希望

      
1141  初代ミス日本の夫は川上音二郎



日暮里と書いて、ニッポリと読ませるJR駅が山手線にあります。

田や畑を仕切るあぜ道が続く中に、百姓家が所々に見えていて、夕日が周りを赤く染めながら沈んでいく里といった風景を思わせる字面を、ハイカラにニッポリと発音する知恵は、江戸っ子の粋を感じさせています。
友人と5時半に田町駅(慶応義塾大学のある)で落ち合って、旧交を温める積もりで早めに東京に出てきたので、北京オリンピックで百、二百メートル平泳ぎで優勝した北島康介(チョー気持がいい!とインタビューで言っていた)選手の実父が日暮里で肉屋を営んでいると聞いた記憶もあり、時間つぶしに出かけて見ました。
駅周辺案内図によると、岡倉天心の美術学校や徳川慶喜の墓が近くにあると書かれています。坂を登って、左に谷中霊園(徳川慶喜の墓がある)への境界を目にしながら行くと、右手に寺社が建っていて、戊辰戦争で上野山に立て籠もり闘った幕府軍の残党が逃げ込んだのを、朝廷軍が撃った鉄砲の玉の跡が門に幾つか残っています。
先ずはと目指した岡倉天心の美術学校のあった所は公園になっていて、お堂の中に中国風のいでたちで帽子を被った天心の石像がありました。彼は明治の画壇にあって、西洋画風(油絵)を日本画に導入した先駆者であり、横山大観などの後継者を育て、またボストン美術館の日本美術蒐集に貢献しました。

台東区谷中霊園は広大な台地の上にあり、日暮里は谷の下になっています。
霊園は立派な墓が連なっていて歴史を感じさせます。霊園の大通りの一角に、台座だけが残っていて、元々は川上音二郎(1864〜1911)の銅像があったが、太平洋戦争で大砲や鉄砲の玉をつくる為に溶かされてしまったと書かれていて、妻は貞奴であり、共に欧米を巡業して周り日本劇を紹介した新劇の祖にあたります。マルチタレントの人だったようで、オッペケペー節の名調子に乗り、時代風刺をさかんにした人でもあったそうで、'芝居知らずが芝居で成功した'と評されました。
貞奴は明治を代表する売れっ子芸者であり、女優第一号、そして美人ブロマイドの売れ行きもトップ、上野凌雲閣で行なわれた美人コンテスト(和服姿の人気芸者百人のポスターを壁に張り出し、一般人が投票でナンバー1を選んだとか?)でもミス日本になり、欧米公演でも大和撫子を一目見んものと大勢の人が押しかけたそうです。

NHKの大河ドラマ'篤姫'では端役だった15代将軍徳川慶喜公(1837〜1913)の墓は、奥まった所に壁で囲まれてありました。鍵がかかっていて中には入れませんが、3基の円墳が見えていました。道なりに歩いていくと、上野寛永寺の勝手口近くに出て行き、鶯谷の方に向かっていく頃には雨が降り出しました。JR鶯谷駅の駅周辺案内図には、
正岡子規の住いした子規庵が近くにあると書かれていたので、買い求めた3百円の傘を差して尋ねていきました。表通りは車が激しく行き交っていて派手に水しぶきを上げていましたが、裏通りは静かで、すっかり暗くなった中、木造作りの子規庵に辿りつきました。
昼間の数時間だけ見学者に公開している様子です。司馬遼太郎さんの'坂の上の雲'の小説に登場する脊髄カリエスの末期ガンに冒されながら生来の明るさを失わず、新しい形式の詩を生み出すことに情熱を傾けた天才の寓居は、妖しげなネオンの瞬くホテル街の中にありました。

