希望



981  地球の内部の気ままな動きが地上を変える


バルト海(日本と同じぐらいの大きさ)は浅く、周辺には高い山はなく氷河が長年に亘って大地を削っていった跡が鮮明に残っている所です。

北から西にかけてスカンジナビア半島(そこにはフィンランド、スウェーデン、ノルウェーがある)がバルト海を包み込むように伸びていて、その先には南からユトランド半島(デンマーク)が上に向かって突き出していて、その間の小さな海峡が唯一の外海(北海やノルウエー海)との水の出入り口になっています。バルト海の南側は西からドイツ、ポーランド、バルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)に加えてロシアがあり、合計10の国々が取り巻いていて、バルト海は巨大な氷河湖あるいはフィヨルドだったのでは?と妄想させてくれます。

一方、地中海はアフリカとヨーロッパの間に深い亀裂ができて周囲が隆起して生まれたと聞いていますが、地中海を取り巻く周辺の国々ではエジプトを除いて、ことごとく高い山あるいは荒々しい岩肌がせり出していて、日本列島誕生に似た歩みだったようです。

果たして、地球の内部の気ままな動きが地上を変えていった様子で、人間の無力さやはかなさを感じます。逆に大自然の無限のエネルギーには脱帽して謙虚に生かされていることに感謝する気持が自然に湧いてきます。



982  IC列車の出発間際はスリ集団の荒稼ぎの場


6月の半ばともなれば北欧では、バカンス・シーズンの幕開けです。

ストックホルム中央駅(スエーデン)は、大きな旅行カバンを持ったバカンスに出かける人たちで賑わっていました。私達11人の小集団は、お隣の国ノルウェーの首都オスロまで6時間かけて移動するので、手にはスーツケースやショルダーバッグ、そして昼食弁当(朝3時に起きて用意してくれたという和食レストランンの幕の内)など持ちながら待っていましたが、始発のIC(インターシティーの略で主要都市を結ぶ国際急行列車)のプラットホームが駅ビル内の電光掲示板に表示されたのは、出発予定時間の20分前でした。
幸いなことにプラットホームは駅中央待合空間に一番近い所でしたので、大勢の人に混じってゆっくりと歩いて行きました。乳母車に赤ちゃんを乗せた家族連れもいれば、盲導犬に連れられた老女もいるといった具合で、様々な人が目に入ってきました。

私たちの2等座席は2つの車両(15号車と11号車)に遠く分かれていました。
スリに仕事をさせない為には、目線を高く背筋を伸ばして、それとなく周りに注意を払うのが一番と互いに確認し合っていました。始発列車にもかかわらずなかなか入ってきません。出発時間の5分前になって、突然プラットホームの変更がアナウンスされました。
大陸では、飛行機も含めよくあることですので、皆粛々と階段を降りて地下道を通って言われたプラットホームへの階段を登って行く大集団の移動が始まりました。流れは鈍く詰まっています。少しずつ気持が皆苛立ってきて、不安な表情が表れ始めました。
早速、スリ集団の活躍の場がやって来た様子で、私たちのグループの女性のハンドバッグの中に手が入っているのを辛うじて見つけることができ、睨むと肩をすぼめてスリ氏は立ち去ったそうです。
移ったプラットホームは、別の列車を待つ人たちがいました。
そんな所へどんどん地下から人が湧いてくるように階段を登って上がっていくのですから、階段付近のプラットホームは人で膨れ上がってしまい、線路に落ちんばかりに見えます。
幸いにもヨーロッパでは、プラットホームと線路との間は低いのですが…。
出来るだけ混み合う場所を離れ、私達は固まって列車を待つことにしました。既に出発予定時間はとっくに過ぎています。
やがて列車が入ってきたので、ゆっくりと人をかき分けながら目指す車両に向かいました。
乗り口付近のプラットホームの周りも、乗車すると直ぐ側にあるスーツケース置き場も狭く太い瘤のように人が詰まっていて、皆焦っていました。そんな中、何とかスーツケースを荷物置き場に入れ,席に着いて手荷物は上の棚に載せホッとした矢先に、年の頃35歳前後に見える普通の白人の男がチケットを手にして、私たちの席に割り込んできました。
何かの間違いだろうと座席番号の書いてある私たちのチケットを見せて説明しました。
時にはスーツケースにも目を遣らないと持ち去られたらおしまいです。
以前、スペインのバレンシア中央駅でデッキに置いたスーツケースが一つ、出発間際のドサクサに紛れて持ち去られたことがあります。1〜2分のやり取りの末、白人は去っていき振り返って棚を見ると、何もありません。
やっと状況が見えてきました。3人ほどでグルになり、1人が私たちに話しかけ、もう一人が入り口付近で通路を通せんぼして注意を逸らし、そして3人目が隙をみて棚の上の手荷物を持ち去るという手口だったようです。
同じようなことが別の車両でも起きましたので、5〜10分の間にこれはと目をつけた客を執拗に追い仕事を終え、発車間際にプラットホームへと逃げてしまうプロのスリ集団の、バカンス旅行者をターゲットにした夏休みを犠牲にしての、美味しい素早い仕事だったようです。

