希望


941  シルクロード(草原の道)の上空を飛んでトルコへ


トルコ航空に乗って成田空港を出発して、過って遊牧・騎馬民族が行き来したと思われる南シベリアあたりの草原の道の上空を飛び、やがて黒海の北海岸の中央に突き出したクリミア半島を横切り、黒海上空に入って行きシルクロードの終点コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に13時間後に着きました。

14世紀から20世紀初めまではオスマントルコ帝国はイスラム世界の押しも押されぬリーダーでしたが、今は共和国となり信仰の自由を認めています。
しかし、機内で食べた食事にはポーク製品は一切使っていないと書いた小さなメモがトレーの隅に載っていて、未だイスラム教徒(国民の大半を占める)への優しい配慮を感じました。一方、ワインやビール、ウイスキーそれにラク(葡萄とアニスでつくるアルコールが40度以上の強い酒で水で薄めて飲みますが、甘くてきつくて3杯も飲めば飛んでイスタンブールになるという)まで用意してありました。
先日エジプトに旅した際には、エジプト航空に乗りオアシスと砂漠の続く中央アジアのシルクロード上空を飛びましたが、イスラム教が国教である為かアルコール類のサービスはありませんでした。ただ機内へのアルコールの持込は自由で、頼めば水や氷、トニック・ウオーターなどは気持ちよく出してくれ、静かにアルコールを楽しんでいる人はいました。
だいぶ前になりますが、日本航空の南回りでヨーロッパに行った時は、サウジアラビアのジェッダ空港に給油の為着陸しましたが、全てのアルコール類はグランド・スタッフやアラビア人の目に触れないところに隠すよう予めパーサーから指示があり、着陸の1時間前から皆ピリピリしたのを懐かしく思い出しました。

さて、およそ千年ほど前にアジア平原で遊牧・牧畜を生業にしてテント暮らしで移動・移住しながら生活していたトルコ民族の一派(セイジュク族など)がアナトリアの大地へとやってきて、そこを安住の地と定め農業を主にした定住生活を始めました。
きっと元々は、肌の色も濃く平らに近い顔立ちに小さい目の人が多くいたのでしょうが、トルコ航空のフライト・アテンダント達は皆、目鼻立ちのすっきりした背筋もすらっとしていて、横幅もありしっかりした肉付きの西洋人(白人)でした。長い間の混血により変わっていったのでしょうか?
2人乗務していた日本人女性スチュアーデスの1人は化粧のせいも多少あるのでしょうが、西洋人かな?と思わせるほどの変容ぶりでした。



942  正真正銘のユーラシア生まれの赤ちゃん


ヨーロッパ側のゲリボリ(ガリポリとも言う)の港からバスごとフェリーに乗り、30分かけてアジア側のラプセキの港へ向かいました。

デッキに上がり椅子に腰掛けてトルコ茶をすすっていると、後にしたヨーロッパのガリポリ半島と前方に見えているアジアのチャナッカレ地区の間に細く長く流れている、このダーダネルス(チャナッカレとも呼ばれる)海峡上で生まれた赤ちゃんこそがユーラシアの子と呼ぶに相応しいと思えてきました。
古いギリシャ語ではアジアとは東を意味し、トルコ辺りを指していました。ギリシャから見てトルコは東に位置し日の昇る方角にあたっていて、先進文明圏であり生活や文化レベルも高い地域でした。一方、ヨーロッパのいう言葉に暗い所という思いを古のギリシャ人は持っていたようです。
ギリシャ神話の中では、アジアで憩う美女(名前はヨーロッパ)に恋したゼウス神が牛に変身して近づき、気を許したヨーロッパが牛の背に乗った機を捉え、空へと舞い上がり地中海を飛んでクレタ島に運び去りました。この話の背景には、ギリシャ世界が近東世界との交易や移民、さらに軍事侵攻などを通して進んだアジアの技術や文化を吸収して成長して行ったことが覗えます。
寂しい暗いヨーロッパと日のいっぱい当たるアジア(トルコ)がひとつになって生まれたのが、ヨーロッパ・アジア→ユーラジア→ユーラシアの言葉となっていったようです。

古代には、アジアはアナトリア地域(現在のトルコあたり)を指していましたが、近代以降はオスマントルコ帝国の勢力拡大に伴ってアナトリア圏だけに留まらず、広く中国やインド、ロシアやインドシナまでを包含する大きな大陸の名称になりました。
そして、トルコを指して古人が呼んだアジアは今では小アジアと呼ばれています。



