希望

      
1061  妻はネフェルティティに似た美人



エジプトの歴史の中では、3人の特筆すべき美人がいるそうです。

古いところから順を追って紹介しますと、まずはネフェルティティで、18王朝アメンヘテプ4世(紀元前1375年頃活躍した人で、イクナテン王とも呼ばれた)の王妃でした。
ファラオ(王)は都テーベの神官たちの力が強大となり、政治に過度の干渉をするのを嫌い、アテン神のみを神として崇める宗教改革(それまでは多神教だったのを一神教に改める)を断行して、都をアケト・アテンに移しました。
日本でも、8世紀の末に、平城京から平安京へと遷都が行なわれましたが、その背景には南都(奈良)の僧侶たち(国家公務員で官僚)が政治に口を出し過ぎるのを嫌って新天地を求めたと言われています。温故知新ではありませんが、類似した現象は時と所が違っていても起きるようです。
アケト・アテンの地で始まった自由で写実的な美術はアマルナ芸術と呼ばれますが、その最高傑作と讃えられているのが'ネフェルティティ王妃胸像'で、高貴で気品に満ちていて目鼻立ちの整った、殆ど破損のない着色された石像ですが、今はドイツのベルリンにあるエジプト博物館で見ることが出来ます。
私達は、カイロの考古学博物館の中で未だ制作途中でそのままになった'ネフェルティティ王妃の頭部像'を見ました。冠も被らず化粧(着色)もしていない石造でしたが、逆に、素顔の本当の美くしさをみたように思い、さすが気品に溢れた方でした。

次は、ネフェルタリ王妃です。
彼女は19王朝ラムセス2世(紀元前1300年ごろ)に寵愛された人であり、上エジプトのヌビア出身ですが、王はそのヌビアの地に支配圏を拡大した印としてか?あるいは彼女への愛の印としてか?アブシンベル(金の採れる所という意味だそうです)に大小神殿を建てています。とりわけ小神殿は王妃の為につくったと考えられ、本当に愛らしい美女だったことを偲ばせる浅彫り彫刻が壁に残されていました。

最後は、有名なクレオパトラ女王です。
アレキサンダー大王の将軍の一人プトレマイオスにより始まった(紀元前4世紀末)プトレマイオス朝エジプトですが、アレキサンドリアに都して華やかなヘレニズムと伝統のエジプト文化が一体となった時代が開花しました。
女王自身は紀元前1世紀後半に生きた人で、正確にはクレオパトラ7世だそうで、強大なローマの支配に抵抗してエジプトの独立を保とうと、シーザーやアントニウス、アウグストゥス相手に健闘した女傑でした。
アレキサンドリア国立博物館(過ってはアメリカ領事館だったという建物)内に、クレオパトラ女王の石像がありました。絶世の美女というよりは、知的で理性的な内面の美しさを感じさせるものでした。

総評は私たちのガイド氏(40代半ばで、すでに聖地巡礼を終えたハッジの位を持つ真面目な人で、名前もマホメットという)にお願いしましょう。
先ずはクレオパトラですが、決して美人ではないし鼻も少し曲がっていて、目もパッチリしていない。加えて、彼女はエジプト人ではなくギリシャ人だといいます。
ネフェルタリは、ヌビア人で肌の色が黒いから、美人は美人だけれど好みではない。
そして、ネフェルティティこそエジプト人(ハム族で肌の白いのが特徴)そのものであり、美女中の美女と持ち上げ、見合い結婚で3児の母となった自分の妻は、ネフェルティティに似た美人だと言って締めくくりました。
     




1062  穏やかにゆったりとうねる大洋を見て、太平洋と命名



1480年にポルトガルに生まれた航海士フェルディナンド・マゼランは、1520年11月28日にスペインのグアダラ・キビル川の内陸港セビリアを五隻の船を率いて出航して、西回りでオリエントを目指しました。

当時、ヨーロッパ人が最も貴重を考えたスパイスがふんだんに実るスパイス島(インドネシアあたり)が必ず大海原の霞んだ先にあり、たどり着けることを信じての冒険でした。
南アメリカ大陸最南端での暴風雨に悩まされたり(後にマゼラン海峡と呼ばれるようになる)、食料や物資を載せた補給船が許可なくスペインに引き返してしまい、それからは水や食料を制限して上に、木屑やネズミを食べて飢えを凌いだり、船員の氾濫もありました。
何よりも驚き恐れたのは、予期せぬほど大きく広くて、50日もの間何も見えず、ただ水平線だけがあるばかり(地獄の川の中で過ごした)でしたが、マゼランは静かにうねる大洋を太平洋と呼びました。
マゼラン海峡を乗り切り太平洋に出て、3ヵ月後の1521年3月6日に至り、グアム島を発見します。3日だけ滞在してから更に西へと向かって旅をして、フィリッピン(マルタン島と呼ばれた)に達しました。マゼラン自身はセブ島で原住民との争いに巻き込まれ死んでしまいましたが、翌年に18名の乗組員がセビリアに帰還して、世界一周は達成されました。

アントニオ・ピガフェッタ(18名の乗組員の一人)はマゼランを讃えて、'卓越した才能と資質は、困難に面した時に遺憾なく発揮され、揺ぎ無き信念で船員を引っぱって行った。'と述べています。フィリッピン国(16世紀後半、スペイン帝国の皇帝フィリッペ2世の名前が国名となる)のセブ島には、マゼラン上陸の記念碑がありますし、セビリアの川岸にも世界一周事業達成の石碑が立っています。
     



1063  万巻の書に値する言葉?



