希望


      
1196  イボイノシシは名ハンター?



危険や獲物を探知する為のアンテナのように、尻尾をピンと天へと向けて小走りに歩くイボイノシシを、ホテルの庭でもビクトリア・フォールズの町の中でも、そしてチョべ国立公園でも見ました。

小振りなイボイノシシは、兎を獲る為に品種改良してイギリスでつくられたビーグル犬を思い起こさせます。車や人の往来する町中の道を足早に横切っていくのを見て、一同驚いていると、ジンバブエのガイド氏は'町にショッピングにやってきたのでしょう'と軽くジョークを言い、マダム・イノシシ(?)が目指すスーパーを指差しました。チョべ国立公園では、夫婦のイボイノシシがインパーラの群れの傍を通り抜けるのを見て、ランドローバーの運転手兼ガイド氏(ボツワナ人)は'イボちゃん デリシャス!'と言って笑わせてくれました。イノシシ鍋にして食べたことでもあるのでしょうか?

チョべ川を挟んでナンビアと国境を接するチョべ国立公園はボツワナにあり、ジンバブエのビクトリアフォールズの町から日帰りサファリ(陸はランドローバー、川は平底船に乗って)に出かけました。
ボツワナの国境までの道の両側はザンベジ国立公園ですが、行き交う車もほとんどなく舗装されていない道路があったり、街灯もなく送電線も貧弱でしたが、ジンバブエからボツワナに入った途端に舗装された広い道や繁く行き交う車に立派な街灯設備、高圧電線を目にして、隣接する二つの国の経済格差を強く感じました。
ザンベジ国立公園(ジンバブエ)でマイクロバスの車窓から目にした動物と言えば、マントヒヒと雷鳥ぐらいだったのに比べてチョべ国立公園(ボツワナ)では、キリン、カバ、インパーラ、禿げワシ、象、ハイエナ、ライオン、バッファロー、ワニ、ホロホロ鳥、様々な水鳥、など多種多彩でした。

チョべとは'押す'と言う意味だそうで、川に架かる橋の上を家畜の尻を押しながら渡った住民たちが、川やその周辺をチョべと呼んだのに由来するそうです。
チョべ国立公園はチョべ川の中州(隣国ナムビアとの国境になっている)のボツワナ領を含めて川岸一帯に広がっていて、総面積は11700平方キロメートルあり、およそタテヨコ百キロの国立自然動物保護公園です。

改良型のランドローバーは、座席が階段式の3層になったオープンエアーの10人乗りで、片言の日本語を話すドライバー兼ガイド氏が他のドライバーたちと無線で交信しながら、動物の動きをキャッチして2時間川に沿った道を主に、内陸のブッシュ地帯も廻ってくれました。現地語で交信しているのですが、交信の最後にはロジャーと英語で返事していたのが印象的でした。通信を受けて理解又は了解した時に言う言葉(メッセージ レシーブド アンド アンダーストゥド)を短縮して、レシーブドのRで代表される信号呼び名・ロジャーだそうですが、アメリカの戦争映画などで聞いたのを思い出しました。

ドライバー氏は、'今日のように晴れて暖かい日は滅多に動物はランドローバーの通る道の傍には出てこない。今日はラッキーだ'と云った通り、いろんな生きものに出会えました。
先ずは象ですが、出会う前に道に落ちている塊りを象の糞だとわざわざ言ってくれたり、枯れて腐っていく大木を指し示して、象が食べた後の木が死んで行っていると言いました。
道のすぐ傍で、木の小枝を鼻で器用に折っては口に入れたり、地面に生えている草を食べている小象を含む3頭の象に出会いましたが、いずれも雌だそうで、ランドローバーを停めて見ている私たちには一顧の関心も示しませんでした。午後、船に乗って川岸近くを航行した折にも、集団で水を飲みに来ていた十数頭の象たちに会いましたが、これまた雌と小象だけで、一際大きい年長の象が群れを引張っている様子で,年増象はオス象のアタックや予期しない出来事に対処する母系大家族のリーダーになっています。遠く離れた中州では、オス象が一頭こちらを睨んでいました。
川岸から川の中に半分朽ちた体を横たえた大木を見てボートのガイド氏は、自然がつくりだすものは手を加えずそのまま放置しておくそうで、この大木は魚の棲家として役に立っていると云いました。

