希望

     
1166  ヨーロッパ救急医療ヤブ睨み



2008年10月から2009年2月にかけて、何度かヨーロッパに旅した間に起きた緊急医療との出会いを記してみましょう。

日本からミラノへと向かう飛行機の中で、ブリッジで繋いであった5〜6本の下顎のさし歯が取れてしまった中年の女性は、大慌てでトイレに行き無理やりに元の場所に入れ込もうとしたそうです。しかし、操作が荒っぽかったのでしょう。歯茎から血が出てきて痛くて、とてもさし歯をすることはできませんでした。そのことを郊外にあるミラノのホテルにチェック・インした後、添乗員の私に話されたのは夜9時近い頃でした。
ホテルのレセプションに相談すると、町の中に緊急病院があり歯の治療もやっていることを調べてくれました。タクシーで出かけますと、幾つかの一般道路に跨って幾つもの病棟に分かれた大病院でした。尋ね回りながら、やっと歯専門の棟に辿り着き、中に入ると先客が2〜3人いて、診察券を自動販売機から買うよう教えてくれました。確か23ユーロ前後だったと思います。待合室には病院関係者は誰もおらず、暫く待っているとドアが開き、中から治療を終えた患者が出てきました。患者の後ろから怖い顔をした中年女性の事務員も連なって出てきて、次の患者を奥の部屋へ招き入れました。
私たちの順番は、1時間後にやっと回ってきて中へと招き入れられました。そこには痩せて神経質そうな60代に見える医者が独りいて、イタリア語で話しかけてきました。
英語で事情を話したのですが、全く英語は解しないと顔を背けます。
背中が壁に押し付けられた状況の絶体絶命の中、中年の日本女性はすかさずさし歯をポケットから取り出し、口を大きく開いて指差しました。やっとシンプルな治療椅子に座らされ、なんと素手(手袋をせず)でエイヤーと、前以て歯茎を洗浄もせずさし歯を押し込みました。具合はどうだ?と聞かれた奥様は、1度でOKを出しました。
パスポートを見せて、事務員が記録を取っただけで、痛み止めの薬の処方箋を無理に書いて貰いホテルに帰りましたが、差し歯はその後はめたままで、10日間外して洗浄することもせず、痛みも無く無事日本へ帰られました。

別のツアーで再びミラノへ行った折には、中央駅近くのレストランで夕食を終えて外へ出た直後、何故か小走りに駆けた30代の日本女性が石畳に躓き、よろけて傍にあった鉄の柵に顔を強く打ちつけた為、救急車を呼び10分ほど離れた救急病院に行きました。目の周りが次第に腫れあがり変色していきましたが、一応の検査の結果では異常は見つかりません。
当夜は病院に泊っていくように勧められましたが、翌朝には日本に向けて帰る予定であり、そのようにしたいというたっての本人の希望を通しました。
病院(医者)としての診察結果を文章(イタリア語)でコンピューターに打ち込み、コピーを渡してくれました。診察料はタダで、ただパスポートを見て彼女の名前などを記載したのみでした。翌朝、車椅子に乗り目の周りを包帯で巻いた彼女を連れ、ミラノ空港で医師の診断書を日本航空に提出すると、病院に一泊して更に精密検査を受けるように勧めたにも関わらず、帰りたいとの本人の希望なので帰すが一切責任はとらないと書いてあるとの事でした。救急病院(救急車も含めて)でかかる経費は一切患者には負担が掛らないので、たって患者が帰りたいと言うのであれば、止めようとは思わないと昨夜医者が言っていたのを思い出しました。日本航空の英断で、無事帰国することができました。

スイスのバーゼルでは、38度を越える熱を出し風邪を引いた大学生2人を、昼前に大学病院にタクシーで連れて行きました。着くと、丁度1時間の昼休みが始まったばかりで、仕方なくセルフサービスの食堂で待ちました。受付に1時少し前に行くと、ベテランの受付の女性はパスポートを見ながらコンピューターに打ち込みを済ませ、どういった状態なのかを聞くと、広い廊下の一角に並べてある椅子に座って待つように指示しました。1時間待って、やっと名前が呼ばれ、カーテンで仕切られた小部屋に案内されました。20代前半の未だ幼さが表情や仕草に残る研修生の女性は、問診の後、口、耳、鼻の順で入念に器具を使い検査をしました。そして暫く待たされた後、中年の女医がやってきて、もう一度同じ検査を素早く行い、大事ないと言ってくれました。
受付に戻ると、ベテランの女性はコンピューターを叩いて診察結果を打ち出し、診察代の記載された用紙と処方箋用紙を渡してくれました。階下に下り会計に行き支払い(30スイス・フラン前後)を済ませ、タクシーに乗り薬局に行き薬を買ってホテルに戻ったのは、夕方5時でした。時間はかかりましたが、丁寧に検査してくれたことで、悪い風邪でないことが分り、その後は安心して旅を続けました。

