希望
      
1156  あるイタリア女性の語る男の甲斐性とは!?



30代後半に見えて、かなりの美人、はっきりものを言う笑顔の絶えない実務派のミラノ女性が、正月早々の公認ガイドでした。

スカラ座横でバスを降り、スカラ座前広場からヴィクトリオ・エマヌエレ2世アーケード、ドーモ広場、ドーモの中、そしてドーモ教会の裏手のショッピング街の一角で待つバスへと歩いた1時間半でしたが、弾けるような楽しい会話をグループの最後尾を二人で歩きながらしました。先頭は、ミラノに住む日本人女性が説明しながら誘導しているので、私達は写真撮りに夢中になって迷子になる人に気配りしながらゆっくり進みました。

彼女曰く、男の甲斐性とは
一に、女性に愛を示すこと
二に、何でも買ってくれること
三に、金がなければ、家や車の修理を初め、諸事万端自分でやれること
以上の三つの条件の内、二つを満たせば合格だそうです。

過って、日本男性と生活をした経験があり、日本の男性は女性を同等と見ていないそうで、プライドが高すぎるとの辛口の批評でした。
私は、貴方の言う三つの条件の内、一つしか満たしていないと言ってみると、まあ〜例外もあるからと慰めてくれました。
    




1157  潮見・潮時で思うこと



友人が東京湾に沿って走るJR京葉線の潮見駅近くに住んでいて、新年の一献を交わそうと出かけました。

駅周辺案内図を見ると、海を埋め立てて造成した土地の様で大きな運河が縦横に走っていて、思い描いていた潮の流れを見極めて漁に出かけた江戸時代の漁村に由来する所では?の淡い夢は消えました。

マレー半島の先端近くに、マラッカという町があります。
訪ねたことはありませんが、クアラルンプールの博物館で14〜15世紀に海洋都市国家の都だった所であり、古い町も残っていると書いてあったように思います。遠くインドやビルマ、日本や中国、フィリッピン、ベトナム、タイ、インドネシアなどから商人がやってきて、物産の売買が盛んに行なわれていました。
物の価値や値段は、経験と情報に裏打ちされた商人たちの冷静な判断によって決まったことでしょう。日本から出かけていった商人たちは倭寇と呼ばれたと思いますが、九州や関西、瀬戸内海を地盤にした室町期から戦国、安土桃山、そして江戸初期にまたがって大いにチャレンジした大航海時代の中に生まれた人たちでした。
マラッカのイスラムの太守は、人種や宗教、言葉・文化の違いを超えて、商取引や情報を公正に行えるよう執り図ったことでしょう。
商売の潮見・潮時そして大海原を航海する潮見・潮時に全身全霊を懸けた人たちの、明るい話し声が聞こえてくるような気がします。

16世紀に入ると、キリスト教の布教と香辛料にだけ異常に執着するポルトガルが、最初はおずおずとやってきて軒下を借りての商売でしたが、間もなく母屋を寝取るほどになりバランスは崩れていきました。印象としては仏教やイスラム教下では、総じて都市でも交易ルート(沙漠やオアシス、海洋でも)異教の人たちに優しい対応をしてきたように感じます。
10年前にイランのイスファハンに行った折、ゾロアスター教の教会やアルメニア人のキリスト教会が今も活動していたのを思い出します。寧ろ、西欧のキリスト教下となった近世以降(16世紀)の方が、狭いドグマに捉われて寛容の政治が失われていったのでは…と考えます。

アフリカ起源と云われる人類ですが、これまで何度も経済・政治・宗教のいさかい、気象・気候の変動、病気の充満、あるいは自由を求めてボートピープルとなって大海原へ、そして沙漠を越えて未知の大地へとチャレンジしてきたことでしょう。
グリーンランドのイヌイット人は、シベリアあたりからやってきた第5波(何万年か前に1波が来たそうですが…)の人たちであったり、中南米のインディオもまたアジアからやってきたボートピープルやベーリング海峡(地続きであった頃)を渡ってやってきた人たちですし、オーストラリアのアボリジニも過ってはアジアに住んでいたと思われます。

ノルウェー人のアマチュア探検家ヘイエルダールが、葦の舟や筏に乗りアフリカから中南米を目指したり、エクアドルからポリネシアへとチャレンジした背景には、ピラミッドがエジプトだけでなく中南米にあることや、アフリカとポリネシアの文化の類似性にありました。
潮見・潮時(潮流や風向き)を頼りに、先史人はチャレンジしたのでは?と考えたからでした。
私達全員が宇宙船'地球丸'に乗っていて、猛烈なスピードで太陽の周りを、そして天の川銀河星雲の中を回っているのですね。

