希望

    
1216  反対の方向に水をかけた男




'天にいる死者に水をやることができるのなら、地上に水をやるのは遥かに易しいはず。私は畑に水をやった。'とガンジス川で沐浴した折、語った男がシーク教団を興したナーナク( 〜1538)と伝えられ、世俗の生活を重んじる彼の考えが良く表されています。

男性が頭にターバンを巻き、顎や口の周りに髭を豊かに蓄えた独特の風貌で、一見してすぐ見分けがつくシーク教徒ですが、多くはインダス川中流の肥沃な穀倉地帯にあたるパンジャブ地方に集中して住んでいて、インド人口の2%を占めています。

ナーナクの布教の旅は、道連れにヒンズー教徒の農民とイスラム教徒の音楽師がいて、ナーナクが語り二人が詠い楽器を奏でたといいます。
カースト(インドではジャーティという)を否定し、苦行や断食を退け、勤勉に働き正直に生きることを勧め、一心に神に祈りを捧げ神の名を讃えれば、心の平安が保たれると説きました。

本当に久しぶりに訪れたインド(2009・11・13〜11・23)でしたが、ホテルの部屋でテレビをつけると、シーク教徒たちによる楽器と声楽を交えてのプージャ(祈り)の様子が映し出されていました。
       





1217  タゴールの詩を国歌にしたバングラデッシュ



1905年英国のインド総督カーゾンは、ベンガルの民族的まとまりが強くなるのを恐れて、ベンガル州を東西二つの州に分割しました。

1913年にアジアで最初のノーベル文学賞を貰った詩人タゴールは、1901年カルカッタの北の地シャンティニケタン(平和の里という意味)に、娘3人と息子2人に自分の理想とする教育をしようと始めたのがシャンティニケタン大学の興りでした。
自然こそが最良の教師であり、授業は樹木の下で行い、音楽や美術を取り入れた授業は子供の感受性を伸ばすと考えました。

1972年にパキスタンから分離独立して生まれた国が,過っての東ベンガル州にあたるバングラデッシュだそうです。

'私の黄金のベンガルよ わたしはあなたを愛します
あなたの空 あなたの風は わたしの心にいつも笛の音を響かせます
嗚呼 母よ! 早春のあなたのマンゴ林の香りは
わたしの魂を奪ってしまいます
嗚呼 母よ! 晩秋のあなたの実り多き田畑に
わたしは なんと甘い微笑を見たことでしょう

ベンガルに生まれ、ベンガルを愛したラビンドラナート・タゴール(1861〜1941)のこの詩が、新生国家の国歌になっています。
    




1218  スージー・ウォンの世界からルック フォア ア スターへ



1950年代の香港を舞台に、アメリカ人白人男性と貧民街に生きる子持ちの中国人女性の愛を描いたアメリカ映画が、スージー・ウォンの世界だったと記憶しています。

一方、2009年に香港で制作した中国映画'ルック フォア ア スター'では、香港の実業界で活躍する3人の中国人エリートが、3者3様に普通に今の香港で生きる男女と恋に落ち、結ばれるかどうかを野次馬根性で視聴率だけが気になる下らない公開テレビ番組で決めるという内容になっていました。
香港きっての富豪で3度も離婚歴があり、母親を始めとする親戚の上流階級の厚い壁(プライドとプレジュディス)に囲まれている男性社長は、カジノでトランプカードのディーラーのアルバイトをし、ナイトクラブではダンサーとして働く若く美しい女性と、彼の気の強いテキサス大学出の美人秘書は山東省出身の学歴のない正直な男性と、そして富豪社長の友人でお抱え運転手は子連れの女性と結ばれるかどうか…
金持ちエリートクラスとなった3人の中国人(香港生まれ)が、社会の底辺で生きる人たちとどう掛かり合えるのか?中国人の中でクラス格差があるのを映し出していました。

秘書とお抱え運転手は愛が階級の壁を乗り越える決断を下し、ハッピーに番組は進行しますが、最後まで気を揉んだのがハードルが一番高いエリート社長でした。なんと結末は、女性(ダンサー)が逆プロポーズを行い、上流階級(自尊心と偏見の世界)から庶民階級(嘘のない人情の世界)に恋人が落ちてやっくくるのなら、OKと言ってみせました。

瀬戸内海、上海、重慶、昆明、ミャンマー、バングラデッシュの上空を飛んでインドのデリーにノン・ストップで向かう日本航空機内で見た映画でした。
以前は、香港やバンコックに立ち寄りながらの長旅でしたが…。
      





1219  肩が凝っているだけかも…



半裸の美女が体をくねらせ、肩越しに手を背中に回している彫刻を指し示して、満月の夜に背骨の何処かを触ると、セックスの壺がうずき出すと言われ、指でそれを探しているポーズだと説明したのが、カジュラホ生まれのインド人ガイド氏でした。

