希望


   

1176  Molto bene と Morto bene は大違い



約束した時間よりも1時間近く遅れて着いた私たちを、要塞(カステル)の麓でマテーラの中年のイタリア人女性ガイド女史は待ってくれていました。

1時間の見学コースでお願いしますと頼むと、ツボを心得た手馴れた様子で,50年前まで9人の子供と両親、それに馬や鶏が洞窟で生活していた様子が見れる所も案内してくれ、ほぼ1時間後にはバスを下車したカステルに連れ帰ってくれました。
案内の終り近く、大通りで出会った知り合いの女性に、'フィニート ラボラーレ'と声をかけ、'やっと仕事が終わった'と声を弾ませていました。ラボラーレとは、仕事の他に女性の妊娠の生みの苦しみを意味も含んでいるので、早く家族の元に帰りたいのだろうと察し(洞窟住居群のことをサッシという)した次第です。

カプリ島を日本語で案内してくれた、20代の小柄なナポリ生まれのイタリア人女性ガイド嬢は、仕事を終えナポリ港へと向かう船の中で、日本語の難しさや理想の男性像について,ひとくさり楽しい話をしてくれました。
大学で習った日本語でしたが、時たましか使わなくなった今は錆び付いてしまい、ニンニク、筋肉、人肉、人参などの似た発音の言葉がごちゃごちゃになってしまったり、ナポリの町中にある水族館を海賊館と紹介してしまったそうです。
しかし、あくまでも強気で頑張りやの彼女は、日本人の話すイタリア語にもドキッとするような返事を耳にするので自分の犯す間違いは、あまり頓着していない様子でした。

元気にしている?大丈夫?とイタリア人に聞かれて、多くの日本人は'はい 元気です。'(Molto Bene モルト ベーネ)と応えているつもりが、'死んでよかった'(Morto Bene モルト ベーネ)と言っていて、LとRの発音を間違えているそうです。
ボーイフレンド論では、
一に、私だけを愛してくれること
二に、尊敬できる人
三に、人生を楽しむ人
と言い、一緒に住んでいるボーイフレンドは、それに該当している様子でした。
今夜は、買ってあるマグロをオリーブ油で炒めて、レモンをかけて食べると声を弾ませました。(なるほど、昼食ではサラダだけしか食べなかった訳が分りました)
北イタリアでは、オリーブ油ではなくバターで炒める人が多いそうです。マグロは姿見か?とからかうと、切り身で買ったと答え、ボーイフレンドもガイドの仕事をしていて、日曜日と月曜日は彼は仕事が入っているが、自分は入っていないので寂しいと言い、仕事大好き人間(?)も南イタリアにいることを証してくれました。
     



1177  出来過ぎは怖い!?



5月半ばのスイスでは、6月に入ってから始まる夏シーズンの登山やハイキングに備えて、道路工事や店の改装などが盛んに行なわれています。

登山鉄道やケーブルカーも未だ冬のスケジュールで運行していて、本数も少なく、始発最終の時間も遅く始まり早く終了するようになっていました。野草はと言えば、1200米〜1300米ぐらいまでは花が咲いていますが、それより高いところは未だといった状態です。
そんな中、スイスの山尽くしツアー(ツェルマット2泊、グリンデルワルド2泊する)8日間に行きました。
日本文化の特長は、繊細な、あるいはぼかしたところにあり、あまりにも明け透けに丸見え丸出しのものには感動を示さず、むしろ軽い嫌悪感を表すノーブルなデリケートさにあると思っていました。
ところが、最初に登ったエギュ・デュ・ミディ展望台(富士山より高い3842米)では、フランスとイタリアの国境に跨る4807米のモンブラン峰が目の前に、グランジョラスや遠くモント・ローザやマッターホルン(スイスのヴァリス山塊にある)までくっきりと見えていて、感嘆の声が上がっていました。
次は、スイス中央アルプス群の一つヴァリス山塊を愛でる為にツェルマットへと移動し、ゴルナグラート鉄道(オープンエアーのアプト式登山鉄道としては、ヨーロッパで一番高い3100米へ導いてくれる)に乗り頂上駅に行きました。麓のツェルマットからも朝から晩まで雲一つ足元にも頂上にもかかることのない珍しいマッターホルンが見えていましたが、何もかも丸見えで周辺の10指にあまる4千米を越す山々も揃い組みで勇壮を見せていました。