私にできる潮見・潮時は僅かですが、感謝して生きること、人や物に優しくありたい、二つの理想のバルーンを高く空に上げてみたい思いです。
    



1158  ハッデュー祖父さんの息子の子孫の住む村



オサマ・ビン・ラディンはアル・カイーダのボスで、その名は余りにも有名です。

ラディンの息子オサマが彼の名前です。
ユネスコの世界遺産になった(1986)村アイト・ベン・ハッドューの名の由来は、ハッドュー祖父さんの息子アイトの子孫の住む所となるそうです。苗字を持たない中近東では古来、祖父、父親、そして息子の名前を併記することで,帰属先(アイデンティティ)を明らかにしてきたようです。旧約聖書の中にも、アブラハム、イサク、ヤコブ(祖父、父親、息子)
の神であるヤーヴェと書いてあったように思います。

イラクの独裁者だったサダム・フセインに似た風貌のモロッコのガイド氏が、ベルベル族の住むカスバ村とクサール村の違いについて、私たちに噛んで言い含めるように話してくれました。
カスバは、通常千人未満で構成され、1家族もしくは同族で集っていて、リーダーは独裁者に近い権力を行使します。他方、クサール村は、千人以上の人口を持ち、複数の家族や異なった族が寄り集まっていて、政治は民主的に運営されます。

ハッドュー祖父さんの息子アイトの子孫の住んでいるアイト・ベン・ハッドュー村はカスバであり、起源ははっきりせず、14世紀とも18世紀とも云われるそうです。
1755年にリスボンを襲った直下型大地震では、遠く離れたこの地も惨事に見舞われました。大アトラス山脈の雪解け水が川となって傍を流れる起伏に富んだ山麓に、石や土、ワラに竹などを素材にした家並みは、大地に溶け込んだ没個性的な表情を見せていて、丘の上へと続く幾つかの細い石畳の道に沿って続いていました。
世界遺産となった今でも、11家族がガスや電気、水道のない不便な生活を送っていますが、大半の村人は対岸の文明の恩恵に浴することができる(電気、ガス、舗装された広い道路などがある…)場所に引っ越していきました。

家並みが切れると丘の頂上が見えていて、幾つかの大きな石組みの建物跡があります。過っては、族長がそこに住み、宝ものを保管する倉庫があったそうで、アカディアと呼んでいました。敵の襲来に備えて、見張り塔を兼ねた要塞化した住居に住むやり方は、規模は違いますが、ギリシャのペロポネソス半島のミケネ遺跡の王宮(アクロポリスの上にあった)に似ているように感じるし、旧約聖書の族長時代を彷彿させてくれました。
丘の麓には饅頭型の禿山が見えていて、禿山と集落との間に広がる窪地を使って、大ヒットしたハリウッド映画'グラディエーター'(剣闘士)の撮影が行なわれたそうです。

浅い川の中に大きな平らな石が等間隔に並べられていて、その飛び石の上を注意しながら歩いて昼食を摂るレストランのある対岸の文明圏(?)へと戻りました。村の子供たちがしつこく勧めるロバの背に乗って水の中を通って帰った人もいました。近くには橋もなく、水かさが増した時には世界遺産の村は、対岸から見る他はないようでした。
     




1159  水売りおじさんはモスクの傍から始まった



シェークスピアの書いた悲劇'オテロ'では、古代ローマ帝国の将軍オテロはムーア人で肌の黒い人として描かれていて、白人の美人妻デスデモーナが部下の白人将校と浮気をしているという話を信じて、嫉妬して理性を失い二人とも不幸な死を迎えました。

所が、ムーア人が多く住むマグレブ(日の沈む所という意味)では、彼らはイマジゲンと呼ばれ、高貴な出の人という意味があり、肌の色もサハラ沙漠の南に住む黒人とは違い、肌は白く地中海沿岸近くに住むハム系民族の流れを汲んでいるそうで、俗称ベルベル人と云われています。どうやら、百聞一見の旅の哲学を怠り、人の噂だけで作文したシェークスピア氏の早とちりだったようです。
ベルベル(ムーア)人は、古代ローマ人が地中海世界に進出する以前からモーリタニア(地中海や大西洋に面した西北アフリカ一帯を指す言葉だった)に広く分布して勢力を誇った民族で、現在のリビヤ、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、モーリタニアにまたがっていました。

モロッコのフェズの地に最初のイスラム王朝を開いた(808)イドリス2世(モハメットの直系の子孫とベルベル人女性との間に生まれた)も、マラケシュで11〜12世紀にかけて相次いでムラービト朝、ムワッヒド朝を興したのもベルベル人であり、彼らは海を渡り南スペインのアンダルシアやアルジェリアを傘下に治め、西地中海の覇者になりました。

