希望


961  マス家の壁にはルイ14世の肖像画が掛り、花瓶に入った生け花が描かれていた


ベルギーは北の低地帯(フランドル)、中央(ブラバント)、そして南のアルデンヌ地方から成っています。

アルデンヌ地方は高原や森、渓谷には水が流れていて、他のベルギーとは違った景観をしていて言葉もワロン語(フランス語であり古代ローマ人の話したラテン語の系統)を話す人たちです。列車やバスなどの公共交通機関の便は必ずしも万全とは言えないようですが、それだけに観光ずれしていない自然や人に出会える数少ないところとなっています。

イースター休暇が終わったばかりの月曜日の朝というのに、国鉄は午前中ラッシュ時の間引き運転を始めていて、ブリュッセルの郊外に住む通勤者の多くは車に換えてオフィスに行こうと高速道路にのった人が大勢いるようで、外に向かう私たちのバスとは反対の車線は大変な渋滞でした。それにしても誰も表立って文句を言うこともなく、粛々と次善策を行う(自家用車で会社に向かったり、もう一日休んだり)人たちの態度に、日本とは大いに違うものをボヤッと感じました。恐らく、公務員にストライキ権が認められていて、誰もが納得しているのが背景にあるからでしょう。

高速道路を降りた後は、種を絞って油を採るという菜の花畑が一面に広がり、牧草地では子牛や子羊が母親の傍で遊んでいるのを車窓から眺めながら一般道を走ってモダーブ城にやってきました。
450ヘクタールの広大な敷地に建つ、堅牢な石造りの貴族の館です。古い部分は13世紀にまで遡れるそうですが、大半は17世紀後半にマーシン伯爵家が現在見られる外観と内装を整えました。

マーシン伯爵の紋章は魚のマス(鱒)一匹です。
大地の崖っぷちに建てられた城から見渡すと眼下に川が流れていて、きっと大きなマスが飛び跳ねていたことでしょう。正面玄関を入ると直ぐの広い部屋(護衛の間)の天井いっぱいに、マーシン家(一匹のマス)が他の貴族と姻戚しながら末広がりに繁栄していった系図(紋章図)が描かれています。
また当時は切花を花瓶に入れ部屋に飾る習慣はなかったそうですが、マス一家がプライベートに使った部屋の壁には花瓶に生けた沢山の花が描かれていて、花を愛した一族であったことがわかります。あるいは、高価なゴブラン織りの壁掛けも多く掛っていて、いずれもBBのマークの入ったブリュッセルあたりの工房で織ったつづれ織りでした。
寒い冬の季節には暖房の一助を担っていたことでしょう。
そして、当時としては珍しく、ベルサイユ宮殿にすらなかったトイレや風呂があったり、フランス国王ルイ14世の大きな肖像画が壁に掛かっていました。説明によると、フランスの味方か、そうなってほしい貴族にはルイ王は一方的に自分の肖像画を送りつけたそうです。貰った方としては無碍にも出来ず、喜んで(?)あるいは仕方なく一部屋全部を使って肖像画を飾ることになりました。
外交の手段として、肖像画は重要な役目を担っていたのを知りました。

今は、この城を含む広大な森林や川はブリュッセルの水道局の所有となっていて、ブリュッセル市民の大切な水を供給しています。城の受付にいた美人女性は公務員という事になりますが、彼女は'月曜日は一般見学者には休館となっていますが、団体客だけは予約を前もって入れてあれば見学可だそうで、ちなみに5団体(何れも日本人)が本日見学予定です'と言って微笑んでくれました。

次に行ったのはドルビュイの村でした。
古い記録によると1230年ごろ戸籍調査をした所、330人の村人が登録されていたのを利用して、'世界一小さな町'をキャッチフレーズに観光客を呼び寄せるキャンペーンを行いました。今では名物のイノシシ(猪)料理やアルデンヌの生ハムを食べさせるレストランが地ビールと一緒にもてなしてくれます。
日本の皇太子ご夫妻も訪れた町であり、埼玉県の羽生市と姉妹町になっています。
表通りに面して建つ立派なレストランはイノシシ料理を看板にしていて'ベルギー王室御用達'だそうですが、私たちの昼食レストランのある裏通りでは犬の落し物があり、一匹の犬が角の石造りの家の壁に立小便をしていました。さしあたり、この家は'お犬様御用達'とでもなるのでしょうか?

