希望

1241  牛が準公務員の町 オークランド




ニュージーランドの北島にあり、シティ オブ セイルズ(ヨットの帆が風を孕んで航行する町)の別名で知られるのがオークランドであり、世界の住みやすい町ランキングで堂々5位に入っています。

町で1番高い山マウント・イーデン(196メートル)の頂上展望台に登ると、四方が見渡せ、ダウンタウンだけがスカイタワーなどの高層ビルやハーバーブリッジなどの新建築群が集中していて、その他は緑地の中に木造やレンガ造りの住宅が広がっています。
住宅地は日照権が認められていて、高層のアパートは建てられません。

そんなゆったりした理想の町にも朝夕の交通渋滞が起きるそうで、子煩悩なキューイ・ハズバンドたちが子供たちを学校に送り迎えする車の行列によるそうです。火山の噴火でできたオークランドを取り囲む低い丘の連なりは、いずれも手入れの行き届いた庭の芝生のように刈り込んであり、ガーデンシティの面目を保っています。
尋ねると、人が刈ったのでなく、丘に放牧してあるキャトル(牛)が長く伸びた草を食べてくれるそうです。牛が勝手に下山すると困るので、自動車道の所々に車にとってスピードブレーカーのような牛が足をかけると滑り恐がらせる工夫(回転する鉄の棒)がしてありました。

カナダやオーストラリア、ニュージーランドやハワイなどにいち早く目を付け、移住や中期・長期滞在の草分け的存在になったタレント・大橋巨泉は、ニュージーランドは日本に似て水が美味しく、四季があり魚が美味しい。更に物価も他と比べて高くないと著書に中で述べています。ヨットの運転も免許が必要ないのだそうで、移住するならこれで決まり?…。
     




1242  ニュージーランド人の五つの誇り




ゴールドや香辛料を探してやってきたオランダ東インド会社のタスマンは、タスマニア島(自分の名前を付けている)やニュージーランド(ノヴァ・ゼーランディアと命名した)、オーストラリア(ニューオランダと呼んだ)を見つけましたが、19世紀後半になってやっとニュージーランドでもオーストラリアでも金が見つかりゴールドラッシュが始まるまでは、金や香辛料の生る所とはオランダやフランスには考えが及ばず、18世紀後半(1769〜1770)に遅れてやってき大航海時代を締めくくったイギリス人探検家キャプテン ジェームス クック船長によりニュージーランド及びオーストラリア(紀元2世紀のギリシャ人プトレマイオスの地図に記されたテラ・オーストラリスの名)が正式に使われ、イギリス領になりました。テラ・オーストラリスとは南方の大陸という意味です。

ニュージーランドの南島で4日間お世話になったバスドライバーの60代働き盛りの小柄なピーター氏は、全身ユーモアで作られている感がありました。ニュージーランドにとってオーストラリアはどんな存在かと問うと、すかさず絵はがき(ニュージーランドの隣に、小さなオーストラリアが描かれた)を取り出して見せて、ニュージーランド人にとってオーストラリアは西隣りにある小さな島であると切り捨てました。
4日目の朝となり別れが近づく中、ピーター氏が推奨するニュージーランドの五つの誇りを教えて欲しいと言うと、いつもと違って少し考えさせて欲しいというではありませんか?
南島一の町・クライストチャーチで旅行会社に勤める日本女性(キューイハズバンドと結婚して、二児の母となっている)に同じ質問をすると、即五つの答えが返ってきました。
一にラグビー、二に羊、三に酪農、四にワイン、五はビールでした。
キューイハズバンドの実態は亭主だけしか知らないが、頑固で優しくなく、ジャガイモ好きでイングランド人の血を濃く受け継いでいるので、本気を出せばアイロン掛けは自分よりも上手い筈と笑顔で答えてくれました。

やっと飛行場に到着する段になってピーター氏に催促すると、紙にメモ書きしたものをくれました。
誇りに思うのは、一にラザフォード卿(世界で初めて、核分裂実験に成功した人?)、二にエドモンド・ヒラリー卿(エベレスト山登頂に初成功)、三にピーター・スネル(1マイル競争で4分の壁を始めて破った)、四に世界で初めて冷凍肉の輸出に成功、五に選挙で世界初の飲んだくれた女性が投票したと書いてありました。

五番目は、さずがピーター氏の落としどころを心得た解答であり、笑顔と握手で別れました。
    




1243  牧羊犬なしには…




20年前にニュージーランドで聞いた話では、3百万人の国民に6千万匹の羊がいて、1人あたり20匹ほでした。

しかし今回の旅(2010年3月)では、人口は4百万人に膨れ上がっていて、羊はというと4千万匹に減っていました。国民1人あたりにすると10匹になります。
以前は、羊の群れが自動車道を横切る風景を目にしたものですが、その際は車を止めエンジンを切り、5分ぐらいのんびり羊の群れが過ぎ去るのを待ったものでした。

今日の牧羊農家は平均1万匹を飼育していて、家族同様の牧羊犬の手助けなしには成立しません。コーリー種の牧羊犬1匹で5百匹もの羊をひと睨みで誘導できるそうですが、特別な訓練をすることもなく自然に身についていきます。
訪れた昼食レストラン、兼売店を営業する羊の毛刈りショーを見せてくれる農家では、裏の遠く見渡せる限り続く牧草地に羊を放し飼いにしていました。しかし、何故か昼食は羊肉ではなくて牛肉ステーキでした。昼食が終ると、同じ会場を使って羊の毛刈りを見せてもらいました。
経営者は長く羊の毛刈り職人として働いたキャリアの持ち主であり、5分で2匹の羊を丸裸にすることができるそうです。電気バリカンと手バリカンを使いますが、上質の毛は手バリカンで刈り、手間賃は1匹あたり80セントで30セントほど電気バリカンよりも高くもらえますが、刈る時間も多くかかります。