心臓病を抱える80代の女性が私の部屋にご主人とやってこられ、ニトログリセリンを日本から持ってくるのを忘れてしまい、若しものことがあれば心配なので、薬を買いたいので手伝って欲しいと言われます。日本からアムステルダムに飛んできた最初の夜でした。
ホテルの受付に聞くと、ホテルのある郊外では、6時には全ての薬局が閉まっているし救急病院は町中だとのことでした。
まずはダメもとに帰するかも知れませんが、タクシーに乗り扇型状の運河の町アムステルダムに向かいました。着くと案の定、医者の処方箋なしにはニトログリセリンは出せないと薬剤師は言います。老婆のパスポートを見せ、年齢を理解してもらい旅行者担当の医者(いるようです…)に電話してもらいました。途中から私も事情を説明しましたが、幸いにも電話のやりとりだけでニトロを買うことができました。薬剤師が錠剤がいいか?スプレー式がいいかと尋ねるので、錠剤でお願いしたいと言うと、何錠必要か?と更に優しく聞いてくれました。控えめに2〜3錠あればと言っていた老婆は、最終には10錠もらわれました。薬剤師は2つ大切なことを教えてくれました。
一つは、国際間の取決めで緊急時に備えて、当人が特別な病気(心臓病などの)持ちであることを証明するIDカード(英語で書かれた)があり旅行に持参するようにと言って、そのIDカードをくれたこと。
二つには、ニトログリセリンは熱に弱いので、体温が伝わり易い服のポケットなどには入れないように注意してくれ、通常は1年間は使えると優しく諭してくれました。
幸い、その後は順調に旅を楽しまれ、ニトロを一度も使用することなく日本にお帰りになりました。

振り返って考えてみると、医者も薬剤師も事務の人もタクシーの運転手も皆親切で優しかったこと、そしてまさかの時には救急車に乗り、パスポートを持って救急病院に行けば、何とかなるという思いを強くしました。
ヨーロッパで高速道路をバスで走っていると、日本のように広告宣伝の看板は殆どなく、換わりにまさかの時の病院、そして心の悩みを軽減してくれる教会のミサの時間が書き込まれた看板をよく目にする意味が少し分った気がしました。

'揺り籠から墓場まで'のキャッチフレーズで、第二次世界大戦後初の総選挙でチャーチル率いる保守党に勝利した労働党でしたが、それ以前は教会が政府に換わって長く社会福祉の面まで行なっていました。今もヨーロッパでは、伝統が息づいているのでしょうか?
     




1167  不都合な真実



たまたまレンタルビデオ店で借りてきた'不都合な真実'(In c o n v e n I e n c e d T r u t h ) を見た後の、オランダ・ベルギーへの旅でした。

クリントン大統領時代、副大統領だったアル・ゴア氏が地球の温暖化に警鐘を鳴らし、世界中を行脚して回る姿をフィルムに収録したものでした。
自国に都合のいい論理・言い訳で世界各国が排出する一酸化炭素や二酸化炭素が、人間を含む生きものの共通の棲家であるマザー・アース(地球)を破壊していることを詳しいデータをもとに語っていて、ノーベル平和賞を受賞した作品です。
映画では、このまま温暖化が進めば、不毛の永久凍土・ツンドラであるシベリア大陸が緑豊かな世界有数の穀倉地帯に変わり、オランダ・ベルギーなどの低地国は逆に海面の上昇で、水面下になってしまうと語っていました。
日本時間では午後5時45分(現地時間の真昼時に当る?)の2月のシベリア上空は雲一つなく晴れ上がり、眼下には雪化粧した白くあるいはねずみ色に輝く緩やかな丘が連なっていました。

後部配膳室(ギャレー)近くの扉に取り付けた小窓のブラインダーを上げて見惚れていると、通りがかった日本航空の
スチュアーデスが声を掛けてきたので、絵も言えぬほど美しいシベリアの大地を見て感動している所ですと応えました。彼女も美しいですね!と相槌を打ってくれ、更にこのフライトが初めての海外業務で、これまでは国内でしたと嬉しさを抑えきれない様子でした。
    