更に付け加えて、肩が凝っているだけかも?と妙に流暢な関西訛りの日本語で皆を笑わせてくれました。
9〜11世紀にかけて栄えたチャンドラ王朝時代に石灰岩でつくられたヒンズー教やジャイナ教の寺院群はミトナ彫刻(男女のセックスやエロチックな女性の姿態を描いた)が外壁や内壁を飾ってあることで有名です。今はユネスコの世界遺産になっていて、30年前は300人だったカジュラホ村(棗の木をカジュラと呼んだのが村の名の由来)は、奈良の明日香村に似て、今は2万人に膨れ上がり活況ある町に変貌しています。

宗教と政治権力が一体となった国の繁栄は、人口増加と経済発展、治安の安定に足を置きますが、イスラム教勢力の拡大や支配が起きる以前の中世インドでは、おおらかにセックスを繁栄の象徴として捉えていたようですし、難行苦行に頼らなくてもセックスによる悟りに至る色道も宗教の大切な教えとされていました。
インドのカーマスートラ(色道の教本)には84手が書かれているそうで、中国(72手)や日本(48手)に勝っているそうです。

ガイド氏の友人に,殺生を厳しく戒め、動物や魚の肉は言うに及ばず地中に育つ球根類の植物も鳥の卵も全く口にしない戒律を守るジャイナ教徒がいるそうですが、相談を内々にされたそうです。一つは、カジュラホのジャイナ教徒の人口が減ってきていること、もう一つは友人自身セックスに意欲が涌かなくなってきた…という悩みだったそうです。
カジュラホの東に残るジャイナ教寺院の壁に刻された豊かな男女のミトナ像からは想像し難い話に驚き、食生活に起因するのでは?少し肉を食べては?…と、幼き頃この辺りの池で共に泳いだ後、高原に露出する岩の上に寝そべって空を眺めたのを思い浮かべながら、アドバイスしたそうです。

10年前に大手ホテルチェーンが建てた百室あり、今でもカジュラホで一番と言うホテルの広いロビーの中央に青銅製のロウソク立てと水盤がありました。
水盤の水面は、赤いハイビスカスの花や白や黄色の花びらでチャッカラ(車輪のデザインで、平和や法の広がりを意味するインドの国旗の中央に描かれている)模様が描かれていました。
早朝の頃、一人の従業員が沈みかけた花びらを同じ色の花びらと取り替えているのを目にしました。ふと、ペルーの高地チチカカ湖に葦を編んで浮かべてつくったウロス島(浮島)でも水を吸って重くなった箇所の葦は、新しい葦と交換して補修していると聞かされたのを思い出しました。
また、夜何度か停電がありましたが、翌朝雨による漏電が原因だったと言われました。

11億人を突破して人口の増え続けるインドですが、停電による人口増加説を私に説いた、インド人旅行会社社長の話を懐かしく思い出しました。
     




1220  リキシャに乗って



江戸期にはなく明治になって日本で生まれた、人を後部座席に乗せ人が引く乗り物が人力車だという。

やがてこの乗物は東南アジアへと伝わり、ポピュラーな庶民の足替わりとなりリキシャと呼ばれるようになりました。今でもインドでは、自転車と人力車を組み合わせたペダルで漕ぐ三輪車がリキシャの名で活躍しています。

ヴァラナシは近くを流れるガンジス川でヒンズー教徒たちが日の出に合わせてガート(西の岸につくられた沐浴用の階段)を下りて水に浸って行なう朝のプージャ(祈り)で有名ですが、最近は日が暮れた後、ガートの上でバラモン僧による夕べのプージャが話題になっていて、朝は勿論のこと夜まで観光客が一目見んものと押しかけているそうです。
私達、物見胡散組も日が暮れかかる頃ホテルを10台のリキシャに2人ずつ分乗して出かけました。行きは小1時間、帰りは30分ほどのリキシャ経験でしたが、ハラハラ・ドキドキ血湧き胸躍るインドならではの風景(生活と宗教が一体になった、さしずめ日本では祭りとか年末年始に人気のある寺や神社に詣でる人々の群れに似た)に出くわすことになりました。
バザール街では、裸電球や蛍光灯に照らされて様々な商品が売られていて、大勢行き交う人に売り子が声をかける中、モーターバイクにスクーター、車やバスやリキシャに混じって牛までが見えて、浅田真央嬢の3回転半ジャンプを見ているようなスリリングな場面の連続でした。

ダシャシュワメード・ガートの壇上で行なわれた夕べのプージャは、7人の黄色の衣に身を包んだ酒もタバコもしない品行方正な僧侶の息子(バラモンのハイティーンの若者)たちが、間隔をおいて横一列に並んで、近くで奏でられる楽器と祈りの声に合わせて手にした鐘を打ち鳴らしたり、ほら貝を吹いたり、香を焚いた容器を振り回したりした1時間でした。壇上に照明があてられて、その周辺だけが光の海になっているのをガンジス川に浮かぶボートの中から見ました。
数年前から始まったようですが、惜しむらくはバラタナティアムなどの宗教に関係する踊りを一つか二つ入れてあれば、盛り上がるのにもったいないと感じた次第でした。







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