希望

     
1146  文化科学宮殿やワルシャワ蜂起記念碑が語るもの



人魚がワルシャワのシンボルになったのは、過ってビスワ川のほとりで美しい声で歌う人魚に聞き惚れて、男(ワルス)や女(ハワ)が集まってくるようになり、魚もよく獲れたので町になりました。

ワルスとハウからワルシャワ名前がつけられたそうです と楽しい人魚伝説を語ったガイド女史でしたが、文化科学宮殿が車窓に見え始めると、'残念ですね。今日もワルシャワっ子が嫌いな宮殿が見えます'と言います。
第2次世界大戦が終り、スターリンがワルシャワっ子にプレゼントしたニューヨークのエンパイヤ・ステート・ビルディングに少し似たつくりで、当時の建築技術を駆使したものであり、本家のロシアでも僅かしか見ることのできないものだそうです。
徹底したロシア嫌いになったワルシャワっ子は、今も町で一番背高のっぽの文化宮殿に登って、愛するワルシャワの町を見渡すのが大好きですが、何よりも宮殿を見ないですむからというのが最大の理由だそうです。
パリのエッフェル塔のように,万博当時(フランス大革命の百周年を祝って行なわれた 1889年の博覧会)は文化人の嫌悪され、エッフェル塔に登れば鉄塔のない美しいパリが堪能できると評されたものが、今やパリのお嬢さんと呼ばれエッフェル塔抜きのパリを語れないほどにパリっ子に愛されています。そんな運命の巡り合わせは文化宮殿にはとても期待できないようです。

ポーランドは多くの蜂起が連続して起きた歴史がありますが、'ワルシャワ蜂起'の名で呼ばれる1944年8月1日から10月2日まで2ヶ月続いた、ワルシャワ占領軍ドイツに対して戦ったワルシャワっ子の2人に1人が殺された蜂起があります。
1945年1月17日にワルシャワの町はソ連軍により解放されましたが、ソ連軍は前年の秋にワルシャワ蜂起が起きた時には、すでにワルシャワ近郊に到着していてワルシャワ市民に力を貸すこともできたはずと考える人達には、到底許すことのできない行為と考えてきました。ソ連側もワルシャワ蜂起への後ろめたさがあったのでしょう。蜂起に関する記事やモニュメントの建設は一切認めませんでした。
漸く1989年に至り、社会主義体制が終了し新しい政治体制が始まりました。

そして、世界中に住む〜スキーさん、ポーランド国民、とりわけワルシャワっ子が悲願した蜂起で犠牲になった人たちを忘れない'ワルシャワ蜂起記念碑'が、寄付金でクランシスキ公園近くに早速できました。
     




1147  国語を失う悲しさ


マリア・キューリー夫人(1867〜1934)は旧姓マリア・スクウォドフスカといい、生まれも育ちも生粋のポーランド人です。

24歳でパリに留学して、フランス人のキューリー氏と結婚して、共に放射線の研究をしてウラン鉱石やトリウムなどが放射線を出す性質を見つけ、放射能と名づけました。
鉱石ピッチブレンドの中に2つの放射能に富む元素が見つかり、ポロニウム(祖国ポーランドに因んだ名前をつける)とウジウムと呼びました。また、純粋なウジウムの結晶をつくることにも成功した功績を認められ、1903年に夫と一緒にノーベル物理学賞を、そして1911年にはノーベル化学賞を受賞しています。ノーベル賞を2回貰った人は未だ誰もいません。

1913年にワルシャワの放射能研究所の落成式で、ロシアの支配下にありましたが、マリーはポーランド語で講演をしました。
マリーが育った19世紀後半のワルシャワでは、公の場(学校、役場、演劇など)ではポーランド語は禁じられた厳しいロシアの監視の下にありましたが、それでも心ある先生は隙あらばポーランド語を生徒に教え、ポーランド人の心を植えつけようと努力しました。
過っての恩師や級友も出席しての、未だ統制下(ポーランドが独立したのは1918年)にあったポーランドで、落慶式のスピーチを敢えて母国語で行なった快挙は、ポーランド人の国を愛する心に益々火を点けたことでしょう。