大きなアカシアの木のてっぺんにせっせと巣をつくっているハゲワシを見たり、中州では体毛や羽毛が貧相なアフリカンフィシユ鷲もいました。
一番多く目にしたのはスマートな体型のインパーラでしたが、群れで生きていて、傍に数頭のハイエナがうろついていましたが、インパーラは何食わぬ顔でした。
次に多く目にしたのはキリンでしが、迷彩色に身を包んでいて、自然の風景の中に溶け込んだ姿は中々見分けがつきませんでした。無線を使って情報を知らせ合うドライバーのお陰で、広い原っぱにランドローバーが7〜8台集まり、遠くで無心に高い木の枝の葉を食べているキリン建ちの姿に見とれながら、私たちも暫し休憩しました。
また、百メートル先の雑木林の木の下で憩う3頭(?)の子連れライオン一家と思しき姿を、10分あまり車を止め声も落として,まんじりともせず見続けました。動きのない遠くの木陰の中で、腰を落としているライオンの尻尾が時々揺れるのが見れた人は、憧れのスターから念願のサインを貰ったのを自慢げに友人に告げるかの如く、言い合っているのを見て、遠くのライオンを見続けているよりは、ライオンを見ている傍の人を見ているほうが楽しい一時でした。
宝石のようにキラキラ光る斑点がいくつも帯状になっているホロホロ鳥が行列を組んで、車の前を横切って草むらの中に消えていったのも印象的でした。また、ビクトリア・フォールズの町中のオープンバザールで売られていた木製の容器にホロホロ鳥が描かれていて、一際目立っていました。
1年中枯れることのないチョべ川のほとりで生活する生きものは、恵まれています。
とても憶えきれないほどの有名無名の水鳥たちの名前を聞かされましたし、茶色の体に丸い白色の輪模様のあるウォーターバック(カモシカの一種?)は枯れない水の傍でしか目に出来ないそうで、胴体に縦じまのストライプ模様のあるクドゥ(やはりカモシカの一種?)と一緒に水際で憩っていました。

チョべ川の王者は、なんと言ってもカバとワニでしょう。
カバは生まれるまで22ヶ月も母親の胎内にいて、4歳になると体重は120キログラムほどに成長し、大人になると1日40キロもの草を食べる為、夕方から陸に上がり80平方キロの縄張りを歩き回って食事するそうです。寿命は55〜60才、体毛が殆どないカバは皮膚の乾燥による油分不足を防ぐよう、昼間は水の中や草むらで静かに体を横たえています。また、体に付いている虫を水鳥に食べさせる代わりに、危険を水鳥はカバに知らせるという共生をしています。カバが食べた後の中州の草むらは、日曜日にイヤイヤ芝刈りをしたかのよに斑に食い散らかされていました。

一方、ワニは発情期は何も口にせず、痩せる思いでひたすら恋人の尻を追い回すそうですが、そうでない時は歯のない宿命からか、大物の獲物を丸呑みに近い状態でお腹に入れると、水中でのた打ち回って消化を助けたり、微動だにせず草むらで過ごします。

水攻めで高松城を孤立させ食糧難に陥れた秀吉もいれば、日照りで水が枯渇し食料不足になる人間と同様、水の如何が生活に直結している生きものの世界を、チョべ川国立公園で見ました。ポーチャー(密猟者)から狙われ易い生き物たちを、チョべ(後ろから押す)国立公園で働くレンジャーは守る大切な役目を果たしているそうです。

生きもので一番恐ろしいのが人だそうです。
       



1197  スイスの夜はスネガ展望台レストランで


岩山を刳り貫いてつくったトンネルをケーブル・カーは、たった5分で麓のツェルマット(1616米)からスネガ展望台(2293米)まで一気に駆け上りました。

7月半ばの旅行シーズン真っ只中と言うのに、夕方6時を少し回ったケーブル・カーの中は私達11人だけでしたし、スネガ・パラダイス レストランの展望台でもレストランの中も客は私建だけでした。マッターホルンを含む山々と演奏者達を1人占め(11人占め?)して、ヴァリス郷土料理に舌鼓打って2時間余りを過ごしました。

まずは、木造作りの広い展望台バルコニーで食前酒とおつまみを頂きながら、アルプ・ホルンの演奏を聴きましたが、バックには周りの山々を付き従えたように見えるマッターホルン峰(王?)がありました。演奏の合間に中年男性の演奏者に質問してみました。
ホルンはフィフィテンという地元でとれる、少し湾曲した大木でつくり、湿気を防ぐ為に周りを竹で巻いてあるそうです。演奏は,舌の微妙な動きと横隔膜を上下しての空気のバランスで、強弱,高低を出します。他の吹奏楽器のように指を使って孔の開閉で音を出すのではなくて、常に二つの手は口元近くのホルンの筒に触れていただけでした。
彼はツェルマットで生まれ、ホルンを自分で作る演奏歴も23年のベテランで、聞かれたことにだけ訥々と答える物静かなタイプの人でした。

