希望


936  海は広いな大きいな!


浮き輪なしでは怖くて海に入れなかった小学生の頃、臨海学校で水泳の真似事をした後、 同級生たちと浜に上がると暖かい生姜湯が用意してあって、皆で冷えた体をタオルでさすりながら鼻水をすすりつつ、甘い生姜湯をすすって飲んだことが懐かしく思い出されます。

そして歌にあるような行って見たいなよそ(外国)の国!とまでは、瀬戸内海に面した一地方で育った私は思いませんでした。大学1年の夏休みになると、東京の大学に行った同級生が帰郷してきましたが、彼らの話す'それでさ、僕さ、何してさ'といった調子の言葉尻に'さ'をつける東京弁?に、ああ!自分は田舎に置いてきぼりになったと溜息をついたものでした。実際、当時は朝風という名の特急列車で一晩寝ないと東京には行けませんでした。
東京こそ憧れのよその町(国)だった感がありました。
本当に広い大きな海を船に乗ってよその国(アメリカのハワイ)に行ったのは、23の歳だったと思います。夢のような、ただただ見るもの聞くもの出会う人が珍しく楽しく、青春そのものの1週間の船旅でした。ホノルル港では、入港する船人がデッキから海に投げるコインを桟橋からハワイの人が飛び込んで拾うといったセレモニーを未だしていたと思います。ホノルル港の玄関口に建つアロハ・タワーは今もありますが、ハワイ航路を象徴する懐かしいモニュメントです。
ハワイには6年ほど住み生活しましたが、海に行き泳いだり日光浴を楽しんだことは殆どありません。何時まで経っても英語が下手で上達しない私でしたが、アメリカ人と知り合いになる機会を積極的には求めず時間は刻々と過ぎていったように思います。
今から思えばアメリカとは言え、ハワイは半分厳しいアメリカで残りは憧れの夢の島的なイメージがあり、真剣にならなくてもまあ生きられるのではという間違った印象を、知らず知らずの内に持っていたように思います。失敗してもいいから、あの時メインランド(アメリカ本土をハワイではそう呼ぶ)に雄飛する勇気を何故持たなかったのか?今もって分りません。尤もそうしていたら、恐らく何処かでのたれ死んでいたことでしょう。
でも、外国に何年も戦争のような強制ではなくて自分の意思で行った体験は、忘れられないもので本当に良かったと思っています。

30歳近くで日本に帰り、縁あって東京弁が話されている首都東京で働いて現在に至りましたが、瀬戸内の島で海を怖がった少年がハワイや後に添乗員として大海原の上空を飛び、世界各地の海を見たり泳いだり出来ました。本当に夢のような40年でした。

中東の紅海の奥まったアカバ湾に面したイスラエルのエイラート海中水族館では、キャッチフレーズは世界一透明度の高い海に住む水生動物が真近に見れるとなっていましたが、生憎と濁っていて何も見えませんでした。むしろ、千葉県の外房にある鯛の浦海中水族館の方がよはど透明でした。
オーストラリアのグレート・バリアーリーフ近くに1日大型船で行き、水泳もしました。
新婚旅行で行ったグアムでは、宿泊ホテルの前のビーチは大きなナマコ群に占領されていてプールで泳いだことや、タイのプーケット島でもビーチ近くに半透明の小さなクラゲが浮かんでいて結局プールで泳いだこと、そして街中のレストランで食べたタイ料理が辛すぎて夜通し下痢をしていました。
世界の高級海岸リゾートのはしり、ベネチアのリドビーチにも出かけて行き並みいる美男美女に伍して、一人短足と太鼓腹を堂々と披露できたのも懐かしい思い出です。



937  ハンガリーとハングリー


旅行専門学校での留学生による日本語スピーチ・コンテストの風景です。

日本にやってきて2〜3年になる青年たち8人が、40人余りの同級生(1年生)の前で一人5分前後、日本で体験したことを話しました。
日本人男性と結婚して日本に住むようになった中国人女性は、初めてご主人の母親と2人だけで時を過ごしましたが、'アー ユー ハンガリー?'と何度も母親に聞かれ、'ノー アイアム チャイニーズ'とその都度答えました。やがて、母は彼女のお腹の辺りをさすってから、再び'アー ユー ハンガリー?'と言ってくれたので、やっとお腹が空いていないか?(ハングリー)と気遣って尋ねてくれているのが理解できました。靴を玄関口で脱いで家に上がるのも初めてのことでしたが、だらしなく脱いだ彼女の靴を母がそっと揃えてくれました。親戚一同が集まっての法事の際、1時間ほど周囲の人に見習って正座座りをしました。ご焼香の番がやってきて立ち上がろうとしましたが、完全に足が痺れてしまい転んでしまいました。ご主人も立ち上がるのを苦労しているのが分り、ホッとしたそうです。

