希望


951  フランスの歴史の節目にはカトリック教や筋目、プライドやフランス語が働いていた


ケルト民族に属するガリア人が2千年ほど前はフランスに住んでいましたが、シーザーに忠誠を尽くすローマ軍団が攻め入ってから後、約4百年ほどはガリア・ローマの折衷文化が栄えました。

やがて、東方のハンガリー平原からアジア系フン族の長・アッチラ大王に率いられた猛々しい騎馬軍団がルテティア(今のパリ)の町を襲うのでは?という噂が飛び交う不安な日々の中で、カトリックの尼僧・ジュネビエールは懸命に神に祈り続けました。彼女の祈りが神に届いたのでしょう。アッチラ軍はパリにはやってこず、災難を逃れることができ、後にジュネビエールはパリの守護聖人になりました。
また、同じ4世紀の末頃にはマーチン聖人もフランスの地において活躍していて、寒さに打ち震える乞食に自分の衣を与えた愛の行いが噂となり広まって、キリスト教が浸透して行きました。

5世紀の末には、ゲルマン民族の一派フランク族のクロービスが496年、ランスの教会(パリの北東)で洗礼を受けてキリスト教徒になり、あわせて王としての戴冠式を行いました。王都はパリに決まりました。先祖のメロビーの名をとってメロビング朝と呼ばれます。その後、長い間フランス王として筋目の戴冠式は、ランスで行われ続けました。

やがて8世紀に入ると、モハメディアン(イスラム教徒)がピレネー山脈を越えてフランスに侵入しました。732年のポアチエの闘い(ボルドー近く)では,臣下のシャルル・マルテルの活躍で勝利します。やがて、、マルテルの息子(短身のピピン)がフランス王となりカロリング朝をうちたてました。ピピン王の息子が有名なシャルル・マーニュ(シャルル大王)で、ハンガリー、ドイツ、フランス、北イタリアをも統治しましたが、都はエクス・アン・シャペル(オランダとベルギーとドイツの境にあり、ドイツ語ではアーヘンという)に移しました。778年、現在のスペインのバスク地方でのモハメディアンとの戦いで戦死した騎士が、シャルル・マーニュの親戚で親しい側近でもあったローランで、後に12世紀の初めころ騎士道精神の鏡としてローランの歌はフランス語で歌われ、吟遊詩人により広められました。
シャルル・マーニュ自身も紀元後800年12月25日のクリスマスの日に、ローマのサン・ピエトロ大聖堂内でローマ法王レオン3世から公に王冠を授与され、地上のカトリック世界の保護者の地位をもらいました。このことは、後に神聖ローマ帝国皇帝という名前で呼ばれるようになり、ドイツ語(ゲルマン語から派生)を話すヨーロッパ・アルプスの北の世界で重要な意味を持つようになりました。

フランスの国の名はフランク族のフランクからきていますが、カトリック教をいち早く国教とし、言葉はローマ人が使ったラテン語を取り入れフランス語を話す国に変わっていきました。ゲルマンの血を引く人たちが5〜6世紀に大移動をした際、移住した地域がどれだけ古代ローマ文明の影響をうけていたかの多少によって、その後の方向は違っていきました。いい例にベルギーが考えられます。
現在のベルギーの国を南北に2分するほどのフラマン語(オランダ語やドイツ語に近い)圏とワロン語(フランス語に近い)圏になったいきさつは、遠く遡ればローマ帝国がゲルマン民族の移動により、オランダあたりから南へと退却していきましたが、丁度ベルギーの中間あたりで北がゲルマン系の人たち、そして南がラテン(ローマ)系の人たちの縄張りとして折り合いがついた歴史が根底にあるそうです。首都のブリュッセル辺りが両文化の交錯する所となっています。
あるいは、スイスのドイツ語圏とフランス語圏の境界も遠く6〜7世紀の頃に遡れ、首都のベルン辺りがやはり境目になっているようです。そして、現在も東のチューリッヒがドイツ語の中心であり、西のジュネーブやローザンヌの町(ラテン語を話したローマ人が町づくりをした歴史がある)がフランス語を話す人たちの空間となっています。

