希望

     
1211  自動切符販売機にドギマギするイタリア人




'遠山の金さん'や'子連れ狼'、そのほか沢山の日本のアニメをイタリアのテレビで見れるそうです。

画像の中の日本人たちはイタリア語で話すそうで、'お控えなすって!'はボンジョルノとなり、土下座してお礼を言う場面では、'オ〜グラーチェ'と言っていたと私たちを笑わせてくれたのが、ローマに住んで14〜15年になるという男盛りの30代の日本人ガイド氏でした。
またテレビ局によって時報が違っていたり、天気予報もまちまちで、天気予報などは局独自の表現の場と捉えるふしがありありと見て取れるそうです。
洗面所(W・C)に備えられている便器とビデに関しては、大便をした後でビデの方に移動してお尻を洗い、傍に掛けてある小さな布タオルで尻を拭くことを教えてくれました。中には、便器とビデが離れているトイレなどもあり、おそらく美女も中腰のままで移動するのだろうと想像させてくれたり、清潔なタオルとはいえ尻拭きタオルで手を拭く日本人の輩もいるかも?(実際、ビデを使わない私自身、ホテルでよくそうしていますので…)と言って、腹がよじれるほど笑わせてくれました。

並ぶことに慣れていない、悠々せまらない自信家のイタリア人が逆に日本にやってきて、駅で自動切符販売機の前で並ぶと、反応が鈍く故障しがちなイタリアのそれとは大いに違い、素早く作動する日本の器械に対して金を入れ切符とお釣りを手にして立ち去る日本人の見事さに圧倒され、アッという間に自分の順番が廻ってくるので、ドキドキしてきて不安になるイタリア人が多いそうです。
     





1212  市民挙げての港町ポンペイ勧誘だった!?



古代ローマ時代、地中海を航行する船にとり港町ポンペイはどんな存在だったのでしょうか?

船は、船主や船長、船荷の運搬依頼者、船乗り、旅行者など目的や立場の違う人たちの寄り合いで構成されていたことでしょう。何度となく陸路でポンペイ遺跡を訪れた私は、妄想が涌いてきました。
都ローマの南2百キロにあり、ローマ皇帝たちが好んで住んだカプリ島やイスキア島の浮かぶナポリ湾に船を入れると、正面に煙たなびくベスビオ山、右手にはソレント半島が見え、ベスビオ山の裾野とソレント半島の付け根が交わる波打ち際近くの小高い丘の上に、愛と美の女神・ビーナスの神殿が目に入ってきます。その港町こそ船が必ず寄港したポンペイであり、2万5千人のポンペイ市民挙げての勧誘政策の成果ではなかったのでは…?と思えてきました。

町は八つの出入り門を持つ城壁で囲われていてセコム(安全確保)してあり、上陸して町に入ると、屋根付き2階建ての回廊で囲まれたローマ広場を中心に、東西南北に広い石畳の車道と歩道に分けられた幹線路が走り、敷石の所々には月や星の光、松明に反射するように白く光る石が嵌め込まれていて、街灯の役目を果たしていました。
ローマ広場には、ジュピター神殿やアポロ神殿(宗教)、市政のための官庁舎や裁判所(政治)、そして種々の商品取引所(穀物や肉、魚などの近在の物産に加え、遠隔地の物産を扱う)が軒を並べ、表通りの大理石造りの柱は豪華な浅彫り彫刻(カメオ)がほどこされていて、上陸してきた人の目を奪い、町の繁栄振りを印象付けたことでしょう。また、取引の公正を規すための基準(度量衡)となる容器や計り、長さを測る目盛なども設置してありました。
地中海世界の様々な情報は、図書館や劇場、闘技場や浴場、レッドライト・ディストリクトや飲み屋(文化)に行けば,容易に手に入ったことでしょう。若しかしたら、商工会議所のようなものが設置してあり、有利に取引できるような便宜も計っていたのでは?と考えられます。

古代ローマ時代の町が、唯一原型に近い形で感じることができるのがポンペイ遺跡です。
発掘の結果分ったことの一つは、パン屋と飲み屋の数が一番多いということです。そして、その傍には公共の水飲み・水汲み場が多くの場合設置してありました。更に興味深いのは、これらの石造りの水飲み場がそれぞれ異なるデザインの彫刻(神々やヒーロー、動物など)で飾られていて、待ち合わせ場所としても使われていたようです。
国際港ポンペイでは、売春宿のある方向が石畳の道にそれと分るように彫刻してあるなどの配慮も行き届き、オオカミの家(売春宿)に入ると女性の得意とするポーズが部屋の入り口の上にフレスコ画で描かれていて、無言で意思疎通できる仕掛けになっていました。

安心して商売できる町ポンペイ、情報が入手し易い町ポンペイ、楽しく遊べる町ポンペイ、都ローマにほど近い町ポンペイ、ランドマークはビーナス神殿をキャッチフレーズに栄えた町だったのでしょうか?

口こみこそ、最大の宣伝効果を知るポンペイ市民は、現代のどの企業や町・国よりも優れていたのでしょうか?!
     