この農場では、スペインと似た気候風土を活かしてスペイン原産のメリノ種の羊を飼っていて、羊毛はイタリアへ輸出して、アルマーノ・ブランドの服地になっています。
毎年1度だけ毛を刈り、6歳になると食肉として売られる宿命の羊とのことでした。
     





1244  オーストラリアのゴールドコースト



本家のゴールドコーストは、中央アフリカのギニア海岸を形成する象牙海岸や黄金海岸になるのでしょう。

そして、そこではアイボリーやゴールドと共に奴隷まで売買されていました。
ニュージーランドへの飛行機の乗り継ぎ地として,クーランガッタ空港を行き帰り利用しました。クーランガッタというユニークな名前に惹かれ、案内所の男性に名前の由来を聞くと、よく分からないといい、コンピューターで検索してくれましたが不明でした。傍に置いてあったパンフレットをめくってみると、ゴールドコーストと呼ばれるこのあたりの川を航行した船の名前らしいことが書いてありました。

この空港はニューサウスウエールズ州のすぐ北隣にクイーンズランド州に入った所につくられていて、この空港から北へ40キロ続く海岸をゴールドコーストと呼び、現在は50万人もの人々が内陸3〜10キロ入った辺りに生活する一大経済圏になっています。
以前は、ここには国際空港はなく北に位置するクイーンズランド州の州都・ブリスベイン空港に到着して、バスに乗り換えて一路南下してゴールドコーストに向かったものでした。

オーストラリアのゴールドコーストの命名の由来については、ゴールドが採れたのではなくて、年平均290日も太陽が顔を出す恵まれた気候や高い波に誘われて、定年退職者や若者サーファに安くレジャーを楽しめる所として1960年頃から人気が出始め、体に日焼け止めクリームを塗って黄金色の肌に焼く人の群れがビーチいっぱいに横たわった風景か、又は太陽の日を浴びて黄金色に輝く海岸線が続く様を、誰言うとなくゴールドコーストと呼ぶようになったらしいとの空港案内所の中年男性の弁でした。
しかし、実際のゴールドコーストでの2日間はいづれも雨模様で、低気圧の襲来と停滞によるようでした。
年間4百万人もの観光客が訪れるゴールドコーストでは、高層ビルがどんどん建っていて、ホテルの部屋にいて聞こえてくるのは波の音ではなくて、近所のビル群の出すエアコンの換気の音が夜中中鳴り響いていました。

空港からホテルまでトランスファーしてくれたバスドライバー氏は、10年ほど前から西オーストラリアのパース(犬養道子女史が天国に一番近いところであり老後過ごしたいといった町)からやってきて住んでいるそうですが、ゴールドコーストの変わりようには驚いていました。
引越しの理由は、奥さんの鶴の一声で決まったとのことでした。
  




1245  4歳の息子が大きいのはミルク、ヨーグルト、チーズが大好きだから

カッパドキアの奇岩群は遠い昔、近隣の火山の何回にも亘る噴火で、溶岩や火山灰が幾層にも重なり合って積もった地層が、長い歳月の間に雨や雪や風そして地震などで削られた結果、今日見るような月の表面に似た風景を創出したと考えられています。

そんな孤立した奇岩の中で生活する家族(両親と10代の娘2人に4歳の息子)を夕暮れ時に訪ねました。
小高い丘の中腹にある岩窟住居ですが、入り口の外で靴を脱いで中に入ると、長い奥に続く廊下になっていて、夕食の準備が進行中の台所でした。ご主人は40代、奥様は頭に被り物をしていますが顔は出しておられ、息子君が共に迎えてくれました。台所空間の奥は厚い壁を隔てて四角い広い居間となっていて、台所同様床にはカーペットが敷かれていました。奥さま似の2人の娘たちが、そこには笑顔で待っていました。
天井や壁はノミやツルハシで掘った跡が残っていますし、床も少し傾斜していて波打っているのがカーペットの上を歩けば分ります。カーペットの上を転がりまわって遊ぶ家族のペット的な存在の、年の割りに大きな息子さんを外交辞令も少し兼ねて褒めると、お父さんは自慢げに、ヨーグルトとミルク、それにチーズを息子がよく食べるからと答えが返ってきました。
天井が少し低いのでは?との問いには、1米75センチの父親が天井にスレスレになりながらも決してぶつかることはないと何度も歩いて見せてくれ、'人は器に合わせて成長するものだ'(天井よりは高くならない?)と哲学めいた答えで、3百年前に先祖が掘ってつくった空間そのままだと自慢します。更に、息子が大きくなれば、その時はその時で家族で相談して考えるかも?との含みも持たせました。ユネスコの世界遺産になった今は、勝手に天井や床を削ることはできないそうです。

家族全員が口を揃えて、岩窟での生活は快適で他に移る積りはなく、夏涼しく冬は暖かく、窓からは眼下に谷間が見えていて景色も抜群に良いと、カーテンを引いて夕闇迫る風景を見せてくれました。
壁には、奥様が嫁入りの際に持参した手作りの絨毯と奥様のお母さんがプレゼントしてくれたメッカのカアバ宮殿が描かれた絨毯(おそらく聖地メッカ巡礼に行かれ、神に一歩近づいたハッジの位に登られたご母堂がその際買った?)の二つの宝物が架かっていました。

大きな居間の真ん中で胡坐をかいていたのは、薪と石炭で暖をとるストーブでした。
やはり3月の初めは未だ寒く、外へと煙を吐き出すアルミ製のパイプの管におでこをぶつけた不心得者もいて、頃合を見計らって夕食のお邪魔にならないよう退出しました。









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