希望

    
1016  午前10時はおはよう?こんにちは?


日本語ができると就職し易いと言う。

その為、湖南省(洞庭湖の南に位置していて、毛沢東の生まれた所)出身で1980年に生まれた張り切り娘の楊さんは、遠く離れた東北地方(昔の満州)の町・長春の大学で日本語を学んだそうです。そして、今は珠江デルタの辺に開けた華南最大の商業都市である広州の旅行会社に勤めていて、郊外に新しくできた空港と市内のホテルの間をチャーター・バスに乗り,行ったり来たりして日本人観光客の送迎を主にしています。

四川省の成都や九塞溝,黄龍への旅の行き帰りに立ち寄った広州では、バスの中で沢山の話をしてくれました。
'ニーハオ'が、中国では朝から晩まで挨拶言葉として使えるそうですが、日本語の'おはよう'と'こんにちは'はどのように使い分けるのだろう?午前10時はどちらを使うのが正しいのだろう?かと学生の頃、先生に尋ねたそうです。
生活費を切り詰めた学生生活でしたが、正月には故郷の家族の元に帰り祝ったそうです。
超満員の列車で丸々24時間かかったそうです。
発展を続ける広州ですが、1/4は出稼ぎ族だそうで、帰省シーズン(旧暦の正月前後)になると、広州駅は切符を求める人々で溢れだすそうです。田舎では収入も少なく、仕事の選択の巾も狭く、都会へと大勢の人がやって来ますが、月収1.5万〜2万円ぐらいが平均で、上級サラリーマンで5〜6万円だそうです。とても町に住んでアパートを買って、将来設計をできる状況ではなくなってきているそうで、何年か働いた後は貯めた金を持って田舎に帰っていく人が多いそうです。

広州から左程遠くない珠江湾に面して、西にマカオ、東に香港があり、10年ほど前はポルトガルや英国の所有になっていた悲しい歴史があります。
香港の北隣の寒村に過ぎなかった深釧が、ケ小平の発案で30年前から工業化され、労働者用のアパートが建てられ始めましたが、今では北京や上海、重慶などと肩を並べる大都会へと変貌したそうです。町の人口構成も平均28歳という若さであり、男女比率は3対7になっています。

一方、60歳を越した退職者たちについては、何処でも共通した楽しみ方が増えているそうです。太極拳や社交ダンス、それにマージャン、孫の世話だそうです。
広州の街路樹にはガジュマロが多く植えられていて、亜熱帯地方の風情を醸していて、公園もあちこちに見かけます。そんな草木や花に覆われた木陰では、太極拳をしている老人たちを見かけたり、最新設備の整った広州空港の中でも、通路で社交ダンスに興じている一群もいました。
そして、1人の孫に6人の大人(孫の父母に、そのまた父母2組)が群がり世話を焼く時代になっています。一人っ子政策が1980年代から厳しく行なわれ始めたそうで、楊さん自身その中で育った作品の一人だそうです。どうしても甘やかされがちになるそうです。
若し、2人目を生むとすれば、10万元(約160万円)の罰金を払わないと戸籍が貰えなくなり、就職や旅行や移動するのに支障をきたすことになりますが、1億人の人が戸籍なしの根無し草だと考えられています。

'食は広州にあり'と言われていて、'空を飛ぶものは飛行機以外、地を這うものは机以外は何でも食べる'といって笑わせてくれ、実際に連れて行ってくれたホテル近くの珠江に面した流行の海鮮レストランには、水槽の中に多種多様の魚が泳いでいたし、絹糸を出す生きた蚕が売られていたり、小さい鰐が切り身になって並べられていて、勿論頭は勇ましく元のままで私たちの方を睨んで飾ってありました。
そんな広州の誕生伝説の一つは、昔々5人の仙人が羊に乗ってこの地に降りてこられ、羊をプレゼントされ、更に稲穂の作り方まで教えられたそうで、それまで魚を獲って食べて生きていた人々は、米と羊を与えられたそうです。広州の別名は羊城、穂城、花城(スコールが毎日あり、四季を通して何時でも花が咲いている)などあり、城とは周囲を壁が囲っていた町を表しています。
広州での3つの祝い行事は何れも旧暦で行なっていて、まず正月には皆で水餃子を食べますし、5月5日の端午の節句にはチマキを食べ、中秋の名月には月餅を食べるそうです。
2007年8月半ば過ぎのこの頃は、ホテルや空港のロビーでも各種の月餅が売られていて、試食させてくれて、時の食べ物になっていました。