ドイツとの国境に近いアルザス地方のストラスブールは、ヨーロッパの十字路と呼ばれるに相応しく、今もドイツの香りを漂わすEU(現在27カ国が加盟するヨーロッパ連合)の本会議場が置かれているフランスの町です。17世紀になってフランスの王政下に入りましたが、普仏戦争(1870〜1871)の結果ドイツ領となります。そして、第1次世界大戦(1914〜1918)後に再びフランスに返還されましたが、第2次世界大戦中(1939〜1945)中はドイツ、戦後3度目のフランスに戻された歴史を持つ町(似たような体験をした町や国、人は歴史の中で他にも多々あると思います…)であり、'ヨーロッパの平和は独仏の和解から生まれる'との考えから、EUの本会議場が置かれることになりました。
ドーテ(19世紀の南フランスで活躍した文化人)の'最後の授業'では、明日からはドイツの占領下に置かれる運命のストラスブールで、フランス語での最後の授業を通して国語の大切さを語ったものでした。

ピレネー山脈に跨り2千年以上生活してきたバスク人は、国籍はフランス若しくはスペインとなりますが、自らのアイデンティティ、文化を失はない為に敢えて死語に近かったバスク語を習い、日常語として使っている小数民族です。

ウェールズの人たちも、イングランドの横にちょこんと連なる小さな存在ですが、道路標識にケルト語を英語と併記していて、アイデンティティを文字で主張しています。

イスラエルは2500年に亘る(バビロン幽閉から数えて)流浪の末、1948年5月14日に生まれた国ですが、国語は昔々使っていたヘブライ語を復活させて使っています。

さて、日本はどのようになるのでしょう?
明治になり、欧米の進んだ文明・文化・技術を大急ぎで学習しなければ置いてきぼりになり、植民地化されかねない状況下、文部大臣となった森有礼は日本語をやめて英語を国語にしては?とまで真剣に考えたエピソードが伝わっています。
'まれびと'と折口信夫氏が云ったように、古来日本人には海を越えて遥か彼方からやってくるものを、喜んで受け入れる習性があるのかも知れません。日本独特(世界の他の島国にありがちな傾向?)のもののようです。大陸では、決して他からやってくる人や文化、文物を安易に無条件に受け入れることはありません。況して、国語を捨てて学習に便利とはいえ、他の言語を国語にしようという発想はないのではないでしょうか。
朝鮮半島で行なった日本語教育を含む日本文化の善意の押し付けは、朝鮮の人には屈辱だったはずです。
作家・司馬遼太郎さんは、明治以来思考錯誤して新しくつくりあげた日本語がやっと完成したのは、昭和30年頃では?と述べておられます。科学技術であれ、文学思想であれ何でも語れ書き残すことが可能になった現代日本語です。

国語を大切に守って育てていくことが、国を愛することのように思います。
    




1148  大洪水は失望?それとも希望?



鬼籍に入られた中世フランス史の碩学・木村尚三郎氏は、本の中で千年前のヨーロッパは森に覆われた原野に近い状態だったと述べています。

そんな中、気候が温暖化し始めたことや古代ローマ文明の後継者としてのローマ・カトリック教会や修道院によるキリスト教の浸透があり、再び意欲して大地に鍬を入れ森を切り崩し、木の根っこを掘り起し農地に変えていくリズムが始まりました。
戦争目的に使ってきた鉄器具が農事作業に大いに使われるようになり、生産性が上がり、農地を三等分して春に種を蒔いて秋に収穫する畑、秋に種を蒔いて翌年の春から初夏に獲り入れする畑、そして残った1/3は休ませておいてローテーションすることで、地味が痩せないで保てる(三圃農法という)ようになりました。
それに伴い、村に財が蓄積され、仕事の分業化も起り,商人や職人などは村を離れて壁で囲まれ要塞化した町に住み、村や町を廻って交易が盛んになりました。村や町には地上の神の館である教会が建ち始め、町や村を見下ろせる丘の上には有事の際の防衛を受け持つ領主の館(城塞)がつくられて、現在ヨーロッパを旅行していて、よく目にする風景が生まれました。