エジプトは石ばかり、イタリアは絵ばかり、そしてトルコはバラエティに富んでいた!と訪れた印象を語った日本女性がいました。

5千年に及ぶ歴史時代(文字を持つようになってから)を経てきたエジプトですが、最初の3千年はファラオを中心に一丸となって、永遠性というテーマを追求したように見えます。
そして、現在の観光の中心は、その時代に設定されています。神聖、永遠性を一番明らかに表現する素材は石であり、変化のない不動の姿勢で座ったり立ったりしているファラオ(神の子)を、大英博物館に見出して、古代エジプト人の石を使った芸術表現に感動を受けた人が、20世紀を代表するイギリスの彫刻家ヘンリー・ムーアでした。
ギザやメンフィス、サッカラなどのピラミッドに見る地上の墓、ルクソールの王家の谷や王妃の谷の地下に掘った岩窟墓地、また神々を讃えて建てた神殿の数々(ルクソール、カルナック、アブシンベル、エドフやコム・オンボなど)や太陽の光を表すとされるオベリスクも石を使っています。
それに引き換え、ファラオ達から貴族、神官、庶民に至る住居は日干しレンガや木を使ったもので、今は何も残っていません。カイロやルクソール、アレキサンドリアなどの有名な博物館での見学もファラオ時代に光が当てられています。

女性の履くヒールのあるブーツに似た形のイタリアですが、現在まで残る古代ローマ時代の建物は、地上から5〜10メートル低い所に僅かに一部が見出せるだけです。
古代ローマ人は、古代エジプトや古代ギリシャ人に習って石や硬く焼いたレンガを使い、神殿や公共建造物を建てました。
しかし、4世紀以降はキリスト教時代になり偶像を拝するのを憚るようになり、5世紀後半の西ローマ帝国崩壊以降は神々の彫刻は壊され公共建造物の柱や化粧石なども取り払われて、貴族の屋敷や教会の建設に転用されて行きました。そして、中世の終り頃からイタリアでは、商業や貿易、手工業が盛んになり各地に都市国家が生まれました。また、古代ローマ遺跡や美術が少しずつ再発見される時代(再生、ルネッサンス)でもありました。
主要な都市(ミラノ、ヴェネチア、ピサ、シエナ、ローマなど)では競って立派な教会や市庁舎がつくられ、パトロン(司教や貴族たち)は優れた文化人や職人を個性的な芸術家に育てて行きました。

私たちのイタリア見学は、主に近代の初め(14〜16、17世紀)の頃にスポットライトが当てられていて、都市国家時代の文化(教会や市庁舎、貴族の屋敷や町の景観)を見て回ります。そして、どうしても印象に強く残るのは絵画になるようです。
教会の天井から壁という壁に描かれた聖書の名場面、市庁舎でも同様に町にとって重要な戦争や奇跡的な事件を絵に描いたり、貴族もこぞって絵を室内に飾りました。
代表的な絵では、ダ・ヴィンチのミラノのサンタ・マリア・デレ・グラーチエ教会の食堂の壁に描かれた'最後の晩餐'やヴェネチアのドゥカーレ宮殿内のキャンバス絵の数々、フィレンツェのウフィツィ美術館、ローマのバチカン博物館内のシスティーナ礼拝堂の壁に描かれたミケランジェロの絵などあり、その他数知れずイタリアの各地に花開いた都市文化の香りを今に伝える絵や彫刻があります。

さてトルコですが、4千年の歴史の中でアナトリアの大地は、アジアやアフリカ、ヨーロッパに住む人々の行き交う回廊の役目を果たしたのでしょう。
メソポタミア、エジプト、中央アジア、近東、ギリシャ、ローマなどの人々の交流・交易の場として使われましたし、ハッティ人やヒッタイト人などアナトリアの風土を背景に成長した民族もあります。地形も風土もバラエティに富んでいて、観光客を飽きさせない魅力ある国です。トルコ共和国となってから(1923)は、イスラム教を国教とした政治体制を止め、もともと持っていた自由を大切にする多数民族、多宗教、多文化を重んじる国へと戻っていくのを目指しているように感じます。
イスタンブールの喧騒の中に見る一瞬の静寂の一時や、カッパドキアの奇岩や地下都市、そして岩窟に掘られたキリスト教の修道院、踊って神と一体化を願ったメブラーナ教団のあるコンヤ、パムッカレの足湯、エフェスの壮大なグレコ・ローマン時代の都市遺跡、ヘレスポンドを眼下に臨むトロイ、聖書に登場する使徒たちの活躍した町など魅力たっぷりです。