また、州のつく4つの町が中国人の理想の人生像だと語ってくれました。
蘇州に生まれ、杭州で遊び、広州で食し、柳州で死ぬ。
蘇州は物が豊かにある所として知られていて、杭州は西湖など景勝に優れていて、広州は飲茶(点心)や広東料理の土地柄であり、柳州は柳でつくるお棺に入れられ土葬されるのが夢だそうです。今でも柳州に行くと、柳で編んだ土産物の小さなお棺が売られているそうです。
楊さんは、来年同郷の人でガイド仲間の男性と結婚するそうで、明日に向かって目が輝いていました。

もう一つ気付いたことですが、広州でも成都でも有料高速道路の料金所で働いていたのは、制服姿の若い女性ばかりでした。空港と広州市内を結ぶ道路料金は、バスの場合30元(約500円)でした。
いい収入の仕事を得る為に日本語を学び、都会で働いている中国人女性(楊さん)を通して、中国の姿を垣間見たように感じました。

百聞一見こそ旅の醍醐味ですね。
楊さんの上に多くの幸がありますように!
   




1017  溝は渓谷、海は湖


成都は天府の国と古来云われ、肥沃な四川盆地にあり、パンダの故郷、あるいは三国志ゆかりの地として有名です。

泊ったホテルのロビーには、立派な石造りの4体の騎馬像が飾ってあって、西蜀を守り育てたヒーローたち(劉備、諸葛亮、関羽、張飛)のそれぞれの故事来歴が書かれていました。
彼らが活躍した西暦2世紀末から3世紀初めの頃から更に4百年も遡る紀元前3世紀に、成都を流れる岷江の氾濫を防ぐ為に建設されたのが、都江堰の水利施設です。古代の水利施設でありながら、竹で編んだ大きな網の中に小石を詰めたものを土台にして工事を行い、水の流れを巧みに変え、必要なだけ町の中や周辺の田畑を潤す内江への水の流れをつくり、また洪水期には外江に水を戻す飛沙堰を人工の中洲につくっていて、今も見事に機能しています。
一方、20世紀の水利施設事業の代表であるエジプトのアスワン・ハイダムや中国の三峡ダムを想起するにつけ、自然との調和の中に生きる知恵を持っていた古代人に素直に脱帽し、学ぶことが多くあるのを知らされる思いです。温故知新もまた旅の魅力ですね。

都江堰は成都からバスで1時間ほどの所にありましたが、中国人の観光客で一杯で、ガイド嬢たちがハンドマイクや地声、あるいはイヤホン・エイドを使ってそれぞれのグループに向かって語りかけながら、私たちの傍を通り過ぎて行きました。入場口は山の中腹にあり、立派な門を通って中に入り段々と坂を下って行きますが、途中様々な門や祈殿が石の階段の要所要所に配されていて、門の下をくぐったり祈殿の中に飾られている人物彫刻の説明を聞きながらつづら坂を川に向かって進みます。
下まで降りると、川の中につくられた人工中州まで繋ぐ吊り橋が架かっていました。
手前側は広場になっていて、三ツ星印のトイレ(衛生管理が行き届いている証明?)があり、そこでは記念グッズも売られています。また、小石の詰められた竹で編んだ都江堰の知恵の秘密もそこに置かれていました。吊り橋を渡ってきた人の感想は、揺れるのがたまらない快感だったそうです。

この岷江の上流450キロほど行った所にあるのが九寨溝です。
数年前までは成都からバスに乗り、10時間揺られて行く以外に方法はなかったそうですが、今は九寨溝近くの高度3500メートルの山頂に飛行場ができ、僅か40分で成都との間を結んでいます。
九つのチベット族の村(九寨)が渓谷(溝と中国語では云うそうです)にあった所から九寨溝と呼ばれていて、黄龍溝と共に1992年に世界遺産になっています。
春の末から秋の初めまでの半年間が観光シーズンのようですが、2万人もの人が毎日訪れるそうで、今中国で最も人気の高い観光地です。
殆どの中国人は、遠い所からバスを連ねてやってきていて、黄龍溝の入り口付近には何百台ものチャーターバスが停まっているのを目にしましたし、人民服ではない平服の老若男女がデジタルカメラや高級カメラを手にして、自然のつくりだす美しい景観に見入っていて、マナーを守りながら散策を楽しんでいました。

