希望

      
1101  やっと200年前に日本地図が完成



海を持たないスイスのホテルの部屋の壁に,1636年に描かれた二つの銅版画のコピーが掛っていました。

ひとつは、南北アメリカ大陸の地図で、両端に中南米各地に住む先住民族が描かれ、また上方にはヨーロッパの船が立ち寄る港町の絵が載っています。知っている町(キューバのハバナ、湖の中にあったメキシコシティ、チリのサンチャゴ)もあれば、知らない町(カルタジーナ、ポトシ、クオラネル、オリンダ)もあります。
南北大陸の中では、北半球の北西(ノースウェスト)は未だ探検が行なわれていないと見え、輪郭も中身も白紙に近くなっています。
もうひとつは、メルカカルテ(メルカトール図法)と書かれていて、その中に2つの球形の地図があり、一方に南北アメリカ大陸が、他方にはアフリカ、ヨーロッパ、アジア大陸がかなりの精度で描かれていました。日本に関しても結構正確に捉えていたことが分ります。南半球では、オーストラリア大陸は未発見と記されていて、存在することを信じている(北半球に多く大陸があり、南半球に少ないのは地球のバランスを欠くことになるので、南半球に未発見の大陸が必ずあるはず)様子が覗われて、後にオーストラリア大陸や南極大陸の発見に繋がりました。地図の上下には、世界各地で暮らすヨーロッパ人の生活振りや風景が書き込まれていました。

15世紀から始まったポルトガルやスペインによる知られざる世界の征服とキリスト教布教を目指した大航海のチャレンジは、1636年(日本では、3代将軍家光の時代で、本格的に海外に対して門戸を閉ざそうとしていた)までには、かなりの成果が上がっていたことを示した地図であり、俗にクック船長により行なわれた18世紀後半の3度に亘る南半球及び太平洋諸島の探検で、大航海時代は終わったと言われています。

日本では、やっと200年前に間宮林蔵などが日本中を測量して回って、日本地図が出来上がりました。
幕末(1858年?)のころ、海を持たないスイスが日本との通商を求めてやってきたそうですが、幕府は相手にせず追い返したようです。ヨーロッパの小国スイスですら日本に関心を持っていたことを考えれば、いかに日本が国際音痴だったかが分かります。
    




1102  憧れのスイスアルプス フラワー・ハイキング ガイドの教え



スイスには4千米を越える山が14ありますが、その内の11はヴァリス山塊にあります。

登頂の基地として19世紀半ばから、海抜1600米のマット谷にあるツェルマットが英国人登山家たちに好まれました。ツェルマット村に単身で近づき、他の山塊とは袂を別ち、一人凛々しく孤立して立つ、エジプトの屈折ピラミッドに似たマッターホルン(海抜4478米のマット谷の角という意味)は、1865年に初めて英国人登山家ウィンパーにより登頂されました。
ヴァリス山塊をぐるり360度愛でるのに最適の展望台'ゴルナグラート(海抜3089米)'には、トンネルのない歯型式鉄道(ラックレール)でゆっくりと、ツェルマットから登って行きます。帰りはローテンボーデン駅で降りリッフェルベルグ駅間(海抜2500米から2300米の間)を高山植物の写真を撮りながら、風がなくラッキーであれば小さな湖面にマッターホルンが逆さに映ったり、アルプスの小動物マルモットに出会うこともあるハイキングを、2時間するプランでした。
この地に移り住んで15年を越すと言う山歩き専門の日本人ガイド女史は、歩き出すに当たって、ローテンボーデン駅前の広場で、準備運動を私たちにさせながら、次のような訓示をのたまりました。
歩く道は狭く傾斜があるので、一列縦隊で歩き、先頭はガイド、最後尾は添乗員が務める。
歩くのが自信がない人はおられますか?と優しく問いかけ、一人が手を挙げると、ガイドの直ぐ後ろを歩いていただきましょう。と流れるように話を進め、高山植物の花の名前は、後ろを歩く人に伝えていくやり方で行ないますが、得てして添乗員まできた時には、全く違った名前になっていて、例えば忘れな草が浮名を流すに変ってしまったなどと言って、笑わせていました。
また、花の説明は山側のみとし、谷側のものはしないと言い、谷側の花は写真を撮らないように全員に注意しました。自分の体重と背中に背負っているリュックの重みで、谷側の花をカメラに撮っていた人がバランスを失い、谷に落ちて死んだ例を軽く言い添えました。
リュックは凶器に変る怖れもあり、前を歩く人が振り向いた際、直ぐ後ろを歩いていた人の顔をリュックが打ち、3針縫うこともあったと言います。最後に、靴の紐がしっかり結んであるか確かめさせ、踵で歩き、踵からつま先へと足を着くのが正しいハイキングの仕方だと言って、いよいよ歩き始めました。