今もベルベル人が多く住み,大アトラス山脈を望むマラケシュの町を久しぶりに訪れました。先ずは、広大なメナラ庭園に行きました。中央にタテヨコ200米×150米の巨大なプールがあり、深さも3米で周辺のオリーブ畑に水を供給しています。庭園のオリーブの古木の中には、12世紀のムワッヒド朝時代のものもあり900年の歴史がありますが、老いた今も現役として秋(11月〜12月)には実をつけるそうです。
次に行ったのはランドマークと讃えられるクトゥビアの塔でした。
1192年にムワッヒド朝のアブー・ヤコブ・エル・マンスールにより建造され、高さ65米、幅12・5米のミナレットです。塔を境に半分が廃墟で、残り半分がモスクになっています。説明によると、ムラービト朝時代のモスクを壊し、その横に征服王朝ムワッヒドのモスクをつくったのだそうで、同じイスラムを奉じ出自は違っても同じベルベル族の出でありながら,先王朝の象徴(モスク)を壊すことで威厳を示したことによるそうです。

鍔の広い帽子を被り、伝統の赤い衣装に水飲みコップを幾つもつけた水売りおじさん2人がやってきて、写真を撮ってくれ、いいえ正確には観光客の中に入り一緒に写真を撮ることでモデルになるから、チップをくれと言います。
過って一世を風靡した水売りおじさん達も時の流れに逆らえず、今では僅かに、ここマラケシュとフェズ、それにカサブランカで見られるだけだそうです。

ガイド氏曰く、元々は水売りおじさん達の商売はモスクから始まったのだそうです。
どんなに努力しても、人は罪を犯すものです。モスクにやってくる人々は、アラーを賛美することに加えて懺悔もします。懺悔・侘びの徴に、他の善男善女に水(命の水であり、祈る前に清めの為の水も必要)を振る舞い、浄罪したのが起りだったそうです。
中々、説得力のある話でした。

ツーホース・パワーの馬車に乗り40分ほど市壁の周りを見て回り、下車後は歩いて夕闇が迫り来る中、スークやフナ広場を散策しました。何故か不思議なパワー・活力を感じさせる所ですが、ムーア・ベルベル・パワーとでも命名したら良いのでしょうか?
水を買いに立ち寄った、間口1間の店の主人が私が日本人であることが分ると、ジャパニーズ ベリー グッドと言って
握りこぶしをつくり、親指を天に向けて立ててくれました。
       




1160  3割は水の上



9世紀にベルベル人の町として生まれ、12世紀に入るとムワッヒド朝期の貿易港として知られ、名前はアンファと呼ばれた古い歴史をもつ町がカサブランカだと云う。

15〜16世紀にはポルトガルの侵略を蒙り廃墟になりましたが、18世紀にスルタンにより再建され、アラビア語でダールッバイザー(白い家)と呼ばれ、スペイン語でも白い家を意味するカサブランカの名で知られるようになりました。
20世紀の初め、1907年にフランスに占領されましたが、人口は8万人ほどの港町でした。現在(2009年)は500万人の人が生活するモロッコ1の都会であり、経済を引張っていて、港はアフリカで3番目の港湾設備を誇っています。
港近くにはメディナがあり、その壁を越えると20世紀以降造られた伝統のヨーロッパ風の建物と現代の高層ビルが入り混じった風景の新市街が広がり、道路は車で占領され、道行く人もアラブ・アフリカとは一線を駕した洋装の男女を多く目にします。
1956年に、晴れて独立を勝ち取ったモロッコですが、市の中心にある国連広場は、新生モロッコを象徴する裁判所や市庁舎、郵便局、税務署。劇場など伝統美と未来を志向するデザインでつくられた建造物と緑豊かな公園がマッチしていて、喧騒の巷化しつつある大都会に一大憩いの空間を演出しています。国連広場の名は。第二次世界大戦最中の1943年にカサブランカで、戦後の世界秩序や平和を話し合い、国際連合創設を決めた会議が行なわれたことによります。

コーランの聖句の中に、'神の玉座は水の上にある'と書かれていることにヒントを得て、
カサブランカの海岸線が望める波打ち際に、7年の歳月(1987〜1993)をかけてつくったハッサン2世モスクがあります。大きさはメッカのモスクに次いで世界2番目だそうですが、モスク内1階には2万人、2階は5千人、そしてモスクを取り巻く広場では、10万人の信者が一同に会してお祈りができる巨大な建造物コンプレックスです。屋根が一部開閉式になっていたり、ミナレットから発するレーザー光線が聖地メッカの方角を指し示したり、ミナレットの高さが200米と群を抜いて世界一であり、地下にもハマーン(大浴場)や祈る前に身を清める為の泉水が十幾つも備わっていて、僅かな時間(午後2時〜3時まで)だけ堂内見学を許された私達見学者の度肝を抜くものでした。

イスラム・カレンダーで九月にあたるラマダン月には、日没直後に行なうお祈りの際には、特に大勢の信者がここに集いアラーを讃えるそうです。
大西洋に落ちていく太陽を見ながら、永遠に変ることのない絶対者に帰依できる喜びを感じ、兄弟や仲間、同志や家族で一緒に、3割が過って水の上だったモスクの敷地で、神の玉座に触れた感動を味わうのでしょうか?











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