943  アジアとヨーロッパの最初の激突


'シュリーマンの穴のように掘るな'という言葉が、世界では考古学者の共通語になっているそうです。

素人目には、石とレンガと土の重なり合った小山程度にしか見えないトロイの遺跡ですが、19世紀以降現在に至るまで発掘が続けられていて、日々新しい発見があるそうです。
3千年以上(紀元前2900年〜紀元後数世紀)に亘り、同じ場所で9度も都市がつくられ壊されたことが分っています。
遺跡の中は複雑で、見学通路を歩くだけでは印象が薄く、考古学者の発掘を通しての研究成果を日本語でトルコ人ガイド氏から聞くことで、多少理解に似たものが生まれる程度です。通路を挟んで並ぶ左右の石壁の年代が千年も2千年も隔たっていたり、通路を少し上り下りするだけで都市の成立年代が違っていますし、同じ所で露出しているレンガや石、土の壁面も異なった番号(1番から9番までの番号が都市国家の成立年代を示す)が符ってあります。
そんな遺跡見学でしたがガイド氏曰く、この遺跡はドイツ人考古学者ハインリッヒ・シュリーマンの功績に負うところが大であり世界から注目を浴びていて、エフェソスの壮大なグレコ・ローマン時代の遺跡が未だユネスコの世界遺産になっていないのに、ここは既に世界遺産に認定されています。
しかし、急いで19世紀後半に掘ったシュリーマンのやり方は、ただ闇雲に宝探しの為であったので大切な歴史の証である遺跡を破壊してしまいました。この苦い教訓を忘れないように、わざわざ彼の掘った現場は残してあるそうです。運良く見つけた金銀宝石で飾られた装飾品は、若い妻の体に隠し持たせてドイツへと持ち去ったそうです。当時のイスラム教の支配するトルコでは、女性の体を調べるのは到底考えられないことでした。
その後、第二次世界大戦の結果、その宝物はソ連(ロシア)の所有になり、今はロシアの博物館に展示してあるそうです。
 
シュリーマン少年が寝物語に父からよく聞いたギリシャ神話のトロイ戦争でしたが、発掘調査の結果、6番目の都市国家時代(紀元前1700年頃)に戦争があったことが明らかになっています。
ガイド氏の言葉を借りると、この時のトロイ戦争こそヨーロッパ(ギリシャ)とアジア(トルコ)の最初の激突だったことになります。



944  絨毯ローンがある国トルコ


葬式には金をかけません。

'白い服(亡くなった人のつける着衣)には金を入れるポケットがない'という格言がイスラム教にはあると言う。しかし結婚式には、たんと金をかけるそうで、田舎では今でも結婚披露宴が1週間も続くことも稀ではないそうです。女性の友人だけを招待する日や隣近所の人が集まる日、親戚、男性の友人、子供などと様々あるようです。新妻やその家へのプレゼントには、5枚から10枚ほどの絨毯が通常用意されます。絨毯は大切な財産であり、時には親が死んだときなど遺産争いの火種にもなります。プレゼント用の絨毯を選ぶのは妻となる人やその母であり金を払うのは未来の夫となるので、簡単には離婚とはならないそうで、統計でもトルコでは僅かに離婚率は1.2%だそうです。

質のよい絨毯を客間に1年中敷いて夏になると裏面を表にして使いますが、客をもてなすのに必需品になっています。その際に、トルコ・コーヒーを美味しく入れて出すのが習慣です。昔の良き妻の条件は、絨毯を織れることと美味しいコーヒーを入れることが出来るかだったそうです。いずれも、際立った忍耐が必要でした。

カッパドキアへと向かう道は何処までも真っ直ぐに伸びていて、過ってはシルクロードとしても使われていました。スルタン・ハーニ村もその道沿いの一つですが、立派な石造りのキャラバン・サライ(隊商宿)が残っています。今は使われていませんが、中は見学出来ます。隊商宿前の広場や車の通る舗装路上に絨毯が広げてあります。尋ねると、汚れた絨毯を時には洗って乾す折、車に踏みつけてもらうと編み目が締まっていき値打ちが騰がるのだといいます。噛めば噛むほど味が出る、美味しいスルメと同じですという説明でした。
放牧・遊牧生活をやめて定住の農業を始めて千年近く経たというのに、トルコ民族は今も絨毯を大切にしているのですね。
住宅ローンや自動車ローンと同様、絨毯ローンがあるそうです。



945  セイジュク村の誇り


村の名前はセイジュク朝トルコ時代(11世紀〜13世紀)に、このあたりの平原を監視する為に造った石造りの要塞が丘の上に今も残っていて、ランドマークになっていることに由るようです。