山の天気は変わり易いのは承知していましたが、晴れて白い雲が高く幾つか見えていた風景が、風と共に急速に日が翳りねずみ色の雲へと変わり、小雨が降り始めました。雲行きが怪しくなったので、2度立ち停まり雨具を取り出して、全員しっかりした暴風雨用の重装備に変身されました。私だけが、ただ折りたたみ傘をリュックから取り出して、緊急事態に備えるという有様でした。やがて、横なぶりの強い雨が耳や靴の中に侵入し、怖い雷がゴロゴロと鳴り出すと、ガイド女史を先頭に下の駅を目指して一目散に向かう中、私は日本で通勤用に履いているビニール製の安い靴で、ぬかるんで雨が川のように流れる道を避けながら,出来るだけ固い滑りにくい所を選びながら歩いて下りていきましたが、折りたたみ傘の細い骨も風で折れてしまい、散々の体で駅近くのレストランに辿り付きました。

何とか皆で昼過ぎには電車で下山してホテルに帰ると、先ずは風邪を引かないように熱いシャワーをゆっくり浴びてから、ヘヤー・ドライヤーが3時間余り大活躍することになりました。
靴の中、リュックの内外、身に着けていた服全てを乾かしました。
添乗員として失くしたり盗られたりしては絶対にいけない物といえば、パスポートであり航空券ですが、Eチケット(電子チケット)の登場で例えチケットがなくても、左程旅行には支障がなくなりましたので、ハイキングには魚釣り用のポケットの沢山あるベストにパスポートだけを入れて持参しましたが、そのパスポートもびしょ濡れで顔写真のラミネートされているページも皺になっていました。丁寧に時間をかけて皺を伸ばし何とか乾かしました。乾いた後の顔写真は目皺がなくなり(?)、若返ったような自分を見つけたように感じました。

ガイド女史の教えと言えども、まさかの時は役に立たない?ことも学んだ一日でした。
    




1103  コンニチワからニーハオへ



夏のある日のユングフラウ・ヨッホ駅は、インド人団体の人たちで溢れていました。

外見も、口から発せられる言葉も、雰囲気も明らかにインドそのものであり、数年前に
ボリーウッド(ハリウッドに対抗して、世界一の映画制作数を誇るボンベイ映画の代名詞)の映画ポスターを壁に貼ったインド料理店が、ヨッホ駅展望台の一角に誕生した理由が初めて分った気がしました。
コンピューターやハイテク関係の軽少短薄産業に加え、鉄鋼自動車などの重厚長大型産業に至るまで、インド企業の世界進出は目を見張るものがあります。
また、中国本土からの団体旅行者がヨーロッパへやってくる時代の到来を告げる、ホテルの部屋にあるテレビのチャンネルには、必ず1〜2局の中国語放送があり、北京オリンピックの開催で一段と勢いづいています。通りを歩いていても、子供たちが私たちを見て、声を掛けるとすれば、先ずは'ニーハオ'という言葉を耳にする機会が増えています。