9世紀に入ると、北からバイキングがフランスにもやってくるようになりました。
ノルマン(北からの人たちという意味でバイキングの子孫)の王ロロは、フランス王シャルル(単純王)からノルマンディ地方を拝領し、都をルーアンにしました。ロロの子孫で私生児だったウィリアムは1066年ヘースチングズの戦いに勝利して、イギリス王になりノルマン王朝を打ち立てました。

やがて、パリ伯爵ヒューグ家のロバートは危機の中、立ち上がってフランス王となりカペー王朝を開きました。カペーの名の由来は、昔々の4世紀の聖人マーティンが身に纏っていたケープ(カペー)をヒューグ家の教会が保管していたことが、新しい王朝設立の強い後ろ楯になりました。
フランス王家は、イル・ド・フランスと呼ばれるパリ周辺の領土の支配者でしたので、臣下のアンジュー伯爵がフランス南西に広い領土を所有していて、アキテーヌ(スペインの国境あたり)のエレノア姫と結婚して更に領土を広げ、イギリス王にもなりヘンリー2世の名でプランタジネット王朝を開き、フランス王家にとっては臣下に飲み込まれない危機的状況になりますが、フィリップ・オーグスト王の出現でイギリス(ヘンリー2世の息子であるリチャード獅子王やジョン失地王)との縄張り争いを有利に展開することに成功します。

名実ともにフィリップ・オーグスト王によりフランスが誕生します。
この王の下でルーブル要塞(ルーブル宮殿の元)ができました。南フランスでは、ツールーズ伯爵下、カタリ(純粋)派あるいはアルビ派と呼ばれるアルビの町を中心にした完全主義者(神が悪もつくったとするカトリック教義に反対する)の宗教改革運動が起こりましたが、聖ドミニクや北のフランス軍が南に勝利して、南フランス全土が聖ルイ9世(フィリップ・オーグストの孫)のものになりました。
ルイ9世はエルサレムから持ち帰ったキリストの被ったとされる棘の冠を収めたサント・シャペル寺院(パリのシテ島の中にあるステンド・グラスで有名な教会)をつくらせたり、彼自身十字軍の騎士として従軍した人で、1270年に2度目の十字軍を率いてチュニジアへ遠征した際、ペスト病に罹り亡くなりましたが、1297年に聖人に列せられました。
フィリップ・オーグスト王,聖ルイ9世王そしてフィリップ王(美顔)の3代に亘る治世時代(13世紀初めから14世紀初め)は、多くの戦いに勝利し平和がやってき、人口が増え貿易も盛んで国内が安定していました。
フィリップ美顔王の時代に、ローマ法王の南仏のアビニオン幽閉が始まっていますし、テンプラー十字軍騎士団が解散させられ、その膨大な財産が没収されフランスの国庫は潤いました。

