希望

     
1066  何万トンの船か知らない船員たち



ギリシャの内陸にある奇岩の上につくられたメテオラ(空中に浮かぶという意味)修道院群を見た後、山頂に雪が未だ残る2千米を越すピンドス山脈の嶺峰を遠くに、そして近くに感じながら曲がりくねった道を5時間近くかけて走って、イオニア海とアドリア海を繋ぐオトラント海峡に面したイグメニッツァ港に着きました。

この街道は北にあるアルバニア(イスラム教の国)の国境にほど近いので、越境してギリシャに密入国してくる人が多くいると、以前ドライバーから聞いたことがあります。
今は高速道路を建設中で、完成すればバルカン半島とヨーロッパをつなぐ水陸の交通網が向上して、経済発展が大いに期待できそうです。
イグメニッツァの海岸通にはフェリー運航会社の事務所やホテル、レストランや商店、そしてフェリーポート・ターミナルなどが立ち並らび、街灯の下で灯りが群居していて活気があります。深夜の出航予定なので、遅い夕食を海岸通のホテルで取った後で、いくつかのフェリー運航会社の受付カウンターやショッピング、食事などできる設備の整ったフェリーポート・ターミナルにバスに乗って行き、時間を過ごしました。
ヨーロッパで一番古いドラクマ紙幣からユーロ紙幣に2001年に変るまでは、パスポートなしでは入れない所でしたし、免税店があったのを憶えています。時と共に、全てが変っていくのを実感します。

出航時間の20分前に再びバスに乗って、海岸通と同じ高さになるようにコンクリートでつくられた船着場に向かいました。
そこは、巨大な駐車場あるいはグラウンドといった印象で、40〜50メートル間隔で1番から順に番号を記したブリキ製の立て札が埠頭近くに立っているだけで、立て札と岸壁を遠く囲むように何台かのバスやトラック、乗用車が灯りを消して、静かにフェリーの到着を待っていました。波はなく、暗く微風が吹いているだけでした。
きっとイグメニッツァ港の前面に南北に長く横たわっているはずのケルキア島が、荒波や強風を日頃から防いでくれているからでしょう。またケルキア島の南には、紀元前30年にシーザー・アウグストゥスとアントニウスが闘ったアクティウム海域があったり、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の生まれたレフカス島もあります。八雲はアイルランド人を父に、ギリシャ人を母に持つ両親の愛情に恵まれない幼・少年期を過ごしましたが、名前のラフカディオは母親の出身地であるレフカス島からつけられたそうです。

何隻かのフェリーが接岸したり出航していくのを見ているうち、30分ほど遅れて漸く私たちの待つブルースター・フェリー船会社のスーパーファースト(高速?)6号が、女性がお尻のスカートをめくり上げるような恰好で、大きく船尾の口を開けながら入ってきました。中を覗くと、駐車場は二層で上へはスロープを登っていくようになっていて、トラックや乗用車がぎっしり詰まっていました。
私達は、一階の横から入り、スーツケースはトラックなどと同様に隅に設けられた駐スーツケース場(2段になっていた)で係りの人に預け、もう一度入り口に戻り、そこから一気に7階までエスカレーターで上がると、そこは美しい別世界で、レセプションやレストラン、ゲームセンターにバー、アパレル・ストアに休憩室やデッキ等がありました。案内されたキャビン・ルームも思ったよりは広く、シャワー室やクローゼット、洗面所があり、そして二段式でない横並びのツイン・ベッドになっていて、ぐっすり眠れました。
翌朝、朝食券を持って時間前にレセプション近くに行くと、制服姿の船員たちが昨夜同様暖かく迎えてくれ話しかけてきました。
私たちが4日間でギリシャ各地を見て回ったことを聞くと、船員は大抵のギリシャ人は一生かかってギリシャを見るゆっくりしたリズムで生きていて、日本人はスーパーファースト号そのものだと言って笑わせてくれました。
2001年竣工のスーパーファースト6号は何トンあるのですか?の質問には、ファースト号紹介のパンフレットにも記載されていないし、質問そのものも理解していない様子です。船の排水量は?と聞くと、ようやく4万3千トンという答えが返ってきました。
レストランでの朝食は、レセプションにいた同じ船員たちが笑顔で盆の中に、ヨーグルトやパン、目玉焼きにベーコン、温かいコーヒーを入れてくれ、手渡してくれるサービス振りでした。

日本人は笑顔があり人生を楽しんでいる人たちだと思うと語り、彼ら船員たちが手に入れたいと願う製品(自動車、モーターバイク、カメラ、電化製品などなど)は日本製で、高品質の製品をつくりだす日本人は、さぞやギリシャ神話に登場するヒーロー・ヒロインに似て自由快活に生き、不可能を可能に変える理想像のように見えるのでしょうか?