ポーランドも、同様の歴史を歩んだように見えます。
約千年前にカトリック教を国教とする王朝が始まり、森を開墾して農地をつくり三圃農法で生産を上げ、河川を利用しての交易が盛んになり、バルト海(琥珀海岸と呼ばれた)と黒海をドニエストル川で結んだり、バルト海とアドリア海を繋ぐ琥珀の道が生まれました。
13世紀には、ドイツ騎士団やモンゴル人の侵入がありましたが、スラブ民族のポーランドとゲルマン民族のドイツは以後、歴史の中で戦いを繰り広げていくことになります。

三つ大きな流れを挙げるとすれば、一つは中世の時代、ドイツ騎士団を主とするドイツ人のバルト海沿岸や西部ポーランドへの勢力拡大の流れ、二つには18世紀末から120年に及ぶドイツ、オーストリア、ロシアによるポーランドの分割支配、三つには第2次世界大戦でのナチスによるポーランド支配があります。

モンゴル人の来襲の際も、その後のオスマントルコ軍の北への勢力拡大やウィーン攻防(1683)でも、ポーランドは西ヨーロッパ世界・カトリック教会の最前線の盾となって戦いぬき、そのことを誇りとして大切にしてきました。

モンゴル軍の撤退後は、国際感覚に優れ遠隔地貿易を得意とする、高いモラルと文化、それに優れた情報ネットワークを持つユダヤ人を積極的に受け入れて、復興にいち早く着手しました。1264年には、ユダヤ人の生命・財産の保護、経済活動の自由を保障した憲章を発布しましたし、14世紀にはクラクフやルブリン、ポズナニなどの都市では、ユダヤ人やアルメニア人の商人は金融、交易、定期市などを主催する大きな集団になりました。
ユダヤ人にとりポーランドは、自由の地であり神から安住を約束された約束の地と思われていました。
一方13世紀以降のヨーロッパでは、ユダヤ人に対する迫害が始まり、イギリス、フランス、ドイツを追われたユダヤ人がポーランドにやってきて、発展に大いに貢献しました。
こうしてポーランドの栄光・黄金期が巡ってくることになりました。

16世紀(黄金期)のポーランドは領土が拡大して、西スラブ族でカトリック教を信仰するポーランド人を軸に、連合を組んだリトアニア人はバルト族であり、ウクライナからは西スラブ族のベロルシア人やコサック人(自由人で牧畜や狩猟、漁業や交易、略奪を生活の手段とする)がカトリック教やギリシャ正教を奉じて参加したり、ポーランドの西方や北のバルト海沿岸には新教徒のドイツ人やオランダ人(湿地の干拓専門家)に加えて、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人など多民族、多宗教から構成された宗教、文化に寛容な政治が行なわれ、経済成長に伴って質の高い大学や文化施設が建設されました。
今でもクラクフやザモシチ、ルブリンの町には当時の繁栄に沸いた町並みが色濃く残っています。
しかし、17世紀になると翳りが見え始め、やがて18世紀半ばにはロシアにはピョートル大帝、プロイセン(北ドイツ)にはフリードリッヒ2世が表舞台に登場してきます。
フリードリッヒ2世は、'一葉ずつアザミを食い尽くす'様にポーランド領をむしり取る政策を始めました。ポーランド分割の名で歴史に名を刻んだ大洪水が押し寄せました。

1772年の1回目のポーランド分割では、ロシアにはエカテリーナ2世女王、プロイセンのフリードリッヒ2世王、そしてオーストリアのマリア・テレジア女帝が関与しています。
1793年にも第2回分割があり、翌1794年にはポーランド人の分割に反対する蜂起がありましたが、直ちに1795年に3回目の分割が行なわれポーランドは地図の上から消されてしまいました。

大洪水(Deluge)の名称は、聖書でノア一家(8人)だけが神の言いつけを守り、箱船をつくり40日40夜降り続いた雨の難を乗り切り、救われたエピソードに重ね合わせてつけたのでしょう。
120年も続いた国名と国土を喪失した未曾有のできごとでした。
やっと国が戻ったのは、第1次世界大戦が終って(1918)からでしたが、1939年にはナチスに踏み込まれソ連も東から入ってきて、多大な犠牲(第2次世界大戦で603万人のポーランド人が死んだ)を強いられ、戦後も1989年まではソ連の監視下で社会主義体制でした。
大洪水が去って希望の虹が空にでたのは、やっと20年前だったということでしょうか?