席をレストランに移しての夕食は、8時半まで続きました。
牛の腰部の肉をハーブやスパイスと混ぜたマリネ液に漬けた後、じっくりと時間をかけて空気乾燥させ水分を抜いていく天然乾燥法で、肉の旨味を自然発酵で引き出してつくった高級嗜好品を前菜に、そしてラクレ(削ぎ落とすという意味)から名が付いた直径40センチの円形のラクレットチーズは火に焙ると溶け易い性質があるのを利用して、チーズを半分に切り、切り口近くにロウソクの火を置くと、柔らかく溶け出した部分からナイフで削ぎ落として皿に入れ、茹でたジャガイモや酢づけのキュウリと一緒に頂く料理でした。
食事中ずーとバックミュージックをホルン奏者と替わりばんこで奏でてくれたのが、4人のアコーデオン弾きと1人のコントラバス奏者でした。
この5人の男性も40代半ばを中心に、30代、60代に見える無口のスイス人達でした。
驚いたことに、各アコーデオン奏者は演奏の度にアコーデオンを取り替えていました。替えのアコーデオンを1〜2つほど大きな楽器入れの中に用意していました。おそらく曲目によりメロディやベース演奏などの担当が替わることによるのでしょうか?
彼らは一言も私達に話しかけることなく、仲間同士で次の演奏曲を小声で打ち合わせ、民謡を奏で続けていました。ホルン奏者が演奏している時は、夕食を楽しげにワインを飲みながらしていました。
そして、いよいよ私達が席を立ってケーブルカーへ向かう間際まで演奏した後は、早々に楽器を仕舞い、追いかけるようにケーブルカーに乗ってきました。
私達だけの貸切りとなったケーブルカーの中では、初めて実声入り(ヨーデル)の演奏の始まりとなりました。私達一同も和して手拍子を叩き楽しく下って行きましたが、麓駅に着いても演奏は続けられました。
何とも愉快な心温まる交流を言葉を交わすことなく音楽を通じて行い、ようやく笑顔と握手でお別れしました。

映画'タイタニック'で沈み行く船の甲板で、乗船客の不安を柔かげようといつまでも演奏していたシーンがダブって思い出され、この5人の奏者も山上のパラダイス(スネガ展望台)から谷津のパラダイス(盆地にあるツェルマット)へと向かう暗い不安なトンネルの中を明るくしてくれました。
    



1198  ア行とハ行



峠道から見える山々や谷、小さな集落や湖が好きだとスイスを語った人が、犬飼道子さん(私のスイスという本の中で)でした。

そんな峠道を通っての時間のかかるアルプス越えに代わって、今はトンネルの中を走ってあっという間に目指す反対側に出られる時間短縮ルートが主流の時代になっています。
雪の溶ける夏の限定期間だけ、インターラーケン(海抜564米)とアンデルマット(1436米)の間を結ぶグリムゼル峠道(頂上は2165米)とフルカ峠道(頂上2431米)はオープンしています。殆どトンネルはなく、鉄道もなく馬車を使って行き来していた頃を感じさせてくれるレトロなルート道を、7月初めの土曜日何年か振りにバスで通りました。

リッチな中年のオジサン族がツール・ド・フランス(自転車のフランス1周レース)に出場する選手のような出で立ちでペダルを漕いでいたり、BMWやハーレイ・アンド・ダヴィドソン、そして人気の高い日本製のモーターバイクに跨り、颯爽と頭のてっぺんから爪先に至るまで流行のヘルメットに革ジャン、皮ズボンに靴に身を包んだ、これまた中年のオジサン族が中には後部座席にマダムを乗せて対向車線を走り去ったり、私たちのバスを追い越したりしていきました。

休憩のため下車したグリムゼル峠の頂上は、風が吹きぬけていて夏服では肌寒く鳥肌が立つほどでしたが、バスのドライバーを始め周囲のヨーロッパ人は半袖でビクともしない様子です。眼下の谷や遠くに見える雪を被ったアルプスを愛でようと駐車場の端に行くと、目の直ぐ下にコバルトブルーの湖があり、氷の塊りが浮いていたり湖畔の所々には残雪が残っていて、アルペンの野花が土手に咲いていました。
その景色を目にした途端、何人かの中年日本人女性客は息同音に'ア行だわねー'と言われました。聞き返すと、次のような答えが返ってきました。
ア行(アイウエオ)は純粋に驚いて感動した時に口をついて思わず出る言葉で、その対になるのがハ行(ハヒフヘホ)で、ちょっとがっかりした際に発するのだそうです。
日本の中年オバサン族も、ヨーロッパのオジサン族(交通事故を起こす社会問題になりつつあるという)に負けず新語開発分野で頑張っておられ、勉強させていただく機会となりました。