余談ですが、タイの人も日本人を何て親切な人なんだろうと思うそうです。
日本人が'はい'とよく口にするのを聞いていて、タイ語では'はい'は'差し上げる'という意味になるそうです。これまた、誤解によるのですが…。

朝9時過ぎ(イタリアでは8時過ぎとなる)に定刻通りに、ヒールのあるブーツの形をしてイタリア半島のアキレス腱に当たるバーリ港に着き下船しました。
バーリの町は、東ローマ帝国のイタリアでの重要な港でしたし、十字軍運動(11〜13世紀)の際も戦士がオリエントに向けて出航していきました。また、小アジア(トルコ)のミラで司教をしていたニクラス神父は、3人の子供を蘇生させる奇跡を行なった人として、後にサンタ・クロースと呼ばれるようになり、子供たちにプレゼントを歳の暮れに持ってきてくださる夢の使者になりましたが、この町にもサンタ・ニクラス教会があり、巡礼者が今も訪れる所となっています。そして、二クラス聖人は広く船乗りたちの守護聖人としても知られていて、日本で言えば宗像神社や八幡神社に似た形で、教会が多く建てられました。

私達は、アップリア地方の中心都市バーリを素通りして、内陸のアルベロベッロへと向かいました。
     



1067  日本最初の美人コンテストはこうして生まれた!


東京の浅草公園の中に、明治23年(1890)高さ50メートルもある12階建ての円筒形で総レンガ造りの凌雲閣ができました。

最上階は展望台になっていて、東京中が一望できるエレベーターまで取り付けられていましたが、しばしば故障したそうです。折角、明治の新時代の象徴として、また公園の目玉としてつくった凌雲閣(雲を凌ぐ建物)に歩いてでも登ってもらおうと、一計が案じられました。最上階まで通じる階段の壁に100人の美人写真を掛け、歩いて登った人に誰が一番美しいか投票して貰ったそうです。

こうして日本最初の美人コンテストは始まったそうですが、彼女たちは水着姿では勿論なく,抱負を述べるスピーチをするわけでもなく、人前でキャッツ・ウォークをしたのでもありませんでした。日本文化伝統の'立てばシャクヤク、座ればボタン、歩く姿はユリの花'の言葉に代表される着物姿の美人たちであり、彼女たちこそ幕末以来、明治になっても新政府の役人たちの夜の会合の場を取り持った教養もあり,歌や舞もマスターし、外人客の接待にも動じず堂々と日本文化を披露した、東京の新橋や柳橋、深川などの芸者でした。
彼女たちの中には,政界の大物(伊藤博文、木戸孝允、桂太郎…)の奥さんになった人もいますし、社会的にも高く見られ憧れの存在でした。
定やっこという芸者は後に女優1号になりますが、パリにまで行き評判を得たそうです。
アンドレ・ジードが小説に彼女を登場させたり、ピカソがスケッチに残しているほどで、芸者ブームがパリ万博と相まって起ったそうです。
エキゾチックで神秘な雰囲気を醸す芸者と日本を代表する美しい富士山は、写真機の普及と共に広く海外に知られるようになり、フジヤマ・ゲイシャの造語が生まれました。
日本国内でも、明治時代はモノクロの芸者の美人写真に着色したブロマイドやポスターがよく売れた時代でした。

凌雲閣は大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。
また、大震災を期にして、日本髪や着物も急速に廃れていったそうです。
    




1068  通勤列車あれこれ



オーストラリアのシドニーから海岸沿いに百キロほど南に下った所にあるウォロンゴンの町に住む友人を訪ねた人の話を聞きました。

楽しく数日を過ごした後、シドニーへ列車で向かうことにしたそうですが、友人は朝の通勤列車は混むので避けるように忠告してくれたそうです。しかし、生憎とその通勤列車に乗って行ったそうです。所が、終始座って行けたそうで、殆どの人が座っていて立っている人は見なかったそうです。