勤め帰りのサラリーマンで混み合う田町駅前で、久しぶりに出会った友人に2時間あまりの日暮里、鶯谷散策のことを話してみましたが、全く関心を払ってくれませんでした。
     




1142  説明・案内無料は千両・万両の価



11月初旬、急に思い立ち飛騨の合掌造り集落・白川郷を見に一泊どまりで出かけました。

信州路は紅葉が目に滲みるほど美しく、昼2時頃には高山に着きました。泊りは高山の旅館を予約してありますが、いっそ晴れているうちに白川郷を見るほうが良かろうと、険しい山々を穿ってつくった20前後あるトンネルを通って、30分後には所々に木造で傾斜した茅葺屋根の残る白川郷に入りました。
村を貫く自動車道を進むと、集落の突き当たりに簡易に土と砂利でつくった地面に紐で仕切りをした10台前後乗用車が停まれる駐車場がありました。五百円前払いの立て札が出ていて、道の反対側の家で払うようになっています。家の玄関には男性の老人が立っていて、車が止まるのを見定めて、家の中に入り集金人に早や変わりしました。
白川郷が世界遺産になったお陰で、年金に加えて駐車料金収入が1日1万円ぐらいあれば、孫に旨いものでも買ってやれるのだろうと、漁夫の利(地の利?)にあずかれる普通家もあることに気付きました。

谷津に点在する村を一望するには、近くの丘に登るのが最良の策と思い登っていくと、昔の支配者の物見の塔を兼ねた館があったことが立て札に書いてあり、傍には立派な石碑に世界遺産指定になった事由が述べられていました。
聞くところによると、使い辛い合掌造りの家は消えていく運命にあったそうですが、ドイツからやってきた知恵者が、似た構造のドイツ伝統家屋に比して讃えたのが転機(ターニング・ポイント)となり、村興し運動の起爆剤になったそうです。国の重要文化財に指定されている和田家は一般公開されていて、ご当主が受け付けに座っておられました。2階3階では、過って蚕を飼っていたそうで、明治の殖産興業を支えた製糸・絹織物産業の底辺を担っていました。官製工場で働いた女工たちが通った野麦峠も左程離れていません。
黒光りする天井や柱・床は、暖をとったり食物を煮炊きする為に薪を燃やした囲炉裏から立ち上る煙の煤で成ったそうで、決して健康に良い住居とは云えないようでした。家周りには、火災に備えて溜池や川から引いた水が流れていました。

高山の宿はサンキュウ(山久)といい、町の山手側の位置していて、近くには十幾つもの寺社が横並びに建っている様子でした。JR高山駅付近で見かけた外国からの観光客もサンキュウなら分り易く、経営者の才覚に脱帽しますと旅館の女将に言って見ると、サンキュウではなくてヤマキュウと発音し、祖父が始めた旅館で、祖父の名前を縮めて山久と付けたそうです。温泉湯ではなかったけれどヒノキでつくった浴槽と信楽焼きの陶器の浴槽があり、夜と朝とで男湯女湯が入れ替わることで、両方の浴槽を体験できるようになっていました。翌日行った有名な下呂温泉の露天風呂よりは、遥かにノンビリできたし、檜とか焼き物の風呂の意外性に感動しました。インターネットでたまたま見つけたのですが、他の客も山久の使いよさ、手ごろさを褒めていました。改めて、サンキュウ。

明けて次の朝は、高山の朝市や古い町並みを散策してから、高山陣屋に行きました。
日本全国で唯一現存する郡代・代官所であり、国の史跡になっていて、三つ葉葵の紋所(徳川家)の大きな提灯が表門の両脇に、そして三つ葉葵の垂れ幕も玄関の上がり口にかかっていました。入場券を買った折、貰ったパンフレットに'説明・案内無料で所要時間50分〜60分で行なっているので、希望の方は窓口に申し出下さい'と書いてあるのでお願いすると、直ちに70歳前後の男性が私達家族(4人)の前に現われ、案内が始まりました。殆どの見学者は案内を頼まず、廊下や部屋を見て回っていましたが、ゆっくりと言葉を選んで歴史を語られるこの方の後には、何時しか20〜30人がぞろぞろ吸い付けられた夢遊病者のように付いて歩いていました。

