希望


931  ハッグは薬に勝る


子供の成長は二つの要素で決まるそうです。

一つはネーチャー(Nature)で、親やまたその親などから受け継いだ遺伝子などのように最初から備わっているもので、親に似た顔立ちや体型、目や髪の色に顕著に成長後も見られます。
もう一つはナーチャー(Nurture)で、育て方や訓練によって決まるものです、

現在の科学では、生まれる前の胎児の段階からナーチャーを始めるのがより良いとされてきていますが、赤ちゃんは生後数年で頭の大きさや機能が劇的に成長するので、幼児期に体験したことが脳の発達に大いに影響を与えることが分っていて、適正な刺激を適切な時期に与えるのが大切だと云われます。
オオカミに育てられた少女などの実例を見ると、明らかに一定年齢を超えてしまうと、その後どんなにナーチャーしてみても、さして変化は見られませんんでした。

以前小学校の先生が、あんなに素直で目が輝いていた受け持ちの子供が中学校に入ると、何故不良になったり問題を起こすのか可哀そうで、出来るなら中学も一緒に行って傍につていてあげたい。そうすれば、子供たちが不良にならないで済むと言われたのが思い出されます。
先に生まれ厳しい人生を体験した者が唯一してあげることは、不安な未知の世界へ足を踏み出す子供を愛で包んであげることのようです。愛で包んであげて、大丈夫安心して頑張ってらっしゃいという親の言葉と仕草は、子供をどれほど勇気づけることでしょう。

一方、年老いて行く母と生活していく中で、自信が揺らいでいき、不安な目つきや虚ろな目つき、何も出来なくなっていき記憶もまばらになり、皆の迷惑になっているのでは?会話も成立しにくい自分に苛立ちを見せる母に対して、どうしたら母に安心して貰えるか一番の薬は何だったでしょうか?
それは、優しく赤ちゃんや幼児をあやすように抱いてあげ、包んであげることでした。
幼児と老人、片や明日があり片や明日がないように思いがちですが、果たしてそうでしょうか?共に明日は経験したことのない不安に満ちた世界であり、また安らぎの世界になりうる所です。それは、心の持ち方次第で決まります。

優しく抱いて包みこんであげる(ハッグ)行為は、人生を始めようとしている人も人生を終えようとしている人に対しても、働き盛りの人がしてあげれる愛です。
ハッグ(Hug)は憂鬱(Blue)を喜び(Cheer)に変えます。
愛している,別れるのが寂しい、ようこそ、お会いできて嬉しい、どうしていたの?の全ての言葉をハッグは代弁してくれます。
ハッグは小さい子供や老人の痛みを和らげ、雨の降った後に虹を見る効果を生み、子犬も子猫も世界各国の首脳も、誰もが言葉の壁を打ち破って退屈な日々を楽しくしてくれます。

そんなハッグなら箪笥に仕舞って置くのはもったいない。
是非、出して大いに使ってみましょう。



932  着陸した経験がないので病人は降ろして欲しい


ベトナム戦争(1975年まで続いた)が終わって日が浅い頃でした。

スリランカ旅行からの帰りの飛行機はシンガポールに立ち寄り、その後日本に向かう日本航空機でしたが、グループのお一人の老女が疲労からか体の節々が痛く、かなりの熱を出されました。フライト・アテンダントは誠意を持って接してくれましたが,機長に相談に行ったようでした。機長は病人をシンガポール空港で降ろし病院に連れて行くように言ったそうです。老女は入院するほどの大事ではないので、このまま日本に連れて帰って欲しいと懇願されました。やがて機長がやってきて、私に次のように本音を言いました。
'ベトナムの上空は未だ飛んだ経験がなく、万一容態が急変して緊急着陸しなければならなくなった場合、ベトナムの何処かの空港になるかも知れない。それを避けたい'と。
当時は、史上最強軍団アメリカ帝国を相手に白旗を上げずに戦い抜いたベトナムへの賞賛と神秘の入り混じった印象があったように思います。
幸い、この女性は無事羽田に着き家へと帰られました。