それにしても、始発の電車であるにもかかわらず座席には空の瓶が残っていて、掃除などせず慌てて配車したのかと思えるふしがあり、おおらかな国鉄の仕事振りが感じられました。途中、停電もありオスロ駅には1時間遅れて着くというオマケつきとなりました。
学んだことは、手荷物は何があっても発車するまでは体の側から離さないこと、知らない人の相手にはならないこと、スーツケースにも目をやることなどでした。
私にとっての旅の3人の神様達(他にイブン・バトゥータとモーツアルト)のお一人・長嶋茂雄さんを改めて強く感じることになりました。
現役の頃の長嶋さんは、ピッチャーの投げるどんな球にもバットの芯に当てることができた反射神経抜群の人だったそうですが、動物的勘と人は呼び讃えたそうです。

何が起るか分らない旅では、その動物的勘こそ大切になることや、テレビのコマーシャルで'セコムしていますか?'と問いかけていた長嶋さんが瞼に浮かんできました。



983  地下鉄駅のデザインを芸術家に託す町・ストックホルム


人が見えない物を見たり、感じないものをいち早く感じる人が芸術家だとすれば、彼らの作品が世に認められるのは中々大変なこととなるでしょう。

人の通る表通りで、あるいは公の美術館で世に問う機会は難しいことでしょう。
こうして、安酒を飲み夢を語る仲間の芸術家たちが通うアングラ(暗い所?)が生まれるのかも知れません。パリの町外れで,ブドウ畑が点在したモンマルトル(殉教の丘)あたりに、19世紀末には売れない印象派の画家達が集まっていた例もあります。
あるいは、パトロン(芸術家を育み機会を与える人たち)が強い意図の下に、職人や芸術家を動員して大きなプロジェクトを考え、地下道(暗い所)を表現発揮の場として芸術家の卵に提供した所があります。
モスクワの地下鉄は地下深く掘られた所を走っていて、非常時の際は市民の避難所(ロンドンの地下鉄と同様に)になるように考えて時の権力者スターリンがつくらせたそうですが、駅のプラットホームは素晴らしいモザイク壁画の展示場に仕上がっています。

ガイドブックに一言、スエーデンの首都・ストックホルムの地下鉄11号線は各駅の地下の飾りが、その駅付近をイメージしたものとなっていて、芸術家の表現の場になったと書いてあったので、夕食を兼ねて有志の方と出かけてみました。
氷河が長い時間をかけて削っていった固い岩盤が残る22の島から成るのがストックホルムの町です。ダイママイトを使い地下深く穴を開け地下鉄を通しています。荒削りの岩肌がそのまま露出していて氷河の爪あとを感じさせてくれます。
11号線の始発駅で町の中心にあるクンスト・ガータン駅も、地下道やプラットホームの床や壁、天井は明るく大きく広くなっていて、アングラ芸術が花開いていました。