テレビのチャンネルから日本語放送(JSTV)が消え、中国語アラブ語インド語チャンネルが登場していて、部屋からの国際電話の掛け方にも中国語での案内があるホテルが現われるなど、アジアは元の鞘(15世紀末のヨーロッパ諸国による大航海により、植民地化される前のアジア世界は、中国やインドは元より現在石油を産出している多くのイスラム諸国がパワーを握っていた)に収まりつつある感があります。
軍事力、政治力、経済力、情報力と将来性(勢い)の高い評価が、中国やインド、石油産油国の集中するアラブ諸国に向けられているようです。

インターラーケンへと下ってく行くユングフラウ鉄道で、私たちの乗っている車両に途中駅から30代前半に見えるインド人夫妻が入ってきて、雑談が始まりました。
新婚旅行ではなくて7年越しのスイス旅行の夢が適った旅であり、ボンベイに住んでいて、来年はベイビーをつくる予定だと気さくに話してくれました。
1970年代は、インド仏跡巡拝団や文化交流目的のグループを引率して、よくインドに行ったことがあり、当時一世を風靡した映画'ボビー'の主題歌を薄ら憶えですが、ヒンズー語で口ずさんであげると、彼らは知っていると見えて、目を輝かせて聞いてくれました。
    




1104  シーニゲ・プラッテの高山植物園


北海道よりも少し北、樺太の南にあたる北緯46〜48度あたりに位置していて、広さは九州ぐらいで全土の3/5がヨーロッパ・アルプスに属しているのが、コンフェデレシオ・ヘルベチア(ヘルベチア連邦共和国)別名スイスです。

映画'サウンド オブ ミュージック'の中で、毎年8月に行なわれるオーストリアのザルツブルグ音楽祭に出場した後、アルプス越えしてトラップ大佐一家が中立国スイスへと逃げていくシーンがありました。オーストリアはスイスにも増して、国土の2/3がアルプスの中にあり、ヒットラーの支配するドイツに組するのを良しとしない海軍将校トラップ氏の決断とはいえ、幼い子供たちを含む家族が2千米から三千米級の山の連なるアルプス道を歩いて、遠く西にある幸せと安全を約束してくれるスイス(陽の沈む方に永遠を見ようとする傾向が古代エジプト・ギリシャ時代以来ある人たち)を目指したのを思い出しました。森林限界地点(1800米〜2000米あたり)を越えると緑の草原が広がる中、所々万年雪を被った荒々しい岩盤が露出した山系を見ながら、何日も歩いたことでしょう。
苦しかった旅とはいえ、きっと辺り一面に咲き誇る高山植物の花の匂いに吸い寄せられて集める蝶や虫、時に土の中から顔を覗かせるマルモット、のんびりと草を食む牛や山羊に羊に、空を舞う鳥の声や雪解けのせせらぎの水に疲れを癒されたことでしょう。

私達は2008年7月の初め、フラワー アルプス・ハイキングと銘打ったスイスで2ヶ所(ゴルナグラート展望台近くのローテンボーデンからリッフェルベルグ,ベンゲン近くのメンリヒェンからクライネシャイデックまで)、フランスで1ヶ所(シャモニ近くのル・プラリオンからベルビューまで)海抜2千米辺りを歩きました。
そして、日本に向けて帰る日の朝も、インターラーケンとユングフラウ・ヨッホを結ぶユングフラウ鉄道の途中駅ヴィルダーズ・ヴィルからシーニゲ鉄道(ユングフラウ鉄道同様、百年の歴史があり、ラックレールになっている)で、ゆっくり2時間かけて海抜2千米のシーニゲ・プラッテへ登りました。
1927年にオープンした頂上駅傍の高山植物園には、600種近い野草が育っていて、この時期の花であるアルペン・ローゼ、アキルレア、クラウェンナエ、アルペンポピー、アスター、エーデルワイズなど赤、白、黄、ピンク、青と色とりどりの競演が見られ、背後にはベルニナ・オーバーランド山群の見事な山塊が控えめに色を添えていました。