大洪水下では、自由と独立を求めての数多くの蜂起がありました。
そうした中でポーランド人を支えたのは、カトリック教徒としての強い団結(第2のカトリック化ともいう)でした。'敵の敵は友'(ドイツやロシア、オーストリアを共通の敵と見なす)という単純な見方では捉えられない互いに惹きつけ合う思想と行動が、ポーランドとフランスに間に生まれました。アメリカ独立革命での国際連帯を記念したメダル(アメリカのジョージ・ワシントン大統領、フランスのラ・ファイエット将軍、ポーランドのコシチューシコの顔が刻まれた)が発行されました。
フランス革命では、ジャコバン派の砲兵士官から出発したナポレオンが、フランス軍を率いてイタリアをオーストリアから奪うのを協力したドンブロフスキ将軍下のポーランド軍とフランス軍が、ポーランドを解放する為に帰還することを願って、ユーゼフ・ビビツキがつくった'ドンブロフスキのマズルカ'という軍団の歌がポーランド国家となっています。歌詞は、
ポーランドはいまだ滅びず われら生きる限り 異国に奪われしもの
われら剣もて取り戻さん 進め進めドンブロフスキ イタリアの地からポーランドへ
汝の指揮のもと われら国の民と結ばれん 
となっていて、フランス国歌'ラ・マルセイエーズ'に何処か似ています。

1807年にナポレオンの協力でワルシャワ公国が生まれましたが、1812年に60万(うち10万はポーランド兵)の大軍でナポレオンはロシア遠征を行ないましたが冬将軍(寒さの為)に負け大敗を喫しました。1813年にポーランドはロシアに占領され、1815年に4回目の分割の憂き目に遭います。1830年、1848年、1863年に自由と独立を求めての蜂起が起りました。
第1次世界大戦(1914〜1918)ではポーランドは戦場と化し、ドイツ・オーストリアは同盟側、ロシアは協商側に分かれて戦いました。アメリカ大統領ウィルソンは、1917年アメリカ議会で演説し、ポーランドの独立・自治を訴えました。一方、ロシアでは1917年3月ソヴィエト(労働者・兵士の代表の評議会)が結成され、11月革命が起りレーニン指導のソヴィエト政権が誕生しました。そして、やっと1918年11月にポーランドは独立を認められました。

しかし20年後の1939年8月23日に、ヒトラーとスターリンの間で独ソ不可侵条約が締結されましたが、併せて結ばれた秘密の議定書にはポーランドに関わる戦争の際には、両国でポーランドの領土を分割すると書かれていました。
1週間後の1939年8月31日、ポーランド軍の軍服を着たドイツ親衛隊が国境近くのドイツの町の放送局を襲撃して、'ドイツとの戦争の時がきた'と叫びました。(日支事変の始まりとなった盧溝橋事件に似ていますね…)
翌9月1日に、ドイツ軍は宣戦布告なしにポーランドに侵入(第2次世界大戦の勃発)、9月3日に英仏かドイツに対して宣戦布告、9月17日にソ連がポーランド国境を越えて侵入して、9月28日に5回目のポーランド分割となりました。そして、1941年6月に独ソ戦が勃発、1942年8月から1943年2月にかけてのスターリングラード攻防戦が独ソ戦の転換点となり、1945年1月17日にワルシャワはソ連軍により解放されました。
ドイツ・ナチス軍占領下のワルシャワでは、1940年の夏、隔離地区(ゲットー)の建設が始まり、黄色のダビデの星(二つの正三角形を逆に組み合わせた、6つの鋭角のある星印)を胸につけた50万人以上のユダヤ人が収容され42年夏までに12万人が死にました。43年4月にゲットーの中で1ヶ月続いたユダヤ人の蜂起が起こりました。また、市内でも1944年8月1日から10月2日まで2ヶ月間に及んだワルシャワ市民の蜂起があり、2人に1人は亡くなりました。