1213  ラーマヤーナ物語に由来するインドの祭り



昔々、北インドのガンジス川の流れる中原にコーサラ国がありました。

コーサラの王は悪魔(スリランカに住む南インド一帯の支配者)軍との戦いで毒矢に当りますが、傷口から入ったその毒を吸って命を救ってくれた姫に対し、何でも欲しいものを叶えてあげる約束をします。
姫は、王の長男ラーマを14年間王国の外へ追放して欲しいと願いました。父である王が一度口に出して約束をしたことを破る不名誉をさせたくないと考えたラーマは、妻と弟を伴って南のジャングルへ去っていきます。しかし、魔王ラヴァーナが隙を見て妻のシタを空飛ぶ馬車に乗せて自分の宮殿に連れ去ってしまいましたが、ラーマは猿(ハヌマーン率いる)の大軍の助けを得て魔王を打ち負かし、故郷コーサラに凱旋する話がラーマヤーナです。

インドでは、古来三つの祭りを特に大切にしてきました。
先ずはホーリー祭りと言って、春の到来(2〜3月のころ)を祝う行事です。
次は、雨期の終りを祝うダシャーラ祭で、10月ごろに行ないます。ダシャーラの10日目は、ラーマ王子が魔王ラヴァーナを倒した日とされていて、魔王の張りぼて人形に火をつけて燃やし、悪に対する善の勝利を祝います。
三つ目は、ディワリ祭りと呼び、新年を迎える行事となっていて、10月の末から11月始めに行ないます。別名、光の祭りとも呼ばれ家ごとに灯りをともし、繁栄の女神ラクシュミーに祈りを捧げます。この祭りは、ラーマ王子がコーサラの都へ帰還して王位についた日とされ、暗黒の世界から光明の世界へと変ったことを祝います。

11月ごろになると、インドでは判で押したように乾季(冬)をもたらすシベリアからの乾いた風(北東モンスーン)が3月ごろまで吹きますが、逆に6月から9月にかけては、アラビア海とベンガル湾の水分をたっぷり吸った湿った雨季をもたらす夏風(南西モンスーン)が大陸に向かって吹きます。

インドの気候・風土とガンジス川中流に興った古代アーリア人の勢力が南インドへと拡大していった歴史を背景に生まれた祭りであり、ラーマヤーナ物語のようです。
     





1214  ヴァスコ・ダ・ガマのカリカット来航での土地エピソード



三大陸旅行記(アフリカ、アジア、ヨーロッパ)を書き残したイブン・バトゥータ(14世紀の人)もカリカットを中心に、季節風を利用してアラビア海を航行する三角帆の船や港の繁栄振りを記しています。

ヴァスコ・ダ・ガマは1498年5月、カリカットの沖合いに3本マストの帆船4隻でやってきましたが、ムスリム商人たちの船よりは大きめでしたが、中国船に比べると見劣りしました。王への贈り物は魅力に乏しい安物ばかりで、カリカットの商人は呆れました。
献上物の内容は、12枚の帯、緋色の頭巾4枚、帽子6つ、4連の珊瑚の玉、6個の鉢、砂糖9箱、油2樽、蜂蜜2樽でした。
来航の目的を問われたポルトガル人は、キリスト教徒と香辛料を探しにきたと答え、自分の国の偉大さを吹聴し、大量の胡椒や宝石を欲しがりました。
また、キリスト教徒であることをひけらかし、イスラム教徒を邪魔者扱いする態度で、ヒンズー教の寺院をキリスト教の教会と勘違いして喜んだそうです。

それから半世紀後には、ポルトガル人による日本への鉄砲伝来(1543)やキリスト教布教(1548)が行なわれたことを重ね合わせると、興味が湧いてきます。
     





1215  木綿の故郷はインド




象形文字(未だ解読されていない)や度量衡、下水設備に城塞を備え、遠くはメソポタミア辺りとの交易で栄えたモヘンジョダロは、インダス文明(BC2500〜BC1800)を代表する都市国家ですが、そのモヘンジョダロからも茜色の木綿の断片が見つかっています。

時代は下って、ムガール王朝第6代アウラングゼーブ皇帝(在位1658〜1707)の娘が裸姿で公式の席に現われたと思いきや、7巻き半も上等のサリーを体に巻いていたエピソードが伝わっています。
日本でも同じ頃の江戸時代、オランダ商人のもたらす南インド産の更紗やサントメ縞の綿布が京阪の娘たちにもてはやされました。
魅惑のキャラコと呼ばれた華やいだ色柄のインド産綿布を、はるばる海を越えてヨーロッパにもたらしたのはイギリス東インド会社でしたが、アウラングゼーブ時代と重なっています。

イギリス東インド会社は初め東南アジアでの香辛料取引に力を入れましたが、オランダとの競争に負けインドに力を注ぐようになり、17世紀の末にはアジアからの輸入品の2/3がインド産のキャラコが占めるようになりました。
マドラス、ボンベイ、そしてカルカッタはイギリスのインド貿易の拠点として発展しましたが、いずれもキャラコの産地に近い港町です。
やがてイギリスに興った産業革命による機械製綿布の大量生産が増え、インドからのキャラコの輸入は減っていき、1814年には両者の立場は逆転しました。

第二次世界大戦後、やっと独立したインドでは、伝統のキャラコや絹織物産業を復活させ、風土にマッチした色柄のサリーがインド女性を美しく着飾るだけに留まらず、インドのインドたる所以を世界に知らせ、インド人が誇りと自信を取り戻す役目を果たしています。







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