希望

    
1201  フィレンツェの下町に住んでみると…



サンタ・クローチェ広場では、夏になると石畳の上に砂を敷き詰め、周りを仮設スタンドで取り囲み、サッカーに似た球追い試合を行ないます。

このゲームは中世以来続けられていますが、足だけを使う紳士然としたサッカー(?)と大いに異なりルールは無いに等しく、殴り合い取っ組み合い足蹴りなど何をしてもよく、流血の惨事に及ぶ野蛮性をむしろ強調したスポーツ(?)であり、観客席からは悲鳴に似た怒号が絶えず発せられるそうです。
中世の時代は、金になるものを捜して彷徨する山賊、強盗、追い剥ぎ団が跋扈していましたが、そういう輩がフィレンツェの近くにやって来た時、町中から野獣の呻きに似た文化の香りを打ち消す集団の発する声を聞いて、町を襲撃するのを止めて別の町へと去っていった故事に倣って行なっていると、20年近く下町に住んでいる日本人ガイド女史は語りました。

広場に面して建つ壮大なサンタ・クローチェ教会の起りは、13世紀末に清貧修道団のフランシスコ修道士達がここにやってきたことによります。
貧しい人たちを救う活動の一環として、修道士が子供たちに皮のなめし技術を教えたのがフィレンツェの毛皮製品の発展に大いに寄与することになりました。
サンタ・クローチェ教会の傍には5百年前の石造りの建物があり、小学校として使われています。入り口の上にエレメンターレ(小学校)と書いてあることで僅かにそれと分るだけです。私たちがフィレンツェを訪れた2009年9月13日(日)は、3ヶ月続いた夏休みの最後に当っていて、明日からは新年度が始まるそうで、親に連れられてくる小学生は8時に1分でも遅刻すると、入り口の外の通りで校長先生が恐い顔で出てくるまで待たされるお仕置きがあるそうです。ピノキオの話はフィレンツェ郊外で生まれましたが、トスカーナ地方に育つ松の木で作った人形であり、ピノキオとは小さな松と言う意味で子供たちへの教訓話が沢山語られています。

フィレンツェで最初に住んだのは、下町にある5〜6階建てのアパートの最上階の屋根裏部屋だったそうですが、夏は最初に日が当るので朝から蒸し暑く、冬は逆に暖房が効いてくるのが最後のため寒い最悪の条件下であり、階段での上り下りだったそうです。
ある時などは、隣の建物の最上階の住人が引っ越した折、大挙してネズミの集団が彼女の部屋にやってきたそうです。

あらためて、古い建物の並列するフィレンツェでは、犬は路上に住んで人間のくれるえさを待ち、猫は屋根の上にいてネズミを餌食にしているのが分ったそうです。
     



1202  逞しい奴しか生き延びれない




南イタリアのアプリアの内陸に、美しい木という意味の小集落アルベロベッロがあります。

緯度は仙台ほどですが、夏は45度にも上がることがあり沖縄に匹敵し、冬は寒く札幌に似ていると語り、この地に嫁にきて18年、一人息子も早や14歳になり、お土産やをご主人と切り盛りしている人が陽子さんです。
家の壁は石灰岩の石を積み上げ、屋根は円錐形の形でスレート石を載せたトゥルーリと呼ぶ家が密集して建っているユネスコの世界遺産の町になっています。

彼女の説明によると、畑に転がっている石を先ずは土留めとして畑の周りに積み、更に住居の壁として使ったのが始まりで農家の人達の知恵の結集によるそうです。壁の厚みは1米半あり、夏は熱風やじりじりする暑さを遮断してくれるので室内は涼しく、逆に冬は暖かく保たれ、過って雨水に頼った生活用水は一滴として洩らすことなく尖がり帽子の屋根に降る雨は樋を伝い地下の貯水槽に溜められ炊事洗濯に使われました。
また石畳通りに降る雨も中央が少し低くなっているので自然と集まり下へと流れ大通りの地下に貯めら、町の緑化や清掃に使われました。

シクラメンもサボテンも雪の中から春になると芽を出し、ここでは逞しい奴しか生き延びれないそうです。南イタリアに起り易い地震の心配は?との質問には、'心配ご無用!'厚い石の壁が守ってくれているし、水はけが良い土地柄なのでトマトもブドウも味が濃く、人も同様に親切心に富んでいて互いに知り合いなので、物を盗まれるようなことはなく安全な町であり、ナポリと同じにしないで下さいと言って笑わせました。

すっかりアルベロベッロっ子に変身した逞しい陽子さんでしたが、陽子さんの店の屋上からはユニークなトゥルーリの屋根群が一望できますが、ナポリ同様洗濯物が幾つかの家の屋上に翻っていました。
   