ベイビー・シッターの仕事を日本にきて間もない頃始め、2年近く経験したネパールの女性の話は、彼女と子供の間に愛情が育っていった内容のもので、聞いている人の心に強く響き渡りました。夫婦共稼ぎで家を留守にしがちな日本人家庭の3歳児の面倒を見るのが仕事でした。朝起こしてから着替えさせ、朝食を済ませると託児所に連れて行き、夕方迎えに行き夕食の買い物やその支度、遊び相手になったり時間がくると寝かしつけまでしました。何時も2人で一緒でした。駄々をこねたり、言葉が分らず馬鹿にされたり,仕事に行っていない母親を恋しがったり病気になった時などなどいろんな事がありました。
何度もくじけそうになりました。そうして、ベイビー・シッターの仕事を辞める頃には、子供は5歳になっていて、母親以上に自分を慕ってくれました。子供と一緒に過ごした時間があったからこそ、今の自分になれました。

韓国からの留学生はすし屋でアルバイトをした時、お客から'しめて'と言われ会計をして下さいという意味が分らず、入り口の扉は閉まっているのにどうして?と思ったことや電車の乗り方が分らず間違えてしまいアルバイト先に何度も遅刻した話をしました。

原付バイクで転んだ別の中国からの留学生は足を骨折しましたが、入院した病院では生憎一人部屋しか空いていず1日で1万2千円の部屋だと聞かされ、気が動転してしまいビッコにでもなったら、病院の屋上から飛び降り自殺をすると息巻いたそうです。幸い翌日には4人部屋に移り同室の人から優しい声を掛けられ、お饅頭も貰い日本人が好きになりました。
アルバイトの収入で学費や生活費を支えているアジアからの留学生にとっては、病気や交通事故がイコール致命傷の図式に繋がるようです。

心細い日本での生活の中で、たまたま間借りした家の女主人が運良く優しい人で身元引受人になってくれました。今の自分があるのは一重にこの方(日本のお母さんと呼んでいる)のお陰だと話した人もいれば、ネパールの男性留学生は日本人の友達ができず自己嫌悪に陥っていた時、アルバイト先の近くに住む日本人の老人に優しい声をいつも掛けているのを聞いて知っていた学校の先生が、老人がどれほど生きる力を君から貰っているか老人が君と話をするのを楽しみにしているかと言って下さったので勇気と元気が湧いたそうです。
将来は、社会福祉方面の仕事を見つけ障害者の役に立ちたいと思っていると語りました。

足の骨を折った別の韓国女性は、ギブスをしながらも電車で通学していました。電車では何時も席を譲ってくれる親切な日本人に会いました。しかし、ある時混んだ電車の中で、自分の前に座った男性はちらちらと目は自分に向けましたが、結局立って席を譲ってくれませんでした。その男性に学校に行くと出会ってしまいました。同じ学校に通う学生だったそうです。彼女は自分があまりの美人なので、きっとこの人は気後れしてしまい席が立てなかったのだろうと思い込むことにしたとスピーチを締めくくり皆の笑いを誘いました。

3ヶ月アルバイトで講師をした私の授業では、彼らもアルバイト疲れからか3割の学生が頭を深く机の上に落とし安眠していますが、中々どうして自分の日本での体験を語る様は堂々として、ユーモアに満ちた内容のあるものでした。
また別の機会に2年生のクラスに'What's the best of travel?'(旅の一番の魅力は?)と尋ねた時、生まれて死ぬまでが旅だと思う。その一瞬一瞬が自分にとりベストでありたい。と答えた学生がいました。
脱帽するのみ!



938  青銅も錆びなくていいわね


鉄の意志を持った女性宰相と呼ばれた人が英国のサッチャー女史です。

英国病と揶揄された精神や経済疲弊が長く尾を引いていた中に、平民出身(名前から推して、屋根をわらでふく職業だったのが先祖?)の、しかも女性として初めて選ばれた首相に衆目が集まりました。
軍事面では大西洋上、アルゼンチン沖合いの島フォークランドの帰属をめぐるアルゼンチンとの戦争やイラクによるクウェート侵攻に対して毅然とした軍事解決の手段を取ったり、経済面では自由競争を前面に出して既得権の廃止や行き過ぎた社会保障に大ナタを振るい、贅肉をそぎ落とすスリム化を断行して経済の活性化を行いました。
アメリカのレーガン、ブッシュ両大統領とも歩調を合わせ、良きパートナー振りを印象づけました。あるいは、ソビエート連邦の新星ゴルバチョフ首相を信頼できるリーダーとしていち早く認めた業績も思い出されます。
今は,一代限りの貴族の称号を与えられ貴族院で活躍しておられますが、普通であれば亡くなった後で業績を讃えて人物像を彫刻して国会議事堂内に置くそうですが、2007年の2月のある日、本人の見ている前で除幕式が行われました。鉄の宰相に相応しく鉄製かと思いきや青銅製だったそうです。彼女のコメントは'錆びなくていいかも'と周囲を笑いに包んだそうです。
彼女の像と通路を挟んで向かい合っているのは、第二次世界大戦の英雄チャーチル首相の像だそうです。