私たちのドライバー氏の黄さんは若者でしたが、運転席の近くに'安全在心中 幸福在手中'と書かれたバス会社の標語が貼ってあり、その通りの運転振りでした。
確か、富永仲基(江戸時代の町人学者)だったと思いますが、中国人は'装飾ぐせ'があると書物の中で述べたそうですが、九寨溝にある長さ5キロほどの一番大きな湖は長海と呼ばれていたり、その他老虎海や臥龍海、火花海などの湖は海に格上げになっていました。
一方、浅瀬を水が飛び跳ねるように流れている珍珠灘(水面に近く棚状の石灰岩が連なる所では、真珠の粒のように水がキラキラと光っている)の灘は日本語では玄界灘や紀州灘といった風に荒々しい大きなイメージがありますし、溝といえば小さな凹みのあるぐらいの感じですが、中国人は随分謙虚な使い方をしているようにも思えてきました…。

九寨溝はY字型の渓谷で、観光は九寨溝公園の専用バスに乗って行ないます。
遠くには岩肌が露出した森林限界地点を越えた山々が見えていて、近くには緑豊かな木々の間に湖や湿地、川や小川、滝など様々な水の流れと、その音を聞く為に所々でバスを降りて、草花や木々の間を歩きます。歩道は四角い大きな材木でできていて、雨や雪の際の滑り止めを考えて、メッシュ状のしっかりした金網が散歩歩道に埋め込まれるように張ってあります。五彩池の水の色が天下一だそうですが、さすが評判をとるだけあって、ナポリ湾のカプリ島にある青の洞窟の青に匹敵するように思いました。何よりも透明度が高く、増水していた所為もあるのですが、普段は陸に咲いている紫色の花が水中で美しく咲いている姿は絵もいえないほどでした。五彩海と呼ぶほど大きくはないので、中国人も池と呼んでいるとの説明にも自然に笑みがこぼれました。
珍珠灘から珍珠灘滝瀑布までの散策道や老虎海から火花海にかけてのそぞろ歩きも風情がありました。

翌日行った黄龍溝は、3千メートルから一気にケーブルカーで3600メートルまで昇り、そこから600メートルを4時間かけて歩いて降りてくるようになっていました。
尤も、ケーブルカーが本格始動しだしたのは今年(2007)からだそうで、それ以前は往復600メートルの高低差を歩いて登り下るという観光だったわけです。酸素の入ったボトルと1/2リットルの水を貰い、渓谷を下るのですが、10人に1人は高山病に近い症状がでるそうです。所々では、新鮮な酸素をたっぷりと吸える休憩所もありました。
黄龍溝の特徴は、様々な皿型の石灰岩の中に水を湛えた湖の奇観ににあり、龍が横たわっているような姿をしていると云われています。麓まで無事歩いて降りてきた人たちの顔には、一様に満足の色がありました。

歩く人たちへの一寸した注意の呼びかけでしょうか?次のような英語と中国語で書かれた立て札を所々で見かけました。

Water confession :
The world is wonderful because of me , and Huang long is brilliant  
Because of me .
水の告白:
世界が素晴らしいのは私の所為よ。黄龍溝が輝いているのも私のお陰よ!

Love me , but please don't touch me..
私を愛でて頂戴。でも、触っちゃー ダメよ !
(草花の咲いている所にありました)

I'm beautiful but tender , I need your care .
私は美しいけれど、か弱いわ。貴方に大切にして貰わないとダメになるの。
(花の咲いている所にありました)

Calcification pools are natural formed over thousands of years , and one touch from you may need 100  years to recover .
石灰棚池は何千年の歳月をかけて自然にできます。 あなたがちょっと触るだけで、元通りになるのに百年はかかります
(五彩池近くにありました)

One tree can make thousands of matches , but one match can destroy  
Thousands of trees .
一つの木から数え切れない数のマッチ棒がつくれます。でも、1本のマッチは無数の木を破壊します