そして14世紀半ばになると、イギリスとの間におよそ百年に及ぶ戦争が始まりました。
戦争のきっかけはイギリス王エドワード3世(フランス王の外孫)がフランス王になる権利を主張したことによります。
フランス側は女系の子孫は王位継承の資格がないのを理由に断りましたが、本当の理由はイギリス人をフランス王に迎えることはプライドが許さなかったことによります。
フランス王位は遠縁にあたるフィリップ・バロアに引き継がれ、バロア王朝が始まりました。
しかし、この王朝の最初の百年は惨憺たる状況でした。
戦争ではイギリスに負けてばかりいましたし、黒死病が流行り、国内ではブルガンディ派(中部フランスのディジョンあたり)とオルレアン派(ロアール川の町でアルマニャック派とも呼ばれる)に分かれての内紛があり、ブルガンディ派はイギリスと手を組んでしまいました。
1415年のアギンコールの戦いではパリがイギリス軍の手に落ち、フランス王シャルル6世は娘をイギリス王ヘンリー5世に与え、ヘンリー5世を後継者に指名したほどです。
やがてヘンリー5世の死やシャルル6世の死があり、さてヘンリー5世とシャルル6世の娘との間に生まれた幼い子供が両国の王になるのかと案じた、その時にオルレアンの乙女の登場となりました。
ジャンヌ・ダルクはフランスの東部ロレインの農家の娘でしたが、天の声を聞きロワール川のほとりにあるシノン城へ行き、家来に変装していたフランス皇太子に近づき、'優しい心の皇太子様'と語りかけて、フランスの奮起を促しました。1429年5月8日オルレアンの町を取り囲んでいたイギリス軍を打ち破り、7月17日には皇太子を伴ってランスに行き、フランス王シャルル7世として戴冠式を行い、イギリスに対して毅然とした対決姿勢を明らかにしました。しかし、裏切りのためジャンヌは捉えられイギリス軍に引き渡されましたが、シャルル7世の弱腰姿勢もありルーアンの町の広場で魔女として火あぶりの刑に処せられました。1430年5月30日のことでした。
その後、百年戦争はフランスが強い常備軍(歩兵、鉄砲や大砲部隊など)を初めてつくり、あるいは税の徴収の改善などがあり、フランス中部のブルゴーニュ地方の奪還に成功して間もなく終わりました。

15世紀末にはフランスはイタリア遠征に出かけるほどに国力が増します。
フランソワ1世はブルターニュ地方を結婚で手に入れ、アメリカ新大陸にジャック・カルチェを遣りフランス領カナダ取得の先鞭をつけました。
シャルル7世からフランソワ1世まで(15世紀前半から16世紀初め)は、治安が不安定なため王がパリに常駐できずロワール川沿いの城を転々とした時代でしたが、数々の名城がつくられ、今に至るまで人々の目を楽しませてくれています。
フランソワ1世の息子(後のアンリ2世)の家庭教師であり絶世の美女と讃えられたディアンヌ・ド・ポアチエが住まいしたシェール川(ロワール川の支流)の上に造られたシュノンソーの城やフランソワ1世のシャンボール城は特に有名です。

16世紀前半の同時代人としてフランソワ1世やアンリ2世とライバル関係にあったのがカール5世神聖ローマ帝国皇帝です。
ベルギーのゲント生まれのこの王は、スペイン、オランダ、オーストリア、ベルギー、新大陸の支配者となり、フランスをぐるりと包囲してしまう勢いで、その後フランスは2世紀に亘りハプスブルグ家との葛藤に明け暮れることになりました。

アンリ2世が騎馬試合での負傷が原因で死んで(1559)後は、彼の妻であったフィレンチェのメディチ家のカトリーヌは次の3人のフランス王(フランソア2世、シャルル9世、アンリ3世)の母としてカトリック教を強硬に政治に反映させました。ヨーロッパでは旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)両派の激しい争いが生まれていました。
フランスでは、16世紀後半は半世紀近く続く市民戦争へとなっていきました。
パリでは、聖バルテルミの日の夜(1572年8月24日)大勢のプロテスタント教徒が殺されました。あるいは第8次宗教戦争(別名では3人のアンリの戦い)においては、アンリ3世(カトリック)とアンリ・ナバール(プロテスタント)とアンリ・ド・ギーズ(カトリック)の三つ巴戦となり、ギーズ公を首尾よく暗殺しますがアンリ3世王も1589年8月に暗殺されてしまい、聖バルテルミの日のパリでの虐殺の生き残りアンリ・ド・ナバール(アンリ3世の義理の兄弟)がアンリ4世としてフランス王になりブルボン朝を始めました(1594)。王自身はパリの特殊事情を考えてカトリックに改宗しました。
そして、1598年4月13日,ナントの地において勅令を発布して、以後プロテスタント信者の良心と崇拝の自由を認めました。

やっと宗教がらみの市民戦争に終止符が打たれ平和が戻ってきましたが、1世紀後にはルイ14世王(太陽王)はナント勅令を無効としユグノー教徒(プロテスタント)の迫害を再開しました。