金髪でブルーの目、セクシーなモンロー・ウォーク,顎の上には小さなほくろがチャーミングだったマリリン・モンローですが、彼女の永遠の人気の秘密は愛らしさを演出した緻密な計算があったそうです。
先ずは、髪を金髪に染め、腰を振って歩くモンロー・ウォークはヒールの高さを左右少し違えてあるせいで生まれ、ほくろも態々付け足したそうです。完璧な美は逆に冷たさを感じさせ、やがて人を飽きさせると考えたのでしょうか?
イスラム世界では、ワザと建築などにおいて計算違いを表に出し、神の嫉妬を買わないように演出して造るとも聞いています。スペインのアルハンブラ宮殿の中に見られます。

さて、あまりにもパーフェクトな天気に恵まれ大はしゃぎしていては、若しかしたら天の嫉妬を買い人間の力でそうなったのではないという懲らしめを受けるのでは?と少々思い始めていた瞬間でした。ゴルナグラート頂上の展望台に向かう上り坂で、アイスバーンに足を取られ滑って転んでしまい、左足の登山靴の底の皮一枚(5ミリ)ペロンと剥がれてしまい、いみじくもモンロー・ウォークを披露することとなり、皆さんの笑いを頂戴しました。胸、腰、尻周りが1米もあるセクシーなスタイルの私ですから、醜(しこ)って見せることで神様にご機嫌を直してもらい、その後も晴天の続く中グリンデルワルドで、野花を咬んでいた牛や羊、シカとも近づきになれ、お花畑をハイキングできた最高の夏シーズン前のスイスの旅でした。
      



1178  ベニスは水上にあるが、ベルンはワイン上にある



ザンクト・ゴタール山塊から流れ出す水はローヌ川やライン川を生み、またベルンの町を湾曲して谷底を流れるアーレ川となりました。

中世の時代は森に覆われた狩猟の場であった所が町となり、町の名前も森で最初に出遭った動物の熊が付けられました。15世紀初めの火災後は、黄緑色の砂岩を使って都市計画による町づくりが行なわれた結果、中世の町並みが今に残る美しいベルンの旧市街となりました。建物も石畳の道もアーレ川へと少しずつ傾斜していて、水や雪に備えたつくりになっています。オーストリアのザルツブルグでも、新潟県の小千谷でも同様に積雪や水を川へ掃き流す工夫がしてありました。また、人が歩く所は車道よりは高く建物の一部として設計され、天井付きで濡れることなく、いかなる天候でも機能するようになっています。
メイン通り49番地こそ,過ってアインシュタイン博士が1902年から1909年まで住んでいたアパートであり、26歳で1905年に発表した4つの論文が宇宙創造理論に新しい光を当てることになりました。彼の住んだ部屋は小さな博物館として公開されていて、思索に耽った書き机が残されていましたが、椅子のない立ち机であり、文豪ゲーテと同じだったことが分りました。

昼食は、近くのコーン・マーケット広場に面したコーン・マーケットケラーで摂りました。
黄緑砂岩でできた18世紀初めの建造物ですが、ベルン・バロック期の傑作とされていて、近くには名物の時計塔や子食い男鬼噴水もあります。仏教説話には鬼子母神の子食を止めさせてザクロを食べさせた仏陀の知恵が語られていますが、こちらの子食い男鬼はどのようにして救われたのでしょうか?
さて、コーン・マーケットの建物は過って農民から税金を物納させた際、2〜4階に穀物を収納し、地下室に物納のワインを貯蔵したそうです。そして当時の諺に、'ベニスは水上にあるが、ベルンはワイン上にある'と詠われたそうです。
この地下ワイン貯蔵庫だった巨大なスペースが今はレストランになっていて、最高に美味しい食事とワインをリーズナブルな値段で戴け、雰囲気もエレガントで、テーブルにはローソクが灯されていて、夜などは女性は'もろ肌脱いで'(イブニング・ドレスを着て)お越しになるのでは?と思われるほどでした。
      