アブシンベル神殿の近く、ナセル湖からのそよ風を受けながらネフェルタリ・ホテルの庭で、サラリと洩らされたお客様の一言は、私の胸を強く打ちました。
      



1064  朝食はゴマ入りパンとコーヒーで

オモニア広場近くのホテルの大通りでは、早朝の4時過ぎから車の走る音がしきりに聞こえ始めました。

きっと郊外から通勤してくる自家用車なのでしょう。プレート・ナンバーの一ケタの番号が奇数か偶数で日替わりで、一極集中の激しい首都アテネへの車の乗り入れを規制していますが、多くの人は二つのナンバー・プレート(2台の車)を持っていて、あまり効果は上がっていないとガイド嬢は言います。

サラリーマンの多くは朝食は会社で食べるそうで、街中の何処でも売っているゴマ入りパンを買い、暖かいコーヒーを会社で入れて済ませます。ゴマと聞いて数年前、南オーストラリアに行った時、内陸の鉱山の町ブロークン・ヒルで知り合った30〜40年前にギリシャから移民してきた老人に、健康に良いからと自家製のゴマ入りペーストを頂いたのを思い出したり、先日行ったエジプトでも食事の際には、必ず1〜2皿の味付けの違うゴマ入りペーストがテーブルに出ていて、エジプトパンと一緒に食べたり前菜に付けたりして美味しく食べたのを思い出しました。

アリババと40人の盗族の話がアラビアン・ナイトにありますが、金銀財宝が隠してある洞窟の扉を開けるキーワード'アブラ カタブラ'(日本語では開けゴマであり、英語ではオープン セサメと言います)のアラビア語もきっとゴマに関係があると思い、エジプト人のガイド氏に聞いてみたのですが、要領を得ませんでした。ただ、ビンに入ったゴマペーストは買って日本に帰りましたが、アラビア語で書かれたラベルですので、どれがアブラかカタブラなのかゴマなのか分りませんが、2日に1度はパンに塗って食べています。

ガイド嬢はアテネのアクロポリスの丘へと私たちを案内して登り、眼下に見える古代アゴラ(広場)の傍に建つ神殿(ほぼ原形どおりに復元してある)を指差して、パルテノン神殿はあのような形をしていたと説明した後で、アゴラは大切なメッセージを市民に知らせる場所であり、その伝統は現在までヨーロッパ社会では続いていると、教えてくれました。
古代ローマ人はフォロ(広場)を町づくりの中心にして、その周りに宗教、政治、経済、文化に関わる建物を配しましたし、現在でもローマのバチカン市国のサン・ピエトロ広場やパリのコンコルド広場、ロンドンのトラファルガー広場、マドリッドの太陽の門広場などは市民に愛され市民に開かれた空間として機能しています。

日本では、広場と市民の結びつきはどうだったのでしょうか?
     




1065  奈良の大仏さんは窮屈そうだった



久しぶりに行ったアルベロベッロの新しい駐車場で待っていた小太りなガイド女史は、丸暗記した日本語で、世界遺産の集落を案内してくれました。

新築の尖がり帽子の形をした石造りの家を指し、中は30平方メートルの広さがあり、買うとすれば3千万円はするだろうと語り、ユーロ(2001年)になって物の値段が高くなってしまって生活が苦しいそうです。晴れ上がった青空の下、所々に干してある洗濯物にも目を遣り、一言世界遺産の洗濯物ですと私たちを笑わせました。

イタリア人気質とは?と水を向けると、働いた後、生活をエンジョイするのがイタリア人だったが、今は働いて働いて疲れて何もない。食べられ(マンジャーレ)ないと歌も歌え(カンターレ)ない、アモーレ(優しい愛)の暇もないのだと実も蓋もありません。
昨年、念願が叶ってイタリア団に加わり一週間日本に行ったそうで、東京大坂京都奈良鎌倉を見て回ったそうです。兵のそろうイタリア代表団だろうから、さぞマンジャーレ、カンターレ、アモーレを満喫したことでしょうと言うと、忙しいスケジュールでそんな暇はなかったそうです。日本人旅行会社の企画したツアーだったからなのかも?と又笑わせてくれました。
大仏さんの印象は?の問いには、奈良の大仏は屋根つきの家の中に入っていて窮屈そうだったが、鎌倉の大仏は青空の下、自由を満喫しておられたように見えたそうです。

又機会があれば、日本に行ってみたいと語り、空に舞う洗濯物の先を見つめていました。







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