そして、それから30年近く経った2007年1月に20代の娘2人がタイに住む為に、ただ安い航空運賃だからという理由で乗ったのがベトナム航空です。ハノイに3日滞在してバンコックに行きました。
余程、ハノイの印象が強かったのでしょう。彼の地にいる時に電話とEメールで様子を知らせてきました。町は活気があり、食事も美味しい。戦争の悲惨な爪あとは、ただ一ヵ所を除いて見られない。それは、30年続いた戦争体験を永遠に忘れない為に、終戦の年(1975)に町の中心につくられ、今も着々と拡張していて年間40万人の見学者がある戦争証跡博物館(War Remnants Museum)です。
様々な展示物があるそうですが、枯葉剤(Agent Orange)の犠牲者、ソンミでの大虐殺、幼い子供たちを連れて必死に川を渡って逃げる母親の写真などは、娘たちの涙を誘ったそうです。アメリカからの団体客も混じっていましたが、見終わった後の彼らの仕草も、一様に頭を横に振ったりうつむいたり涙していたそうです。
人間同士が行う愚かな殺りく行為は、残念ながらこれからも続くことでしょう。



933  ナポレオンから寿司まで


ヨーロッパ大陸のチャンピオンになりつつあったナポレオンは、イギリス進攻を企てますが, その為には巨額の資金が必要でした。

そこで行ったのが、北アメリカ大陸中西部のフランス領の友好国アメリカ合衆国への売却でした。結局の所、イギリス征服という野望は実現しませんでした。
1803年の世に云う'ルイジアナ・パーチャス'により、一夜にして合衆国は領土が2倍に膨れ上がり、しかも歴史上最も安い平和の内に行われた取引となりました。東部と中西部を隔てる南北の壁・アパラチア山脈から西へずーと大草原地帯を横切り、太平洋に程近いロッキー山脈の麓まで達する広大な買い物でした。

時のアメリカの大統領トーマス・ジェファーソンは、千年かけて農民を主にした人の住める所に変えようという壮大な夢を抱いていました。その為に、調査団をミズーリー川沿いに西に向けて派遣しました。1年半もかけた冒険の旅でしたが、食料が底を尽き荷物を運んでくれる仲間の馬まで食べるほどでした。ところが、川で勢いよく跳ね回っていた魚には目もくれませんでした。
30年前にアメリカに留学して、今は立派な実業家になっている中年日本人男性の留学時の体験談の中で、ホスト・ファミリーのアメリカ人は陸の動物の肉であれば何であれ、どう料理しようと美味しいと言って食べてくれましたが、魚を調理してテーブルに出すと2度目はブーイングだったそうです。当時は、日本食は未だ映画の中でしか見たことのない料理で、畳に座り2本の棒(箸)をマジシャンのように操りながら窮屈な思いをしながら、魚を主にした醤油味の料理を食べてみようという物好きなアメリカ人は、あまりいなかったようです。

しかし今は、アメリカ中ヨーロッパ中で本物まがい物を含めてすし屋や日本食店が人気沸騰で、アメリカで獲れた魚をわざわざ日本へ回すほどお人好しはいない時代になりつつあります。
本当に彼らの舌は醤油や生魚、煮付けや焼き魚の味に賛同する突然変異を起こしたのでしょうか?
10年ほど前、南部アメリカの田舎町のレストランで、そのあたりで獲れるナマズのフライ(その店の名物)をケチャップや酢、塩や胡椒をかけて食べたのが懐かしく思い出されます。