南オーストラリア州の都・アデレードに行った時、変ったバスに乗ったのを懐かしく思い出します。街中を走っている時は運転手がハンドル操作をする普通のバスでしたが、町と郊外の境界を越えると低いコンクリートの壁がバスの両側を囲い、壁に取り付けられたマグネットがバスを自動操縦して、かなりのスピードで走るタイプへと変わりました。
そして、5分間隔で停まった駅の前は広い駐車場になっていて、家から駅まで車で運転してやってきて、駐車場に車を停め(丁度日本で自転車でやってきて、駅前の駐輪場に停めるように)、通勤バスに乗り換えて働きに出かけるようになっていました。そうすることで、街中に車が溢れ空気が汚れるのを防ぐ狙いがあるようでした。

一方、インドではボンベイ(ムンバイと今は呼ばれている)に代表されるように、主要な都市への通勤列車は超満員で、デッキにまで人が溢れ、中にはデッキからぶら下がったり屋根の上に乗っているのをテレビで目にします。毎日が命がけの通勤のように見えます。

日本でも、サラリーマンは定年までの40年近くは、朝晩2度もすし詰め状態の通勤電車を味わいます。
都会に仕事を求め、幸せを求めて人口が集中していく傾向は、世界中で起きています。
快適な通勤時間を過ごせるか、苦痛の時間となるかは、国により都市により様々ですが、たとえ込み合っていても、互いに知恵を出し笑顔や挨拶、思いやりという人間だけに与えられた特権を示せれば、嫌な思いは緩和するのですが…。
   



1069  オン・テンバーの国で、生鰊を食べる理由は?



テンバーとはオランダ語であり、日本語に直すと'躾ける'という意味になり、テンバーの前に否定形のオンを付けると'躾けのないはねっ返り'となり、日本語のオテンバ娘の誕生となりました。

江戸時代の2百年余りの鎖国中は、ヨーロッパの国々の中でオランダとだけ、日本は長崎の出島において交易をしました。オランダこそ、世界最初の市民国家をつくり上げた国であり、絵画を見ても、初めて裕福な市民層の凛々しい自衛団の勇壮や、レンブラントの出世作'チュルプ博士の人体解剖実験室'に描かれている富裕な商人たちの科学への関心の高さ、また庶民の日常生活や静物画、自然の風景などに、それ以前は絵の題材になり得なかったものが描かれる時代の到来となりました。
1600年代こそ、オランダの輝ける黄金期であり、東西インド会社を設立して世界を相手にフライング・ダッチマン(飛び回るオランダ人)が活躍しました。

そして、まさにその時代こそ(1568〜1648)宗主国スペインとの間で信仰の自由を掲げて独立戦争を行なっていました。
国の西半分は北海からの強い風が吹く高い波が寄せる低い低地の為、堤防を築いて侵食を防ぎ、また背後から流れてくる川の水は運河に分散して農業用水として利用したり、干拓した土地を乾かす為に湿地の水を水車でくみ上げ、高い所を流れている運河へ戻すなど未曾有の努力の末に確保した土地でした。
ライデンやハーレムの町では、長くスペイン軍に包囲され餓死者が出るほどの悲惨な戦いが続きましたが、ようやく勝利したときには、スペイン軍が残していった食料のニンジンや玉ねぎ、ジャガイモを煮て食べ祝ったそうです。それが、ヒュッツ・ポットという素朴な料理で、今も肉や魚のサイドディシュとしてよく食べられています。
また、決して美味しいとは言い難い、頭や背骨や小骨、はらわたを取り去り塩づけした生鰊を丸ごとかじって食べるのも独立戦争当時から続く、オランダならではの食習慣です。きっとスペイン軍に包囲された町の中で、海水の混じる運河や掘で泳いでいたニシンを捉え、神に感謝して空高くシッポを掴んでかざし、ムシャムシャと食べて飢えをしのいだ故事があったのでしょう。
今でも、初カツオならぬ初ニシンは王家に先ず献上する慣わしで、オラニエ・ナッソー家(王家)の当主が先頭に立って戦い、自らの命を犠牲にして勝ち取った独立に、国民が感謝の印として続けています。