'私のスイス'という名著を書いた犬飼道子さんは、本の中で再発した結核病の療養の為
スイスにやってきた折、シーニゲ・プラッテを訪れていて、スイスの代表的な景色だと讃えていたように思います。
昼食もシーニゲ・プラッテ山頂ホテルで頂きましたが、全員のランチョン・マットの上に
押し花になった茎や葉付きのエーデルワイズの花がラミネートされたプラスチックの中に
入っていて、下に敷かれている台紙にはシーニゲ・プラッテ スイスと印刷されていて、
登頂記念にお持ち帰り下さいという配慮がされていました。

トラップ大佐一家が音楽祭で別れに歌った曲こそ、祖国の花エーデルワイズであったのを懐かしく思い出しました。
    



1105  イギリス人はアイロンかけが好き



イングリッシュ・ブレックファーストには、ホットプレートとして暖かいハムやソーセージ、ベーコンなどの肉類に加え、ビーンズや各種の卵焼き(炒り卵、目玉焼き、ゆで卵)、トマトまで暖めてあり、様々なシリアルやコーンそしてヨーグルトやジュース類などのコールド食品まで並んでいて、豊かな気持に何時もなります。

伝統的に夕食を早め(18時〜19時)に、しかも子供などは軽めに食べて寝かせるイギリスでは、朝食は必然的にヘビーなしっかりしたカロリーの高い内容になるのでしょう。
その対極にあるのがコンチネンタル・ブレックファーストと呼ばれるもので、パンにバターやジャムだけでコーヒーを飲むというシンプルなヨーロッパ大陸側で食されてきたスタイルですが、特に地中海に近いラテン系の国々では、夕食をゆっくり時間をかけて遅い時間帯(20時〜23時)にしてきた習慣があり、朝は軽く済ませてきたリズムに根ざしているようです。
尤も最近では、ヨーロッパ大陸諸国のホテルでの朝食では、コールドプレート(ハムやチーズなど)に加えて、ホットプレート(卵やハム、ベーコンなど)更にシリアルやコーン、ヨーグルトまで並べてブフェ・スタイルで食べさせるのが増えています。
'風土が人をつくる'と言われて久しいですが、保守の代表格である食文化の面でも変化が生まれてきているようです。

東京の下町生まれの日本女性が、留学中にロンドンの下町生まれ(イースト・エンド)のイギリス人の若者と恋に落ち、結婚して丸4年になるそうです。日本に関するもので唯一彼が知っていたのは、いつかイギリスのテレビで見た日本には温泉に入る猿がいるということだけで、実際に彼女の日本の両親に合わせるために帰国した際も、猿が入る温泉まで出かけたそうです。日本人がタコやイカ、クラゲまで生で食べるのを聞いたご主人の母親は、日本に行く息子が心配でイギリス人なら異国を旅する時に持参する必需品の中で、ハムやベーコン、ソーセージは日本でも手に入るのを確かめた上で、ビーンズだけは難しいというのを聞き、沢山のビーンズ入り缶詰(西部劇でカーボーイが野宿で食べている類)を持たせたそうです。
兎に角、イギリス人は古い物が好きで、新しいものをめったに買わず、ズボンやシャツは必ずアイロンかけをするそうです。日本では、洗って直ぐ乾かせば、アイロンをかけることなく着れる服に変わっていく中、イギリスでは大きな部屋用に適した大きなアイロン台とアイロンが一組あり、別に小さな部屋には小ぶりなアイロン台とアイロンがあるという、昔からの生活リズムが続いていて、アイロンかけは彼女よりもご主人の方が上手だそうです。旅行中でもアイロンかけを欠かさないそうで、イギリスのホテルには各部屋にアイロン・セットが通常クローゼットの中か、どこかに置いてあり、若しなければアイロン部屋が別個備えてあるそうです。

複数の猫や犬を飼い、サセックス(イーストエンドよりも更に東の地区)で幸せに生きる20代半ばの日本女性の話でした。










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