いずれの警句も魅力に富んだ優しい言い回しになっています。歩道も多くは木でできていて、所々にゴミ箱が置いてありましたが、そのゴミ箱も大きな樽型の木でできていました。
随所に自然への思いやりを滲ませたものになっていて、やがて人間同士の優しい繋がりへと導くような気がしてきました。
    



1018 木造建造物はプータロー



フィンランドの西海岸ボスニア湾に面したトゥルク港へと大型フェリー船は、島々の間をゆっくりとくぐり抜けながら静かに進んで行きました。

波一つない水面からは昇りくる朝日に照らされて、暖められた蒸気が立ち上がっています。
中世の頃、スエーデンからやって来たバイキングの人たちは、このトゥルクに目をつけフィンランド進攻の拠点にしたそうですが、無数の島々がトゥルクを隠し守っているかのような印象を与える姿は、彼らの故郷ストックホルムを思い起こさせたのではなかったのでしょうか?

車で1時間半ほど黄色く色づき始めた白樺の林を走って北上すると、港町ラウマがありました。古くは千四百年代の初めに、フランシスコ修道会の修道士たちがやってきて、丘の上に修道院をつくり、数百人の魚村民をキリスト教化して発展しました。そして、キリスト教学問の中心であった、遠く離れたパリのソルボンヌ大学へ真理追究の学徒を送りました。
やがて16世紀には入ると、宗教改革の波がこの地にも押し寄せ、グスタブ・バーサ王はプロテスタント教へと宗旨替えしましたので、1550年ごろにはカトリック教のフランシスコ修道士は追い出され、修道院の所有した場所は馬を飼う牧場になったそうです。
今は、石造りの重厚な小づくりの建物が丘の上にあり、聖十字架教会と呼ばれています。
中に入ると、プロテスタント教会には珍しく、16世紀初めのフレスコ壁画が主祭壇の周りに描かれていたり、教会に隣接する部屋では、文字の読み書きや生活技術を教会を通してこの地の人々が学んだ足跡が展示してありました。僻地にあっては、教会や修道院こそ学問や生きる術(農業、漁業、被服など多岐に及ぶ)を教え広めた文化センターでした。

教会を出ると、古い木造の建造物の町がそっくり残されている世界遺産のラウラの旧市街が始まります。元々は、旧市街は木の塀で周囲を囲ってあり、支配者は通行税を取ったそうです。木造建築の一番の敵は火事ですが、聖十字架教会の傍を流れる川には、幾つか土手と川をつなく石段が今も残っていて、火の手が上がると川の水をくみ上げて、バケツ・リレーしたのだろう?とガイド女史の弁でした。
1682年も大火を最後に、今に至るまで幸い火事に見舞われなかったことと、18〜19世紀にかけて新たに木造家屋が建ったことで、今の姿が出来上がりました。しかし、1960年代は、下水道もなく老朽化していく使いにくい住居をいっそのこと壊してしまおうとまで考えたそうですが、1991年にユネスコの世界遺産になり、今では逆に価値が上がっていて、旧市街の中心にあたるマーケット広場は改装中ですし、地下には暖房用のパイプを設置するそうです。

町で出会った2つのエピソードを記してみます
一つは、伝統の麻刺繍をつくっている店で聞いたのですが、過っては町の子供は全員刺繍を編むのが、義務付けられていたそうです。レースの刺繍は長い間、王侯貴族だけが服の襟や袖につけて飾ることが許された特権だったそうです。そんな高価な刺繍は、町にとって欠かせない収入だったことでしょう。
もう一つは、窓の上の外飾りに両側が鉛筆型で、中が四角い消しゴム型の木を使った家を見た時でした。この家の主人は、誰もが良く知っている世界的に有名なフィンランドを代表する建築家で、彼の住まいだそうです。鉛筆と消しゴムを家の外壁に見るだけで、充分インパクトを与えていたそうですが、今は更にこの町で一番古い大きな木の扉を通りに面して取り付けていて、名前まで書き出しているそうです。