1179  ニュールンベルクとバンベルク



いづれの町もバイエルン州にあり、丘と川のほとりに発展し15〜16世紀に黄金期を迎えた歴史を持ち、車で行くと小一時間離れているだけです。

しかし第二次世界大戦では、ニュールンベルクは連合軍の攻撃の標的とされ、徹底した破壊を蒙り町の9割が灰と化しましたが、一方バンベルクは無傷のまま残りました。
戦前のニュールンベルクは、木の梁と土壁で出来たブルガーハウスが立ち並ぶドイツで最も美しい中世の町と讃えられ、画家のアルブレヒト・デューラー(16世紀前半に活躍)やヒハルト・ワグナーのニュールンベルクのマイスター・ジンガーの歌劇を生みました。
ドイツ人による第3帝国の誕生(民衆の言葉であるドイツ語を母国語とする第1帝国は962年のザクセン王・オットー2世が神聖ローマ帝国皇帝に即位して始まり、第2帝国は1871年プロイセン王・ウィルヘルム1世がドイツ皇帝になったことで始まったとする考え)を夢見たヒトラーは1933年に首相になって以降、毎年9月にナチス党の党大会をニュールンベルクで行いました。民衆を酔わす劇的効果を創り出す地として選んだのでしょうか?
聖書では、人の罪を一身に背負って野に放たれる羊のことをスケープ・ゴートとしていますが、ニュールンベルクはスケープ・ゴートの如く目の敵にされ、戦後も戦争犯罪人を裁く裁判が開かれました。
北の丘に登り、カイザーブルグ城塞の展望台から見える旧市街は大半が中世の町並みを取り戻していて、美しい調和のとれた景色を見せていました。二つの丘に囲まれ、緩やかに傾斜しながら石畳の道が中央を東西に流れるレグニッツ川へと下っていき、両岸に分かれて住む人々が川の上に架かる石橋で出会うような造りになっていて、川に突き出すように過っての救済院(病院)が今はレストランや薬局などになって機能していて、近くには広場や教会が多くありました。ドイツ人の逞しい七転八起魂(?)を強く感じました。

翌朝訪れたバンベルクは、10世紀の人・バーンベルク公に名の由来があるそうで、王にして聖人となったハインリッヒ2世の座所として発展した信仰の町です。
丘の上の大聖堂広場(ドム・プラッツ)には、ロマネスクとゴチック建築の交じり合った巨大な大聖堂や木組みの旧宮殿、そして石造りの新宮殿があり、新宮殿のバルコニー(薔薇園)から眼下にブルガー(市民)の生活空間である町並みが望めました。
大聖堂では、6月1日は精霊降臨の日であり、ミサを行っていて中に入ることはできず、有名なバンベルグの騎士像を見るのは適いませんでした。
レグニッツ川の中州には外壁に絵が描かれた旧市庁舎があり、ブルガーたちの自治の心意気を見せていました。通りの石畳に面したレストランではテーブルや椅子を並べ始め出す午前10時半頃でしたが、名物の燻製ビールを頼み一気に飲み干しました。何となくそんな香りが口元に残りました。
丘の上に王家と司教座教会などの権力者たちの空間があり、丘の麓にブルガーたち一般市民の住宅が連なるつくりになっている町づくりになったいることも分りました。
     




1180  歴史の生き証人に会うと…



東独時代からガイドをしているベルリンのドイツ人女性は、フンボルト大学日本語科を卒業して後、選ばれて東京にやってきて日本語に磨きをかけた才女でした。

60歳前後にみえる元美人が、シュプレー川の傍にある東ベルリン郊外のホテルに朝やってきて、ベルリン・ポツダムの町観光が始まりました。バイエルン州のバンベルク近くに住むベルリンに不慣れなドライバー氏に道を指示しつつ、ベルリンの町を案内する技は際立っていました。様々な薀蓄に富んだ話をしてくれましたが、印象に残った幾つかを思い出しながら書いてみます。

過って西ベルリンをぐるりと取り囲んでいたベルリンの壁(1961年にできる)は全長百キロ以上あったが、今は僅かにイースト・ウオール ギャラリーに残っていて、強制収容所と並んで戦争の悲惨の象徴となっています。

ブランデンブルグ門は、ベルリンに出入りする為の18あった門の一つで、傍のパリ広場の周りに建つアメリカ大使館や英国大使館をはじめとする銀行や保険会社などは全て最近になって建てられたもので、借地代はベルリンで一番高い。それに引き換え、日本大使館は昔からあった場所(ティアガーデンの一角)にあり、広島通りを挟んでイタリア大使館と隣あっている。