九十九折になったグリムゼル峠道を谷底まで下ると、駅近くで蒸気機関車が濛々と煙を吐いて停まっていて、その姿を写真に収めようと走らないはずのヨーロッパ人たちが我も我もと駆けているではありませんか!
百年前にエンガディン地方のサン・モリッツとヴァリス地方のツェルマットを結ぶ氷河特急(グレッチャー・エキスプレス)が出来た折、スイスの貯水槽でありアーレ川やライン川、ローヌ川の源泉であるローヌ氷河が見渡せる谷の奥まで支線の線路を伸ばし、優雅な旅行時代の演出をしていたそうですが、最近は氷河の後退もあり休線となっています。
若しかしたら、復活する計画があるのかも知れません。百年前にホテルとして建てた石造りの建物も残っていますが、問題は氷河が著しく後退してしまい過っての勇壮は臨むべくもないことです。
谷底からもう一度グリムゼル峠の反対側の山塊につくられたフルカ峠道にバスは喰らいつき、ゆっくりと登って行きますが、線路も平行して走っています。過っては、張り出したローヌ氷河が真横に眺められたと思われる休憩所は、無風でポカポカ陽気で、溶けた氷が岩間を流れていて、自然の音響を奏でていました。
また、ポストバスと大きく胴体に書いた黄色のコミューン(村々が集まってつくる組織)の経営するバスが駐車場に停まっていました。その昔は、きっとポスト(郵便)馬車だったことでしょう。フルカ峠の頂上ではバスを停めず、アルペンの花が咲き競う草むらで草を食む牛や羊に目を遣りながら、ガードレールもあまりない曲がりくねった片側が谷になっている道を、大型バスやトラックでも対向車線からやってくるとハラハラしながら見守るといった状態でしたが、無事に昼時にはザンクト・ゴタール山塊の山間の町アンデルマットに着きました。

ハ行が一つもない、ア行だらけの夏だけ限定の峠道(PASSといいます)でした。
    




 

1199  スイス人はどうして白チョコレートが好きなの?



ベルニナ・オーバーランド(ベルン高地地帯)の名峰三山の一つアイガーの北壁の麓を、7月の夕方6時頃ハイキングして下ってくると、乳の張った乳牛たちが群れて草を食んでいる風景に出会いました。

牛に混じって丸々太った毛のないピンク色の2頭の豚もいます。
決して平らな草原でなく傾斜が結構あり大小の岩や石も見えていて、所々では水も流れていました。豚と牛の草をめぐる縄張り争いがあるのでしょうか?1頭の牛が2頭の豚を群れの外へ追い払うような仕草をしていましたが、牛マダムに見劣りしない体格の豚嬢たちが駄々をこねている様子に、思わず笑ってしまいました。

暫し水や飴、昆布などを食べて休憩してから、5分も下った頃でしょうか?
先ほどの牛マダムたちや豚嬢に加え、丘の上からも牝牛の一団が、牛舎目指して跳ぶが如く軽やかに駆けて行きました。さっきまで動作がノロノロしていたのに、見違えるように地面のデコボコを全く気にすることもなく、夕方の乳搾りの順番を早くして貰おうと急いでいるのだとのガイド嬢の説明でした。
人間世界では、高速トラック競技場で10秒を切れるかどうかを競っている百米走ですが、ここで彼らアスリートたちが走れば、牛マダムたちに遅れをとるのではないでしょうか。

野には食料の草花が咲き乱れ、景色は最高、不意を襲う天敵はおらず、牧童や牧犬に守られて夏の数ヶ月間をアルプスの麓で過ごす全くストレスのない乳牛たちが、喜んで搾り出すミルクはさぞ美味しいことでしょう。また、チーズやバターなどの乳製品やその他の食品に入れられて売られています。

1年に国民一人あたり14キロものチョコレートを消費するのがスイス人だそうです。
中でも白チョコレートを好むと聞いているが、本当か?直接スイス人に会って確かめてほしいと友人に頼まれていました。何人かのスイス人に質問しました。
様々な答えが返ってきました。
ダークチョコかホワイトチョコが好きかは人によって違うとか、味がライトで甘味が多いのは白チョコで、ダークあるいはブラックチョコはヘビーだがお腹には良い、また、白チョコは原料となるカカオの色のない部分を使ってつくるから特別だとする説も聞きました。
スイスで生まれたのがミルク(白)チョコだから好まれるのでは?などありました。