テームズ川の傍に建つ国会議事堂は、19世紀後半のビクトリア女王時代を代表する教会建築に似た新ゴチック様式の素晴らしいものですが、アメリカやフランスの国会議事堂と同様、誰でも中に入って見学することが出来ます。



939  住めば都というけれど


アジアとヨーロッパの接点に位置し、2700年もの長い歴史をもつ町がイスタンブールです。

トルコ人ならずとも誰もが一度は行って見たい、住んでみたいと憧れる町でしょう。
今回は、トプカピ宮殿への入り口にあたる四番目の広場から三番、二番を通り抜け一番目の宮殿最奥の広場(庭はイスラム教にとり楽園をイメージする大切な空間と考えられている)のバルコニーに立ってゆっくり眺める機会をもてました。
前面に広がる眼下の左手側には金角湾そしてその先にはガラタ地区、目を右に少し巡らすと中央辺り黒海へと続くヨーロッパとアジアを隔てる狭いボスフォラス海峡が見えています。ボスフォラス海峡の手前の右手にはマルマラ海が横たわっています。そしてマルマラ海の奥にはアジア側の町並みが見えていて、地の利を得た自分の立っている所の素晴らしさに改めて感動しました。

イスタンブールの発祥伝説では、目の見えない人々が住んでいる集落の反対側に町をつくるようにとのアポロンの神託(デルフィ)を貰い旅を始めたギリシャのメガラからの移住団がこの地に来て私同様に眺めたところ、アジア側には既に集落があり彼らこそ見る目を持たない(目の見えない)人々であり、その反対側のヨーロッパに位置する七つの丘からなる半島のこの地こそ神託された場所であると確信して住み始めたそうです。
紀元後4世紀から15世紀半ばまではビザンチン帝国(東ローマ帝国)、その後20世紀初頭まではオスマン・トルコ帝国の都として華やかな歴史を歩みました。第一次世界大戦終了(1918)後は新生トルコ共和国の首都はアナトリア平原の内陸の1寒村にすぎなかったアンカラに移転しました。アンカラの名の由来は毛の長い羊種のアンゴラからきているそうで、おそらく首都になった当時は羊がのんびり草原の草を噛んでいる風景がみられたことでしょう。
首都機能は失ったものの現在のイスタンブールはトルコの中で群を抜いて人口の集中する大都会であり、国の人口(7千万)の約2割(公表で1200万、推定1500万といわれる)の人々が住んでいて、様々な人種によって構成される国際都市です。
貧富の差も激しく郊外のマルマラ海近くには夏の1〜2ヶ月だけ過ごす金持ちの家もあれば、その少し内陸では高層のアパート群が引っ付かんばかりに建っていて、そこの住人は毎日イスタンブールへと通勤する人たちだそうです。
2006年度の世界の大都市の物価比較によると、イスタンブールは上位から数えて12番目で土地や家賃が高くラッシュ時の交通渋滞や失業率の高い町となっていて、人々は明日のことは考えずに今日が楽しければいい、これまでも何とかなったし何とかこれからもなるだろうといった生活に身を任せているとガイド氏は言います。
彼はカイセリ(アナトリアの中央にあり、古代ローマ以来の町)出身で、アンカラ大学(日本の東大にあたる名門大学)の日本語学科を卒業していて、日本に留学したこともあるしブルサ近くのトヨタ社で2年働いた経歴の持ち主ですが、今はイスタンブールに住んでいます。
イスタンブールが半島になっていて2方を海に囲まれた地形であるのと同様に、国も海(黒海やエーゲ海、地中海)に囲まれていて貿易や農業、工業も盛んで天然資源もあり、土地も広いし若者が人口構成の主体を成していて一見伸びていきそうに見えるトルコだが、どっこい実際はさにあらずよく伸びるのは名物のアイスクリームとトルコ製のTシャツだけだと私たちを笑わせてくれました。
安心、安定した生活が望めない理由は地図をみれば明らかだと語り、周辺の国々(ブルガリア、ギリシャ、アルメニア、イラン、イラク、シリア、ロシアなど)との良好な関係維持の為に骨身を削って生きてきた歴史があるそうです。現在でも国家予算の34%が軍事費に費やされ、男子は兵役の義務があります。EU(ヨーロッパ・ユニオン)に加盟しようと長年努力してきたが未だ認められず、NATO(北大西洋条約機構)の一員として軍事面では西側の陣営に入っていて複雑な状況下にあります。
今も続く泥沼化しつつあるイラク戦争では、原因は石油の利権をめぐる争いであると考えるトルコ政府はアメリカへの協力を断りました。大儀名分であった大量殺戮兵器(原爆や化学細菌兵器、長距離ミサイルなど)はイラク領内からは見つからずアメリカの強引なやり方への厳しい批判の目は高まっています。
アメリカ議会では第一次世界大戦最中に起こったトルコによるアルメニア人の大量殺戮問題が論議されているそうですが、トルコ領内のアメリカ軍による軍事基地使用を今後認めない対抗手段で応酬しているそうです。同じアメリカ議会では、日本軍による従軍慰安婦問題が取りざたされていますが、果たして日本政府はどう対応するのでしょうか?