1168  中世の戒め


1300年代のチェコ繁栄の立役者と云えば、建国の父と讃えられるカレル4世であろう。

彼は神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、プラハ城や聖ビート大聖堂の建築を手がけ、中欧で最古のカレル大学を創設、またカレル橋もつくりました。
プラハの中心を流れるブルタバ川(ドイツに入ってからはエルベ川と名を変え、ハンブルグの傍を流れて北海に注ぐ)の右岸と左岸を結ぶ長さ五百米、中欧最古の石橋こそカレル橋であり、1357年7月9日午前5時31分に工事を始め、完成までに45年を要しました。2で割れない数字(奇数)は吉の徴であり、縁起を担いでの建設でした。

プラハ城から歩き出し、丘を下ってマラー・ストラーナ(小地区)の左岸地区を見ながらカレル橋の下に出ました。橋桁には、くの字と逆くの字の階段が向かい合ってあり、橋の上と下を繋いでいます。私達は橋を渡って、カレル4世がつくらせた新市街の広がる右岸へと向かう為にくの字か逆くの字の階段を登って橋の上にでなければなりません。
そこでチェコ人のガイド女史は、すかさずくの字の階段は俳優トム・クルーズが'ミッション・イムポシブル'の映画で駆け上がったと言い、逆くの字の階段は2003年に小泉純一郎首相が降りてきた場面に遭遇したと付け加えました。2/3の人はトム・クルーズを、1/3は小泉純一郎階段を登って行きました。

右岸の旧市庁舎には14世紀につくられた時計塔があり、今も時報を知らせています。
そして、仕掛け人形が正午を告げるのを見んものと、広場は大勢の人で埋まります。
死神(骸骨の姿)が紐を引くと、上部の小さな2つの窓が開き12使徒が現われます。
すると、死神の横に立つ放浪癖のある定職を持たない楽器を手にする人物と反対側に立つ2体の人物(銭の入った袋を手にする守銭奴と鏡を手にする自惚れや、自己愛者)は、僅かに首を横に振ってイヤイヤの仕草をします。そして、時を告げる雄鶏が鳴きます。
ガイド女史は、そこで次のように補足しました。
今日は、この3人は死を免れたけれど、また明日も同じ怖い審判を受けることになるのだと…。
遊び人や利己主義者、金に踊らされて生きる現代人にも充分説得力のある時計塔でした。

くわばら くわばら!
     




1169  8年が8日に6日に、そして2日に



公式の記録に残る日本人として初めてヨーロッパの地を踏んだのは、天正年間の遣欧少年使節団ではないかと思います。

九州のキリスト教大名達(大友、有馬など)が、家臣から選んだ4人の14〜15歳の少年たち(おそらく前髪を垂らした元服前の)を主役とする、ローマ法王に謁見する目的でポルトガルの帆船に乗ってアジア、インド洋、アフリカ最南端を経由して大西洋を北上する航路で往復しました。1582年から1590年にかけて行なわれた足掛け8年を要した旅で、ポルトガルやスペイン、イタリア各地で大歓迎を受けましたが、アジアにレベルの高い日本という文明国家があることを知らせることで、キリスト教布教に大いに明るい希望が持てることを印象付けようと、大人たちが目論んだものでした。
そして、大坂冬の陣(1614)の始まる1年前の1613年に、仙台の月ヶ浜から日本人船大工たちが西洋船を見よう見まねで造ったサン・ファン・バチスタ号に乗り、伊達政宗公が家臣・支倉六右衛門(常長)を名代に、京阪や松阪の商人たちも同行した大人たちのノバ・エスパーニャ国(スペイン帝国の支配する新大陸メキシコ辺りを指す)との交易を目論んだ旅がありますが、日本の最高権力者・徳川家康も支援していたと考えられています。太平洋を横切りメキシコに上陸、更に船を乗り換えてメキシコ湾から大西洋を横断してヨーロッパへ行く航路でしたが、ローマ法王の思し召しも殊の外良く、伊達藩にあっては中堅クラスの藩士だった常長でしたが、彼の堂々たる武士としての立ち振る舞いは、ヨーロッパでは全盛期を過ぎていた騎士道精神を懐かしく思い出させたことでしょう。
南スペインの地やメキシコに、今もこのミッションに同行した人達の子孫が生きているのを知ることは、大航海時代の人達の気宇壮大さに心が動かされます。
遣欧少年使節団と同様、支倉使節団(出航して8年目の1620年に帰る)も、日本政府のキリスト教布教禁止令により帰国後は惨憺たる処遇を受けました。