1203  質実剛健のドイツ人イメージを育んだプロイセン




ベルリンを都とするプロイセンは、ドイツの東北にあり低地で湖や沼地が多い所です。

小さな漁村に過ぎなかったベルリンは、1713年にブランデンブルグ公フリードリッヒ・ウィルヘルム1世がプロイセン王として即位してから様相を変えることになりました。
兵隊王の代名詞がつくほど軍事増強に力を注ぎましたが、よく太った体型の人だったそうです。息子にも容赦することなく厳しく体罰を与えてスパルタ式に育てました。
その息子は長ずるに及んで父と同名の2世王となり、大王と讃えられるほどプロイセンを発展させました。父が息子に次のような言葉を残しています。
一つ、ヨーロッパの君主の誰も信用してはならない
二つ、軍隊を縮小しない
三つ、むやみに戦争しない

1701年のドイツ辞典には、ジャガイモに関して、観賞用か薬にしかならないと記されていて、一般にも形が醜く聖書に書かれていない悪魔の食べ物と言われていました。
一計を案じた大王は、'貴族だけがジャガイモを食べられる'という通告を出すことで、普及させることに成功した知恵者でした。人々はフリードリッヒ・ウィルヘルム2世王を'フリッツ爺さん'と親しみを込めて呼びましたが、専制的な性格の'国家第一の公僕'と自ら呼んだ啓蒙君主でした。ベルリン郊外のポツダムのサンスーシー(憂いのないという意味のフランス語)宮殿に住まいした、誰でも出入り自由で国王に会えたそうです。

19世紀には入ると、富国強兵に加えて殖産興業が盛んになり、継ぎ目なしの車輪を3個組み合わせた図柄の鉄鋼メーカー'クルップ社'の台頭は、'プロイセン軍はクルップの鉄でつくられた鉄道で戦場へ運ばれ、クルップの大砲で戦い勝利した'と言われるほどになりました。
ドイツ語を母語とするドイツ人だけによる国(小ドイツ主義)を目指す運動は19世紀半ば以降本格化し、プロイセンがリーダーとなってカイザー・ウィルヘルム1世の下、ビスマルク(政治家)―モルトケ(軍人)−クルップ社ラインが確立して行きました。
また、内燃機関をオットーが1876年に発明しますが、改良して自動車に取り付け1885年にダイムラーとベンツは自動車をつくりました。ディーゼル・エンジンは1897年にディーゼルが発明したり、ジーメンスが発電機をつくったり、空気中の窒素と水素を高圧のもとで合成したアンモニアはハーバーによる発明などあり、殖産興業化が促進しました。
日本の明治維新後の2大キャッチフレーズとなった富国強兵、殖産興業のモデルはプロイセンだったと思われるほどです。
第一次世界大戦(1914〜1918)では車が登場し、兵隊を戦場へフランスはタクシーで、イギリスは2階建てバスで、ドイツはトラックで運びました。また、死の商人の暗躍するところとなり、毒ガス、戦車、飛行機、手榴弾、潜水艦、ツェッペリン飛行船なども使用され、この戦いを境にヨーロッパの様相は一変しました。

西ベルリンのクーダム通りの交差点に残る倒壊したカイザー・ウィルヘルム1世教会(19世紀後半建造)は、広島の原爆ドームに似て第二次世界大戦(1939〜1945)の悲惨さを今に伝えています。
    




1204  スラブ人は歴史なき民族!?…



チュートン人とラテン人、そしてスラブ人がヨーロッパを構成する主要民族となっています。

チュートン人はアルプスの北のゲルマン民族の中心をなす人たちを指し、ラテン人は地中海世界でいち早く文明を開化させたラテン語を話す民族で、いづれもヨーロッパの発展に寄与した偉大な民族として、歴史の中で高く評価されてきました。一方、ヨーロッパ(ウラル山脈の西からイベリア半島まで)の半分以上を領有するスラブ人への評価となると、影が薄くなりがちです。

資本論や共産党宣言を書いたマルクスの盟友エンゲルス(2人ともドイツ人)は、スラブ人を歴史なき民族と酷評し、高度に文明の発達した資本主義社会(19世紀の西ヨーロッパ諸国)の中から共産主義革命が生まれると予測しましが、中世の封建制の色濃く残るスラブ人のロシアに革命が起きたのは歴史の皮肉でした。
第一次世界大戦(1914〜1918)終了後、ヨーロッパから二つの帝国(オーストリー・ハンガリー二重帝国とオスマン・トルコ帝国)が姿を消しましたが、その支配下から数多くのスラブ人の国が生まれました。そして、第二次世界大戦(1939〜1945)後は判で押したように、それらのスラブ人の国は共産主義国に変りました。しかしその後、
富の平等分配を夢見たヨーロッパの共産主義国は、個人あるいは会社の資本力による競争から生じる富の偏りを良しとする方向に変わりました。