1789年のフランス革命では、教会や貴族は税金免除の特権がフランス王から与えられていたにもかかわらず、率先して彼らは啓蒙時代の流れの中で市民階級の自由や権利の主張をフランス王に求める運動の火付け役を演じ、革命が勃発しました。やがて自らの地位や命までも失う状況となり収拾のつかない泥沼化したものとなりました。
自由、平等、博愛の願いは永遠の希望として人間の能力を超えたものであり、夢でしか見ることができないものだったようです。
この理想を高く掲げた市民戦争はフランスのみならず、その後全世界中に衝撃を与える所となりました。



952  'わかりました'と返事する教育


お客の中には無理な願いや注文をいう人も、ままいます。

そんなときにも、必ず'わかりました'と返事するように社員を教育しています。時間がしばらく経ってから、お客に'先ほどの件は努力してみたのですが、ダメでした'といえば、お客は納得してくれると指導しています。と大きな体に似ず小さな声で笑みを湛えて語ってくれたインド人の旅行会社社長を思い出します。30年以上も昔のことです。

難しいことをいう人は、心のどこかで無理かな?と思っていて、それを直ちに拒絶されると、プライドが傷つきノーといった人に恨みを感じますが、半日、1日時間が経過する内に自ずから反省も生まれるもので、そういうタイミングをみて'やはり無理でした。努力してみたのですが…'と言われれば、納得するし礼も言い易くなると教えて下さいました。
添乗員を長くやってみて、インド人社長の指導(デリーのコンノート・プレイスというビジネスの中心にオフィスがあった)は確かに正しかった日本人にも当てはまる、いや日本人にピッタリの言葉だったと思っていました。

最近読んだ本の中で、ラビ(ユダヤ人社会の教師で、ユダヤ教の聖典タルムードに精通している人)はまず夫婦別々に言い分を聞くそうです。その際は、'わかりました。あなたの言い分が正しい'と答えうなずきます。
その意図は二人の熱い状態を冷ますことにあり、両方の言い分を認めることで、やがて冷静さを取り戻し、ゆっくりと和解していくこともあります。この種のトラブルは、どんな意見でもまず相手の言い分を認めることが大切であり解決への第一歩だとか…。



953  フライング・ダッチマンの心意気に魅せられた江戸時代


彷徨えるオランダ人(フライング・ダッチマン)の名は多分に劇(オペラ)の影響があるようです。

むしろ、飛ぶように世界の海を船で駆け巡ったオランダ人(フライング・ダッチマン)と言葉通りに見たほうが、彼らのフロンティア・スピリット(進取の気質)が世界初の商人的市民国家をつくったことを的確に表しているようです。

5隻の船で1598年(秀吉が死んだ年)にオランダを出航して、西を目指して大西洋を渡り南アメリカ大陸の最南端マゼラン海峡(暴風が吹き荒れる危険なところ)を通過して太平洋側に達した際には、2隻だけになっていました。
そして、日本を目指して太平洋を横断しましたが、大分県の臼杵湾に1600年4月16日にやっと1隻の船が流れ着きました。デ・リーフデ(慈愛)号です。オランダ出航時には110名いた乗組員も24名に減り、立って歩ける者は僅か6人に過ぎなかったそうです。
大坂城に豊臣秀頼の後見人として滞在していた徳川家康はオランダ船の話を聞き、2人の乗組員(ウイリアム・アダムズとヤン・ヨーステン)を大坂に呼び謁見しています。
こうして徳川期(1603〜1868)を通してヨーロッパ諸国の中で、唯一オランダとの交流が始まりました。ウイリアム・アダムズ(1564〜1620)は英国人でしたが旗本にとりたてられ三浦半島に領地を貰い外交面で貢献しましたし、ヤン・ヨーステン(1556〜1623)も東京駅傍の八重洲口近く(ヨーステンの名前が八重洲となる)に住まいして、オランダ東インド会社の日本代表として活躍しました。その後江戸期を通して、
日本人にとってはオランダ語を学ぶことが西洋事情に通じる唯一の道となりました。

