの復興の示威運動)が盛んになり、多くの人に人気がありました。ルネッサンスが選ばれた知性の限られた特定の人だけのものだったのと対象を成しています。

イタリアでルネッサンスが盛んだった頃、アルプスの北のフランドル地方(北フランス、ドイツの一部、オランダあたり)ではブルガンディ公爵の宮廷画家であるヤン・ヴァン・ダイクなどを中心にフランドル絵画が注目されました。ゴチックの細密画の伝統の流れの中から精密な観察力に基づく精巧な筆使いで、聖書に関するテーマと日常の生活の場面を組み合わせた独特の保守性を保った美術家が生まれました。肖像画も、その人物をありのままに描きあげる作品をつくりあげています。
ヤン・ヴァン・アイク(15世紀前半の人)の北方ルネッサンスの伝統は、16世紀へと続いていき少しずつイタリアの影響もしみ込んでいきました。

17世紀のオランダは市民デモクラシーが広く浸透した時代で、市民の生活態度が実践的で科学的であり、理性的でもありました。しっかり現実の観察を行い、美術の面でも静物から花に至るまで広範囲に及びました。
代表的な画家を二人上げるとすれば、フェルメールとレンブラントでしょうか?
フェルメールは徹底した現実主義者であり、描いた絵は時を越えて静寂を保っていて純粋詩を読んでいるようで、風景や人物、室内をありのままに記録しました。
白壁や紙、布地やメタル、陶器の壺の表面に当たる光の微妙な質感の違いやグラデーションまで描いて見せました。
レンブラントも現実主義者でイタリア・バロックの影響を受けますが、経験からくる真実の模索を多く描いた自画像に心の奥深くまで投影した作品を残しました。

18世紀は宮廷やサロンを中心にしたエレガンスとチャームの世紀といえます。
女性が活躍した時代でもありました。大陸のフランスではパリという大都会が中心になりましたが、英国では田舎に文化が移り、農業やスポーツなど貴族が田園を好むようになりました。

19世紀のヨーロッパは革命と産業化・工業化そして社会変革の世紀と云われますが、自然を賛美する18世紀の英国の詩人たち(ワーズワースなど)に感化された人たちが多く生まれました。イギリスには嵐や洪水、雪崩や稲妻などの自然の破壊力に魅せられて、波間に翻弄する船などを描いたターナーや、故郷の風景を描写したコンスタブルがいましたし、フランスでは暴力やエキゾチックな魅力を描いたドラクロアやジェリコなどがいて、19世紀前半はロマン主義時代という名に相応しいものでした。
19世紀後半には印象派の運動が出てきましたが、伝統の自然主義の継続だと見ていいようです。その他、印象派は単に感覚のアートであって知性に欠けていると感じた人たちは、シンボリスト(クリムトやグスタブ・モローなど)と呼ばれ、現実から逃避して神秘の世界や空想、エロチックな方向へ向かいましたが、デカダンス(退廃)の時代と言われました。

20世紀は複雑で混乱に満ちていて、初心者には捉えようのない数多くの派が間断なく登場した時代といえます。
光を科学的に分析して点描(ポインティズム)で表現したスーラーや、日本の浮世絵に魅せられたゴッホやゴーギャンはキャンバスに絵の具を混ぜないで原色をそのまま塗りました。この流れの中からマチス(フォービズム)が育っていきました。
そして、現代絵画はセザンヌによりつくられたと云われます。
印象派の主観的な手法に満足できなくなったセザンヌは、客観的に事物を見ることで事物(リンゴや水差しなど)の持つ根本の性質や幾通りかの形(円錐、長方、四角など)に分類できると考えました。この見方は、やがて事物をいろんな角度から観察してキャンバスの上に描くキュービズム(立体派)へと発展していきました。
ピカソが1906年に世に問うた'アヴィニョンの女たち'こそセザンヌの理論とアフリカの彫刻にインスピレーションを受けて生まれたといわれています。
立体派では物体(事物)を描いて作品としていましたが、その後の流れは事物のないものを描くアブストラクト(抽象)の世界へと進んで行きました。
アブストラクトには言葉が必要と考えたカンディンスキーもいればポール・クレーのように理論と美的な規則を表現するものもいるし、数学的純粋さを求めるモンドリアンやバウハウスも、そしてアクション・ペインティングのポーラック、また広告のロゴをイメージとして使う(コーラのボトルやハンバーグ、スープの缶、コミックなど)ポップ・アートなど分かれていきました。
人物描写(ポートレート)を描き続けたルオーやモジリアーニ、ベックマンなども忘れてはならない人たちでしょう。
 
世界が政治面でも経済面でも文化面でも多極化する中、情報は瞬時に行き渡る今日ですが、均一化した価値観が果たして生まれるのか?誰もが不安の思いに駈られて生きています。
見えないものを見、感じないものをいち早く感じる芸術家たちは、どんな作品を私たちに見せてくれるのでしょうか?