その家のすぐ傍から、もぎたての苔桃を籠一杯にいれ、彷徨い出てきた野良着姿の老人がいました。現地ガイド女史の知り合いだそうで、苔桃をご馳走になりながら立ち話が始まりました。この方は、タウン・クライヤー(町を代表するイベントなどの際に、第一声を発する重要な役目をする人)として、方々の国や町へ出かけていくそうで、13歳の時に学校でサンタクロースになったのを皮切りに、60年後の今年もポーランドに招かれていてサンタクロースになるそうです。

フィンランド語は日本語とは遠い親戚語にあたるそうで、貴婦人(マダム)はフィンランド語ではロウバ(老婆?)、株の配当はオサケ(お酒?)オシンコ(お新香?)、そして木造建造物はプータローだそうです。

今はラウマの町は人口3万7千人で、製材や造船、フェリーの港として活気に満ちていて、想像した以上に楽しいひと時を過ごしました。
    



1019  豚の首のステーキを食べる



短冊(たんざく)のように折れ曲がる薄い
木製のネクタイを首につけて、薄くなりつつある頭の毛の50歳の長身紳士の私たちのバス運転手氏はスエーデン人ですが、夏の間はノルウェーにきて働いています。

温厚で話し好きな人で、奥さんとは大分前に離婚したそうですが、娘さん2人がいます。
数年前、インターネットの出会いサイトで知り合った、ロシア人のインテリ女性とメールで交際していて、この11月には初めて娘と一緒にサンクト・ペテルスブルグに行き、彼女に会うそうです。彼女は病院に勤めるドクターだそうで、もうじき45歳になり、早期の年金給付を貰える資格ができるそうで、今はスエーデン語を学んでいて、将来はスエーデンに住みたい希望を持っている娘1人の母親だそうです。
互いに分別のある年齢に達しているので、じっくり話し合い縁があるかどうかを見極めるつもりだと、嬉しそうにハルダンゲル・フィヨルドの一つエイト・フィヨルドにある景色のいいホテルで夕食を食べながら語ってくれました。

ノルウェーでは、残業や週末に働くのを嫌う若者が増えていて、観光を支えるバスの運転手のなりてが少なくなっていて、外国人ドライバー(ベルギー、スエーデン、東欧諸国など)が支える割合が増える傾向ですが、ノルウェー人のドライバーとの間には給料や労働条件の差があるそうです。
元々は、長距離トラックの運転手をしていたそうですが、荷の積み降ろしをしていた時、肩と腕を壊してしまい、長年病院に通って治療を受けたそうです。そして、今はバスの運転をしているそうです。そんな彼がベルゲン/オスロー間を多くのトンネルで繋ぐ道路が数年前に新たに完成しましたが、それ以前はハルダンゲル・フィヨルドに沿って走る狭い曲がりくねった国道だけが唯一の道で、事故をよく目にしたそうです。
私たちが,今日ベルゲンからこの宿まで走ってきた道こそが、そうだと教えてくれました。
ホテル・レストランの窓越しに見える湖上(実際には、海水で北海と繋がっているフィヨルド)には、白波が立っていて秋がすでにやってきたことを感じさせていました。

翌朝は、山越えをしてオスロに向かいました。
エイデ・フィヨルドを離れて間もなく、家の屋根全体が草で覆われ、その上で生活する数等のヤギを目にしました。この様な風景はノルウェーでもスエーデンでも、田舎では昔からよく見られたそうです。森林限界地点を過ぎると、平らな岩があちこちに露出していて、岩盤の間では背の低い草が生え、湖や小川が点在する風景に変わりました。そんな場所に北極圏でトナカイと共生して生きると聞く、サーメ人のテントがいくつかありました。
強い風が舞う中をバスを降りて近づくと、テントの中や外には彼らのつくった民芸品が並べてありました。テーブルの上には、未だ生乾きの肉が付着したトナカイの角が300クローナ(約6千円)の値札をつけられて幾つか置かれていました。
そして、ボーリング・フォスの滝では崖っぷちまで近寄っていき、谷の反対側の崖をいく筋にもなって百メートルあまり流れ落ちる怒涛の水のパワーを見ました。ガードレールもなにもない崖の上に立つだけで、自分の無力さ、反対に自然の絶大な力に圧倒された瞬間を体験させられました。