2008年の3月の末に訪れた時には、アムステルダムから25キロ東に行ったナールデンのホテルに2泊しました。
建物の片側は広い畑になっていて、早朝には野鳥が鳴きながら飛んでいたり、小ぶりな野うさぎ達が雪が斑に残る土の上を餌を捜して徘徊しているのが、2階の部屋の窓から見えました。イースター(復活祭)が23日に終った直後であり、町のチョコレート屋ではイースター・エッグや兎の形をしたチョコレートが売られていました。
今でこそ動物愛護人口が増えているオランダですが、昔はクリスマスには野うさぎを食べる習慣だったそうです。多産の代表格が兎であることから、豊穣、繁栄、平和、幸福のシンボルとして、イエス・キリストの誕生や復活を祝う記念日には、兎は欠かせないものでした。
また、ナールデンには14〜15世紀につくられた堀に囲まれた五角形の要塞町跡が残っていて、スペインからの独立戦争の際にも、町の人々が中に立て籠もって闘ったようです。アイセル湖(当時は北海に直結する海だった)に面した港町で、五つの外へと突き出した所(胸壁)に鉄砲隊や大砲を配して大いにスペイン軍を手こずらしたことでしょう。今も、掘の外から見える要塞跡は、土手が高く土盛りしてあり大聖堂の尖った塔が空に向かって伸びていて、堀には水がありました。

日本には、有名な函館の五稜郭や長野県の杵田町(軽井沢近く)に竜岡城(五稜郭づくりだという)があり、江戸時代末期に出来たようですが、きっとオランダ語で書かれた本の中に、大砲や鉄砲で攻め寄せる軍に対して、防衛する為の城や町づくりの方法が絵入りで述べてあり、それを参考にしてつくられたのでしょうか?
ただ、オランダの五稜郭づくりの町は4百年もの昔に考えられたのに対して、日本のそれは幕末の時代(19世紀前半)であり、スペイン・オランダ戦争(16〜17世紀)より遥かに軍事力も戦術も進歩した欧米列強諸国の進攻を想定してつくったのだとすれば、かなり時代遅れのものだったように思えます。18世紀末のオランダ語からの翻訳書である'解体新書'も、レンブラントのチュルプ博士の人体解剖実験室の絵から150年後のものです。

江戸市民は、1853年ペルリの率いた4隻の木造に鉄板を貼り付けた蒸気船が、江戸湾で煙突から蒸気の煙を吐き出している姿に、日本中が大騒ぎしているのをもじって、当時売られていた日本茶'陸蒸気'ブランドを登場させ、
'陸蒸気 たった4杯で夜も眠れず'と、皮肉ってみせたそうです。

その後の15年は,元寇の役(1274,1281)以来の大慌てで、明治維新へと突き進んでいきました。
オランダに来て、日本の歩んだ道を振り返って見ることが出来ました。
     



1070  コーヒー・ショップで麻薬を買える国



友人からオランダでは、タバコ屋で麻薬の入ったタバコを売っているかどうか、聞いて欲しいと頼まれたので、何人かの人にオランダに行ったのを機に尋ねてみました。

30年ほどアムステルダムに住んでいて、最愛のオランダ人の夫が2〜3年前に病気で亡くなった(ジネーバというアルコール度の高い地酒を飲むのが、大好きだったそうですが)という日本人女性ガイドによると、麻薬はタバコ屋でもバーでもなくコーヒー・ショップで合法的に売られているそうです。勿論、ハードドラッグ(コカインやヘロインなど)はダメで、ソフトドラッグ(ハッシシ、マリアナ、カナビスなど)のみですが、5グラム未満は所持が認められています。
麻薬は病気の治療にも使われているし、アルコールやタバコよりも果たして危険かについて疑問が問われ続けています。
オランダの南隣のベルギー人ガイド氏(60代)は、オランダ国境にはコーヒー・ショップがいくつもあり、少々値の張るドラッグを買いに行くベルギー人もいると教えてくれました。

流石は、自由を大切にしてきた伝統の国オランダならではの法律であり、その他にも末期の病気などの場合、本人が望み、周囲も認めれば薬や注射で命を絶つことも許されているそうです。












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