1771年に江戸の小塚原の刑場で、50代の刑死した女性の人体解剖が日本で始めて行われましたが、後に書き残した蘭学事始の書の中で杉田玄白(1733〜1817)は前野良沢(1723〜1803)などと立ち会いました。その際に二人が偶然に持参したオランダ語で書かれた250ページほどの人体解剖書の中に多くの解剖図が描かれていましたが、初めて見る内臓が本の絵通りだったことに大きな感動を覚えたそうです。それを期に本格的に蘭学が日本で始まることになりました。
シーボルト(1796〜1866)はドイツのロマンチック街道の町として有名なヴュルツブルグで生まれましたが、オランダの医者として長崎にやってきました。出島近くの鳴滝の地で塾を開き多くの日本青年を指導しました。彼の持ち帰った日本に関する資料はライデン大学にあるそうですが、1821年に伊能忠敬(1745〜1818)が日本全国を実測して周ってつくった'大日本全国実測図'がシーボルトの帰国用の荷物から見つかり、シーボルト事件を起こしました。
あるいは、1860年に日米通商条約の批准書を持って米艦ポーハタン号に乗り幕府の正使・新見豊前守正一行が渡米しましたが、その護衛艦として行ったのがオランダのロッテルダム近くの造船所でつくった咸臨丸でした。この時の使節団には福沢諭吉や中浜万次郎(ジョン万次郎)、勝海舟などが入っていました。サンフランシスコへ向かう途中で立ち寄ったハワイでは、国王ご夫妻主催の晩餐会に出席したチョンマゲに脇差、和服姿の副使・村垣淡路守範正の詠が楽しく思い出されます。

ご亭主(ハワイ国王)はたすき掛けなり、奥様(王妃)はもろ肌脱いで(イブニング・ドレスを着ていた?)珍客(日本人)に会いにけり

この通商条約のきっかけは1853年そして翌年の54年と相次いで、江戸湾に乗り入れたアメリカのペリー提督指揮する4隻の木造船に鉄板を張った石炭を焚いて走る蒸気船でした。江戸市民は、その時の幕府や国を挙げてのあわてぶりを次のように詠いました。

陸蒸気(当時飲まれていた茶の名、蒸気船になぞらえて)たった4杯で夜も眠れず

和親条約が結ばれ、やがて初代公使・ハリスがやってきて通商条約へと発展しました。
ペリー来航から15年ほどで江戸城無血開城があり、徳川幕府が滅び明治時代(1868)が始まりますが、幕臣・榎本武揚はオランダで建造した最新式の大型船・開陽丸に乗って蝦夷地に行き抵抗を試みました。陸では蘭学書に書いてある西洋の城を見よう見まねでつくった函館の五稜郭に立て篭もって官軍と戦いました。1869年5月のことでした。

こうして270年近く続いた徳川幕府と市民国家オランダとの特別な関係は終わりました。
私個人としては、1964年の東京オリンピックでアントン・ヘーシング(オランダ)が日本の期待を一身に背負った神永を破ったのをテレビでみてショックを受けたのを覚えています。柔よく剛を制すの神話は崩れ去り、試合直後に興奮したオランダ人トレーナー(?)
が試合場(畳の中に)に入ろうとするのをヘーシングは制止し、日本の武士道精神(礼に始まり礼に終わる)の模範を見せたのには更に驚いたものでした。

2007年4月初めの頃、未だ桜の花が咲いている東京の芝公園に行って見ると、ペリー提督の胸像を見つけました。ロング・アイランド州(ニューヨーク近く)のニューポート生まれで、日本に向けての出航はニューポート港だったことが書いてありました。また、近くには1860年1月に徳川幕府の代表団が竹芝港から米韓に乗り、アメリカへと向かったことが書かれた石碑が立っていました。