そして、ミューズ川(オランダに入るとマース川となる)のほとりに開けたディナンの町(人口1万2千人)は、かって銅産業で栄え交通の要衝だったので歴史の中で争奪の的になりました。崖の上には今も堅牢な要塞が見えていて、町中も人口の割には立派過ぎる教会や市庁舎の建物が残っています。
この町の出身で、銅職人だったこともあるアドルフ・サックスが金管楽器のサキソフォンを作ったそうです。川と崖の間に挟まれるように続く自動車道は、古代ローマ人がつくったローマン街道ですとガイドは胸を張って見せました。いつの日か南ドイツの有名なロマンチック街道のように知られるようになれたら?と夢を語った人でした。
学生の頃から将来はアジアのどこかに行って住みたいと願って就職しましたが、会社が指定した国はベルギーだったそうです。20年の歳月が経ち、ベテランの案内人としてユーモアたっぷりのベルギー指南役を果たしてくださいました。
アントワープのホテルで始めて会った時、名を尋ねると'吉岡です'と言われたのを覚え易くするために、バスの中で日本の皆さんに宮本武蔵を剣客として世に出してくれ、勝ちを譲ってくれた心根の優しい吉岡剣法の道場主・吉岡清十郎さんですと紹介しました。自分は負けず嫌いの性分ですと言って切り返してくれましたが、彼が最も愛するベルギーがアルデンヌだそうです。



962  ミサ中は開くが終わると閉じる


1432年に描き上げられて以来、数多くの受難と冒険を体験してきた絵が、ゲントの聖バーブ大聖堂内にある'神秘の子羊礼拝'です。

フェリッペ2世(16世紀後半のスペイン帝国の王)の所有欲から始まり、1566年には新教徒たちは燃やそうとしました。ヨーセフ2世(モーツアルト時代のハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝)は裸体で描かれたアダムとイブの部分を赤裸々過ぎるとして絵から除きました。フランス革命ではパリへと持っていかれ、1815年(ナポレオンの没落)までパリにありました。更にその後、ベルリンの美術館で展示された時には、いくつかのパネル(上下合わせて10を越す板絵のパネルから構成された観音開きの絵が神秘の子羊礼拝です)が持ち去られました。
1920年にやっと全員集合となりますが、ホッとする間もなく、1934年には裁き人達を描いたパネルが盗まれました。仕方なく1941年からは、その部分はコピーで間に合わせてきました。第二次世界大戦では、この絵の保管管理はフランスに託されましたが、間もなくドイツによりオーストリアに持っていかれ,1945にようやくアメリカ兵がアルダー湖近くのステリアン岩塩坑内で見つけました。
そして、ようやく15世紀の初めからこの絵が置かれていた聖バーブ聖堂の側廊のチャペルの中に戻されましたが、1986年に再び移され、現在は西正面入り口を入った直ぐ左横奥の部屋に置かれていて、やっと安住の場所を与えられ安全面も確保され、世界中からこの絵を鑑賞するためにやってくる人を迎えています。

この絵をめぐるもうひとつの話題は、果たしてファン・アイク兄弟(兄ヒューベルト、弟ヤン)のどちらが描いたのか?合作なのか?という疑問です。
大方の見る所では、弟ヤンは高名な画家としてゲントのライバルであったブルージュ(羊毛産業で発展)で活躍していた関係から、普通であれば絵の制作依頼は考えられず、絵を描く経験の乏しい兄(ゲントに住んでいたが作品は他には知られていない)が弟の手助けを頼み描いたのだろうと考えられています。
毛織物産業(原料の羊毛をイギリスあたりから買い、染めて織り上げ、王侯貴族や高位聖職者が欲しがるデザインで上衣をつくり、販売シンジケートと使って売ったり注文を取ったりする人々の業界)で名を馳せたゲントの羊毛ギルド組合員が、これぞと誇れる毛織のマントを着せて描かれたのが'神秘の子羊礼拝'のようです。
毛織業者の宣伝に重要な役目を担っていたので、あえて弟ヤンが作品をブルージュで仕上げることに反対しなかった節もあります。
また、折りたたみ式(観音開き)になった絵は、元々はミサ(お祈り)中だけ開けたそうで、終わると閉じていました。
ネロ少年がこっそり忍び込んだアントワープの大聖堂内でも、ルーベンスの描いた観音開きの'キリスト磔の降下'の絵は、ミサ中だけしか見ることができないはずでした。

ゲントの大聖堂内の神秘の子羊礼拝の絵は、とても六百年近くたっているとは思えないビビッドな色使いで、キリストの何たるかを旧約新約を合わせて上品にまとめ上げた、初期フランドル絵画の最高傑作といえましょう。

