希望

     
1086  売れないものを食す人たち



ドロォ〜と舌に粉が付くようなギリシャ・コーヒーを啜りながら、奇岩で有名な空中に浮かぶ修道院のあるメテオラに向かう途中の休憩所で休んでいると、50代の中年ご夫婦が過って旅した、イエーメンのモカの町でのコーヒー体験を聞かせて下さいました。

コーヒーの本場だけに、さぞ美味しかったことでしょう〜と相打ちを打つと、商品として売れるコーヒーの豆は一切口にせず、種の周りの果実も取り除き、皮を炒ったものでコーヒーを作って飲んでいたそうです。味はイマイチだったそうですが、生産者は残りかすを口にしていました。
また、このご夫婦は中央アジアのサマルカンドにも行かれたことがあり、現地の人は乾かした杏(あんず)種を手の指で押しつぶして、中身を取り出して食べていたそうです。同じように試みたそうですが、握力不足の為、種はビクともせず、結局割って貰って食べたその味は、塩ッ気が利いていて美味しかったそうです。
みずみずしい杏の実は、乾燥地帯に住む人にとってはご馳走に違いありませんが、種まで食べてしまう文化にビックリしたそうです。

同様に、フランスやベルギーでも漁師が売れ残った雑魚やムール貝を仕方なく家で食べていたものが、ブイヤベースやワインで蒸したムール貝煮として、今では名物料理となっています。日本でも、雑魚や小魚は乾燥させ日干しにしたり、佃煮にして食す知恵をだして生きてきました。

古くから世界に広く共通する、食べ物を大切にして生きてきた人たちの作り出した食文化に、感謝!感謝!
       




1087  俺に限って!



古来,大軍は得てして慢心して油断しがちになるようです。

紀元前480年、ペルシャ軍は10年前の恨み(マラトンでの敗北)を晴らすべく、陸と海、双方から構成された大軍でもってギリシャ本土を攻めました。
両方から山が迫り狭地になったテルモピレーにおいて、スパルタの勇将・レオニダス率いる三百人のスパルタ兵と同盟軍あわせて僅か千人のギリシャ軍は、散々敵を悩ませました。
万に一つの勝ち目はなく、降伏を呼びかけるペルシャ側に対して、'来て取ってみろ!'と返事、又味方に対しては、'友よ 死に行こう!'と潔さを鼓舞、最期の一兵まで闘いました。
有名なスパルタ教育とは、男児は7歳で親元を離れ集団で生活を始め、勇敢な兵士になる訓練を受けました。成人後も1年間は山中に入り、自給自足の生活を体験しました。
結婚しても、1年以内に子供に恵まれなければ、女性は別の夫を選んだそうです。虚弱な赤ん坊は、スパルタの町の背後にあるタイゲトス山の鍾乳洞の穴に投げ捨てたとも言われます。
オリンピアの地で4年に1度開かれたオリンピック競技においては、格闘技部門では多くの優勝者を出したそうですし、また紀元前8世紀以降盛んになったギリシャ神話の神々を祀る神殿も、スパルタの地においては左程建てられなかったそうです。神頼みではなく、自力による生き方を好む人たちでした。

5月の頃、テルモピレー(温泉地としても有名)辺りでは、黄色い小さな花を沢山つけたスパルタ(4月という意味だとか)草が咲いていました。
陸での戦いに見切りをつけたギリシャ軍はアテネの町を焼き払い、海上での一戦に望みを繋ぎます。地理に疎い敵方にわざとサラミス島付近にギリシャ船団が集結していることを知らせます。サラミス島と本土との間は狭い海峡であり、大型の重装備のペルシャ船団は動きがとれず、小回りが効く小型のギリシャ船団は散々に打ち負かし、勝利しました。

中国でも揚子江の左岸、赤壁の戦い(紀元後202年)で降伏を装って大軍の魏の船団に近づき,枯葉を満載した自船を焼き払い撹乱させ、勝利した呉と蜀の連合軍の逸話があります。その結果、天下三分の計(曹操、孫権、劉備による江北、江南、蜀の支配)が生まれています。

イギリス海峡でも1588年、圧倒的なパワーを誇るスペインの大型船団・アマルダ艦隊は天候(運)にも見放され、小回りの効く高速小型船でヒット・アンド・ラン(隙を突いて襲い、素早く立ち去る)作戦のイギリス海軍(海賊も加わっていた)に翻弄され、歴史的な敗北を喫しました。
昔から繰り返された,敵を狭地に誘い込み混乱させ、散々に打ち負かす作戦は、'俺に限って!'と驕慢している者が陥る罠なのですね。
     




1088  村人のしっぺ返し



ギリシャ各地で見つかった古代遺跡からの発掘品の逸品は、殆どアテネの国立考古博物館に飾られているという。

例外は、マケドニアのテサロニキ考古学博物館、クレタ島のヘラクリオン考古学博物館、ペロポネソスにあるオリンピア考古学博物館、そしてデルフィの考古学博物館で、逸品は発掘遺跡近くにそのまま留め置かれています。

パルナソス山を背にして、眼下にプレイストス川を望む景勝の地に、カスタリアの聖なる泉で身を清め、月桂樹の葉を口に含み地球の臍(メタンガスの湧き出す穴)へと入って行き、神託(おそらくトランス状態になって)を行なったピィティア(巫女)の占いの評判と、音楽と光の神・アポロンが結びついて、古代地中海世界でも屈指の神域が生まれました。4年に1度ピィティア祭が行なわれ、運動競技や詩のコンテストはローマ時代に至るまで続けられました。しかし、キリスト教時代(4世紀以降)に入ると、神域は忘れ去られていき、遺跡は消え、その上に村が営まれるようになりました。
19世紀末(1890年)にやってきたフランス考古学隊は村をそっくり立ち除かせ、発掘を開始しました。そして、古代時代の栄光の遺物が次々に見つかり、その主要なものはデルフィ考古学博物館に展示されています。