1945年8月、ソ連との協定が結ばれ、東方の18万平方キロメートルをソ連に譲ることで国境が決まり、西方ではポツダム会談の結果、オーセル・ナイセ川を国境とすることで10平方キロメートルをドイツから取得してポーランドは再出発しました。
1953年3月のスターリンの死、1956年フルシチョフ首相が第20回ソ連共産党大会で初めてスターリン批判を行なったり、同じく1956年にはハンガリー動乱、1968年のプラハの春ではポーランド軍も弾圧軍の中に加わっていました。
1978年グダニスクで自由労働組合設立委員会の発足(電気工のエレフ・ワレサも加わっていた)、1980年7月から9月にかけてストライキから始まった運動で連帯が生まれ、ポーランド全土に戒厳令が敷かれました。
1995年にゴルバチョフがソ連の共産党書記長に就任、1989年12月にポーランド共和国が生まれ、翌1990年12月の選挙でワレサが大統領に選ばれました。

やっと長い間(大洪水)希求した自由で平和のシンボルである虹を、空に見た思いだったことでしょう。
黄金期(15〜16世紀)に活躍した神父コペルニクスは、'天球の回転について'(1543年)の本の中で観察に基づいた地動説を唱えましたが、新教徒やユダヤ教徒にとっても楽園の時代でもありました。
作曲家のフレデリック・ショパン(1810〜1839)は、世界地図からポーランドが消えた時代を生きた人でしたが、パリで詩人ミツキュービチやドイツの革命詩人ハイネ、画家ドラクロアと親交深め、祖国ポーランドの独立と解放に思いを寄せました。彼の心臓は姉が塩漬けにしてパリからポーランドに満ち帰り、ワルシャワの教会に眠っています。
2度もノーベル賞を貰ったキューリー夫人は、母国語の教育が学校で禁じられた青春時代を経験した人でした。ソ連支配下のワルシャワに完成した放射線研究所のオープニング・セレモニーに招かれたキューリー夫人は、過っての教師や同級生が見つめる中、堂々とポーランド語で演説をしました。

栄光の黄金期から暗転して、長い長い大洪水に耐え、再び希望の虹を掴んだポーランドに幸あれ!
    




1149  クラクフとヴィエリチカは世界遺産同期生



16世紀に首都がワルシャワに移るまでの460年間、ポーランドの首都だった町がクラクフです。

木のポーランドを石のポーランドに変えた王と讃えられる14世紀のガジミッシュ3世王は、鉱山や塩山の開発に加え、商取引に長けたユダヤ人を積極的に招聘し、都市建設を行いました。一周すると4キロほどの自動車道は、過っては13世紀から建設が始まった市壁が町を囲っていて、出入り門が7つありました。
旧市街には、中央広場を中心にして全盛期の頃を髣髴させる織物会館や旧市庁舎、聖マリア教会やヤギュウォ大学、チャリトルスキ博物館に教会や修道院が残っています。
経済・文化交流の屋台骨を担ったヴィスワ川と旧市街を見下ろすかのように小高い丘(ヴァヴェル城)に王宮と大聖堂が並んで建っています。
966年、国王を先頭にポーランドはローマ・カトリック教に帰依して以来、変わることなく敬虔なカトリック教徒徒として生きてきました。ともすれば、王と司教(神の地上での代理人であるローマ法王の派遣する主要な都市での最高責任者)は利権をめぐって争いが生じ易く、その葛藤の歴史に焦点を当てて見ると、ヨーロッパの中世が分りやすく思えるほどですが、ポーランドは例外的に両者が一枚岩だったことが象徴的に、王宮と大聖堂(司教の座る椅子、即ちカテドラがある教会のことをカテドラルといい、その町で一番挌が高いとされる)が並んで隣り合わせに建っていることで分ります。