先の見えない世の中、刹那の中で一瞬の安息を見出す知恵、経験はトルコに一日の長が日本よりあるように思いました。勿論、日本にも動中静、静中動という言葉はあるのですが…。



940  シナン氏のトルコ指南にサオール(有難う)!


新婚ホヤホヤ(4ヶ月)のトルコ人ガイド・シナン氏の語った言葉で印象に残っているものを書いてみましょう。

イスタンブールとトルコは別
 大都会であり国際都市であるイスタンブールと田舎の生活の違いを述べた際に聞く

一度は住んでみたい町がイスタンブールだが、住めば都ではなかった
 物価高や貧富の差、生活のリズムの異常さを語った時

トルコは勘違いされている面が多い、おおいに不思議な国
 政治と宗教は分離されていて、女性の選挙権は日本より早く与えられたし女性の首相もでた。

偽物が本物よりよく出来ている国
 革製品など西欧諸国のブランド店の下請け生産をしている

ロクムの菓子(ディズニー映画'ナルニア物語'の中で食べられた)などお菓子の美味しい国だが、おかしい国がトルコ

何でもやり過ぎの人たちの国がトルコ
 料理は味は濃いすぎ、油っぽく、塩や砂糖は入れ過ぎる。従い、女性の平均寿命は73歳で男性は71歳となる。

年金に期待はしていない。期待は少ないから失望もない。退職するのは墓に入ってから。

パンの美味しい国

宣伝不足の国
 電気とヨーグルトをブルガリアに輸出しているし、チューリップを最初につくったし、聖書の中のノアの箱船が不時着し たアララット山もある

国家予算の34%が軍事費として使われているが、トルコ中にある遺跡の調査の為の予算は無し

トルコでは、果物のバナナの値は高くメロンは安い

伸びそうな国トルコで、よく伸びるのはアイスクリームとTシャツだけ

トルコ人は日本人に声をかけ易い
 歴史の中でオスマントルコ時代、スルタンが日本に送った515人が乗るトルコの船が和歌山の串本沖で沈んだが、 62人が日本人の協力で助け出されたエピソードは、小学3年生の教科書に載っていて今でも感謝している。
 1980年代のイラン・イラク戦争では、イラン在住の日本人240人を救出する為に危険な中、トルコ航空を飛ばして 助けたことはトルコ人は良く知っている。
 小泉首相はトルコにきた折、当時のパイロットを訪ねお礼を言ったそうです。

日本語は中国語の次に難しい。特に数の数え方は針のムシロに座った感じがする
 1本(ポン)2本(ホン)3本(ボン)4本(ホン)5本(ホン) 6本(ポン)と永遠に続く複雑怪奇さに大いに閉口したそうで  す。

トルコに先に来るとびっくり、それからギリシャに行くとがっかり
 古いギリシャ時代の遺跡を含めて、それ以前の素晴らしい人類の遺産をトルコで目にするから


シナン氏は雄弁であり毒舌家であるがユーモアに富み、愛国者であるが偏見者ではなく、イスラム教を大切に思っているが人(妻)には強要しないと語ったバランス感覚の持ち主でした。
日本に住んでいた時の体験談では、銀行に両替に行くと何時も空いていて待つことなく受け付けてもらえたが、書類が机から机を回って認証の判子を押してもらうのに30分待たされたそうです。
トルコでは、銀行や病院は何時行っても込み合っているが、ものの5分とかからないそうです。医者は患者の痛みを聞くと、直ぐに簡単に薬を処方してくれる言って大いに私たちを笑わせてくれました。





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