チェックポイント・チャーリー(東ベルリン見学のため使った検問所)は、数多くあった検問所の一つであり、検問所はアルファベットの番号で呼ばれていたので、アメリカ担当のC検問所のことであった。あなたも当時は笑顔なしで日帰り日本人観光客をC検問所で迎え、東ベルリンを案内していたでしょう?と水を向けると、その通りと答え、今との違いを笑い飛ばしてくれました。

ドイツ皇帝ウィルヘルム1世を支え、鉄血宰相と讃えられたビスマルクは、若き頃パリで大使館勤務をしていました。印象深かったシャンゼリゼ通りに似せたクーフル・ステンダム(クーダム)通りを1871年にベルリンにつくりました。通りの中央辺りには、カイザー・ウィルヘルム1世教会を建てましたが、第2次大戦では戦災で屋根や壁が崩れ落ちました。丁度広島の原爆ドームのような戦争の苦い思い出を風化させない役目を得て、当時の崩れたままの姿で保存されたいます。
クーダム通りの一角には20世紀初頭にできたKeDeVe(ベルリンの西にある百貨店という言葉の頭文字)の百貨店があり、ロンドンの有名なハロッズ百貨店を意識してつくられました。ハロッズ同様(2階だった思う)、6階にはヨーロッパ中の味覚が味わえる食品部がありますし、クーダム通りに面した1階のショーウインドーでは味わいのある展示が行なわれていました。訪れた2009年6月初めは、中世から近代、20世紀初め、1960年代、1980年代にに至る女性ファッションの移り変わりを素材やスタイルの説明を加えて展示していました。道行く人の目をそれとなく引きつける知的な手法に思わず見惚れてしまいました。

午後から行ったベルリンの南西の森と湖の中にあるポツダムの町は戦災を免れたそうで、1945年6月から7月にかけて数週間行なわれたポツダム会談(英・米・ソによる)が開かれました。ベルリン市内が焦土と化したことによるものでした。
会談はウィルヘルム皇太子(第1次世界大戦の後、オランダへ亡命したカイザー・ウィルヘルム2世の息子)が3月まで家族と共に住んでいたツェツィーリエン・ホフ宮殿(ロシアのロマノフ王家の血筋を引く皇太子妃の名前がつけられた)で行なわれました。
最初は、米国はルーズベルト大統領でしたが病死したためトルーマン副大統領が昇格し、英国も会談中に総選挙がありチャーチル首相(保守党)からアトレー首相(労働党)へと変わり、スターリンだけが変らず出席し続けました。戦後処理に関する話し合いでしたが、ポツダム宣言としてまとめられ、日本に対する降伏条件も含まれていました。
宮殿と言うよりは寧ろイギリスの田舎風邸宅と言った方が相応しい建物で、木組みの梁が表にデザインとしてでていて白い土壁で塗られています。皇太子のイギリス好みが反映した建物で、ヒトラーとも折り合いも良くなかったそうです。宮殿の前には美しい湖が見えていましたが、ベルリンの壁が存在した時(1961〜1989)には湖の真ん中に壁が造られ、湖の向こう岸(西ベルリン)は見えませんでした。何故近くのサンスーシー(憂いのない)宮殿を使って会談をしなかったのか?との私の質問には、ドイツ国民の誇りフリードリッヒ大王(在位1740〜1786)の離宮を使うことは、ドイツ人の感情を傷つけることになり、憂いを生み後世に災いを残しかねないことに対する配慮によるのでは…との返事でした。
また、ポツダムの閑静な住宅の幾つかは、2005年まではロシアの元KGBが使っていたそうで、出て行ったあと未だ修理している家も見えていて、今ではベルリンよりもポツダムの方が高級住宅地になっています。

クーダム通りで彼女と別れ、私達はティアガーデン近くのレストランで夕食を済ませて、バスに乗りホテルへと向かいました。クーダム通り近くでトンネルに入り5分後に地上に出ると、そこは過ってヒトラーが地下に指令本部として使い自殺した所で、長い間原っぱで捨て置かれていましたが、今はガラスとアルミニュームを使ったダイムラー・シティやソニーセンターなどの高層ビルが建つ東ベルリンでした。

ベルリンの壁の下に地下道を掘って西ベルリンに脱出を試みた時代は、遠い昔話になりつつある実感がしました。












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