味わい深い話を数多くされましたが、記憶の片隅に残っているものを列記してみます。
江戸時代(1603〜1868)には60ほど全国に幕府直轄領(天領)がありましたが、現存する御役所としては高山陣屋だけとなります。江戸からやってきた旗本が代官・郡代として、飛騨地域の行政・司法・警察・税務などの政務をここで行ないました。
立法は江戸で行なわれ、代官は江戸の勘定奉行(今の財務省、法務省を兼ねたような大臣)の配下にありました。陣屋には、キャリア組(旗本や家人)とその家族や、ノン・キャリア組(現地採用の地役人、奉公人や女中)が住んでいました。幸いなことに、高山陣屋は明治維新後も地方官庁として主要な建物が使用されてきたのと、事務所移転(昭和44年)の際、過っての郡代役所を保存することになり、歳月をかけて綿密な調査を行なった末、平成8年にやっと修理・復元が終り、江戸時代の姿がほぼ戻りました。
修理した部分の多くは公務に使用した玄関の間、御役所、御用場、吟味所、大広間、使者の間などであり、母屋にありました。また、年貢米を納めた御蔵も母屋に隣接していて、年代も規模も最古・最大級の米蔵となっています。
復元した部屋では帳綴場、寺社詰所、町年寄り詰所、組頭詰所があり、これらの部屋は壁や障子ひとつ隔てただけで並んでいて、飛騨の風土や文化、しきたり、情報に疎い為政者を補助する機能がありました。寺社は特に出生、死亡の管理や禁制のキリスタンを見つけ出す役割をしていました。
明治時代以降、主に犯罪者を入れていた牢獄を撤去した跡からは、奥の空間(代官家族が使用した部屋や用人・女中部屋、台所や土間など)として使っていた建物を支えていた土台が見つかり図面通りに復元されましたが、柱や天井、屋根の高さまでは記録がなく推量で行なわれました。代官や奥方が使った部屋からは広い庭や池が望め、茶室もある結構な空間となっています。

明治になり初めて四民平等となりましたが、それ以前の階級社会とはどういうことなのかを畳を例に挙げ、ボランティアのガイド氏は説明してくれました。
模様のついた縁取りのある畳は上位の人だけが歩き、次に黒い布で縁取られた畳は一般階級、そして何の縁取りのない畳は女中や奉公人が歩いたそうです。最も、現代は縁なし畳がお洒落で高級になっていますが…。と云って笑わせてもくれます。
玄関の間は、大名も使用を憚ったという青海波模様の壁で飾られていたことや、身分の高い者が駕籠で乗り入れるために式台が低く拵えてありました。
刑事犯を裁く吟味所・御白洲も階級差が歴然としていて、本来白洲は青空天井、壁のない風が吹きぬける所で行なうものですが、ここでは代官が風邪を引くのを嫌ってか屋根付き、木の壁で囲った土間に丸い小石を敷き詰め、その上に容疑者を座らせ拷問(鞭打ちや石抱き)を行なわせ、自分は座敷の奥に座って成り行きを見守るといったつくりになっていました。
大広間は、公式の会議が行なわれた所でしたが、明治になってからは高山県の役人が事務机を並べ執務室として使っていましたが、昼間でも暗かったことから少しでも明るくしようと天井や壁を白く塗ってしまったそうで、移転する際大慌てで白壁を無理に剥がして元通りにしようと(文化遺産に昭和44年になっていた)した跡をユーモアたっぷりに教えてくれました。
11月から3月までは雪に閉ざされ交通を遮断される高山では、保存食用の味噌や漬物を入れた大瓶が台所に置かれていました。明治になると、陣屋は高山県の県庁として使われましたが、初代の知事は何故か元直参旗本が任命されてきたそうです。元々、この人は幕末の早い時期から政変を見越していて、朝廷に取り入っていた人だそうです。
江戸に早く帰りたい一心で,飛騨で獲れた新鮮な鯉を氷漬けにして江戸の上司・勘定奉行に送り、付け届けをした代官もいたそうです。テレビでお馴染みのやり口で、賂金は鯉を入れた箱の下に隠してあったそうです。それとなくいいものを受け取った主旨の奉行からの礼状が届いていて、米蔵の壁にかかっていました。
飛騨は山国であり米の取れ高は知れていましたが、一応米で年貢を納める国是となっている建前から物納させた上で、金に換えて江戸に10日かけて送っていたそうです。