15年ぐらい前、ヨーロッパの菓子やパン事情視察ツアーでやって来た時、スイスでは手作りの生チョコを作っている小さな工房を見学したことがあります。印象に残っているのは、作ったその日に売れ残ったチョコは処分して破棄すると言い、新鮮さを大切にしていました。
自由に野原を歩き回り、腹いっぱい草を食べ、迷子になったら首から下げたカウベルの音を聞きつけて、レスキュー隊(牧童や犬)が見つけてくれる環境で暮らす乳牛の出すミルクをたっぷり入れてつくる白チョコレートであればこそ、嬉々として搾乳所へ駆けて行く姿を見た私は、疑問が解けた思いでした。

ついでにスイス記念土産に買って帰るとすれば、何を勧めるか?とスイス人たちに聞いてみたところ、殆どがカウベルとの答えでした。
本物の巨大なカウベルから、ネズミや猫の首につけても可愛く似合うと思えるものまで品揃えがありました。
      




1200  フィディアスのゼウス神像がキリスト像の原型!?



古代ギリシャ世界で、最高の芸術家・彫刻家といわれるフィディアス(紀元前5世紀の人)の作品は現存していません。

フィディアスの作とされるアテネのパルテノン神殿のアテナイ女神立像やオリンピアのゼウス神殿のゼウス神坐像(古代世界の7不思議のひとつ)について、古来様々な記録が残されています。いづれも巨大な木の骨組みに厚坂を張ってつくり、象牙と金を被せた黄金象牙像と呼ばれるもので、肌には象牙を、衣装には黄金をふんだんに使ってありました。

地中海世界では、人々の生活に甚大な影響を与える地震や雷がしばしば発生しましたが、ギリシャ世界の最高神ゼウスはこれらの天変地変を統べる役割を持っていると考えられ、恐れ敬われました。
4年に1度、ギリシャ中から都市国家の代表アスリートたちがオリンピア(ペロポネソスにあるゼウス神を祀る神域)に集い、運動競技を紀元前8世紀から紀元後4世紀の末まで行なったのが古代オリンピックですが、多分に都市国家間のプライドを賭けた模擬戦争に似たものだったことでしょう。
ゼウス神を讃えて賛美する祭典でしたから、その中心となるゼウス神殿は重要であり、紀元前430年代から入念な準備の下につくられたのがゼウス神殿とゼウス神坐像で、フィディアスをリーダーとする仲間の芸術家たちによる秀作でした。
キリスト教時代(4世紀以降)になって教会として再利用されたことで、幸運にも破壊を免れたゼウス神坐像を制作した工房は今もオリンピアの地に建って残っていて、神殿と寸分違わない大きさや太陽の通過角度まで同じに設計してあったことが分っています。神殿や神像坐像に賭ける並々ならぬ思いが感じられます。

テオドシウス皇帝(4世紀末から5世紀前半)はキリスト教だけを国教として認め、他の異教の神殿や神像を壊したり、オリンピックも中止させました。
コンスタンチヌス皇帝(4世紀前半)が第二のローマとしてつくった新しい都・コンスタンチノープルを美化する為に、古典世界のもの(異教時代の芸術品)を使い町を飾ることは当初から行われていて、金の衣装は剥ぎ取られたもののフィディアスのゼウス神像坐像は、ラウススという骨董品蒐集家であったテオドシウス帝の侍従により、コンスタンチノープルに持ってこられました。ラウススは自宅を博物館として使い蒐集した作品を並べましたが、テーマはキリストの愛が俗事や地上の愛に優っていることでした。
薄暗い回廊の奥まった所にキリスト教の神、つまりゼウス神像坐像が安置されていたといいます。
やがて、この自宅兼博物館も5世紀末には,地震か火災で灰にきしたそうです。
フィディアスの前髪を真ん中で分け髭をもったゼウス像は、終始一貫して異教時代は勿論、キリスト教時代になってからも畏敬の念を持たれました。

8世紀初めのダマスカスのヨアンネスは、'絵画に描かれるキリストは、顔が隠れないように髪を分けていて、ギリシャ人がゼウス神を描く時にそうしていたからである'と述べています。東方キリスト教会では、キリスト・全能の支配者(パント・クラトール)として天蓋に、前髪を真ん中で分けた髭の人として描かれてきました。

それは丁度オリンピアにあって、天井近くの暗闇にゼウス神像の顔かたちが、神殿の前にある池に反射する光を通して仰ぎ見れた感動と同様の効果を与えたように…。









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