神秘の子羊礼拝は今はミサ中でなくても開いたままです。



963  ビール・ストリートとジン・レーンの違い


18世紀のイギリスのウィリアム・ホーガスという人が社会風刺の銅版画を残してくれました。

ビール通りでは、商売が繁盛していて幸せがいっぱい。新築ラッシュで,宿敵フランスも傘下に従えています。
一方、ジン通りでは住宅は荒れ果て、母親は酒に酔いしれ子供は見捨てられ、暴動が起きています。
ビールは最高だという賞賛の内容になっています。
ジンは元々はオランダで作られたもので、ジェネヴァと呼ばれていましたが、イギリスに伝わってからは短くして、ジンと呼ばれるようになりました。安くてアルコール度数も高く、僅かな飲料で浮世の憂さを忘れさせてくれました。

中世のイングランドでは、主要な食事は'三つのBから成っている'と言ったそうです。
ブレッドとビーフ、それにビールでした。
水を媒介するコレラや赤痢、小児結核を恐れ、生水を飲む代わりにビールを飲んでいました。母乳期が終わると,幼児にビールを与えたそうです。
ビール愛飲家の残した言葉を見てみましょう。
 
1クオート(約1リットル強)のエールビールは、王様の料理
                     シェークスピア(冬物語の中で)
 ビールと英国は切っても切れない関係だ。植民地では、先ずはビール醸造所を造るべし
                     シドニー・スミス(1771〜1845)
                       作家、聖職者
 人の奢りで浴びるほど飲むビールほど無上の喜びはない
                     古いイギリスのことわざ
 私は禁酒主義者を憎む。想像してみたまえ。朝起きてから、ずーと一日中すっきりした調子が続くなんて
 
 男はいい音色を出すグラスのようなものだ。そうするにはグラスは濡れていなければ駄目だ                                   S.T.クラリッジ(1772〜1834)
 私は特別の時に飲む。そして、時には何事もなくても飲む
                     セルバンテス(ドン・キ・ホーテの中で)
 たとえ貧困に喘いでいても、ビールのなみなみと入った椀こそ、人を雄弁に変え自由にしてくれる                                ホーラス(BC65〜BC8)
 家主よ!ビールが椀の淵からこぼれるまで満たそう。今宵は楽しくやろう。明日正気に戻ればよい。
 良心のかけらを持った男がいたとして、しらふの時は良心がうずき落ち込むが、一滴の酒は悩みを取り去り幸せに  してくれる              バーナード・ショー
 
 動きの鈍い奴も、飲むと活発になるものだ
                    サムエル・ジョンソン(1709〜1784)
 ビーフとビールを適当に与えずしては、兵隊は戦わない
                    マールボロー公爵(1650〜1722)
 靴屋と鋳掛け屋(修繕や)こそが真のビール飲みだ
                    古いイギリスのことわざ
 ビールを飲んで口説く人は、半分の街にもならない
                    農家の女将さん
 イングランドの守護聖人である聖ジョージは、イングランド製の平底瓶に入ったイングランド製のビールを1パイント  飲み干してから、ドラゴン退治に出かけた
 
 食料と水だけで数日余計に生きながらえても意味がない
 
 禁酒法時代を生きぬいた唯一の特典は、どんな酒でも美味しく感じたことだ   
                    ドン・マーキス(アメリカのジャーナリスト)
 臣民に質の良し悪しは関係なく充分なビールを与えなさい。そうすれば、革命は起こらないから                                 ビクトリア女王

今でもイギリスに行くと、通りの角ごとにパブがあり、静かにあるいは騒々しく、昼食時から賑わっています。



964  マウリッツ・ハイス美術館での絵人気の移り変わり


13世紀の頃、ホラント伯(後にオランダ王室となる)の狩猟地だった所がデン・ハーグ(伯爵家の生垣という意味)であり、そこに城(ビンネホフ)をつくり住みました。

80年に及んだスペインからの独立戦争(1568〜1648)では、ホラント伯爵(ナッソー・オラニエ家)がオランダ独立運動の中心的存在となり活躍しました。オラニエ公マウリッツ自身が1619年に捕らえられ、国会議事堂前広場で死刑になるほどの凄まじいものでした。新教徒達による信仰の自由をカトリック(スペイン)から勝ち取る戦いでもありました。
オランダ建国の舞台となったハーグの町には国会議事堂や官庁、各国大使館があり、オランダ王家の住まいハイス・テン・ボスなどがあります。
レンガ造りの国会議事堂(リダー・ザール騎士の間)の直ぐ横に、ナッソー家の私邸として18世紀にルネッサンス様式でつくられたのがマウリッツ・ハイスです。こじんまりした石造りの建物ですが、この中で1821年以降オランダ王室の所有する絵画のコレクションが一般公開されていて、特に15〜17世紀のフランドル・オランダを代表する画家たちの秀作があるので有名です。