時は移り、2009年2月に中欧5カ国(ドイツ、チェコ、オーストリア、スロバキア、ハンガリー)を8日間で巡る旅に行ってきましたが、オーストリアを除く他の4つの国は20年前までは東欧と呼ばれ、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリーは社会主義国で厳しい国境検問が行われていて、道路整備などのインフラ・ストラクチャーを含む多くの面で旅をして楽しく感じるデストネーションではありませんでした。
ところが今は、厳寒の冬を過ぎたとはいえ、高速道路網は7〜8割は完成していて、快適にバスは飛ぶように走り、EU(ヨーロッパ連合)にいづれの国も加盟しているので国境での煩わしい検問は一切無くなり、通貨も概ねユーロが使えますし、買い物心を掻き立てるような商品並びも揃っていて、観光もヨーロッパ特有の滔々と緩やかに流れる大河に沿って発展したベルリン、ドレスデン、マイセン、プラハ、ウイーン、ブラチスラバ、ブダペストといった歴史ある町を見て回る企画でした。10年前は到底8日間では考えられない日程でした。

同じく2月には、神による天地創造が6日で行われ7日目には休んだ行為に似た、6日間でオランダ・ベルギーを見て回り、7日目には帰国後の旅の疲れを温泉に入り癒しては?と言いたげな、神の業と肩を並べる(?)旅にも行きました。

また、日本の麻生首相はダボス会議(毎年2月にスイスで行なわれる、経済界や政界、文化人が集い広く世界問題を論じる)に、たった2日間で行って帰ってくるという時代になりました。

大自然、大宇宙を前にしては、未だひ弱な存在である人間には違いありませんが、どんどん変っていく、いいえ変えていく人間の本性に希望を見るべきなのでしょうか?
若しかして、破滅を自ら早く招いているような気も…。
60億の人がしっかり見つめ、考え、意見を出し合い、将来をグローバルに構築しなければ、これまでと同様に狭い縄張りだけの幸せにうつつをぬかすことになるのでしょうね。
  





1170  ラファエロの絵は、なぜピッティ宮殿に多く飾られているのだろうか?



フィレンツェ政庁(シニョーリア宮殿)に勤める役人の事務所ビルだったウフィツィ美術館は、ルネッサンス期の絵画や彫刻が一堂に会する場として世界に名を知られています。

トスカーナ地方の支配者として、ヨーロッパや地中海世界、オリエントに住む異教の権力者とも広く交流があったことがウフィツィ美術館の回廊にかかる肖像画を通して分ります。そこには、ラファエロの手になる2枚のメディチ家出身のローマ法王の絵もありますが、メディチ家の居城だったピッティ宮殿の居間やサロンには、数多くのラファエロの優しい筆遣いの聖母子像などの絵が飾られていて、何故なのか疑問に思っていました。

昔から貴族同士の結婚と云えば、政治がらみであったのは洋の東西を問いませんが、メディチ家の場合は、隣接するウンブリア地方の権力者ウルビーノ公との繋がりが深く、結婚を通じての親戚付き合いの間柄だったといいます。
特に、フェデリコ・ダ・フェルトロ公(1422〜1482)は、息子のグイードバルトと共にルネッサンス領主の典型的な人物とされ、文学や芸術を庇護し'イタリアの光'と讃えられ、ウルビーノの最盛期を創出しました。
ラファエロの父、ジョバンニ・サンティも宮廷に招かれた芸術家の一人であり、ラファエロ(1483〜1520)はウルビーノで生まれています。
持参金は結婚の取決めの重要な要素であり、持参金の一つとしてメディチ家にもたらされたであろうラファエロの額に入った宗教画は、きっとメディチ家とウルビーノ家を更に強く結びつけたことでしょう。また、故郷の誇りであり、ウルビーノを思い出させてくれるラファエロの絵は、嫁いできた姫君を慰めたことでしょう。そう云えば、NHKの大河ドラマ'篤姫'でも、持参した錦江湾に浮かぶ桜島の絵が、姫の心を癒し慰めや勇気を与えていました。

15世紀を飾ったメディチ家の老コシモことコシモ・デ・メディチや、その子イル・マニーフィコ(偉大なる男)ことロレンツォ・デ・メディチが1492年に世を去ると、フィレンツェに黄昏が忍び寄り、ミケランジェロやダ・ヴィンチもフィレンツェを去りました。

様々なエピソードを生んだ古都フィレンツェでは、今も昔と変わらずアルノ川が流れていて、川に架かるヴェッキオ橋の橋上回廊がシニョーリア宮殿やウフィツィ美術館とピッティ宮殿を結んでいます。









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