13世紀のモンゴル兵の襲来、バルト海や西部へのドイツ騎士団の侵入、17世紀のスエーデンのプロテスト軍来襲、イスラム勢力との戦い、そしてドイツ、オーストリア、ロシアによるポーランド3分割時代、第1次世界大戦後のポーランド共和国成立もつかの間、第2次世界大戦では戦場となり大勢の人が犠牲になり、戦後も自由を求めて1989年まで神を信じて一致団結して戦い抜いた人たちでした。ノアの大洪水の如く、大艱難に遭遇した歴史でしたが、洪水が去った後、平和が戻った徴に虹が空にかかった聖書の記述を自分のことのように感じている人たちではないのでしょうか?
いみじくもクラクフで司教だったポーランド人が、ヨハネ・パウロ2世としてローマ法王に選ばれ平和の尊さを説いて世界中を周り、対立してきた世界の様々な宗教家と一同に会して和を真摯に模索した姿は、さぞポーランド人の共感を誘い誇りだったことでしょう。
クラクフの王宮と大聖堂に面した中庭にも、ヴィエリチカ岩塩抗内にも法王の銅像や岩塩像が立っていました。

クラクフの町には、モンゴル軍への恐怖と抵抗の歴史を伝承している二つのものがあります。一つは、ライコニク家の祭りと呼ばれる張子でつくった馬の中に人が入り、先に玉のついた棒で市民を叩いて回る、モンゴル騎馬兵の町への乱入を再現したものです。
もう一つは、赤いズボンに黒い上着、赤い帽子を被ったラッパ手が聖マリア教会の鐘楼に登り、夕刻5時の時刻を告げる曲を演奏します。しかし、途中で演奏がハタッと止まり終わります。これは、タタール人(モンゴル人)の来襲を知らせようとしたラッパ手が、敵の放った矢に射抜かれてしまった故事によります。

11月末のポーランドは、晴れていても2〜3時には日差しが弱くなり、4時にはすっかり暗闇に覆われます。5時のラッパ手の演奏が途切れた後、ショッピング客で賑わう大広場を突き切って、お目当てのチャルトルスキ博物館に向かいました。
ポーランドが地図から消えてしまった18世紀末、1人の貴族(チャルトルスキ)が蒐集した美術品のコレクションを主に置かれています。中でも、ハイ・ルネッサンス期の万能の天才と讃えられたレオナルド・ダ・ヴィンチ作・'白テンを抱く貴婦人'の絵は、彼にありがちだった制作途中で描くのをやめてしまった作品ではなく、最後まで描ききっていて、一人の貴婦人を通して私たちを五百年前の上流社会に誘ってくれた秀作でした。ガウンとなった最高級毛皮・白テンを羽織る王や貴族の絵は何度も見ましたが、生きた白テンをペットにした生活を送っていた人たちだった事が分りました。テンを求めて、やがて遠くシベリアへとチャレンジしていった歴史の流れが生まれました。

クラクフの南15キロ離れた所にある小さな村がヴィエリチカで、地中から岩塩が採れ、中世以来掘られてきました。
1999年までは採掘が行なわれていましたが、今は博物館となっていて,過って深さ3百米、2千を越える地下の小部屋が2百キロも続く坑道で結ばれていた採掘抗の一部が見学できます。
アメリカ映画にでてくる恰好良い消防士(ファイヤー・ファイター)に似た制服に身を装い、ヘルメットを被った20代前半のポーランド美人の案内人に促され、5〜6人も入れば身動きし難い小さな手動で扉を開閉するエレベーターで、竪穴抗(シャフト)を下っていきました。前日行ったアウシュヴィッツで見た立ち牢(2〜3人を狭いコンクリート製の部屋に立ったまま押し込め、やがて酸素が希薄になっていく恐怖を与える拷問)に入れられた気がすると、小声に出して言った人もいました。しかし、このシャフトこそ地下に地上の新鮮な空気が送風される命綱であり、換気口としての重要な役目を果たしているとの説明でした。
遠い昔、紀元前3500年には先史人が、地上近くで採れる岩塩を砕いて土器に入れ、下から熱を加えて純度の高い塩をつくっていたそうです。地下深く9層に及ぶ坑道の中で、岩塩抗夫に加え、馬やロバ、そして小人たち(ポーランド人が愛する空想上の人物)が一体になって働いていたそうです。コモラ(岩塩を掘り出した跡の広い空間)には、安全を祈願したチャペルや採掘に使った道具や器具、トロッコが走った線路跡が残っていたり、岩塩の岩盤を削ってつくった荒削りの急な階段は、重い岩塩の塊を肩に担いで上り下りした苦労が偲ばれ、様々なエピソードを2時間近くミス・ファイヤーファイターは語ってくれました。
地下百メートル、地上から2層目につくられた巨大なコモラは聖キンガ女王礼拝堂と呼ばれていて、巾15メートル、奥行き54メートル、高さ10メートルもあり、天井から岩塩製のシャンデリアがぶら下がっています。キンガ女王(14世紀の人)は、ハンガリー王家から遥々ポーランド王・ガジェミシュ3世にとついできましたが、ヴィエリチカ岩塩鉱の価値を最初に認め、採掘に大いに貢献しました。鉱夫たちの守護聖女とされました。
また、このコモラには、ヴィエリチカ岩塩鉱夫を讃える岩塩製の記念碑が建っていました。
内容は、'また天国で互いに会いましょう'という主旨の詩だそうですが、訳してくれた返礼に私たち一行は音響効果抜群のコモラの中で、'三池炭坑節'を合唱しました。内容は?と聞かれたので、岩塩は日本では採れないが、ポーランド同様、石炭は沢山採れたこと、その石炭を燃やす煙突から出る煙で、お月さんもさそや煙たかろうという意味です と言って笑わせました。
出口に近い別のコモラでは、岩塩でつくった円状の記念碑があり、1978年に世界中でユネスコの世界遺産になった10ヶ所の名前や国が書き込まれていました。
そこには、クラクフ旧市街とヴィエリチカ岩塩鉱の名前が刻まれていて、世界遺産同期生であると同時に、ポーランド発展の両翼を担って中世以来大いに貢献したことを物語っているように感じました。
     