ガイド氏が最後に力を入れて語ったのは、百姓・善九郎の話でした。
天領では、百姓は五公五民(年貢が半分、自分で自由にできる米が半分)とか四公六民であり、大名領の六公四民や七公三民という厳しい年貢取り立てはなく、天領の百姓は江戸期を通して恵まれていたと信じていた私には、幕府も大名と同様に被支配者に酷な政治をしていたのを知ったのはショックでした。
18世紀後半、幕府の財政逼迫から高山での検地を再度行い、年貢米を増やそうとする計画に抗議した百姓たちの中に、本郷村の善九郎がいました。
公儀のお咎めを受けた弱冠数え年18歳の善九郎が獄中から妻かよ(数え年17歳)に宛てて書いた文(遺書)と時世の句を淡々と読み上げ、飛騨高山の気候風土が生んだ一人の若者を例に挙げて、郷土の誇りを語りました。
これほど見事に郷土愛を語った人に出会ったことはなく、白川郷や名泉・下呂温泉が褪せて見えました。

辞世の句
寒紅は無常の風に誘われて、莟みし花の今ぞ散り行く
常盤木と思うて居たに落ち葉かな     
                 
12月1日(旧暦でしょうから、太陽暦に直すと1月中ごろ?)に書かれた文には、僅かに遠島追放の沙汰に希望を託し、再開の機会もあるかもしれないと妻に言っていますが、辞世の句では寒紅(寒椿?千両、万両、南天、若しくはモチの木の実?)が散り行くとなっています。文には、周りの大人たちに気を使い万事執り行なうよう妻に指示しながら、死んでいった若者が、たった2百年前の日本にいたことに改めて感動しました。
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143  地震と火災に備えての訓練では


ニュージーランドの玄関口オークランド空港の中の免税店で働いて経験を持つ日本女性が、海外へ行く為の資金稼ぎに年末商戦たけなわの千葉駅近くのデパートで、売り子として働いています。

会うと開口一番、'驚いた!'と目を丸くして口を尖らせて興奮気味に話を始めました。
早朝に出勤を命じられた彼女が行くと、開店前のデパートの中で、地震と火災に備えての訓練があり指示されたのは、まずその場にしゃがむことだったそうです。それから落ち着いて後、客を非常口へと誘導する内容でした。
ニュージーランドでは、非常の際は、まず店のシャッターを下ろし、商品の盗難を防ぐことから始めるそうです。停電や暴動でも、盗難が一番恐いのが外国では常識になっているが、日本は盗難の心配はいらない安全な国と考えている発想にビックリしたそうです。

また、多額の買い物をされる客にだけ発行されるゴールド・カードをお持ちの方には、買い物された品物を包装してお渡しするまでお待ちいただく時間に関しても、'お呼びします'ではなくて、'お持ちします'との指導だったそうです。お客様は神様扱いになっているのに改めてビックリしたと、国際人?になってしまったその人は、日本を珍しい人種の住む所というガリバーのような目で捉えている様子でした。
   




1144  お札の顔で歴史の流れが分る国



野口英世が千円札に、樋口一葉が5千円札、福沢諭吉は1万円札に使っているのが日本です。

明治を代表する文化人をお札の顔にしています。
戦後から昭和30〜40年代の日本のお札の顔だったのは、百円が板垣退助、五百円は岩倉具視、千円は伊藤博文や聖徳太子となっていて、飛鳥期と幕末から明治期に活躍した政治家となり、大蔵省(今は財務省)や日本銀行が'和を持って尊しとなす'と語った聖徳太子が活躍した飛鳥時代と近代日本をつくった明治時代に焦点を合わせることで、国内外にアピールした意図が覗えます。

歴史時代(文字を使うようになってから始まるとされる)に入って、およそ1500年近くを経過した日本ですが、お札に使われている人物を通して国を考えてみるきっかけになったのが、、11月末に久しぶりに訪れたポーランドでした。