夕食は近くの歩行者天国通りの一角で、中庭のあるレストランで一品料理(イタリアン・ミートパスタ)と美味しい水道水で済まして、再び地下鉄に乗ってホテルに帰りましたが、夏至の近づく頃9時を回っているのに、日は未だ空高く輝いていました。



984  干しダラ持参のバイキング参上


中世の時代(9世紀初めから11世紀半ば)、喫水線が低く竜骨を持ち船首が反り上がり、その先には各部族のシンボル彫刻が刻まれたバイキング船で水に上を航行し、また陸の上でも軽く造られた舟を担いで移動した人たちこそ、ノルマン(北の人)あるいはバイキング(複雑に入り組んだ入り江を航行する人たちヴィーキング)と呼ばれ恐れられました。

彼らは干した塩分の残るタラを保存食として船に持ち込み出かけました。
その伝統が今も残っているのでしょうか?
北欧4カ国(フィンランド、スエーデン、ノルウェー、デンマーク)の旅の中で、ホテルでのブフェー式の朝食には必ずニシンやウナギ、タラなどが塩づけ、マリネート(酢と油で味付けしたもの)あるいはカレー味になって出されていましたし、夕食がブフェー式の時にも必ず同じ取り合わせでテーブルに出ていました。

また以前訪れた地中海のシシリー島では、市場の中で今でも干しダラが売られていて高値がついていたのを目にしたことがあります。
火事で焼けた後、昔通りに再建されて一般公開されている木造立てのノルエーのベルゲン港の側にあるドイツ商館も、干しダラの取引を主に行なっていたとの説明でした。
このドイツ商館はハンザ同盟都市としてベルゲンが栄えた中世から近世にかけての頃、つくられました。



985  私はジャガイモのようなもの


ノルウェーにある長さ百キロのハルダンゲル・フィヨルドの最奥の村ウィヴィックは人口千人ほどです。

村人の誰もが誰もを知っていて、隠し事をしても直ぐに知れ渡る狭い世間である一方、一人暮らしの老人にとっては助けが何時も得られる便利さもあるそうです。
昔から農業と牧畜、それに少しの漁業そして夏の観光シーズンにこの地を訪れる観光客の落とすお金で成り立っています。
この村の農家の主婦アンナマリーさんは10代の若者3人の母であり、牛と羊を飼い、りんご園を経営するご主人のパートナーとして、またスープの冷めないすぐ近くに住むご主人の両親の良き嫁であり、観光局の仕事もこなし学校ではフォークダンスを教え、時には日本からの観光客(私達がそうであった)やノルウェーの年金生活者たちの一行を自宅に招いて紅茶と農園で採れたリンゴでパイを焼いて接待したり、夕食すら提供しているそうで、自分はジャガイモのように何にでも合わせることができると語り、仕事は楽しいし、この村の生活に満足しているそうです。

アンナマリーさんは首都オスロ近くのオスロ・フィヨルドの中にある島で生まれ育ったそうですが、オスロでご主人(農家の3代目)と知り合い恋に落ち、結婚して19年になるそうです。私たちがご馳走になったリンゴパイのリンゴは去年採れたもので、冷凍庫から取り出して解凍してパイに入れたそうです。
ご自宅の直ぐ裏から山の頂までが農園であり、牛や羊の為の牧場であり樹林も茂っていて、冬の暖房用の燃料になっています。家の周りを案内して下さった際は、牧羊犬が静かに付いて来たのと近所の少年2人がガヤガヤと一緒についてきて、実が小さく成っているリンゴ畑とジャガイモが少し畑に植えられていたのが目にとまりました。

旅程に組み込まれた手配の中での農家を訪れてのお茶を頂いた小1時間でしたが、北欧の生活の一端を垣間見ることができました。





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