昼食は、ジャイロの町のレストランで豚の首ステーキでした。
初めて食べましたが、味はまあーまあーで、油がよく乗っている感じでした。首は頭と胴体を繋ぐ位置にあり、無数の神経や骨がそこには走っていて、安全に囲う筋肉が支えている場所だとすれば、真のご馳走だったのでしょうか?スエーデンでも食べる料理だよ!とドライバー氏は教えてくれました。
レストランのすぐ近くにはジャイロ駅があり、ベルゲンとオスロを結んでいて1日に8本だけ電車が走っているダイヤルの紙が貼ってありました、
この町は冬にスキー場で賑わうそうで、夏の終わりでしたが大勢の国旗に混じって日章旗も駅広場に風で翻っていました。

夕方にはオスロ港に到着して、コペンハーゲン行きのフェリーに乗り込みました。
童話作家のアンデルセンは'人生は旅なり'と云い、そして千年ほど前に活躍したバイキングは'旅をした人は智者なり'と語ったそうですが、私たちも旅をしたお陰でドライバー氏に会い、貴重なひと時を持つことができました。
      




1020  ダンスに買い物、そして食事


北欧の大型フェリーに再び乗りました。

ストックホルムに30年住んでいる日本女性が云いました。ヘルシンキやトゥルク(いずれもフィンランドの国にある)に通う大型フェリーに、時には気晴らしや買い物の為、友達と一緒に乗り往復することがあると…。
船に乗る理由は色々あるそうですが、まずは買い物だそうです。24時間を越える(いずれの町へも片道12時間以上かかる)旅を国際フェリーに乗ってすると、免税扱いでいろんな品物が買えるそうです。日本に里帰りする前には必ずお土産用のチョコレートやお菓子などを買いにフェリーに乗るそうです。また、船内の広いダンス場では明け方近くまでライブ・バンドの演奏やショーもあり、ダンス好きな彼女は終夜眠らないそうです。
そして、バイキング料理の魅力は数々の冷たい魚介類をお酒と共に頂くことにあるそうです。
彼女の目線になって乗船している人たちを見ていると、なるほど長い旅をする人には見えない服装や荷造りの人が大勢いるのが分ります。
更に船内は、異常に大きなスペースが免税品専用の店となっていて、出航すると間もなく開き、夜遅くまで営業していて、早朝には再びシャッターが上がり到着寸前まで買い物できます。
特に目に付くのは酒類の種類の多いことで、ビールなどは床の上に山と積み上げられていて置かれています。中には用意周到にケースに入った20〜24本入りのビールが5〜6ケース台車つきで売られています。

朝日が海上から昇り始めた早朝の人気の疎らな店の中で、アクアビット(寒い地方の人が愛飲する強度の焼酎)はどのブランドが一番売れているか?と、棚の整理をしている中年の女性従業員に尋ねると、分らないという返事が返ってきたので、アクアビットは悪魔の水?と水を向けると、答えは'そう'とニコッとしてくれました。
北欧の国々では、特別に酒税が重く懸けられているので、安く手に入る酒類は堪らないお土産になっているようです。

1920年代〜30年代の米国の禁酒法時代は、五大湖をまたいでマフィアやケネディ大統領の父親などがカナダ(禁酒法はなかった)から大量にアメリカに酒を密輸入した例もあり、バルト海洋上では公に酒の低価格での売買が認められているのでしょうか?
デンマークのクロンボー城(ハムレットの城として有名)近くの港へは、僅か4〜5キロしか離れていないスエーデンからフェリーに乗ってスエーデン人が、美味しいデンマークのビールを買いにやってくるそうで、港近くの埠頭にはデンマーク・ビール(ツボルグやカールスバーグなど)が山と積まれていました。

極寒の地での戦争では、防寒着もさることながら強度のアルコールのあるなしが勝敗を決することもありました。
ナポレオンのロシア遠征の失敗、そして第二次世界大戦最中の1942年末から翌年の春先にかけて、スターリングラードをめぐる攻防でのドイツ軍の惨敗などが思い起こされます。ゴルバチョフ大統領の推し進めた改革の中に、ウォッカなどの強度のアルコール飲料を止めようという主旨のものがあったそうですが、国民からソッポを向かれたと聞いています。
寒い所では、誰もが必要とするアクア・ビットのようです。










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