966年にミエシュコ1世王が、ローマ・カトリック キリスト教を国教とするポーランド王国をつくりました。そして、ボレスワフ1世王が政治手腕を発揮して、神聖ローマ帝国皇帝オットー3世から王冠を授けられたことで、ポーランドは周囲から認められました。
しかし、13世紀に入るとドイツ騎士団がポーランドの西やバルト海沿岸に勢力を伸ばしたり、モンゴル族が東や南からポーランドを侵しました。14世紀に入ると、ポーランドは安定を取り戻し、カジミエッシュ3世王は大学を初めてつくったり、ユダヤ人を保護して商業工業を盛んにし、クラクフやルブリン、ボズナニなどの都市が成長して後に黄金期と呼ばれる礎をつくり上げました。

10ズオッティ札にはミエシュコ1世、20ズオッティ札はボレスワフ1世、50スオッティにはカジミエッシュ3世の顔が時間の経過に合わせて描かれていて、建国から近代(17世紀半ば以降は、大洪水と呼ばれる苦難の歴史が始まる)までを支えた、今に至るまで国民の誇りである英雄王たちが日常生活に使うお札に登場していました。
ローマ・カトリック教を心の拠りどころとして、国の存亡を懸け闘ってきたポーランド人は、国名が地図から消えたりポーランド語を話すのを禁じられたこともあり、長い苦渋に満ちた道を歩いてきました。

ズオッティ札はポーランド人の自由、尊厳にまで触れる意味を秘めているような気がします。そんなズオッティ札も数年後には、ユーロ札に換える計画が着々と進行していると聞きました。
     




1145  何とかスキーさんは陽気な人たち



ワルシャワの中心にジェルジェンスキー広場と呼ばれた、恐いソ連のKGB(国家秘密警察)を束ねたボスの名前がついた広場がありましたが、今は元の銀行広場に戻っています。

ロシアでもチェコでも、〜スキーさんは大勢いますが、本家はポーランドであり、〜スキーという苗字はポーランドに多く名は体を表すほどだそうです。何とかスキーさんと結婚して?ワルシャワに住みガイドをしている日本女性が、ポーランド人はイメージとは違って酒やジョーク、ダンスが大好きな明るい人たちだと語ります。

仕事で空港に行くと、レイを首から提げて腰をくねらせながら税関を出てくるハワイ帰りのポーランド人、大きな縁のついたソンブレロを被って踊りながら出てくるメキシコ帰りの人などを見かけるそうで、お茶目な人が多く、初対面の人同士でも話が弾み、客をもてなすのが大好きな人たちだそうです。勿論、買い物などしていると、冷たい態度の売り子もいるけれど、そういう人は誰に対しても冷たい応対をしていて、世界中何処に行っても見かけるタイプに属しています。

ポーランドは18世紀末から20世紀初めにかけて、130年近く地図から国が消えてしまった歴史を体験したし、第2次世界大戦では600万人を超える人(およそ人口の5人に1人)が、戦争の犠牲になって亡くなりました。クリスマスには、食卓に1人分余計に皿を並べて、犠牲者を偲んで忘れないようにするのがポーランドの家庭での慣わしになっているそうです。
また、ヨーロッパで最初に人種や宗教で差別しない憲法をつくったのが、ポーランドで1791年のことです。

日本人のスイスに住む友人から聞いた、スイスでも人種差別があり、娘を公立校へ入れた所苛められたので、仕方なく月謝の高いインターナショナル・スクールに入れた話を、彼女はご主人にしたそうです。すると、ご主人はポーランドの学校では人種差別はないから心配要らない、大丈夫だと答えたそうです。実際、娘(日本人の顔をしているそうです)が学校に入ると、差別はなく仲間として受け入れて貰ったそうです。

日本でよく知られている童謡'森へ行きましょう。娘さんアッハッハ'は、ポーランドの唄だそうで、森と平地に住む人達の生来の明るさを語ってくれました。











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