チュウリップの開花に合わせて訪れた4月のこの時期は、団体客で館内はごった返していました。団体のお目当てはレンブラントの出世作'トゥルプ教授の人体解剖'に、フェルメールの'デルフトの風景'と'真珠の耳飾をしたターバンを巻いた少女'だそうです。
日本人に親切なオランダ人の館内監視人が階段を上り下りしながら部屋を見て回り、人の流れを整理しつつ、空いている部屋を探してくれました。
やっとのことでお目当ての作品を見終えた後、今はあまり人気がなくなったが以前(19世紀末?)最も人気が高かったアルブレヒト・ギュイプ作の低地の牧場で憩う牛たちの風景画の前へ連れて行ってくれたのが、ガイドの日本女性でした。

彼女は絵を描くのが好きで、20年ほど前にパリに行きルーブル美術館でお目当ての巨匠たちの絵を写生したり、モンマルトルの丘の画家広場で描いた絵を売って生活していたそうですが、マウリッツ・ハイスでも巨匠の絵の模写をしたいと思いオランダにやってきたそうです。しかし、残念なことにこの美術館は本物を前にしての写生は許可されていませんでした。
美術館を出て大通りを横切り、近くのオラニエ広場へ連れて行ってくれました。
幅が広く長く続く長方形の広場に面して、どっしりとした歴史を感じさせる建物が並んでいます。そんな立派な建物の一つが美術学校だそうで、ゴッホも学んだとの話でした。



965  絵の注文はカタログの中から選ぶ?


大胆でドラマチックな画面構成、明るくて艶やかな色使い、まるで劇の中の一場面を取り出してキャンバスに貼り付けたような印象を与える大型絵を描いた人と言えば、ルーベンス(1577〜1640)でしょう。

人物画を描くのを得意とし、聖書に登場する人から神話の世界、歴史上のヒーローやヒロイン、そして多くの著名人(王侯貴族や高位聖職者、成功者など)をテーマにして描きました。主人公たちは自然からも祝福され、降りかかる人的な災いもものともせず、自信に満ちた動きをしています。
16世紀後半にカトリック世界で興った、プロテスタントに対するダイナミックな復活運動(反宗教改革)を芸術面で表現した流れがバロック芸術と言いますが、本家イタリア(ラテン気質)美術の特長(優しさ、楽天性、変わらない純粋な知性)とフランドル(ゲルマン気質)美術(生真面目さ、勤勉、緻密さ)をミックスした筆使いで表現しました。

アントワープの町の助役だった弁護士を父に、富裕な商人の娘を母に持つルーベンスでしたが、優秀な弟子や友人にも恵まれ、実務にも精通していて処世のバランス感覚も優れていたのでしょう。
各界からの絵の制作依頼がひきもきらずあり、前もって予想される注文主の絵の場面を幾通りも描いてあり(今で言う通販のカタログのように小さなキャンバス絵を幾つも用意していた)、小さな変更を加えれば(例えば足元に犬を配するとか)注文主が満足するといった具合だったようです。
支払方法も、通常3段階に分けた分割払いで、まずは注文した際、そして製作途中、最後に絵の完成時となっていました。
ルーベンスは熱心なカトリック信者であり、早朝起きると教会に行き祈りを捧げ、その後自宅兼アトリエで一階の大きな作業場で働く弟子たちを、中二階のバルコニーから指揮しながら自分も作品を手がけました。
生涯に製作した作品数は2千点を超えています。
また外交官としても活躍していて、イギリスやスペイン、フランスなどへ出かけたようですし、若い頃数年芸術の本場イタリアで修業したこともありました。
若くして名声や富を得、生涯それは変わることはありませんでした。プライベート面でも2度の結婚をしますが、家庭も円満で子供にも恵まれました。

ルーベンスの絵には、暗さや将来の不安を暗示させるような、心の葛藤やひだは見えません。
ほぼ同時代を生きたレンブラントとは好対照の人生でした。





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