歴史をロングスパンで振り返ってみれば、スラブ民族は地理的に宿命的な中間的な立地条件にあることが明白で、オリエンタル・アジア世界とヨーロッパ西欧世界の出会うところであり、通り道になっていました。古代ローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマントルコ帝国、神聖ローマ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国や東方からのタタールを始めとする遊牧騎馬民族の来襲などありました。
19世紀には、ロシアで文学・音楽方面での芸術が開花したり、地図から国が消えたポーランドでもショパンやキューリー夫人が出ました。そして、東ヨーロッパで初のノーベル文学賞をユーゴスラビア(南スラブ)のイヴォ・アンドリッチ(1892〜1975)が1961年に受賞しましたし、1979年にはノーベル平和賞がアルバニア系ユーゴスラビア人のマザーテレサに贈られました。

ボスニア生まれのイヴォ・アンドリッチは、作品'ドリナの橋'で、多民族で多言語の国に生まれ生きるカトリック教徒やセルビア正教徒、イスラム教徒が理解し合い共存することを願っていたようです。
ボスニアの片田舎ビジェグラードの町を流れるドリナ川に、16世紀にオスマントルコ帝国の大宰相となったソコロビッチ(スラブ人のキリスト教徒の家に生まれるも、幼くして童税の一人として召し出され、イスラム教に改宗してイエニチェリ軍人として才能を開花し出世)により、11のアーチからなる美しい石橋が架けられましたが、第一次世界大戦で爆破されるまでの350年間の時の流れを橋から見た作品でした。

晩年、アンドリッチは問われると、'この世のすべては橋です'と語ったそうです。
スラブ人は、ヨーロッパとアジアをつなぐ重要な橋の役目を果たしてきた、いたって影の濃い民族だったのですね!
    




1205  モスタルと地獄は2度違うだけ



クロアチアとセルビアに囲まれた海を僅かしか持たない内陸国ボスニア・ヘルツェゴビナの南にモスタル(ボスニア語であり、橋守りという意味)の町があります。

町の中をネレトヴァ川が流れ、古くからアジアとヨーロッパを繋ぐ街道が走り、キャラバン隊が立ち寄る所でした。町に住む人達の願いを聞き入れて、16世紀にオスマントルコ皇帝スレイマニにより恒久的な中央が盛り上がった美しい石橋(スターリ・モスト)ができ、橋の袂には石造りの見張り塔(橋守が住んだ)もつくられました。
当時からモスタルの町は、レコンキスタでイベリア半島を追われた商才に長けたユダヤ人やキリスト教徒、それにイスラム教に改宗したスラブ人などが寄り合って住み、親戚や家族の中にも異なった宗教を信じる人たちがいても平和に暮らしてきました。

しかし、1990年代に起きたクロアチアとボスニアの戦争はこの町を破壊し、人々の心を引き離してしまいました。町の人口も今は半分に減ってしまったそうです。
町を眼下に望む丘の上に大きな十字架が建っているのを見て、何を意味するのかとの質問に、イスラム住民を狙い撃ちにしたクロアチア軍(カトリック・キリスト教徒)の陣地だった所ですと答えたガイド女史は、当時19歳だったそうで、彼女(イスラム教一家に生まれたが、熱心な信者ではないそうです)には見たくない所のようでした。
周りを山で囲まれた低地(海抜60米)のモスタルの町の夏はとても暑く、モスタルと地獄は2度違うだけと町民は言っていると、私たちを笑いに包んでくれましたが、若くして地獄のような戦争体験をした人々の心をかけて表現しているのでは?と感じました。
戦争で壊される前のスターリ・モスト橋の真ん中から、度胸試しのネレトヴァ川への飛込みを、彼女のボーイフレンド(後に別の女性と結婚したそうですが)もしたそうです。
ユネスコの支援で元通りになったスターリ・モスト橋近くには小型の石橋がありましたが、その橋は財を成した過っての奴隷が、自分を自由の身にしてくれたこの町の人の名前を付けてプレゼントしたものだそうで、耳に心地よい話でした。

スターリ・モスト橋を渡った旧市街の中で見つけた,過ってモスクだった所に入ると観光客相手の店が何軒かあり、礼拝堂だった所にも商品が並べてありました。
庭の中央にある泉水盤(モスクだった頃は、信者たちが祈る前に身を清める為に使った)からは、今も水が湧き流れ出ていて天国の調べを奏でていましたが、時の移っていったのを気付いていないようでした。











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