1150  狭い安定と効率を求めると何が起きる?



人への思いやりに欠け狭い安定と効率を求めると、何が起きる?

誰もが抱える弱点を忘れない為に、アウシュヴィッツ強制収容所残してあります。
'世界最大の墓場であり、パンの数よりも死者の方が多かった'と云われ、400万人を越える人が虫けらのように扱われて死んでいきました。ドイツ純血主義(青い目、金髪のアーリア人の血を引く国づくりを目指したナチス)に合わないという理由だけでした。
虚弱体質の人、体の不自由な人、精神病弱者、ユダヤ人、思想を異にする人、スラブ人、ジプシー、エホバの証人などがやり玉に上がりました。僅かに、イギリス、スエーデン、スイス、モナコだけが反対しましたが、他のヨーロッパの国々は異を唱えませんでした。

第一次世界大戦での敗北で、天文学的数字の賠償支払いに加え、経済不況の中にあって、借金の支払いの棒引きや労働の場を与える約束、ユダヤやスラブ民族を蔑視することで、ドイツ民族の優越性を説くヒトラーに、酔っていった結果、起りました。

ここアウシュヴィッツの所長だったルドルフ・ヘスは、家族5人で高圧電流の流れる電線が張り巡らされた収容所の高い壁の直ぐ外につくられた一戸建ての家で住んでいましたが、恐らく良心の呵責を感じたことは一度もなかったのかも知れません。寧ろ、愛国者としての誇りを感じていたことでしょう。
貨物車にギュウギュウに押し込められて、ヨーロッパ中から連れて来られた人たちをプラットホームで一瞥しただけで、大半の人をガス室に送った医者、人体を使っての様々な実験に従事した知識層を始め、一般のドイツ市民も沈黙、無関心を押し通しました。
何十万人もの被収容者の管理は、ごく少人数の兵隊で足りた事実は、収容された人たちがロボットの如く言われるままに動いた家畜のような集団でいたことです。
僅かに救いは、自ら願い出て死んでいったコルベ神父や抵抗運動を水面下で行いアウシュヴィッツの惨状を外部に伝えた人たち、あるいは日本人・杉原大使が64人のユダヤ人を救ったことですが、少数の理性を失わない賢者や勇気ある抵抗者がいたことです。

歴史にしか学ぶことができないのが人間ですが、歴史から学べないのも人間です。
マハタマ・ガンディは、'他人の象のような罪を塵のように見て、自分の芥子種のように思われる罪を山のように見ることを学ぶ 'と述べていますし、山上の垂訓でイエスは、'兄弟の目の中にある藁を見ながら、自分の目の中にある垂木のことを考えないのか?'と問いかけました。












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