934  理を料る(はかる)のが料理


小学生の時に県主催の美術展で特賞を貰い、絵の先生に彼から教わることはあっても教えるものは何もないと言わせたほどの早熟の芸術眼の人です。

様々な事情から芸術大学には行かず、高校卒業後は看板や塗装の道で生計を立ててこられ、今はセミリタイヤーした自適の生活をしておられます。2度ほどその方の家に行き、韓国料理をご馳走になりました。材料の調達や下ごしらえ、調理に盛り付け、真露の酒やデザートに至るまで全て一人で準備されたそうで、奥様は傍観者でいたそうです。
ポカポカと煮込んだ料理は、熱く焼けた石の器に入って出てきましたが、石は特別に頼んで作ったそうです。
韓国料理との出会いは、韓国語(ハングル)を習いたいと思ったのがきっかけだったそうです。習い始めると、日本語にはない息を吐くときに出す破裂音や吸うときに出す独特の音、母音の多さに驚き、日本語が失ってしまった豊かな表現をしっかり守っている韓国語に感動しました。また、文字としてのハングルの理に適った表記法の発明(16世紀)にも脱帽したそうです。やがて知り合いになった韓国人の友人たちと朝鮮レストランに出入りするようになり、料理へと開眼していきました。未だ一度も韓国には行ったことがなく、行かずして韓国を知る人となりました。70歳にもうじきなられるこの方の,とつとつとした語り方や飾らない穏やかな性格は何時間一緒にいても、肩の凝らない相手を安心させてくれる癒し型の魅力があります。
食後、2階の書斎や絵を描くのに使っておられる部屋を見せてもらいました。書斎の本棚には、哲学書や宗教書に混じり禅関係の食文化を述べた一連の本が置かれていました。アトリエでは、夜中でも気が向くと朝まで描き続けることも以前はよくあったそうです。今は、究極の絵をキャンバスに表現し終えたので、筆を持つことはなくなったそうです。
野次馬の私は、絵を描くのがとても好きだったのに止められて寂しくはありませんか?と聞いてみると、元々それほど好きではなかったとの返事でした。

ご自宅に人を招いて手料理を味わってもらうのが大好きなので、近日中にソバを打ってもてなししたいからお越しくださいと言われます。ソバ打ちは水をどれだけ、何時入れるかが難しく、また何処のソバ粉を使うかによって味が決まると語られ、目分量ではない実験科学の分野に属する詳細に正確な量を測って、心を入れて理にそってつくるのが料理なのだそうです。

昨年の秋に我が家の屋根を塗装してもらったのが縁で知り合った人ですが、1月末の日曜日の午後、我が家に今日は夏ミカン(ご自宅の庭に植えてある木になった)をどっさり持ってマーマレードを作る為の手書きのレセピーを添えて、突然やってこられた際の料理談義でした。
人が大好きでユーモアに溢れる方で次から次へと繰り出される話に夢中になっていたのですが、日が西へ傾く頃となり、席を立たれる際、これから家に帰ると雪割り草と桜草の株と種を土床に入れてあげる仕事が待っていると語られます。手間ひまかけて面倒を見てやらないと、日本の草花は直に外国産の草花に占領されてしまうそうです。
私は、前の日にオーストラリア・オープンテニス選手権で勝利したアメリカのセリナ・ウィリアムズが勝利会見で、'今日の試合は自分の間合いのテニスだった'と胸を張り自信たっぷりに振舞った姿を思い出しながら、大陸の草花に重ねて聞いていました。

数日後、レセピー通りにマーマレードをつくると、その味は抜群に甘く、適当に目分量でやっていた以前のものとは雲泥の差に出来上がりました。



935  翼のついた鉄兜はタバコのガリアの印


ギリシャ人はケルト人と云い、ローマ人は彼らをガリア人と呼びました。

3千年前は、ローマの町や小アジア(今のトルコ)に入って行き荒らしまわったこともありました。ガリア人の多くは、やがてフランスの地に住む人々となりました。農民として、火を使って剣などを鍛える鉄器鍛冶職人として、土を捏ねていろんな器をつくる人として、そして何よりも優秀な兵士として知られていました。
彼らは4輪の車輪を使っていましたし、木の樽に鉄の輪をはめてビールやワインを貯蔵運搬しました。いろんな部族に分かれていましたが、人々は太陽や月、森に住む動物の中に神々が住んでいると考えていて、ドルイド教と呼ばれる宗教を広く信仰していました。
樫の木に寄生して生きる冬でも緑の葉を茂らせる宿り木を大切にしていて、宗教指導者は白衣を身に纏い、木に登って金色の鎌で宿り木を切り、地上で白い布を広げて待つ人に落して収穫しましたが、大勢の人が見守る中で厳粛に行われました。

やがて、紀元前58年ローマからやってきたガイウス・ジュリアス・シーザー将軍率いる精鋭部隊の登場となり、フランスはローマ化されていきました。
勇者ガリア人兵士が頭に被っていた翼のある鉄兜がデザインされたタバコが、フランス人がこよなく愛するガリア人
(ゴロワース)です。





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