この村のレストランでの昼食のお奨めは牛の肉を使った串指し・シシカバブと飲むヨーグルトでした。シシカバブはレストランの外の屋根付き特設火事場(台所)で焙って焼いた後、中に運び込まれています。火事場では、ごつい手袋のような手をした3〜4人の男たちがいます。炭火の煙が立ち上がる中、大きな鉄網の上に串指しされた牛片を100本も一列に並べて置き、左右の手で10本ぐらいづつ掴んでは適当にひっくり返して焼いていた男もいれば、他の人は同じ鉄板の上で野菜や他の肉を焼いていますし、傍の配膳台では皿を並べ一つ一つの皿に調味料を落していて、男たちの共同作業がリラックスしたムードの中で進められていました。
5〜6年前、ケニアのナイロビ市内で昼時賑わう広場にあるレストラン街にケニア人ガイドたちと食べに行ったのを思い出しました。焼肉の注文をしましたが、広場の共同火事場(台所)で片手でやっと持ち上がるほどの大きな肉の塊を鉄網の上に載せ、適当にグラブのような素手でひっくり返して焙って焼いてくれた後で、こんわりとジューシーに焼けた肉をナイフで小さく切って食べ易くしてました。セラミックの皿の上にのせてかと思いきや新聞紙か何かに包んで出てきました。調味料(塩や胡椒だった?)は別にビニール袋に入っていました。食べる側も勿論、自前の手を箸代わりにした次第でした。
ここのセイジュクレストランもナイロビレストランも味は共通して、満足のいく仕上がりでした。

何度も訪れたことのあるユネスコの世界遺産に未だなっていないエフェソス遺跡は、レストランからバスで5分の所にあります。同じ国、同じ町、同じ遺跡に何度行っても良いものです。必ず新しい出会いや発見があります。今回もそうでした。
遺跡のメインストリートに面して造られていたハドリアヌス皇帝(紀元後2世紀のローマ皇帝)の神殿の隣は、香料や香辛料を商いする店だったことが最近の考古学調査で分ったそうです。当時から遠くアフリカやインドあたりにしか生育しない葉や実が宝石並に珍重されていた証となる発見のようです。また、古代世界の三大図書館(他にアレキサンドリアとベルがモン)と讃えられた当地の図書館の地下道を通って行けば、メインストリートの向かい側にある売春宿に繋がっていたことも知りました。もう一つ教えられたのは、メインストリート近くの公衆トイレ(高級で用を足すだけでなく、ゆっくりと過ごす情報交換の場だったそうです)では冬の寒い日などは、大理石の便座に座るのは大変でした。そこでどうしたのでしょうか?
何と草履とり時代の秀吉が主君信長の履物を肌で温めたように、下男(奴隷)が先に行き尻で便座をを暖めていたのだそうです。

もう一つのセジュク村の誇りは羊皮(ようひ)です。
羊や子牛、ヤギの皮を素材につくられたのが羊皮紙です。古代ペルガモンの町(セイジュク村やイズミールの町と同じエーゲ海沿いの文化圏に属す)で紀元前2世紀頃、最初の羊皮紙が出来たと言われています。エジプトのパピルス紙が外に流出するのを禁止した政治的処置がきっかけだったようです。
安価なエジプト産のパピルス紙と比べて耐久性に優れていて、重要な文献など好んで羊皮紙は使われるようになりました。英語では羊皮紙のことをパーチメントといいますが、ペルガーナ(ペルガモンのラテン語読み)に由来するそうです。
薄い丈夫な紙に加工されるほど上質な羊皮を生産した技術は今も受け継がれていて、主に羊皮をなめしてつくる皮製品屋にも行きました。そこでは、まず美味しいトルコ茶のサービスがあり、その後ステージを使ってバック・ミュージックに合わせて美男美女たちが次から次に店の自慢のコートやジャケットを着て現われ、私たちの目を楽しませてくれました。朝、立ち寄らないで通過してしまったペルガモンやイズミール(古代にはスミルナと呼ばれた)を思い出しました。ペルガモンは皮製品、イズミールはトルコ美人の産地と評判だそうですが、ステージで見た女性たちこそ評判高いイズミール出身だそうです。
ファッション・ショーの後は買い物タイムでしたが、柔らかくて軽い羊皮紙級の服はトルコ人の魅惑のセールス・トークと連動して日本の皆さんの心を掴んだのでしょうか?

アスクレピオン(医学の神様)や今はベルリンのペルガモン博物館にあるゼウス神殿などで有名なペルガモン遺跡も、長編叙事詩'イリアッド''オデュセイア'の作者ホーマーの町イズミール(古代にはスミルナと呼ばれる)も、そして古代七不思議のひとつと讃えられたアルテミス神殿の町エフェソスのあるセイジュク村も互いに近く、車に乗って1時間少々で訪れるのが可能な温暖な気候のエーゲ海沿いにあります。





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