'竹芝の浦波遠くこぎ出でて、世に珍しき船出なりけり'と副使・村垣さんが詠った詩も刻まれていました。
あるいは、公園内の小高い岡の上には伊能忠敬の記念碑も見つけました。別の機会には、JRの田町駅近くの港区図書舘の一角の郷土資料館で解体新書のコピーにも出会いましたし、西郷隆盛と勝海舟が会見(1868年3月14日)して江戸城の明け渡しを血を流すことなく行いますが、その会見場所となった田町薩摩屋敷跡もすぐ近くにあり、この辺りは江戸湾に面していて砂浜が広がっていました。

芝公園辺りは、江戸時代には増上寺(徳川家と縁が深い)宗門の一大伽藍があったそうで、秀忠(2代将軍)公と特に縁があったようです。
朱に塗られた三解脱門(1611年建造)は周囲を律していて2層造りの巨大な楼閣です。3解脱とは貪欲、瞋恚(しんいと読み、怒りという意味)、愚痴の3つの毒から解き放たれる魔法の入り口門とでもなるのでしょう。

伊豆八島へと通う船着場として今も機能している竹芝桟橋もそんなに遠くはありません。



954  二つの町の風呂屋通り


古代ローマ時代や中世のイスラム世界では、大衆風呂が見事なほど文化として人々の生活に根付いていたことはよく知られています。

しかし、風呂では水を大量に使い、水や部屋を温めるための燃料の確保が必要となり、一般には広く普及するのは難しいことでした。日本でも一般家庭で風呂に入れるようになったのは、1970年代以降ではないでしょうか?
ベルギーの首都・ブリュッセルの有名なグランプラスから出る一本の通りこそが風呂屋通りです。過っては風呂屋が並んで営業していたことを感じさせます。この通りに面して小さくて可愛い小便小僧の像が立っています。何故、小便小僧の像がここにあるのかについては説がいろいろありますが、有力説は風呂屋では少年達はよく立小便したのではないかとするものだそうです。

水の都で有名なフランドルのブルージュでも狭い風呂屋通りを見つけました。
そこは過っては危険がいっぱいでいかがわしい所だったそうですが、今は手作りのチョコレート屋や刺繍店、骨董品店が並ぶお洒落な通りに変身していて大勢の観光客で賑わっています。僅かにこの細い通りの壁に小さく、当時の風呂屋の中の風景が描かれていていました。
この通りを過ぎると塀(ウォール)広場に出ます。この広場で世界最初の屋外での株取引が行われたそうです。ニューヨークの有名な証券取引所のあるウォール街の元になったとの説明でした。本当でしょうか?
17世紀の初め頃、マンハッタン島の南の端に塀をつくりアメリカ・インディアンの侵入を防いだのはオランダ人であったことやニューアムステルダムと呼ばれたことも知っていますし、その頃はフランドル地方はオランダ(低い土地)と呼ばれていたことでしょう。ブルージュの人が初期のアメリカ移民に混じっていたとも考えられます。

4月の初め、ウォール広場傍の運河では母鴨の後を赤ちゃん鴨が一列になって泳いでいたり、土手の芝生では白鳥が数羽座って卵を温めていたり羽づくろいをしています。近くのベギン尼僧修道院(オードリー・ヘップバーンの主演した映画゜尼僧物語'で有名)の中庭では白や黄色の水仙が咲いています。庭の奥の尼僧たちの宿舎の前を二人の薄ねずみ色の尼僧服に身を包んだ尼僧が歩いているのを見て、'三層(尼僧の宿舎が3階建ての切妻風長屋造りにっている)の前を二層(尼僧)が歩いていく'と粋に洒落て表現して見せた湯上がり(?)間もない日本人男性がいました。