968  ジャカランダの木に花が咲く頃が一番忙しい


そう云ったのがスペインのセビリアのガイド女史エステルです。

30代半ばに見える美人で5歳と3ヶ月の子供に恵まれ、ご主人(キューバ出身)は電気技師で、郊外の環境のよい一戸建ちの家に住んでいるそうです。
セビリアの町の街路樹の多くは紫色の花をいっぱいに咲かせていて、他の町とは異なった風情を醸していました。年に2度花を咲かす5月と10月が一番観光客がやってくるので一番忙しくなります。
今日も土曜日というのに私達の為に午前中はつぶれましたが、珍しく午後は開いているので家に帰り、子供たちと久し振りに遊ぶのを楽しみにしていると笑顔になりました。
ご主人は?と聞くと、土曜日というのに仕事だそうで、子供の面倒はベイビーシッターに頼んだそうです。

旧約聖書では、エステル(Esther)はユダヤ人の孤児でしたが成長して、ペルシャ王アハシェエロス(クセルクセス1世)の王妃になり、ユダヤ人の危機を救いました。姿見も容貌も美しい女性として描かれています。
この女性の名にヒントを得て、今流行のキュウリをお腹にすり込むなどしての女性を美しくする産業をエステとかエステチックと呼んでいるようです。
同じく旧約聖書のスーパーヒーローにノアがいますが、神の言いつけを守り箱船をつくり家族8人だけが大洪水を免れました。8人乗りの車にノアと命名した車種が走っています。

子供だった頃、白黒テレビで'アイ ラブ ルーシー'というアメリカのコメディ番組がありました。
隣に住む友人のエセル(エステル)とルーシーが毎回、何かチャレンジして失敗して笑わせるつくりになっていました。平和で安定した1950年代のアメリカが舞台になっていたのでしょう。今思うと、ルーシーは旧約聖書のルツ(Ruth)からきていて、ルツはモアブ人(今のヨルダンあたりの人)でありながらユダヤ人の姑ナオミに従順に仕え、後にダビデ王(エルサレムを首都にした英雄)の先祖にあたる人となりました。

アイ ラブ ルーシーでは、エステルとルツという2人の聖書に登場する賢女を憎めない、おっちょこちょいの可愛い妻に変え毎回夫を困らせますが、大人の思慮深いアメリカ男性(亭主たち)は優しく、愚かな妻たちを包み込んでいたのですね。



969  ミハスの闘牛場では来週も同じ牛が登場


太陽海岸(コスタ・デル・ソル)は、20年前から建築ラッシュです。

景勝地ミハスは1960年ごろまでは農業や漁業で細々と生活していたそうですが、イギリス人が最初に目をつけ、今では山肌にプール付きの家が幾つも建つ豪華なリゾート地になりました。
マラガからやってきた女性ガイドは、ミハスの住宅物価の方が都会マラガ以上に高いと言います。ミハスの狭い路地に沿って隣の家と壁を共有して立つ伝統の白い家では、夏でもエア・コンは必要ないそうです。アラブ時代からの知恵が働いていて、家の壁が厚く出来ていて、道も狭いので日陰が生じ、壁を白く塗ることで照りつける日光の熱を外へ反射してくれます。毎年5月の末になると、どこの家でも石灰を水で溶いて壁を白く塗り化粧直しします。
村の展望台からは、遠く山越に薄くシルエットになったジブラルタルのテーブル・ロックやアフリカのモロッコに位置するアトラス山脈まで珍しく見えていました。

そして、ただ一つあるミハスの闘牛場では、春から秋にかけて日曜日には恒例の闘牛が開催されますが、観客の多くはイギリス人だそうで地元の人は見に行かないそうです。
理由はブルリング(闘牛場)のサイズが小さく、500キロ近くある成牛(元大関の小錦が二人合わさったぐらいある)を使えば柵を越えて観客席に突っ込んでくる危険があり、小型の牛でやっていて本来は6頭使うところを4頭に減らし、更に牛を殺さず来週もまた登場するという変則ぶりだそうです。
そんな闘牛にもイギリス人だけは、他よりも高い入場料を払って見てくれると言って、中年のスペイン人ガイド女史は、私たちを笑わしてくれた40分ほどの案内でした。



970 何れもパトカーの親切でした


イタリアのナポリ・ポンペイへ日帰りのバス・ツァーに参加した、ある日本人の話です。

夕方のオート・ストラーダ(自動車高速道路)をサイレンを鳴らしながら、パトカーがチャーター・バスに後方から近づき止めました。みんな運転手がスピード違反をしたのだろうと思ったそうです。
ところが、警官と一緒にバスに乗ってきたのは日本人の女性旅行客だったそうで、自分の乗ってきたバスを探していることが分りました。親切なお巡りさんが、迷子になった日本人をナポリの町でパトカーに乗せ、ローマへと帰っていくバスを追いかけ高速道路を走りながら捜してあげていたのです。治安の悪いと評判のナポリですが、一人の公僕(警官)の優しさが、一瞬不安に慄いたであろう老女を救ってくれました。果たして、無事目指すバスに出会えたかどうかは分りませんが、バスに乗っていた日本人全員は彼女を勇気付け、またイタリア旅行での警官の小さな(大きな?)親切に大いに感動したそうです。

次の話は、日本からヨーロッパへと向かう飛行機の中で隣り合わせたヨーロッパ人から直接聞いた話です。
東京でタクシーに乗り目的地に着いたので、料金を支払い降りた直後に財布を座席に忘れてしまったことに気付いたそうです。何と目の前に交番があったので警官にそのことを告げると、直ちにパトカーでタクシーを追いかけてくれ、無事財布を取り戻してくれたそうです。
日本の警察官の親切に未だ感激している様子でした。





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