博物館に入ると、デルフィは元々先進文化圏であるオリエント地方の都市の影響を受けて発展したことを語る青銅製のオリエントからプレゼントされた置物があり、次の部屋では巨大なスフィンクスの石像が目に飛び込んできます。アポロン神殿の近くで、参拝者に次のような問いをスフィンクスはしたそうです。'朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足になる生きものは何?'正解は人間です。赤ちゃんの時は四つんばいで、年取れば杖を付いて歩くからでしょうか…。また、神殿前には'汝自身を知れ'と刻まれた柱も立っていたそうで、ソクラテス(BC5世紀の人)が哲学を志すきっかけになりました。
リンカーンの奴隷解放宣言を先取りする主旨の文章が記された紀元前2世紀の石碑壁やアポロン讃歌の楽譜の残る石壁も見つかりました。
ハドリアヌス皇帝(AD2世紀の人)の愛した美青年アンティオスの大理石彫刻もあります。そして、博物館の誇りは青銅製のイニオホス像です。4頭立ての戦車競技の御者を指す言葉だそうで、興奮冷めやらぬ優勝した直後であるにも関わらす、静かに手綱を握る若者像は博物館の最後の部屋に置かれています。

キング・イニオホスという名のホテルに泊りましたが、受付の女性によると、19世紀の末に村人たちは遺跡の上にあった住居を強制的に立ち退かされましたが、立退き料は貰えなかったが、それに勝る宝物を内緒で持ち出した村人たちは、遺跡近くに新しくデルフィ村をつくる際に、古代建造物を使ったそうです。
今も村人の多くは、観光客を相手にホテルやレストラン、みやげ物店を営んでいるそうです。
     



1089  高校卒業試験に合格すれば、大人の仲間入り


デンマークでは、6月末の数日は昼も夜も様々な色の丸い帽子を被った男女の若者たちが、町の広場に集まったり、郊外では小型ピックアップ・トラックに乗り、手にはタバコやビールなどをかざして、大いに気炎を上げている風景にぶつかります。

難関の全国一斉に行なわれる高校卒業試験に合格して、晴れて大人社会の仲間入りできた喜びを体全体で表しているのだそうです。この時ばかりは大人たちは大目に見てやって、暖かく祝福してあげるそうです。帽子の色は、商業校とか農業校、普通校などの違いを見せていて、評価も1〜13段階に分かれていて、8〜10レベルが自動的に大学へ進め、それ以下は厳しい社会の現実があり、11以上には天才・英才コースが待っているとか?
酒やタバコに関しては、少年期から規制されて育てられてはいないそうで、自分に合った生き方を自然に自分で考え決めるよう自主性を促す育て方を、家庭も社会も良しとしているそうです。
高校を卒業すると、誰も親元を離れ独立して大人として巣立ちしていきます。
男児には兵役の義務が待っています。

デンマークの歴史には、燦然と輝く中世から近世初め(17世紀前半)までの海洋国家時代もあれば、その後のスエーデン、ノルウエー、アイスランド、北ドイツを相次いで失っていった現在に続く苦難もありました。
しかし、今では船舶所有数では世界のトップクラスであり、各種のパテントによる外貨収入、農業面の酪農、農協や生協(CO−OP)のシステム化に成功していて、個性に富んだ人材を育てる教育で、国を活性化しています。
東海大学(日本を代表するマンモス大学)の創始者・松前氏はデンマーク式教育を手本にしたと聞いています。

頭が悪いから、仕方がないから父を継いで農業をしようか?などという発想はなく、農業経営に必要な知識やセンスを持ち合わせているかどうかが決め手となるそうで、九州ほどのサイズで、人口5百万の国・デンマークが北欧(スエーデン、ノルウエー、アイルランドなど)の盟主と一目置かれている所以はその辺りにありそうです。
     




1090  ニースはボロン山の展望台からの眺めが一番



山も海もある県(アルプ・マルティーム)の都・ニースは、鎌倉,神戸と姉妹都市になっているそうです。

他所で金を儲けた人たちがニースに遊び、住んでいて、何もしないこと(無為)が理想・贅沢であり、港ではパンとチースを練って餌をつくって(日本では、ゴカイやミミズ)釣り糸をたれている人がいたり、食事で水を飲むのは蛙と見なされ、ワインなしは片目の美人もしくはジャングルのゴリラ(見た目に明らかに文明度の低い?)のようなものなのだそうです。
食卓を楽しく演出するのは男の役目、飲み物の注文もお酌も男、エレベーターの乗り降りは女性を優先、道を歩く際は男が車道寄りでエスコートと何もかも男がするのだとか…。
紺碧の海岸(コート・ダジュール)の天使の入江では、朝10時を少し回った頃、既に大勢のビキニ姿の女性や太鼓腹の男性たちが思い思いに小石の海岸に寝そべっていました。

目のレンズを望遠にして地中海を望むボロン山の中腹へと登ると、喧騒の巷を離れた美しい海の青と山の緑が程よくマッチしていて、なるほど19世紀後半から高級な避寒リゾートの町として発展してきたのが、府に落ちました。









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