955  奥様方の風車端会議が盛んだった


車道や歩道に負けないほど自転車道があるのがオランダですが、自転車道での事故は常に自転車に乗っている人が優先権を認められていて、たとえ人とぶつかっても勝訴します。

国土の殆どが平らであり自転車愛用者に適した土地柄であり、政治の首都であるデン・ハーグでも最近までは国会議員や大臣までが自転車に乗って国会議事堂に通勤してくる姿が見られたそうです。
ヨットは13世紀の頃、海賊を捕まえる為に速く追跡出来る様にとオランダで考案されヤットと呼ばれていましたが、やがてイギリスへ伝わりヨットとなったそうです。
オランダでは庭は顔であり、庭が汚くて手入れしていなければ家の中も汚れていると思われかねないので、庭の手入れは隣近所に負けないように常に気をつけていなければなりません。16世紀に興ったカルヴィニスト(新教カルヴィン派の人たち)の影響が強く働いていて、人に隠し立てするものは何もないと考える傾向から、家の中も外を通る人が覗いて楽しめるように室内観賞用植物を飾ったり値の張る家具調度品を置くなどして、ケの字から始まる2文字(ケチ)の人たちと評判を得ているオランダ人が好んで金を懸けるところとなっています。
家でカーテンが下りているのは飾り窓の女性が仕事中か、もしくは外国人の住んでいる家だと思われかねません。

オランダ独立戦争(1568〜1648)では赤(勇気)、白(信仰心)、青(忠誠心) の横一列に色分けした3色旗を軍旗として使いスペインに対して闘いました。たとえいくら擦り切れていってもオランダ軍であることが分り、後に国旗になりしっかり者の人たちである評価を得ました。この独立戦争で先頭に立って戦ったのがオランダ王室(ナッソー・オレンジ家)だったそうで、今に至るまで国民に愛され慕われています。
5月の初めには、北海で採れる鰊(ニシン)を塩漬けにして樽ごと王室に献上する昔から続く行事もあります。一般には他の国々では鰊は臭味があるので嫌われていましたが、オランダ人は酢漬け鰊もつくり頭や中骨を取り、尻尾を手で掴んで玉ねぎのみじん切りと一緒に大きく口を開けて丸ごと食べてきました。
魚の中では味の劣るとされる鰊を好んだり、ゴーダやエダムに代表される酪農製品(ミルクやチーズなど)を食べて生きてきたのが身長を高くしたと考える人もいます。
また、芋の食べ方となると人様々で、ジャガイモ論議に花か咲くそうですが,木や花に関してはシンプルだそうです。
チューリップは原産地はパミール高原あたりと考えられていて、やがてトルコへ伝わり、花の形がターバン(チュルバン)を巻いているように見えるのでチューリップと名がついたそうですが、16世紀にオーストリア人のワルシャスがトルコからオランダに持ち帰り、ライデン大学に植えました。やがて、砂地に適したチューリップはオランダの代名詞になりました。
海の乞食(ゴイセン)と揶揄されるほど貧しかったオランダでしたが、海に向かってチャレンジし続けました。堤防や防風・防砂林を築いて北海の荒波を防ぎ、風車を使い低地の水をかい出し土地を乾かして生活空間を確保したり、大海の中に船を乗り出してインドの東にあるインドネシアの地に胡椒を見つけます。
東インド会社(1602年に創設)は胡椒の貿易を主に6箇所(アムステルダム、デルフト、ロッテルダム、ホールン、エンクホイゼンなど)につくられ、アジアからの貴重な物産を手に入れようとヨーロッパ各地から商人たちが集うようになりました。

日本では奥様方の井戸端会議(井戸に水を汲みにきて世間話をする?)なるものがあったように、オランダには風車端会議が17世紀には盛んに行われました。風車は小麦を粉に挽いてくれ、やがてパンになりました。風車一台で一日に2千人分の粉を挽きました。
待っている間、きっと奥様方の風車端会議が盛んだっただろうと語ったのが、九州出身でオランダに住むガイドの井手さんでした。
'きっと井手さんのご先祖は手掘りで井戸を掘るのを職業としておられ、周囲の人に感謝されたと思いますよ'と言ってあげると、考えてもみなかったとの彼女の弁でした。
私の頭の片隅にアルジェリアの乾燥した大地で、先祖代々井戸掘りを生業にしている一家のことをテレビで最近見たのが残っていたせいで井戸と井手を結びつけたのでしょう。

想像を膨らますことが出来るのも旅のお陰です。





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